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蜃気楼の岬から  作者: ピンギーノ
一・三章 幻想河の遺歌(上)
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51話 幻灯ニルヴァーナII

 ひとつ、ふたつと夜を超え、時は無常に迫りゆく。

 その日の空は、ぼんやりと朧げな曇天であった。窓の外に目を向ければ、薄い白色の靄がほんの微かに空気を濁している。


 「…………準備しないと」


 重たい目蓋を薄めながら、足早に居間へと向かう。

 ウィルはこの二日間、昼食以外で集落に顔を出さないことを徹底していた。本来の予定では、今からウィルは二階で寝ているであろう"妹"や仲間たちと共に支度をし、早急に船大工のもとへと向かう手筈であった。だが、事はそう簡単には進まない。


 『ごめん、今日は長たちのところに泊まらないといけない。明日は重要な役目を任されてるから、そうしろって言われてるんだ』


 そんな言葉を残して、"妹"は昨晩少々名残惜し気に家を後にしたのである。長の側に居るとなっては、彼女に接触することすらも困難となる。御嫁様の真実を伝えておくべきだったかと考えはしたものの、どちらにせよ長の命令は聞かねばならないことには変わりないゆえ、それは然程重要な事ではない。

 当然昨夜はその事を真っ先に船大工に伝えようとはした。だが、夜行性の魔獣に遭遇しない保証など無く、更には河畔林ともなれば逃げ道の確保すら容易ではない。よって安全を見計らい、当日の早朝に行動することに決めたのだ。


 船を河に浮かべている筈の船大工に現状を伝えるべく、彼は南東の河畔林へと向かわんとする。




 「お、ウィルにしては早起きだな! って、こんな状況だし当たり前か」


 「あぁ。予定が大きく狂ったのもあるし、集落の人々から彼女を連れ出すにも、余裕があるとは言えない」


 薄暗い居間にて外出の準備をしている者は"姉"とニケの二人。短い言葉を交わし合い、水を軽く喉に通す。




 「あの、旅人さん。今から彼の所に行くんだけど、どちらか一人はここでお留守番をしてほしいの。ふたりはまだ二階で寝てるし、ほら、もしかしたら妹が帰ってくるかもしれないし……」


 「そういうことなら、ここは僕が残ります! 船大工の人と作戦を立てるのは、君の役目だろ」


 「意外だな。ニケならなんとしてもついて行くと思ったけど…………わかった。もしナズナが起きてきた場合、ニケは事情を説明してくれ」


 ウィルの瞳を見据え、深く頷くニケ。

 普段の彼ならば、"姉"と二人きりになれるようなチャンスを逃す筈もあるまい。そのような男が自身の欲望を投げ出し、未来を託してきたのだ。

 任されたからには本気で、迅速に。限りなく最善に近い作戦を立てることを誓い、視線を送り返したのであった。






※※※






 「甘かった。オレ様は何やってんだ。こんくらい想定出来た筈だろぉが」


 船大工の小屋へと急ぎ足で踏み入れた"姉"とウィルだったが、事情を聞いた船大工の顔は優れない。


 「やはり強行突破でもしない限り、難しいですかね」


 「…………いや、どーだか。ジジイ共の寝ぐらは相当守りが厳重でな。噂じゃ地下室なんかもあるって聞いたし、強引にやんのは無謀だぜ、無謀」


 「そうね。長や主落会の方の許しを得ない限り、わたしたちは勝手に入ることを禁じられているのよ。仮に妹がそこに居るなら、連れ出すのは不可能……かな」


 二人の反応を見るに、考えなしに無理矢理……といった突撃行為は論外と知った。集落の管理者が秘匿している何か。祝福の日である今日に生贄が捧げられるという話が、真実味を帯び始めたのだった。




 「強行突破が無理なら、俺たちが行動に移れるのはあのタイミングしかない。祭りの途中……これは俺の推測ですが、恐らく夕方頃。長や集落会といった面々が、彼女を生贄に捧げるその時です」


 「……そうなるわよね。……決行の時間帯に関しても異論は無いわ。違和感を悟られないように祭りに参加して、その時になったら行動を開始する。みんなの前で堂々と連れ出すことになるけど……ちゃんとあの子の手を握ってあげてね、旅人さん?」


 「そ、その役俺がやるんですか! ……いや、この場合は…………俺が最も適してるのか」


 今日という日に、姉の言葉によって自身の数少ない強みに気付かされるウィル。

 彼が思い起こしたのは、ローグリン公国にて騎士人形からナズナを救った記憶。それは、魔獣との戦いにおける唯一の攻撃手段。魔素の制御を上手く成し得ない彼だからこそ行える強行突破(さいぜんしゅ)であった。




 「わかりました。どうにか成功させてみせます」


 「……その感じだと、何やら策みてぇなヤツを閃いたよーだな。オレ様は夕方、なるべく船を集落側に近づける。この森の集落側の出入り口付近? に停めといてやるから、どうにかそこまで走ってくれ。何故夕方なのか……ってのは知らんが、そこはお前の勘を信じるぜ」


 船大工は拳をウィルに突き付けると、ニヤリと笑みを浮かべる。ウィルも同じく拳を突き合わせると、少しだけ頬を緩ませるのであった。






 手筈を確認し、作戦の成功を祈り、船大工の家を出る。

 そして再びニケやナズナ達の待つ姉妹の家に戻らんと、河畔林を歩いて暫く経ったその時である。

 "姉"は唐突に立ち止まり、身に付けている自身の衣服をを慌ただしく調べ始めた。


 「…………ごめんなさい。どうやら彼の家に忘れ物をしちゃったみたい。旅人さんは先に行って、皆んなにさっきの話を伝えてきて!」


 「え、わ、分かりました。……情報共有は一秒でも早く、ですね」


 ウィルの返事にこくりと頷くと、彼女は小走りで道を戻っていった。

 慌て様から察するに、わざわざ取りに返らなければならないほどの大事な物であることは明白。しかし、それが何なのかは分からない。というのも、家を出る寸前、彼女がそれほど重要な物体を身に付けているようには見られなかった。それに、船大工と作戦の見直しを図るためだけの外出に"それ"を持っていく必要性があったのか。




 (……それは今考えることじゃないな。自分で口にしたことだけど、今はとにかく時間が惜しい。疑り深いのも、度が過ぎれば悪い癖だ)


 仮に彼女が何らかの隠し事をしていたとしても、それがウィル達が成そうとしている事への妨げになるとは考え難い。"妹"の身を最も案じているのは彼女なのだから。

 そもそも、彼女を訝しむことへの核心的な根拠や証拠など皆無であるゆえ、全くもって無意味な思案であったと、少年は己の思考を少しばかり恥じるのであった。


 (……行こう)


 彼は集落の方向を正面に見据え、木々の合間を駆けた。

 決行の時は迫る。





※※※





 ――そして、時は大きく経過する。


 ウィルが姉妹の家に到着した時間帯はおよそ八時頃。玄関の扉を開けた時、ニケとナズナだけでなくミサの姿まで見えたことには驚いた。この作戦は彼女の耳にも入っており、また本作戦への理解を示していたため、一先ずは安堵するウィルであった。


 祭りの開催はおよそ九時頃だ。


 ナズナを除くウィル、ニケ、ミサの三人はあくまで旅人として祭りに参加し、あまり目立たぬように努める。

 その間ナズナは船大工の家へと向かい、指定の時間まで待機。集落の人々にはナズナの存在を隠しているため……という理由は勿論だが、船を動かすには継続的な魔力供給が必要であるとのこと。ナズナの体内魔素量――通称オドはほぼ無限であり、動力源としてはこれ以上ない程の適役なのだ。


 そんなこんなで三人は着々と事を進め、時は経過していった。"姉"が船大工の家から戻って来ないことは唯一の気掛かりだが、今更河畔林に向かうわけにもいくまい。

 それぞれの思いを胸に秘め、彼らは決行の場たる祭りの舞台へと足を運ぶのであった。




 祭りの内容自体は、意外にもきな臭さを感じさせるようなものではなかった。皆が広場に集まり、一日では食べ切れないほどの豪勢な食事が振る舞われた。屈強な男たちが太鼓台に乗り、祭具を叩き空気を震わせる。それに合わせ、笛に似た楽器を奏でる者も。


 まさしく、飲んで食ってのどんちゃん騒ぎ。

 ウィルたち三人も集落の人間に混じってそれらを堪能したが、思いのほか心地よいものだった。不思議なことに、一行を"よそ者"と非難していた筈の連中も、まるで人が変わったかのようにウィル達との食事を楽しんでいるのだ。

 こんな楽しげな祭りの最中、本当に生贄を捧げるといった恐ろしい儀式が行われるのか。食事中のウィルは浮かれ四半分に、ひと時の風情を味わうのであった。






 そして、そのまま現在に至る。

 ニケとミサは、今頃船大工らと合流している筈だ。


 橙色の光が地を照らし、優しい肌寒さが身体を包む。気付けば靄は濃度を増し、辺りは星空のようにキラキラと輝き始めた。大気中に散らばる無数の粒が夕陽を反射していると考えたが、今は現象の解明よりも、この光景の美しさに心を奪われている。

 どこか拭えない既視感を抱くが、ものの数秒で解へと辿り着いた。


 (この靄、たしか俺たちが意識を失う直前にも似たような光景を見たような……)


 ウィルがこの地へとやって来た時も、辺りは濃霧に覆われていたことに気付く。だが、ウィルが深く思考せんと目を伏せた直後、遂に"その時"は訪れた。




 「いやはや皆様、祭りは楽しんでおるかのーう?」




 周囲の目線が勢いよく動く。その先は、広場の中央。いつの間にか設置されていた円形の踊り場の上に、一人の老人が立っていた。先ほどの声は、この老人――集落の長のものに違いない。




 「ワシは今、奇跡を目の当たりにしておる。夕日が照らし、紫の花が咲き乱れるこの地。百年に一度の境に巡り合うことが叶おうとは。ワシは、ワシは倖せ者じゃぁっ! よ、よよよよ……」


 天を仰ぎ、両手を翳し叫び出したかと思えば、唐突に泣き喚き始める長。その不安定な起伏には、さすがに狂気を感じずにはいられなかった。

 ウィルは周囲の人間と同様、踊り場に釘付けになっている様を装い、長の表情や挙動ひとつひとつを視る。


 「今日が祝福の日と呼ばれる所以。それは、皆が知る集落の伝説の通りじゃ。百年に一度、この地に神が降臨なさる。それゆえワシらは歓迎と感謝の祭りを催し、神が齎す祝福を享受するのじゃ」


 「………………」


 老人の声は、不気味なほどに静まり返った民の間に木霊した。


 「祝福を受ければこの先百年の安寧は約束され、集落に降る災いは払い除けられよう。しかし、それは無償の恩寵ではない。古の時、悪魔の災いから民を守ってもらうべく、先祖はとある契りを交わしたもうたのじゃ。…………民の中から一人、生娘を選別し、御嫁様(みなづけさま)として神の世界に差し出すのじゃ!」


 長が言葉を終えた瞬間、五つの人影が踊り場の上に現れた。何も無い空間から突然……と目を見開くも、ウィルは視界にはっきりと映った光景に思わず息を飲んだ。


 煌びやかな衣装を身に纏う少女と、彼女を囲う四人の老人。

 少女の姿は、まさしく天女だった。衣装の美しさもそう思わせる一つの要因だが、化粧によるものか一段と白さを増した肌に、目尻の独特な顔彩。彼女の雰囲気は、ウィルの知る"妹"のものとは明らかに異なっているように感じた。


 (…………っ!!)


 数秒の硬直の後、少年は意志を取り戻す。

 目線の先にいる彼女が"妹"ならば、ただ立ち止まっている余裕などない。この瞬間こそが、彼女を助ける絶好の好機なのだから。


 体内の魔素にそっと意識を向け、そのまま脚部へと集中させる。

 そして魔力を練りあげ、再び踊り場へと目を向ける。




 狙いを定め、脚部の魔力を一気に暴発させる――寸前のことであった。








 「…………!?」




 地響きが集落中に響き渡ると同時に大気を揺らし、地を砕くかのような悍ましい叫声が身を包み込む。

 ウィルは咄嗟に顔を右上部に向け、"それ"に目をやった。


 (…………!!)


 濃霧の奥に佇む巨大な影。それを認識した時には既に、ウィルは魔力を解き放っていた。




 身体を弾丸のように飛ばし、踊り場へと一直線に向かう。


 どうにか着地してのけた少年は少女の手を取り、両腕でその身体を抱えた。そして、息つく間もなく再び魔力を放ち、どよめく群衆の中へと消えてゆく。




 踊り場に立つ長の顔には、微笑が浮かんでいた。












 霧の中を振り返らずに走る。

 追手が来ることは予想済み。下手をすれば、坊やと呼ばれた男と(まみ)える可能性もある。しかし、ウィルはあえて思考を止めていた。


 先の巨大な影といい、現状を認めて足を竦ませたならば、再び立ち上がれる保証はない。それほどまでに、あの影の放つ威圧感は圧倒的であった。

 まさに、神と形容せざるを得ないほどに。


 「…………ぃ、……いてんのかっ……!?」


 よって今はただ、全力で足を動かす。河畔林の入り口に辿り着けば、船大工が船に乗って待っている筈だ。"妹"の確保はウィルの役目。ニケやナズナ達の役割は、祭りに参加する旅人として違和感を持たせぬようにすることであるから、今頃とっくに船に乗り込み、ウィルら二人を待ち侘びているに違いない。




 「……はなせッつってんだろーが!! 聞いてんのかーっ!!??」


 「…………な、えぇぇっ!?」


 耳に打ち付けられた唐突な暴言に、ウィルの足は急停止する――どころか、勢い余って上半身を地に打ち付けてしまった。

 腕の痛む箇所をさすりながら、訳の分からぬまま顔を上げる。


 「旅人さん、今すぐ戻って!!」


 見上げた先には、綺麗な衣装を纏った"妹"。だが、その衣装は先程の少年の失態により土に塗れている。

 少年の頭は混迷を極めるばかり。何せ彼女の言わんとすることの意が全くもって不明なのだから。




 「…………お、俺は君を助けに来たんだよ? あそこに戻れば、君は死ぬ。"御嫁様"ってのは、ただの生贄のことなんだ」


 「んな事は分かってる! お姉ちゃんが頼んだんでしょ? 君たちと力を合わせれば、この腐った集落(とこ)から逃げられるって! ………………でも違う。違うの。本当に助けるべき人は…………っ、あたしのせいだ。もっと早くあたしが気付かなきゃ駄目だったんだ」




 「…………一回落ち着こう、お互い。俺も先入観とか抜きにして、君の話を受け入れる。だから、なるべく手短に、俺が戻らなきゃならない理由を聞かせてくれ」


 息を整え立ち上がり、激しく取り乱す彼女に声を掛ける。正直なところ、今は一刻も早く集落から離れたい。だが、その声はあまりにも悲痛で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

 その姿が彼を冷静にさせた。否、冷静はあくまで装いである。少年は心を限りなく空虚へと近づけさせ、無心に近い精神状態へと無理矢理到達させたのだ。現在の彼であれば本来辿り着けぬような心境ではあるが、理解不能な状況と神を思わせる巨大な影、加えて絶対的な使命感とが重なり、過剰な精神的ストレスとして思わぬ作用を生んだのである。




 「…………わかった。ガチで手短に話すよ?」


 「ああ」


 「…………御嫁様はあたしじゃない。……長の気が変わったのか、いまの御嫁様はあの子になった。あたしの初めての友達で、桜色の髪の……あれ?」


 「…………ま、まさか」


 彼女の言葉が表す事象。生贄の役割が、別の人物に移ったということ。


 (長や主落会の面々は、この事を知っていた? いや、どうやって? 俺たちの作戦が漏れるなんて有り得ない……いやいやいや、違う。そんなことはどうでも良い。今の生贄が別の人物になっているってことが問題だ。しかも、その人物は彼女の話ぶりから察するに……)


 寒気が首筋を伝い、背筋を撫で下ろした。

 祭りが始まり暫くの内は、三人はなるべく固まって行動するよう努めていたが、愉しげな雰囲気に飲まれてゆく内に逸れてしまったのだ。それ以降"彼女"の姿は見ていない。

 作戦については予め全員に伝えており、各々がしっかりこなしてくれると信じていた。故に周囲に気を配る必要など無く、決行の時が訪れた際にどう動くかの一点のみに気を回していたのだ。

 少年は振り返り、集落をじっと見据える。


 自分はどう動くべきか。何が真実なのか。

 彼の空虚な心では、判別は困難を極める。




 「ねえ、旅人さん」


 ふと、側に座す"妹"が呟いた。


 「……?」


 少年は、無言で彼女を見下ろす。




 「あたしの名前、知ってる?」






 ――旅人の少年は、一目散に駆け出した。


 向かう先は、戻り道。

 彼女の問いを耳にした瞬間、頭の中で何かが弾けたような気がした。これ以上何も考えないという彼の意思は、自身に幸を齎したのやもしれない。とっくに取り憑いていた恐怖に対し、気付かぬフリをすることができるのだから。

 今は仲間の下へと進む。先の言葉は、"妹"の単なる気の迷いであると祈りながら。








※※※




 ――朧に霞んだ山吹の空


 濃霧の中であっても、河の向こうの夕陽に染まった空の色は視認できた。今はあの燃えるような橙色には夜が混じり、紫色へと変貌しつつあるのだが。




 ――広野を流れ風は藤を薙ぐ


 辿り着いた先は、広場の中央。しかし、そこには既に人の姿は無い。気味の悪い静けさが……といった表現は相応しくないだろう。言うなれば、まるで最初からこの地には何も存在していなかったかのような、そんな虚しい静寂がそこに在った。

 長の行方は何処か。記憶を辿り、進むべき道を思い起こす。ふと、それほど遠くない場所から異様な魔力を感じ取ったため、少年は導かれるようにしてそこへ向かった。仲間が居るならばそこしかないと、彼にしては珍しく、直感に従ったのである。




 ――番で見渡す彼誰の色


 そこは、広い家屋の中だった。部屋の中央には長い階段があり、少年は臆さず登る。天井は開いており、空の光が足下を照らしていた。


 「……!!」


 少年は叫ぼうとした。だが、上手く言葉が出てこない。喉が詰まったのではなく、()()()()()()()()()()()()()()のである。

 登り切った先に彼が目にしたものは悍ましい怪物の姿と、鮮やかな衣装に身を包んだ桜色の髪の少女。彼女は身体中を縄で縛られているが、その表情は不思議と穏やかで、恐怖に顔を引き攣らせているようには見えない。彼女は口を開き、目線を少年に向ける。


 「……勝手なことして、ごめんね。最後にあんたの顔が見れてよかった」


 白い貌に浮かぶは、痛ましいほどに和やかな微笑みだった。






 ――清き身預けてまたあした


 少年は叫び、最大の魔力を脚に込め、床を蹴る。

 しかし、遅かった。




 怪物は巨大な口で少女の身体を飲み込み、ムシャムシャと咀嚼音を響かせる。




 「あ……ああああぁぁぁっ!!!」


 言葉にならない声が、身体を震わせた。


 元の世界で、同じ学校に通っていた同級生。友人と呼べる関係ではなかったが、自分のような人間と会話をしてくれる、稀有な人だった。口調や態度は無愛想だが、心根は優しく、真面目だった。


 そんな彼女が、自分の目の前で――。




 床を蹴った勢いはそのまま、腰に下げた短剣を抜き、切っ先を怪物に向ける。

 腹の底から声を絞り出し、ありったけの魔力で短剣を覆った。




 「ぐ……うっ…………!?」


 気付けば反転し、上から下へと急速に流れる視界。

 短剣は手元を離れ、身体は壁に打ち付けられていた。

 急な吐き気に襲われたため堪らず嘔吐するが、吐き出されたのは赤黒い液体。怪物の攻撃を受け、内臓がダメージを受けたのだろう。


 視界が霞み、徐々に身体の力が抜けてゆく。


 最後に彼女の名前を呼ぼうと口を開くも、意思に反して思うように動かすことができない。




 (な……んで? こんな、こんな筈じゃ……)


 最後の力を振り絞り、そっと目を開ける。




 見上げた先に広がる空は、濃霧に包まれていた。

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