39話 辿る道は暗澹と
薄暗い洞穴。奥行きは浅いが、四人の若者が足を伸ばし、じっくりと羽を休めるには充分な広さであった。気付けばすっかり夜が明けていたものの、外は生憎の急な雨によって、夜の暗闇と大して変わらぬ視界不良。魔獣が潜んでいるかと警戒したが、そのような気配は感じられない。ゆえに一行はこれを機に、雨が上がるまでしっかりと休息を取ることにした。
出入り口は人間の子供一人がようやく入れる程度の大きさで、各々は屈みながら進む他なかった。光源となるのはそこから差す光のみで、ランプのような灯りはない。そのため各々の表情を確認することが難しく、気軽に話を持ち掛けることは憚られる。おまけに獣臭く、決して居心地が良いと言える空間ではなかった。
……沈黙が重い。
そんなウィルの心の叫びに反応したかの如く、ふと彼の右手の方向から、ガサゴソと物同士が触れ合うような、乱雑な音が聞こえてきた。
(確かそっちに座っているのは、ナズナだったよな。どうやら鞄の中を探ってるようだけど……いったい何をしてるんだ? 考えてることがいちいち読めない)
時を遡ること数時間ほど。彼は、ナズナが肩に掛けている大きな鞄の中身を勝手に探ってしまった。その時の記憶を辿るが、当時はいかんせん狂乱に陥っていたため、細かいことは頭の中から葬られていたのだ。断言出来るのは、鞄の中には大量の薬草とそれを擂るための石造りの道具があることのみ。その他にも、何やら幾つかの硬い物体に触れたような気がしないでもないが、それ以上思い出すのは彼女の秘密を詮索する事に等しく、どうも気が引ける。よって、その事柄はさっさと記憶の外へ放り出すことにするのであった。
無言を貫き、じっと彼女の座す方向を見る。
今の彼女の行動は、確かに何一つ読めない。ただ一つだけ、それが彼女の振る舞いの基幹と思われる事柄を、ウィルは何となしに感じ取っていた。根拠となり得るのは、ミサに向かって手を差し伸べたこと。確証は無いが、今のナズナには意志がはっきりと存在しており、それに基づいて行動を起こしているような、そんな気がしてならないのである。仮にその意志が"仲間への思いやり"であるならば、彼女が現在取らんとしている行動にある程度の予測を立てることができるだろう。
ナズナの側には、酷い怪我を負った少年が一人。つまり、薬草を大量に忍ばせた鞄を一心不乱に探る彼女が起こす次の行動は――
暫くして、突然その忙しない音が止まったかと思えば、今度はまた別の類の物音が耳に触れる。
ぼりぼり、むしゃむしゃ……少し間を置いて、ごくり。
(…………)
ウィルは、両目をじとりと細めるのであった。
「……ありがと」
洞穴の奥から、少女のか細い声が響く。透明で、尚且つ戸惑いを含むような声色だ。そして僅か数秒後に、こくんと何かを飲み込む音。「……にがっ」という小さな呻き声がその直後に漏れ出た。
洞穴の暗がりで視認することはできないが、大方ナズナがミサに薬草を手渡したのだと察する。それ以前に、調理の施されてされていないであろう生モノを簡単に口にして大丈夫なのかという懸念を抱かなくもないが、これに関しては致し方ない。何せこの場合に居る全員、耐え難い空腹に襲われているのだから。
劇的な出来事の連続で意識がそこに向かなかったばかりに、ようやく一息つけた時の空腹感は抱えきれぬほどに膨れ上がっていたのだ。ローグリンの地下牢で丸一日過ごしていたナズナは特に酷く、一昨日の昼間から何一つ口にしていない可能性すら考えられる。さすれば野草だろうと怪しげな木の実だろうと、毒でなければ食したくなるのは当然か。
などと考えながら、ウィルは意識を宙に泳がせる。
「うぇぇ、まっず…………あ、いや、なんでもないっす」
左隣から聞こえて来た突然の憎まれ口に、目が覚めた。さながら宙を漂う風船が針で突かれたかのようである。ウィルが呆けてる間にニケも薬草を手渡され、今まさにそれを食したのだろうが、幾ら味が食えたような物でなくとも、また如何なる言葉も彼女には伝わらなくとも、折角の善意(?)に対するリアクションとして、それは無いのではと突っ込まずにはいられない。
すたすたと、地面を伝う音が接近する。
自分にも恵んでくれるのかと、期待を胸に顔を上げた刹那――
「むぐっ」
大量の何かが、勢いよく口に押し込まれた。幾つものざらざらとした感触が舌に触れる。彼は両手で口元を押さえながら、少しずつそれを噛み始めた。
コリコリとした硬い噛みごたえを持つ根菜類や、噛めば噛むほど風味が広がる水菜のような植物。やけにぱさぱさとした舌触りは木の実か。様々な植物が口内に敷き詰められ、食感の渋滞を引き起こしていた。
(……)
鼻を摘み、それらを一気に喉へ通す。食感は楽しめるものの、噛んだ瞬間にツンとした苦味が鼻の奥を刺激したのだ。消毒液を直接吸い込んだかのような独特の風味には、表情を歪める他ない。味はともかく、少しでも皆の空腹を癒やすために行動したナズナに対して礼を伝えようとした。しかし彼女はウィルが声をかけようとする前に、その場からそそくさと離れてしまった。
口に無理矢理食べ物を突っ込んだ事といい、彼女の仕草からは、どこか苛立ちのようなものが感じ取れる。先ほどのニケの言葉が聞こえていたならば、彼女は明瞭な意思のもと行動を起こしていることになるのではなかろうか。スノウによると、彼女に見られる異常は魔法発動の失敗によるものである可能性が高いという話だ。ウィルからすれば専門外の事柄であるため余計な推測を立てるべきではないが、彼女が先の戦闘において魔法を使用せず、またこの暗がりにも関わらず炎を灯さない理由は、やはり"魔法の失敗"という事象に関連したものと考えれば一先ず筋は通るだろう。
ところが、そこで更なる疑問が生まれる。魔法に関する一切合切が封じ込められた事とは別として、彼女はなぜ言葉を発しないのか。加えて、周囲への曖昧な反応も気掛かりだ。判然とした謎同士がうまく結び付かず、どうにも頭が重い。
休息を取るべく訪れた洞穴。そこで交わされた十分にも満たないやり取りは、ウィルの憂いを色濃く浮き立たせるのみであった。
時が経過してゆく。雨音は変わらずざあざあと響き渡り、外から差す鈍色の光だけが仄かに周囲を照らしている。胡座をかき、その薄暗い光をじっと見つめながらそっと瞳を伏せた。空虚で空洞な、時と隙間。虚の中を這う微小なノイズによるものか、今の彼は寝ようにも、眠れない。
時の足取りが、いやに間怠く感じられる。
――ふと、奥からすすり泣くような音が聞こえてきた。音の主の姿形ははっきりとしないが、時々漏れる小さな嗚咽が彼女のはち切れそうな感情を痛切に悟らせる。
「……帰りたい」
彼女の嗚咽に同調したのか、消え入りそうな掠れ声が、ウィルの左耳に触れた。
「なんで、僕たちがこんな目に遭うんだよ。……帰りたい。みんなに……母ちゃんに会いてえよ」
思い返せば、三人には元の世界を愁えるような瞬間が無かった。目まぐるしく変化する状況の中、今を生きることに手一杯であるが故に、腰を据えて過去に想いを馳せるなど到底許されることではなかったのだ。一つの大きな騒動が終わりを迎え、漸く憩いの時が訪れた途端、張り詰めていた糸が途切れるように、行き場を見失っていた感情が溢れ出したのだろう。
左の少年は、喉から湧くしおれた声を噛み殺す。以降、彼がこの場で口を開く事は無かった。
再び宙に目を向けるウィル。おもむろに瞬きを一つ。
瞳に映るのは、この先起こりうる出来事。
仮にメナス河の対岸に渡って東に向かい、苦労の末ペンガースとやらに辿り着いたとする。だが、そこで待ち受けるものが必ずしも自分たちに希望をもたらすとは限らない。リッキー……否、オーディンの件から、人の真意は慎重に見極めねばならない事を学んだ。ただ由々しき問題として、慎重になる以前に自分たちには選択肢が存在しないのである。それ即ち、現状は"大国の盟主をやってる異世界人"という非常に不明瞭なモノに頼るしかないということだ。
その人物が好意的に接するとは限らないし、異世界人ならば元の世界に帰還する方法を知っている、という根拠もない。そもそもウィルは、そのような国の存在さえ疑っているのだ。
今の自分たちが目標としているのはそういった曖昧な、どこか願望めいたもの。最も懸念すべきは、その願望に裏切られる時。
あのような悲劇を味わうのは二度と御免だ。先のことを考えれば考えるほど、胸が強く締め付けられてしまう。
『まぁよーするに、確かめてみねェことには何も始まらんってこった。なに、おれも一緒に付いてくから大丈夫よ』
別離の直前に男に掛けられた言葉が、頭を駆け巡る。強くて、頼り甲斐のある風柄。彼がこの場に居てくれればと切望せずにはいられず、心はその背中に縋りたい気持ちで埋め尽くされる。
冷ややかな空気が肌を撫でる朝まだき。身体を横にすると、少年は無理矢理目蓋を閉じた。
硬い地面に横たわり、意識は微睡みに包まれる。遠くからジャラジャラといった金属音が聞こえてきた気もするが、激しい雨音に掻き消された。きっとそれは、ただの幻聴だったのだ。
*****
――山道はどこまでも続いている。
自分は、必死に頑張っている。
皆、弱音を吐かずに上へと向かう。
自分も、空気を読まなければならない。
振り返ることは許されていない。
引きずっている"なにか"が重くなった気がする。
今はまだ、そのままでよい。
頂上は未だ見えず。
*****
小さな物音が耳に入りこむ。上半身を起こしながら、目蓋を擦ってあくびを一つ。あまり寝付けなかった筈だが、目を閉じて無心になっているうちに気付けば眠ってしまっていたようだ。単純に、過度な疲労によって身体が持たなかったのだろう。
雨音は止み、出入り口からは眩い光が差し込んでいる。時計が無いため正確な時刻が分からず、ウィルはつい顔をしかめた。というのも、彼は日が高いうちに河に着く事を望んでいるのだ。夜になれば凶暴な魔獣が姿を見せるため、やはり危険は避けて通るに越したことはない。
そっと腰を上げ、光の差す方へと歩む。不意に、彼は自身の身体に奇妙な感覚を覚える。
――痛みを殆ど感じないのだ。思い当たる節といえば、ナズナが無理矢理口に突っ込んだ薬草だ。魔獣によって被った決して浅くない傷を、数時間あまりで大幅に和らげる程の効能。傷口は至るところにあるため、身体中の神経の働きを抑制しているという可能性もあった。ただ、今のウィルは身体を自然に動かせているため、その考えは否定した。試しに自分の頬をつねってみたものの、結果は予想通り。痛覚はきちんと働いていた。夢から覚めて元の世界に帰っている……なんてことは当然なかった。
とすれば、本当に傷口が塞がりかけているのだ。時々ピリピリとした痛みを感じるため、完治しているとは言い難い。それがかえって薬草の効能をリアルに感じさせた。
ウィルは、外の光に当たった自身の身体を見下ろす。
「……ぁ」
傷の付いたあらゆる箇所に、包帯が乱雑に巻かれていることに気付いたのだ。
「お、ウィル。起きてたのか」
やや高めの、そこはかとなく頼りない声が背後から響いた。ウィルは振り向き、薄暗闇の中へと声を返す。
「いや、ついさっき起きたばかりだよ。……おはよう、ニケ」
言い終わると同時に、目にまばゆい外の風景を覗き込んだ。燦々と降り注ぐ陽の光が平野を照らし、大地にはみずみずしい鮮緑色が広がっている。自分が血に塗れながら歩いた道は斯くも美しい場所だったのかと、無意識のうちに感嘆の声を漏らしていた。
程なくして二人の起床を確認した後、ウィルは皆に向かって出発を告げる。――これといった反応は無かったが、それは三人が自分の言葉に耳を貸さなかった訳ではないことを、彼は理解している。このまま洞穴に閉じこもるにしても、魔獣が入り込まないという保証はない。ましてや都合良く救いの手が差し伸べられることもない。進むか留まるかを天秤にかければ、どちらに傾くかは一目瞭然である。彼は無言のまま、行くべき方向へと足を進めた。
頭上から日差しをふんだんに浴び、一行は北東へと向かう。鮮明に映る皆の表情は、随分と久しく感じられた。
(……ミサの目元に若干の陰りが見える。そういえば、さっきはナズナが彼女を起こすのに苦戦してたような気がするが……)
友人の憔悴した姿を横目に、ウィルの面持ちは曇る。その心情は想像も付かないが、酷く思い詰めていることだけは確かだった。今の彼女は、あたかも吹っ切れたかのように振る舞っている。
洞穴を発つ直前、自分を気遣うニケに対して、彼女はあたかも綺麗さっぱり忘れましたと言わんばかりの様子で軽い冗談を返していた。妙に見覚えのあるその朗らかな対応は、彼女が学校の友人たちに向けるそれだ。少なくとも、ニケやウィルのような人種には決して見せない姿である。彼女の立ち振る舞いにはどうしても違和感が拭えず、ウィルはより一層大きな不安に駆られるのだった。
「……さっきからなにチラチラ見てんの? 視線が鬱陶しいんだけど」
「!? そ、そんな事ないよ!? そ、それよりも……」
ミサの鋭い直感に、取り乱してしまうウィル。或いは彼女の勘が特段鋭敏なのではなく、単に彼の憂惧が肌で感じられるほど明確に表れていただけやもしれないが。
だが、彼が憂うのは無理もない。違和感は、今朝彼女の姿を一目見た瞬間に映り込んだ。ウィルは敢えて彼女の細い首に巻かれている包帯から目を逸らしながら、落ち着かない様子で言葉を紡ぐ。
「いや、やっぱりなんでもない」
居た堪れなくなったウィルは歩幅を広げ、仲間たちから少しばかり距離を取った。羞恥を紛らすための行動ではある。しかし、彼は咄嗟に気付いたのだ。"彼女を案じること"そのものが、彼女に無理を強いている一つの要因であることに。
――自分がミサの為に出来ることは、本当に何も無いのだろうか。時の流れは、いずれ彼女の傷を塞ぐのだろう。だが、押し付けられた重すぎる罪悪を削り切るには、一体どれ程の月日を要するのかはまるで見当もつかない。更にはその期間、彼女はずっと一人で抱え込まなければならないのだ。……耐えられる筈はない、と確信できる。
少し離れて先頭を行く彼の表情は険しい。黒雲のような胸中のざわつきが、見据える先に影を落とすのであった。
途中途中で休憩を挟みつつ、北東へ足を進める。時間的な余裕は持てないが、無理をした結果が命取りになる可能性は充分に考えられる。そのため、適度に仲間の様子を確認しつつ、慎重に緑の大地を行かなければらならない。
魔獣との戦闘は、可能な限り避けた。夜間とは異なり余程接近しない限り襲われることはなく、余計な体力を使わずに済んだのは嬉しい誤算だ。だが万が一戦闘になっても、今のウィルは一人ではなかった。驚くべきことに、ニケが率先して彼の側で短剣を握っているのだ。未だ動きはぎこちなく、敵に刃を突き立てるのは怖いと見える。しかし、襲い来る魔獣に対して必死の面持ちで威嚇をする姿からは、以前の彼には無い頼もしさと、彼自身の確かな意志が感じられた。
強く固められたニケの覚悟。臆病自体は変わらぬものの、ウィルにとっては百人力だった。
平野を進むにつれ、ウィルはとある環境の変化を察知する。
(……みずみずしい草花が、急に減り始めた。この先には大きな川があるはずだけど……ひょっとして水害にでも遭ったのかな。これじゃまるで荒地みたいだ)
気付いた時には既に一面の緑は失われ、周囲は土煙の舞う、銅色と黄緑が交わる風景へと様変わりしていた。更に彼が不自然に感じたのは、荒地に入って以降、魔獣の姿を全く見かけないことだ。このような地にこそ凶暴な魔獣がいるものと思い込んでいたが、それは果たして見当違いなのか。現状、考察の材料はあまりにも少ない。
また時が暫く経つ。今度は明確な変化が訪れた。
荒れ果てた地に、周囲を覆う薄い霧。
視界ははっきりとせず、気を抜けば進むべき方角すらも見失ってしまうだろう。
そこで、彼は予期せぬ光景を目にすることになる。
「あれは…………ッ!! 水が際限なく流れている。間違いない、あれがおばあさんやシャヴィさんが言ってたメナス河だ! ……しかし本当に広いな。霧のせいか、対岸が全然見えない」
目の前に薄らとあらわれた光景に、驚愕と興奮の混じった声を上げるウィル。ここが、この場所こそが、メナス河だ。そう何度でも叫びたくなる衝動を抑え、感慨に浸る。絶望から始まった無謀な旅。しかしこの瞬間、遂に一行は、第一の目的地に達しようとしているのだ。
河はあくまで視界に映っただけであり、実際のところ畔までは未だ数キロ程度の距離があるだろう。だが、確実に前に進んでいる。今は、心の大半が大きな達成感で埋め尽くされていた。
「なぁ、見ろよニケ! 俺たち、遂にここまで」
前方に広がる景色を指差し、背後を振り返る。
「……あれ、みんな?」
目を見開き、言葉を失った。
共にここまで歩いてきた三人の仲間。絶対にそこにいる筈だった彼らの姿が、消えていた。
はぐれた……という可能性はありえない。何故ならば、ウィルがメナス河を見る直前まで、背後からは複数の足音が聞こえていたからだ。
幻覚に関連した何らかの症状……という可能性も無くはない。ただ仮にそうだとするならば、なぜその症状は今になって現れるのだろうか。憶測を重ね始めるとキリがないゆえ、一先ずその可能性は除外するべきと判断する。
残る可能性としては、この異様な環境だ。荒れた大地に、少し前から漂っている謎の霧。ともすれば、この土地自体が何らかの魔法的な作用を発しているのではなかろうか。
――その推論に至った瞬間、ウィルは自身の背中に強烈な悪寒が走る感覚を覚えた。
寂寥感に浸る間もなく、咄嗟にその方向へと振り向いた――その直後。
「……っ」
彼の意識は、細い糸が千切れるようにプツリと途絶えてしまった。




