49話 月明コネクト
外から差し込む夕陽の橙が、部屋中を朱華に染めてゆく。空気に混じる微かな木の香りがほんのりと鼻にふれ、そのまま全身へと優しく染み渡るようだった。
無形の質量は張り詰め、そこには険しい雰囲気を纏う者がふたり。彼らの瞳に宿るは覚悟の灯。二人のうちの片方――"姉"の普段の姿を知るウィル達であれば、その異質さをより明確に感じるのは当然のこと。彼らの発言に疑いを抱く余地など、あろう筈もない。
「……今、なんと?」
だからこそ、少年は自身の耳を疑ったのだ。
身構えていた身体が硬直する。偽りの欠片も感じられない船大工の声。"姉"も変わらず黙していることから、恐らくは言葉の通りに受け取り、解釈すればよいのだ。だが言葉をそのまま耳に通すことと、その意味を読み取ることは全く異なる動作。失礼であると理解しながらも、やはり聞き返さざるを得なかった。
「……言葉通りの意味だ。おめーらを対岸に運んでやることはオレ様が保証してやる。だが、それは四日後の祝福の日、この姉妹と共に船に乗ることが条件だ」
「待って。姉妹……って、わ、わたしは別に」
「……お前もオレ様の船に乗れ。じゃねーと、船は出してやらん」
船大工の意思に賛同の意を見せていた筈の"姉"が突如として割り込む。その様は、余計にウィルの頭を困惑させた。
「……提示された条件については、理解しました。必ずや、俺がここに連れて来てみせます。しかし、やはり話が見えない。……無理にとは言いませんが、もし良ければ理由を聞かせてはもらえないでしょうか」
納得がいかない……という訳ではない。条件自体には何ら不満は無く、寧ろどれほど理不尽な要求を出されたとしても耐え抜く覚悟を決めていた。にも関わらず、その条件は難題どころか非常にシンプルな、かつ拍子抜けするような内容だった。
疑問を浮かべるなというのも無理な話だ。見ず知らずのよそ者を自慢の船に乗せるなど、本来であれば気の進まぬ事に違いない。"妹"を船大工の元へと連れ、彼女らと共に対岸へと渡ることにどれほどの価値があるのか。
大切な日に行われる祭りの最中に彼女一人を連れ出すとなると当然内密に事を行うべきであり、集落の民に勘付かれることすら避けなければならないだろう。船大工の意思は、集落全体の意に反する物事であることは自明。そして、それを認める"姉"もまた……
「確かに、オレ様にはそれを説明する義務があるが……陽が落ちてきたな。……悪いが、説明には少し時間をかけなければならねぇ。そーだな、翌朝またここに来てくれ。話の続きはそン時だ」
「…………よそ者が夜中にコソコソと外を動き回ると、逆に目を付けられる恐れがある。なるべく内密に事を行いたいなら、なおさら怪しまれないようにしなければ……ということですね」
「そーゆーこった。理解が早いな」
沈みゆく夕陽に照らされし河を眺めながら、船大工は苦笑する。表情こそ見えぬものの、彼の背中からはただならぬ決意が感じられた。
妙に覇気のない返答であったが、ウィルはその姿を目にするなり、黙って頷くのであった。
小屋を後にし、集落の家への帰宅するべく、ニケや"姉"と共に木々の間へと足を運ばんとしたそのとき。ふと、背後から自分を呼ぶ声がした。
「おい、旅の。詳しい話は明日……つったが、これだけは今言わせてもらう。この地にこのタイミングでおめーらみてぇな奴らがやって来たのは、僥倖だとオレ様は思ってる。だから、頼む。どうかオレ様の……オレ達の味方になってくれ」
ウィルは立ち止まり、振り返る。その言葉の深い意味は不明だが、どういう訳か彼が自分たちを必要としていることは確実。
「明日の朝、また伺います」
偽っているような気配も感じられないため、旅の少年は快く頷き、その声に応えるのであった。
気付けば辺りはすっかり薄闇に包まれ、月光がほんのりと地に降りていた。見上げれば、ぽつりと輝く星々が。手を伸ばせども、触るに叶わず。
夜であるにも関わらず凶暴な魔獣が現れるどころか、魔獣の姿すら見ることが無かったのは、嬉しい誤算だった。この調子で足を進めれば予想より幾分か早く姉妹の家に着くため、仮に集落の民に三人の姿を見られたとしても、腹を空かせるために夜の散歩をしていたとでも言えばそれ以上追及されることもあるまい。
もはや、余計な心配事。意味のない確認事項に意識を回すなと自分に言いたいが、先程の件を思えば過剰に警戒をしてしまうのは仕方のないことではなかろうか。船大工の頼みを引き受けたことは即ち、集落の人々への隠し事を抱えることに同義。となれば自分やニケがヘマをしないか、嫌でも過剰に目を光らせてしまう。船大工の要求を飲むことが元の世界への帰還への一歩となるのだから、尚更であった。
(集落にいる間はなるべく動かず慎重に。決行日まではそれを徹底して、船大工や"姉"さんと計画を進めよう。そうすれば"よそ者非難派"の人たちにも会わずに済むし、安全に事が進むに違いない)
ウィルは自身の立場に基いた今後の行動指針を思い浮かべ、表情を固めるのであった。
「ただいま〜」
"姉"が玄関の扉を開けた先は、暗がり。どうやら、居間には誰も居ない様子。ウィルは、"妹"がとっくに帰っているものと考えたが、玄関に並ぶ靴の数を見るに、その予想は外れていた。
"姉"が、魔法で部屋中のランプに灯りを付ける。
(ナズナはまだミサのところにいるのかな)
ふと、そんな気付きが頭を過ぎった矢先。呼応したかのように、ギシリ、ギシリと軋む音が階段から鳴った。音の間隔は広いため、誰かが一人でゆっくりと下りて来ているのは確実だ。
ウィルは、ミサが階段を下っているのだと直感した。歩調が、ナズナの元気溢れるそれとは全く異なるからである。しかし、彼の予測はまたしても外れてしまう。
「……な、ナズナか」
黄金色の長髪が視界に映り、反射的に呟いた。
……だが、どういう訳なのか。彼女の様子は平常とは明らかに異なっていた。綺麗な髪は乱れ、歩き方がどこかぎこちない。
少女はウィルと目を合わせるなり、つたつたと近寄って来た。
「……ウィルさん」
「ど、どうした?」
「私、今どこか変ですよね」
「……??」
唐突にそのような言葉を口にするものだから、ウィルも少々不安にならざるを得ない。ミサのもとへと向かってから、およそ四、五時間は経過しただろうか。その間彼女の身に何が起こったのかは、本人から聞くことが最も手っ取り早い筈なのだが……何故だかどうも気が引けるのが本音だ。
見たところ目立った外傷のようなものは無く、衰弱している様子も見られない。だが、ミサがナズナを害するような行為をするとは考え難い。
心なしか目が虚ろで、どこか違う世界に行っているようだった。
「言われてみればなんだか、妙に落ち着いている……ように見えるかもな。…………そ、そういえばミサの様子はどうだった?」
「み、みみ、ミサちゃん……ですか。今は疲れて寝てます。すやすやと」
「……急に動揺し始めたな」
ウィルの問いに対し、ナズナは顔を引き攣らせながら答える。ミサの名前を出した途端に慌て始めたようにも見えるが、その本意は変わらず謎。第一、何に対して疲れているのかも不明だ。
「…………喧嘩でもしたのか?」
「いえ、むしろそのぎゃ…………これ以上は何も答えませんよ。もくひです。もくひ」
ジトっと目を細め、そこから発せられる視線でチクチクと突いてくる。彼女のそんな様子を見るのは初めてであった。やはり何かがあったのは間違いないのだが、下手に詮索をするべきでないことはウィルとてさすがに判る。
「わかった。何にせよ、今のミサと仲良くしてくれているなら俺たちにとっても助かる。今後も、引き続き彼女の話し相手になってくれ」
「……!!」
そう告げると、ウィルは"姉"のいるキッチンに向かう。一瞬だけナズナがビクッと肩を震わせたように見えたが、くどいと思われるのも癪なため見て見ぬフリをした。
「ごめんなさい、夕飯はもう少しかかりそうなの。旅人さん……あ、黒髪の旅人さんの方ね。今度はあの野菜を細かく刻んでくれないかしら!」
「かしこまりました……ッ」
"姉"は今、言葉の通り夕飯を作っている最中である。自分にも何か手伝えないかと覗いたものの、既に働き者の先客がいた。役に立とうと無駄に格好付けているものの、肝心の手際自体は中々に目を見張るものがあった。
ただでさえ広くはない調理場ゆえ、自分が入る余地はないと見たウィルは、「出来上がるのを楽しみにしています」と軽く声を掛け、再び居間に戻り、テーブルの一席についた。ナズナとは、微妙に距離を空けている。
(いまは今後の行動方針について、暫く考えるべきかな)
目を瞑り、その場に肘をつきながら、少年は思案の渦に意識を溶け込ませてゆく。
(明日の朝、俺は"姉"とニケと共に、再び船大工の隠れ家に足を運ぶ。ナズナを連れて行くべきか否かは……今は置いておくとしよう。ともかく、あの少年の話の内容次第で、この集落における大まかな行動方針が決まることは確かなんだ。ゆえに、俺が今考えるべきは……)
――ガチャリ、と物音が静かに響いた。
「……ただいま」
ウィルはその方向に目を向けるが、そこに立つは見知った顔だ。
「お、おかえり。お姉さんはいま、夕飯を作ってるよ」
「そう。…………あれ、一人増えてない?」
帰宅した"妹"が居間に足を踏み入れるなり、彼女は見知らぬ金髪の少女に目を向けた瞬間、少年は表情を強ばらせた。即ち、彼女がナズナを歓迎するのか煙たがるのか。
しかし、これに関してはほぼ問題ない、と断言できる。理由は、"妹"の性格を考えれば明らかなこと。時折退屈への飢えを見せる彼女からすれば、同年代の女子という存在は何よりも貴重だろう。よって、きっとナズナに対しては好意的な印象を抱いてくれると確信できた。更には集落の体制を窮屈に感じているとあれば、ナズナの存在を大人たちに告げ口する心配もあるまい。
「あ、はぐれたってゆー例の子見つかったんだ」
"妹"は表情を緩ませながら、テーブルに向かう。
そしてナズナのもとへと近寄り、声を掛け始めた。
「名前は?」
「……な、ナズナです。ナズナ・ナハト」
「ナズナ、いまいくつ?」
「たしか十五ですよ〜」
「わ、タメだ! やっぱり一目見たときそんな感じしたんだよねー!!」
"妹"は余程嬉しいのか、瞳をキラキラと輝かせながら満面の笑みを浮かべる。少なくとも、ウィルやニケには見せることのない表情であると断言できる。
少年はほっとしたのか、テーブルの向かいに座る二人の耳に入らぬよう、こっそりと深呼吸をした。
間もなくして夕食の時間が訪れ、"姉"の力作を存分に味わう。集落の郷土料理で普段から作り慣れているものらしいが、ニケの手伝いもあってか非常に手際良く、負担も少なく調理を行えたという話だ。
感謝の意を伝える"姉"に対し、ニケはまるで当然だと言わんばかりに胸を張ってみせた。ただし、胸の奥から滲み出る照れまではさすがに隠し通せなかったようで、赤く染まる頬と徐々に上がる口角、上擦る声を見聞すれば、テーブルの周りは瞬く間に仄かな笑いに包まれるのであった。
ウィルにとって想定外のことがあるとすれば、ミサに関する話題である。始まりは、"妹"とナズナの些細なやり取りからだ。
「ねえねえナズナ、ちょっとあっち向いてみ」
「え、なんですかー? ……こうですかー?」
「あー、そうそう。……今だ、首筋っ」
「……んひいっ!?!?」
ナズナの素直な性格を巧みに利用し、右の人差し指で彼女の首筋をなぞる"妹"。それを受けた反応があまりにも面白可笑しかったもので、"妹"はその後も時折彼女への攻撃を仕掛けたのだった。
無論、それについて男二人がいちいち反応をみせることは憚られるため、少々肩身の狭い思いをしたことは否めないのだが。
「ふふふ、反応可愛いすぎ。ナズナってほんとに弄り甲斐があるんだけど」
「ミサちゃんにも全く同じこと言われましたね」
「ミサちゃん……って、あぁ、二階にいる子?」
「うん。……そういえばあなたとミサちゃんって結構似てる気がします。ツンツンしてるけど根はちゃんと優しかったり、あと……さでぃすてぃーっく? っていうんですかね。そんなところがあったり!」
「ふつーに照れること言うなし。でも、そっか。ナズナがゆーなら悪い子じゃないよね。……今度はちゃんと話してみよっかな」
その時ウィルはニケと共にコソコソ談笑していたため、女子ふたりの会話の一部始終を聞いていたわけではない。ただ、クスクスと微笑みながら二人の様子を見守る"姉"も含む空間が、とても和やかなものとなる様は何となく感じられた。
「決めた。今日はナズナと"ミサちゃん"と三人で寝る! お泊まり会的なやつやろ!」
「え゛」
唐突に"妹"がこのような発言をした。
意外な展開にウィルは驚いたものの、親睦が深まってミサの心により良い影響を与えるならば、願ったりであると内心頷く。
一方、ナズナはウィルのそれに対して数十倍の驚愕ぶりを表していた。目が丸く見開かれ、冷や汗まで流れている。
「ね、良いでしょ、お姉ちゃん。それか、久しぶりにお姉ちゃんもいっしょに寝る?」
「そうね。じゃあお言葉に甘えて……いや、楽しそうだけどやっぱりやめとくわ。あのベッドに四人はキツいでしょ」
こうして、メナス河沿いの集落での長い一日は終わりを迎える。"姉"の言葉に対して"妹"は少しだけ残念がっていたものの、ミサのために用意された軽めの夜食と三人で楽しむための間食を手に、意気揚々と階段を駆け上がっていった。
ナズナは困り顔を浮かべていたが、別段乗り気ではない……という訳ではないようで、瞳を輝かせながら"妹"の背中に付いて行った。
「俺たちも寝るとするか」
ウィルは、居間に残ったニケと"姉"に目を向ける。
明日の朝は早い。
三人は視線を交わし合うと、皆それぞれの寝床に向かうのだった。




