48話 潜窟リバーサイド
冷たい土の上に続く足跡。
背の高い木々に見下ろされながら、三人は淡々と足を進める。
(…………)
視界の僅かな違和感に気付くよう、また微かな物音も聞き漏らさぬように、ウィルは警戒の色を強めながら"姉"の背に続いた。
集落の近くの河畔林。当然のことながら魔獣に襲われる危険性は十分あり、もしそのような事態に遭遇したならば、一秒でも早く対応せねばならない。
"姉"の戦闘能力は不明だが、武器すら持たぬ彼女が魔獣と戦えるほどの力を扱えるようにはとても見えない。ガトーやスノウは別格として、盗賊やローグリンの騎士からは、"戦う者の風格"と形容せざるを得ないような、言葉にし難い圧力が放たれていたことを思い出す。魔素の扱いを多少なりとも会得したウィルならば、より顕著に彼らの闘気を感じることが可能となったのだ。
だが目の前の女性からは、それを感じられない。
シャヴィや騎士団長、オーディンのように、自身の魔力を意図的に抑える事ができる者もいる。しかし、そのような芸当は誠の強者にしか成し得ぬものだ。
オーディンが盗賊団の面々を騙し続けていられたのも、卓越した体内魔素操作によるものであると彼は睨んでいる。
"姉"がシャヴィに並ぶような強者であるならば、何の問題もあるまい。ウィルの抱える懸念、魔獣への警戒は無意味なものだと分かる……それだけである。
(……現時点では、確かめる術はない。『戦えますか?』っていきなり聞くのもなんか失礼な気もするしな…………何にせよ、魔獣が現れたらやるべきことは一つ。短剣を構えて、魔力放出の準備。向かうか退くかは、その数秒後の状況で判断する!)
少年は腰に下げた短剣に目をやり、そっと触れる。彼が持つ武装といえば、短剣の他にもう一つ。シャヴィから別れ際に託された大剣がある。しかし、彼はそれを武器として扱えないことを承知していた。
シャヴィの大剣――もとい緋色の大剣の重量は、魔法的な構造が内部に組み込まれているのか、ローグリンの騎士が帯剣するようなそれとは桁違いである。ゆえに持ち上げるだけでも大量の魔力を必要とするため、魔力のコントロールを得手としないウィルにとっては武器として扱うなど甚だ無理難題だった。
あくまで形見。それ以上でも、それ以下でもない。
刃こぼれ厳禁。落とすのは論外。魔獣と遭遇したならばこの命綱たる短剣一つで凌がねばならないことを、少年は改めて覚悟したのであった。
「……いちおう…………着いたわ」
背後の二人に向かって、"姉"は背中越しに囁く。不安と状況把握に思考を揺らしていたウィルは、その声で目を覚ました。
結局魔獣に襲われることはなかったと束の間の安堵を飲み込んだ彼は、即座に頭を切り替える。
木々の間からはっきりと目に映る河の反射光と、桟橋の横に位置する大きな小屋。
決して粗雑な作りではないであろう木製の小屋だが、近付くまでもなく年季は感じ取れた。あらゆる箇所に絡み付く蔦、朽ちかけた壁、こびり付く土の跡。
「…………行きましょう」
ウィルの声が耳に触れるなり、"姉"は彼らの立つ方向に軽く目をやり、小さく頷いた。
先頭に立ち、音を立てるまいとそっと小屋の扉を開くウィル。結果、視界に飛び込んできた風景は想像を絶していた。
全長何メートルだろうか、木製の巨大な揺籠がその空間の大部分を埋め、大型の魔獣にも引けを取らぬような威容を放っているのだ。それを見上げるニケは、初めて目にする人工物の威圧感に圧倒され腰を抜かしている。
「これが……」
「ふ、船……!?」
小屋の入り口にて見上げ、ウィルとニケが恐る恐る呟いたその瞬間。
突き飛ばさんと言わんばかりの怒気が込められたがなり声が、真正面から二人に打ち放たれる。
「……ッッ!? ったくよォ! 一体なに奴でぃ!! オレ様の工房に無断で、土足でェ、ノックも無しに入り込む大馬鹿モンはよォ!!」
その声を聞いて間もなく、視界の上に人の身体ほどの大きさの物体を感知した。
宙に浮かぶその物体は、すぐさま地に向かって急降下し――否、その動作は重力に任せた降下ではない。
物体の行先は、それを覆う魔力に混ざる殺意を感じ取った途端に容易く理解できた。進行方向を見定め、まるで投擲槍のように急接近する木材。
標的は侵入者。即ちウィル達三人であった。
「ぎょ、ぎょぇぇぇっ!?」
「……っ!!」
ニケが悍ましい悲鳴をあげ、対するウィルは両腕を突き出し、爆発的な魔力で覆う。しかし……
「…………馬鹿はあなたの方よ。こんな危ない仕掛けまで作って。少しでも間違えれば、あなた自身も無事じゃすまないわ」
結論からして、木材がウィル達に衝突することはなかった。だが、その結果に安堵する暇はない。何故ならばウィルは今、目の前で進行している奇妙な現象に驚きを隠せないのだから。
何処から現れたのか、ツル性を思わせる無数の巨大植物が迫り来た木材に巻き付き、空中にて捕らえてみせたのだ。
理解不能な現象を前に焦燥する中、"姉"の宥めるような声が耳元で反響する。
はっと顔を上げ、周囲に目を向けるウィル。
空中にて出現した植物それぞれの根元には、魔法陣が描かれている。つまり、これらの植物は魔法から生成されたものであり、ウィル達はその魔法によって意図的に守られたのである。
では、その術者は誰なのか。答えは明白。
「大丈夫? 旅人さんたち、どこか怪我してないかしら」
――視界を覆う巨大な植物群は、全て"姉"が作り出したものだった。
「だから、今さっき謝っただろーがい」
「いいえ。反省の色が見えないわ。旅人さん達にちゃんと頭下げて」
「はぁぁっ!? なしてオレ様がこんな奴らに頭下げんといけねぇんだ!? さっきからガミガミガミガミと……てめぇ、ちょっと見ねェ内に老けたなぁ! 歳の割によぉ」
「何言ってるの。何の関係も無いこの二人に大怪我をさせるところだったのよ? …………あと、ついでにわたしにも頭を下げなさい」
一悶着があった後、ウィル達三人は小部屋に通された。船のあった大広間とは別の、生活感溢れる空間だ。彼らを通した者こそ、この小屋の家主にして集落唯一の造船技術者。船大工の少年であった。
だが、木材を操ってウィル達を攻撃した者こそ紛れもなく船大工であり、それが原因で現在は"姉"にこっ酷く叱られているのであった。粗暴な態度や言動が目立つ彼だが、どういう訳か彼女には逆らえない様子だ。
「つーか、しょーがねぇじゃろ。もしオレ様が生きてるってことが集落の連中にバレでもしたら、どちらにせよオレ様は処分されちまう。オレ様はまだ死にたくねェから罠を張った。そんだけだ。……まさかまたお前が来るとは思ってもなかったし……さっきのに関してはすまん……としか言えねぇが」
「…………」
開き直り、再び悪態をつくのかと思えば、雨に打たれたかのように急にしおらしくなる少年。木材による攻撃は、別段少年がウィル達に向かって放ったものではなく、何者かが小屋の扉から侵入した際に自動的に発動する、一種の魔法であった。
少年の言葉終わりに声を詰まらせた"姉"の表情は曇っており、どこか只ならぬ心緒の渦巻きが透けて見えたような、そんな気がした。
「…………あ、あぁ、ごめんなさい。つい取り乱しちゃった」
"姉"は、突然我に返ったかのように、ウィル達に向けて笑顔を作る。
「い、いえ。俺たちのことは気にせず……」
「おい、旅の者」
自分たちに遠慮する必要はない……どころか、この二人の間には幾つか積もる話があるのだと直感したゆえ、ニケと共に一時的な退室を視野に入れたウィル。彼とて、空気を読めぬ男ではない。
しかしそれに待ったをかけたのは、意外なことに船大工の少年であった。
ウィルは目を少しだけ見開き、彼の姿に目線をやる。
「っと……なんつーか、だ。さっきぁビビらせちまって悪かったよ。お前ら姉の大事な客人だろ? ……ここは観光客が来るようなンじゃねぇから、さっさと帰るんだな。コイツと一緒に」
「え、か、観光客……? えっと、俺たちはそもそも流れ着いたというか、何というか……」
「…………なんだ、観光客じゃねェってんか? なぁんだ、てっきりオレ様はコイツの夢が叶ったんかと」
「……ゆ、夢っ!? な、な、なにを口走ってるの!?」
船大工の言葉を聞いた"姉"の慌てっぷりは、それはもう凄まじいものであった。顔を赤く染めながらキョロキョロと辺りを見回すその様は、普段の落ち着いた雰囲気を纏う彼女の姿からは考えられず、まさしく意外な一面である。
彼女の反応に味を占めたのか、船大工は口端を若干吊り上げながら、次々と言葉を発した。
「コイツ、集落をお花でいっぱいにするんだーってガキの頃からずっと言っててよォ。植物園? ってのを作って観光客を……」
船大工がここまで話を進めた途端、先ほど現れた植物が突如として彼の首を絞め始める。
「…………? 一体いつの話なのかなー?」
「ぐ、ぐげっ……ご、ごめんな……い」
"姉"による罰は、その後も彼女の気が済むまで行われた。隣でその光景を固唾を飲んで眺めるニケが羨ましげな視線を送っていたが、ウィルは無視を徹底した。
「さァて、観光客でもねぇってんなら、お前らは何しにオレ様の工房にやって来たんだよ」
重ね重ねの二悶着が過ぎ去った後。
話題はようやく本題に入らんとしていた。
「それについては、わたしが説明を……」
「いいや、ダメだ。オレ様はこいつらの口から聞きてェんだ。そんで納得するかどうかぁオレ様が決める」
鋭い視線が向けられる。
先ほどまでの茶番じみたやり取りを行なっていたとは思えない変わり様に、二人は息を飲んだ。しかし、怯んでいる暇など無い。ここで船大工の協力を得られなければ、対岸に渡ることなど到底無理な話となる。
よってウィルは、視線をそのまま突き返す。
「率直に申します。俺がここにお邪魔した理由は、ただ一つ。…………どうか、船を貸して下さい。俺たちは、対岸に渡らなければならないんです」
ウィルが頭を下げると、ニケもそれに続いた。
腹から喉を通過し発されるは、嘘偽りのない言葉による懇願。駆け引きをするという手も、彼の脳内には存在した。言葉を巧みに操り、成功すれば確実に目的を達成できる手段。
だが、敢えてそれを行わなかった理由としては、余裕の有無にある。
少年は、焦りを覚えていた。ここで相手を引き入れなければ、全てが狂ってしまう。対岸に渡れないとなれば、元の世界への帰還は絶望的。シャヴィの犠牲も無駄になり、ミサの症状は悪化を辿るやもしれない。つまりは、ここで船大工の協力が仰げるか否かが運命の分岐点なのだ。
「………………なるほどな。おーおー、そうかそうか」
ウィルの声を聞いた船大工の反応は、どこか掴みづらい。肯定か否定か判別の付かぬ彼の様子は、少年の心に更なる緊張を齎す。頼むから早く結論を出してくれ、と訴えたい気持ちをぐっと堪えた。
「ダメだ。…………とは、言わねえよ」
「…………え」
「だが」
思い掛けぬ返答。それ即ち、船大工がウィル達に協力をする余地はあると捉えられる。
正直なところ、この交渉においてウィルは粘るつもりでいた。
一行の命運を賭けた交渉。それが容易ではないことなど元より覚悟の上であり、根気にものを言わせるつもりで"姉"に相談を持ち掛けたのだ。しかし、彼の決死の覚悟は振るわれるに及ばす、実に拍子抜けな形で場を退くこととなった。
緊張を解くウィルであったが、船大工の表情は晴れ晴れとしない。
それどころか、異様なほどの重圧がじわじわと空気中に流れ、ふと目線を上に向ければ、得もいえぬ物々しさが部屋中を支配していることに少年は気付いた。
ちらりと"姉"に目をやる船大工。
その分かりやすい合図に何かを察したのか、彼女は目線を下ろし始める。
「この船は実はまだ未完成でよ、オレ様の見通しだと、完成するのはどんだけ急いだとしても最短で四日後……"祝福の日"になるんだ。そこで、お前らに船を貸す上で条件がある」
「…………俺たちに出来ることなら、喜んでいたします」
「……そうか。そりゃ……心強ぇな」
船大工は目を伏せながら、少しだけ間を置いた後、何かを決心したかのように口を開いた。
「祝福の日に催される祭りの最中。オレ様はここで、いつでも船を出せるようにしておく。そこで、お前たちはアイツを……」
ごくり、と唾を飲む音。
より強い静寂が、河に反射する夕陽が、部屋の中を満たす。
「"妹"を連れて、ここに来てくれ」




