37話 岐路に立つ
仄かな灯りを追い、鬱蒼たる道を走る。
一行は一刻も早く森を抜けるべく、シャヴィの知り得る"最短ルート"を全力で駆けていた。平坦な道などある筈もなく、危険極まりない通り路であったが、先頭を行く彼が魔法の灯によって道を照らしているため、暗闇の中を進むよりは幾分か安全性が確保されている。しかし、真に問題となるは魔獣の存在だった。
時間帯によるものか、果てはこの悪路のおかげかは定かではないが、以前ウィル達が昼間に遭遇した魔獣らと比較すると妙に活発な種が多いように見受けられる。無論襲いくる魔獣は全てシャヴィによる一振りの剣撃によって葬られるものの、それでもなお自分達を食らわんとする存在が間近にいる事に変わりはなく、皆は常に神経を張り巡らせながら入り組んだ道を進むのであった。
余談だが、シャヴィの言う"最短ルート"の実態は魔獣の巣であり、ウィルが勘繰ったように彼方此方から魔獣が襲い掛かってくることは必然であった。更に、夜行性の魔獣は基本的に凶暴な気質を持っているため、まさに一行からすれば踏んだり蹴ったりな状況なのだ。
彼があえてこの道を選んだ所以としては、リスクがある分通常の道を行くよりかは圧倒的に早く森を抜けることが出来るといった賭け半分、焦り半分の心情から弾き出された思い付きである。ウィル達の身からすれば非道なことこの上ない判断だが、彼は多くのならず者を束ねた経験があるゆえ、自らの行動一つ一つにはきちんと責任を取る。その為、今も決してウィル達を傷つけまいと、姿を現した魔獣を片っ端から倒してゆくのであった。
ーー空気の流れが変化した、ような気がした。
「お前ら、もう大丈夫だ。この道を真っ直ぐ抜けりゃ、平原に出られる。一気に駆け抜けるぞ」
微かに肌を撫でる、平原の風。
否。そう感じたのは一瞬である。轟音を纏いし突風は背後から左右を通り抜け、辺りの木々を焼き尽くした。刹那の殺気に悪寒を感じ、皆は咄嗟に背後を向く。
まるで身体中を逆撫でされるような感覚。ウィル達は以前、これを何処かで味わったような覚えがあった。
「てめェ............そこまでおれに構いてェのかよ」
「そりゃ勿論。てか、もう諦めなよ。オレは別に奴隷になれとか言ってるんじゃない。ただうちの組織に入ってほしい。本当にそれだけなんだよ?」
二人の盗賊と対峙していた筈の男は、いつの間にやら一行の足に追い付いていた。想定を大きく上回る敵の行動力を目の当たりにしたシャヴィの表情は険しい。彼はウィル達を守るように、男の前へと立ち塞がった。
口元を歪め、へらへらと笑う男の表情には、薄い苛立ちが垣間見える。
「お、おい。り、リッキー......だよな? おまっ、どうしちゃったんだよ。見た目も全然違うし、今悪いやつっぽくなってるのは、どうせ何かの演技なんだろ......? な?」
姿を変え、態度も口調もまるで別人となってしまった仲間に、ニケは受けた衝撃を隠し切れない。ウィルも同様に、夥しく移ろう理解不能な出来事に混乱し、心は不安に押し潰されていた。
その震える声を耳にしたであろう男は、ニケを気にかける様子など毛頭見せず、シャヴィに目線を送り続ける。しかし突然何かを閃いたかのように、指をパチンと鳴らし始めた。
「異世界人か。あー、この手があったわ!」
何やら一人で呟く男は、爽やかな笑みで三人を覗き見る。その様は、ウィル達の目にはこれ程なく不気味に映った。
「君たちさ、元の世界に帰りたいとか言ってたよね。オレはね、オムニス王国っていう大きな国からやって来たんだけど、今からみんなをそこに招待しようと思ってさ」
「きゅ、急に何を......?」
またしても、男は事態を理解の及ばぬ方向に進めんとする。その身勝手さに、ウィルは強い不満を覚えた。
「まぁ、よく考えてごらんよ。うちは世界で有数の大国だから、その分情報も多く集まるだろ? だから、君たちが欲しがる知識を探すにはどう考えても打って付けじゃん。もちろん、オレと君たちの仲だから、衣食住は絶対に保証してあげるよ。恐い魔獣と戦う必要はもう無い。ダサい服を着る必要も、ご飯を我慢する必要も無いんだ。みんなは充実した王国の暮らしの中で知識を蓄えて、そして好きな時に帰ればいい。不都合なことがあれば、オレ達を頼ってくれて全然構わない。......特務機関総司令オーディン・バロスの名にかけて、君たちの新たな生活をサポートしよう」
男は右手を前に差し出し、ウィル達に向ける。その手は、ウィル達三人にとってはまさしく天から差し伸べられた救いの手であった。
その言葉が本当ならば、元の世界への帰還という目的を達せられる可能性は格段に高まるどころか、二度と魔獣のような理不尽に苦しめられることは無くなるだろう。
まるで理想論だ。そして、現にその理想は眼前にて、自分たちを絶望から引きずり上げようとしている。
(そうだ。そもそも平和に暮らしていた俺たちがなんで急にこんな目に遭わなくちゃいけなかったんだ。悪いことなんて何もしていない筈なのに、どう考えてもおかしい話だ。リッキーのこともあるし、オーディンとかいう男はやっぱり胡散臭い。でも、元の世界に帰れるかもしれない可能性からすればそんなのは些細なことじゃないか? ......だけど、もし俺がここでアイツの手を取った場合、シャヴィさんは............)
「子供を誑かすのも大概にしろや、偽善者が。テメェら機関の目的なんざ見え透いてンだよ。特にコイツらのことを"希少な異世界人サンプル"としか見てねぇテメェの考え......」
「おっとぉ、ひょっとして焦ってる? いいや、オレには分かるよ。その顔は確実に焦ってる顔だね! うん、気持ちは分かる。この子らがオレに付いてきたら、仲間想いの君は彼らの身を案じて、自分もオムニスに行かざるを得ないもんねぇ? でも想像してごらん、この子たちの苦しみを。突然こんな世界に飛ばされて、家族や友人にも会えない。更には何も知らないまま魔獣に命を狙われ続けて、終いにはあんな惨劇に巻き込まれてしまったんだ。こんなの、あまりに可哀想じゃないか! ............一体偽善者はどっちだろうね?」
「............チッ、お喋りな奴め」
ウィルが判断を決めかねている間に、シャヴィと男は白熱した口争を繰り広げる。シャヴィの話途中、男は突然彼に掴みかかるような勢いで言葉を割り込ませた。男の怪物のように凄んだ形相を見るに、ウィルからすれば焦っているのは寧ろ男の方であった。しかし、言葉の中身は至極まともに聞こえる。彼は本当に自分たちの苦しみを分かち合ってくれるのだとさえ思ってしまった。しかし......
「えーっと、ミサ。別れた後、凄く怖い思いをしたみたいだね。でもこれからは大丈夫だ。そんなのはもう二度と味わせないって約束する。そうだ、今度こそ好きな服を買ってあげるよ。なに、遠慮はいらないって。流行りのブランド、紹介してやるからさ。あとは……そうだ、ニケ。オムニスは都会だぜ? うまい飯はいっぱいあるし、モデルみたいな可愛い娘だってわんさか居る。......ここまで言えば、後は分かるよな?」
「............」
「......ぐ、ぐぬっ。リッキー、僕は............」
流れるような、巧みな言い回し。大層悪趣味な男だとウィルは思った。
先ほど見せたシャヴィへの反論といい、たった一日を共に過ごしただけで、各々が抱く心情や欲望を的確に分析して突いてくる。とはいえ、ニケのそれは分かり易過ぎるが。
男は最後にウィルを見据え、声をかける。
「ミサの笑顔を取り戻したいだろ? ニケと馬鹿騒ぎしたいよな? そこの子、ナズナ......だっけ。オムニスには世界的な術師が沢山いるから、多分秒で正気に戻せるぜ。堅物の君はどこかオレを疑ってるみたいだけど、こう考えりゃ悪い話じゃないってことくらいは分かるっしょ」
視線を絡め、ニヤリと表情を歪ませる男。
自分でも不思議に思うほど、苛烈な動揺が背筋を伝った。一日といった僅かな時間の中、男はウィル達の何を見てどのように感じてきたのかは知る由もない。
たった一日だ。されど、それを短いと捉えるのはあくまでウィルの感覚。
ガトーやスノウといった盗賊団員のみならず、優れた目を持つシャヴィでさえ完全に見破れぬほどの偽装をこなす演者にとって、ともすれば迷える少年少女の心を手玉に取るには十分過ぎる時間であったやも知れない。
オムニス王国特務機関。シャヴィの反応から察するに、規格外の組織であることには違いない。だがウィルにとって、組織の実態や目的に関してはこの際さして重要ではなかった。男の言葉を素直に受け取ることに躊躇いを覚えてしまうのは、『もしかしたらこの男は、他人を欺くという行為に対して罪悪感の欠片も感じていないのではだろうか』という疑念が纏わりつくためである。機関とやらの事情は不明だ。ただ、もしこの男がそれを日常的に行っているとすれば、それはあまりに悲しい事であるとウィルは思うのだった。
「......そう、だね。断る理由は無い。これ以上怖い思いをするのは嫌だし、早く元の世界に戻りたいよ。ニケやミサも多分......いや、絶対に同じこと考えてる」
ウィルは背後の二人に、軽く目を向ける。二人は何も言わず頷き、言葉の続きを待った。
「ははっ、やっぱそうだよね。いやぁ、安心したわ。これで首を横に振られたらどうしようかと」
「だからこそ、俺はお前に聞いておかなきゃならない。......お前は、何を考えて俺たちと会話してたんだ? リッキーの言葉には沢山助けられたし、元気付けられた。時々おふざけが過ぎるって思うこともあったけど、仲間が一人増えたみたいで楽しかったんだ。......リッキーという姿が演じられたものだとしたら、これまでの会話は全部演技だったのか? 俺の我儘を聞いてくれた時も、皆で一緒にご飯を食べた時も............全部?」
「へ......いや、どうだろね。確かにオレってばずっと皆を騙してたっぽくなってるけど、もちろん全部が全部ってワケじゃないし......てゆーかそれは大した問題じゃなくね? 少なくとも今はホントの事言ってるんだし」
期待と希望に満ちたような、嬉々たる反応が見られると思っていたのだろうが、予想外に真剣な面持ちで言葉を返され、男は少々戸惑う様子を見せた。彼は少年の意図を上手く汲み取れず、あくまで雰囲気に任せた返答をするしかなかったのだ。所詮は少し勘が鋭いだけの子供と見下しているが故の判断。少年の言葉に対して真正直に向き合うことの価値を、男は見出していなかった。
頭の中が、揺れ始める。男の言葉を耳にした途端まるで吐き気を催すような感覚に襲われた。これ以上何も考えずに、楽になりたい。しかし、どうしても受け入れることができず、男への拒否反応は強まるばかり。
許される限り、何となしに会話を続けること。今は、それが精一杯であった。
「その言葉、信じるよ。......オムニスに行けば、本当に元の世界に帰れるんだよな」
「確証はないよ? でもその可能性は高い。そうだ、機関の人間に国立図書館に通じてる奴がいるから、掛け合ってみるのもいいかもね」
「......何か俺たちが支払うものはあるのか? さっきの話、あまりに虫が良すぎる」
「うーん、もしかしたらちょいとオレたちの仕事を手伝ってもらうかもね。ま、どうせ大したことないし、対価としてはそれだけで充分だね」
「......仕事? それは雑巾がけみたいに誰でもできることか、それとも"俺たちじゃなきゃ駄目"なこと?」
「............なんでいちいちそんな事聞くのかな? そりゃ色々だよ、いろいろ。命懸けで何かをしろとかは絶対無いからね。不安なのは分かるけど、別に怯えなくていいって」
相反する思考同士の葛藤、拭えぬ疑念。それらを生じさせる原因は、全て己の情報不足にあるのは疑いようのないこと。自分の求める情報はこの男の脳内にあるゆえ、ウィルは少しでも多くの言葉を引き出そうと試みたのである。
時に、ウィルが異世界に転移する前のこと。自己本位さが原因で数多の人間関係を破綻させてきた幼き彼は、いつの日か自分の性格を矯正するべく、他人と接する際は極端に同調的な姿勢を取ることにした。決して自分から他人に向かわず、仮に会話の機会があれば必ず相手の顔色を伺い、ひたすら愛想笑いを浮かべる。
もっとも、このような人間に好意的な印象を抱く者など彼の周囲にはおらず、苦労して自分を抑えたは良いが寧ろ人を遠ざけ、挙げ句の果てには虐めの標的にされてしまったのは何とも皮肉な結末であった。
そのような経緯があり、彼は他人の些細な表情の動きにさえも機敏に反応してしまうのだ。そのお陰か、先ほど自分が発した言葉一つ一つに対する細かな反応から相手の感情を薄らと読むことができた。
男の苛立ちが顕著に現れてきたため、ウィルは最後の問いを投げんとする。
「......さっき、俺たちの衣食住は保証するって言ってたよな。それはたぶん本当だと思うし、疑わないよ。......でも最後に、一応聞いておく。お前達は......オムニスは、俺たちの自由を保証してくれるのか?」
「............もちろん保証するに決まってんじゃん。自由な時間が無きゃ手がかりを調べるもくそもないからね? 疑り深いのは良いことだけどさ、あまりに酷いと友達なくすぞ? ははは」
右手で頭を掻き、相も変わらず相手を卑下するような態度で笑う男。その瞬間、ウィルは確信してしまった。男の真意と、言葉巧みに隠蔽された罠の存在を。
「......な、なぁ。もういいだろ? リッキーは僕たちを助けるって言ってるんだぜ。確かにあいつが皆を殺したのかもしれないし、それは僕も......許せないよ。でも、もうこれ以上戦わなくて済むし、何よりも、やっと家に帰れるかもしれない......」
「ニケ、ごめん。その気持ちは凄く分かるけど......俺はどうしてもあの男について行く気にはなれないんだ。あいつの言う通りにしたら、多分取り返しのつかない事になる」
男に未来を委ねんとするニケの主張は、ウィルの心を動かすに値しなかった。今すぐにでも幼馴染に謝罪したい気持ちをぐっと堪え、彼は腹を括る。
へらへらと笑みを浮かべる男を真っ直ぐ見据え、息を吸い込む。その視線を受けた演者は何か不快に感じたような様子を見せるでもなく、覗き込むような眼差しと共に、相手よりも先に声を発し始めた。
「理由を聞かせろよ。言っておくけど、こんな機会は二度もあると思うなよ。これが、君たちが元の世界に帰れる最後のチャンスになるかもしれないからね。も一度よく考えてみ? バカでもわかるから」
「確かにお前の提案は魅力的だし、もしかしたらそれが正解なのかもしれない。でも、どこかで俺の直感が危険だと告げているんだ。......お前の作る表情は薄っぺらくて、裏の貌が見え透いてる。何度言われたって、俺の意思は変わらない」
「............うーん。なんだか君、意外と隅に置けない奴だよねぇ。そんな生意気な口利かれたの久しぶりだよ。しかし、裏がある、ね。......ククク、何だろうなぁ、そんなこと言われると、真面目に勧誘してるのが馬鹿みたいに思えてきちゃうじゃんか。後が面倒くさくなるから避けてたけど、もうやめよっかなぁ、愛想笑い」
男が不敵な笑みを浮かべた瞬間、その場の空気が凍てついた。無数の刃物で全身を刺されたような、あまりにも凶悪な威圧感。それを直接体感したシャヴィ含む一行は、恐怖のあまり身動き一つ取ることすら躊躇ってしまう。
転移前に三人を襲った正体不明の異形。己の死の気配を最も色濃く感じたのはそれに遭遇した時であったが、眼前の男の気配はそれをも凌駕するようなーー人の身で逆らうことすら馬鹿馬鹿しく思わせるかの如く、どこか絶対的なものを感じさせた。
だが、此処で飲まれてしまっては自分が固めた決意を蔑ろにすることとなる。己の意志を他人から強制的に捻じ曲げられるのは、彼が何よりも忌み嫌うことであった。
それ故に、抗う。勇気を極限まで振り絞り、顔を上げる。そして相手の眼を堂々と睨みつけた。
「......お前は、あいつらと同じだ。独りだった俺に見世物を見るかのように近づいて、蔑みの薄ら笑いを浮かべながら手を差し伸べてきた、善良を装った非道な連中と!」
言葉を交わしてゆく内に、いつしか男の姿は過去の憑き物と重なっていた。頑なに彼の言葉を受け入れられなかったことも、無意識のうちにそれを感じていたからに違いない。更にはローグリン国の悲劇に関与している可能性や、自分たち三人に偽りの姿で接していた事実も加わり、ウィルの男に対する信用はとうに欠落していたのだ。
シャヴィは、背後に立つ少年の姿を見る。
機関という存在の脅威と、オーディンと名乗る男の放った惨虐なまでの威圧。悪夢のような光景を前にしたシャヴィは、動くことはおろか声を発することすら叶わなかった。それは何ら恥ずべき事ではなく、直面した事態の恐ろしさを充分に理解している者ならば至極当然の反応である。
そんなシャヴィの心情を余所に、力なき少年は圧倒的な存在に対して食ってかかったのだ。腑抜けと蔑み、取るに足らぬと判断した少年。幸いなことに機関の名を知らず、未だ魔力感知の精度が未熟であることから、彼は敵の本当の脅威を知らない。だがそれを踏まえたとしても、余程の勇気と覚悟が無ければこの状況で一歩を踏み出すことは出来ないだろう。
赤髪の青年は何かを堪えるように、またどこか安堵したように目を細め、微かな微笑を浮かべた。
オーディンと名乗る男から、透明な波動を感じ取る。まるで意志など感じられぬ殺意は空気を伝い、無慈悲に心を凝結させんとする。それが戦闘行為に移る合図であることは、その場にいる全員が感じ取れた。されど何を思ったか、シャヴィは眼前の脅威から目を背ける。そして、ナズナを含む四人の少年らに向けて歩み寄り始めた。
その両眼には意外なものと映ったのか、オーディンは彼らにプレッシャーをかけつつも、未だ何らかの動きを取る様子はない。シャヴィの意図を読み取ったかは定かではないが、彼は突然興に乗じたように、静かに事の顛末を見届ける姿勢を見せていたのだ。
「ミサ、すまんな。本当は、お前の罪を一緒に背負ってやりたかった。旅の中で、その足枷を削る一助となれりゃ良かったんだが......ってお前からすりゃ、ありがたメーワクか」
「............迷惑なんてそんな事......ぇ、なにを言ってるの......?」
「よーく聞け。お前が抱えちまったその感触は、残念ながら簡単には薄れてくれないし、これからもお前の心を縛るだろう。だから、絶対に一人で抱えるな。とにかく誰かを頼れ。辛かったら、助けてって叫ぶんだ。簡単なことだろ?」
歩み寄った青年は不意に、取ってつけたような笑顔を見せた。曇った言葉と表情からは、明確な意思は伝わりづらい。だが、その表情を目にした少年らの心の底からほつほつと浮かぶ予感は水面下にて膨らみ、着々と思考を侵食する。
ミサは息を震わせながら、右手で自分の左腕に触れた。昨晩、隠れ家で過ごすにつれて赤みを取り戻しつつあった肌色からは、再び色が失われてゆく。その様はまるで、自ら思い浮かべた予感に対して全身から拒否反応が発せられているようであった。
「......それと意外かもしれんが、実のところニケには結構感謝してンだわ。ローグリンでウィルから聞いた話だが......その、ありがとな。アイツらの友達になってくれて」
「へっ、ぼ、ぼく? ......え、えっと。それはたぶん、盗賊団の皆が明るく接してくれたからです。最初は怖そうな人たちだと思ったけど、全然そんなことなくて、むしろ楽しい人たちだった」
「......そうか。そう言ってくれると、何だか報われた気分になるぜ」
青年は一瞬だけ目蓋を閉じ、柔らかく儚げな微笑と共に、ゆっくりと視線を地面にやった。少年の言葉に、心からの感謝を表すように。
あまりに、遣りきれない。
シャヴィは既に、この先へと続く道を見据えたのだろう。その振る舞いから、彼が揺るがぬ決意を抱いていることは痛切に理解できた。
だからこそ、哀しくて堪らないのだ。空気を伝って肌に触れんとする覚悟は、ウィルから見ればその場凌ぎの虚勢である。彼が真に抱く心情の実態は、悲壮の念と後悔。押し寄せる絶望に小衝き回される彼の姿は、あまりに心苦しかった。
彼の瞳は今まさに、自身が最も報われぬであろう結末を見据えている。ウィルは傷心と無力感に苛まれながら、黙って地を見つめーー
「なにシケた面してンだよ。あんなどデカい啖呵切っといて、締まらねェな」
ふと、頭部に暖かな感触を覚える。頭上のそれはそっと自分の髪を押さえ込み、左右にゆっくりと動き始めた。
唐突に訪れた現状をよく把握出来ないのは、きっと押さえつけられた前髪が視界を塞いでいるからに違いない。
「......多くは喋らんから、安心しろ。............こいつを連れて行けや」
言葉の途中。頭上の感触は離れ、ほんの少しだけ目線を上に傾けることができた。決して顔は上げずに、月に照らされた薄暗い空気を瞳に映し続ける。するとこれまた突然、燃えるような緋色が視界の半分以上を覆い尽くした。
気が付けば、緋色のそれは強引に顔の位置まで動かされた自分の両手が掴んでいる。
それが地に突き刺さる巨大な剣であると認識する前に、頭部を摩る謎の感触が再び訪れた。今度は先ほどとは異なり、瞬く間の、頭髪が乱れるほどの荒々しいものであったが。
様々な感情が入り混じる。脳内は雑然とし、呆然と立ち尽くす他ない。
状況分析、現状打破の策。考えるべき事は、幾らでもある。少なくとも普段の自分ならば、惜しむ事なく頭に過大な負荷をかけているだろう。そして、どうにかして解答を導き出す。それが現実的か否かに関わらず、僅かでも可能性があるならば命運に縋り、提案をするに違いない。
ただ、今の自分ではそれを行うに至らなかった。何故か胸が強く締め付けられ、両目と鼻の奥は燃えるように熱い。まるで心のど真ん中に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったようであった。
呆けている内に頭上を伝う感触は遠のき、目の前の青年は背を向けて歩み始める。
頑張れよ、という温かい声が、微かに耳に触れた気がした。
(......)
霞む視界に映るは、離れゆく男の背中。その姿を目にしたウィルは、自らの軽率な考えを恥じる。
シャヴィは決して、絶望に打ちひしがれてなどいなかった。遠ざかってもなお大きく、曇りなき覚悟が込められた偉大な姿。それを前にすれば、彼の歩みを止めようなどと思うことはない。
亜空間から取り出した短剣を腰に下げ、代わりに託された物を収納する。ウィルは黙して振り返り、仲間たちに目を向けた。
「............行こう。とにかく真っ直ぐ、北に向かうんだ」
噛み締めるように紡がれる言葉。彼が発したその真意は、提案よりも寧ろ懇願に近い。それはこの場に居る誰もが感じていたが故に、各々が己の揺らぐ心情を抑えきれなくなってしまう。
「......ウィル、本当にそれで良いのかな。ウチはもう、これ以上傷付くのは嫌。......本当に、どこか壊れてしまいそうなの」
表情が歪み、掠れた声で呟く彼女。今にも崩れ落ちそうなその様子は、あまりにも酷たらしい。
昨夜、思考や感情が停止しかけていた彼女に優しく触れたのは、大きな手のひらだった。どこか適当で、不器用で、されど頼もしい存在。彼が近くに居るという事実に、彼女は包み込まれるような安心感を覚えていた。彼の存在こそが、ミサ自身が辛うじて自我を保つための命綱だったのだ。
この状況下にて彼女は改めてそれを認識したがゆえ、かつて無いほどの恐怖に襲われる。訳も分からず必死に訴える彼女の目には、一体何が映っているのだろうか。
だが、ウィルの決意は既に固まっていた。
怯えるミサと下を向くばかりのニケ、そしてナズナの側を通り抜け、森の外へと歩みを進める。
「おーい、くどいだろうからこれで最後にするけどー、ホントにオレの話に乗る気はないんだねーぇ? たぶん、今の君たちがこの先を行けば、死ぬより辛い目に遭うかもよー?」
背後から響く男の戯言に心を動かされることなど、今となってはあり得ない。それが事実であろうとなかろうと、彼が偽りの姿で自分たちを欺いてきた裏切り者である以上、ウィルがその姿を再び見ることはなかった。
歯を食い縛り、彼は駆けだした。
この世界に来てから度々思う。何故、自分はここまで残酷になれるのだろうか。
シャヴィと自分の考えが、結果的に同じ道を示していたからか。或いは、オーディンと名乗る男がどうも胡散臭く、気に入らなかったからか。
どちらとも、言い訳としては上等だ。それらがミサやニケの気持ちを考慮せず、強引に道を突っ走った理由になどなる筈もない。
いつの間にか、何者かが静かに横を歩いていた。
言葉を失った金髪の少女は彼に目を向けるでもなく、ただただ前を向き、足を動かしている。
森を抜け、月明かりに照らされた地面に足を下ろす。ぼうっと空を見上げていると、やがて背後から二つの足音が聞こえてきた。彼はそれに安堵することはなく、それどころか、心に確かな鈍い痛みが走るのを感じていた。
人とは、常に選択を迫られる生き物だ。
生きるということは、それ即ち何らかの決断を積み重ねるという事に他ならない。
その決断が如何に無謀か、若しくは残酷なことであろうとも、自らが選んだ道は、息が絶えるその日まで運命を動かし続けるのだ。
作者です。
この37話をもちまして、一部二章を完結と致します。
次話以降は幕間を二話ほど投稿した後、物語の舞台を三章に移そうと思います。
今後とも、ウィルやナズナ達の旅路を。
「蜃気楼の岬から」を宜しくお願い致します!
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二章完結を機に、僭越ながら皆さまにちょっとしたお願い事があります。
拙作を気に入っていただけたならば、ブックマークやページ下部の☆☆☆☆☆で評価して下さると嬉しいです。
当然、出過ぎた要望であることは承知しておりますが、皆さまの反応は作者にとっての宝です。
ご協力のほど、宜しくお願いします!




