29話 揺蕩う陽炎
(チッ......何が起こってンのかさっぱり分からん)
盗賊団頭領であるシャヴィ・ギークは突如上空に現れた巨大な魔法陣の下、様子が急変したローグリン公国騎士団長であった男の行動に対し、目角を立てていた。しかし男は相も変わらず呪詛めいたものを唱えるのみで、これといった行動に移る気配もない。
シャヴィは一瞬、それが何らかの魔法を発動する為の詠唱のようなもの、と勘繰った。ただ、相手の熟練した剣捌きから察するに、彼は騎士剣術に秀でていた武闘派。詠唱という手順は術式に比べて高度な魔法を発動しやすい分、魔法理論に関するより深い知識が必要なのだ。仮に彼が詠唱を扱えるほどの術師であったならば、シャヴィが放った魔法の効果にすぐさま気付き、何かしらの対処をした筈である。
よってシャヴィは、相手がぶつぶつと呟いているそれは魔法の詠唱ではなく、何かが原因で起こった洗脳によるものであると結論付けた。
(埒が明かねェな......あまり気は乗らんが、叩き切っちまうか。ンで、さっさとガトー達に合流しちまおう)
シャヴィは再び大剣を背負い、何故か未だに空を見つめている男の元へと歩み寄る。
本心では、自分の大切な仲間を大量に殺したこの男には、より多くの苦しみを味わわせたかった。しかし現在の彼の様子を見るに、正気などとっくに消え失せてしまっているに違いない。突如現れた魔法陣との関係性は不明であるが、このまま彼を放っておくのは危険であると本能が告げている故、シャヴィは自らの手で男の首を切ることにしたのだ。
ーー彼が歩み寄る途中、微かな物音が何処からか聞こえたような気がした。だが、所詮は思い過ごしであると考えたシャヴィは周囲に目を向けることなく歩みを進める。しかし次の瞬間、男の様子が再び急変した。
男の上半身が前へと傾く。そして黒い影を見に纏ったまま、その姿を消した。唐突な出来事に一瞬だけ反応が遅れたシャヴィは男の動きを目で追おうとするも、彼の動きがあまりにも速すぎたためか、気付いた時にはその姿は焼け焦げた瓦礫の奥に在ったのである。
凄まじいまでの瞬発力。シャヴィ程の強者でさえまるで一瞬で姿が消えたと錯覚するほどの移動速度は、先ほど剣を振るっていた時に見せた驚異的な敏捷性を遥かに凌駕していた。
「............ぁン?」
男は地面を見下ろすと、そこに向けて手を伸ばし始める。
(......何か気になるオモチャでも見つけたかよ?)
シャヴィは、男が取る怪しげな行動の真意を見定めるべく大剣の先端を地に下ろし、黙してそれを凝視する。そのわずか数秒後、瓦礫の奥で何かを見つけたらしい男はそのまま腕を勢いよく引き上げた。
男が拾い上げた何か。それは新しい武器でもなければ城内に隠された宝でもない、シャヴィの予想の遥か斜め上を行くものであった。
「..................」
男が片手で掴んでいるそれを見たシャヴィは、暫く開いた口が塞がらなかった。だが、それもその筈である。何故ならば、それは本来ならば現在ガトー達が向かっている盗賊団のアジトにあるはず......否、居るはずだからだ。
見覚えのあるそれに対し、シャヴィは冷ややかな目を向ける。
「お前、何がどうなってこんな所に居やがるンだよ」
「............いや、これはその......」
ーー話は、ほんの十数分前に遡る。
リッキーから、安全な場所へ避難するよう諭されたウィル。しかし、彼はどうもその気になれなかった。この国で起こっている異変に関する興味もあるが、つい先刻自分の弱さを思い知った彼には、このまま見て見ぬふりをして尻尾を巻くことなど甚だ耐え難い行為であった。よって、彼は二人の仲間たちに相談を持ちかける。
「みんな、どうする? リッキーの言う通りこのまま店主さんの所に戻るか、それともナズナを探しに行くか......」
二人の顔をまじまじと見つめる。
その言葉と表情から、ミサは一瞬で彼の本心を見抜いた。与えられたのは、進むか退くかの選択肢。それは即ち、彼の意思を汲むべきか否かの選択肢を迫られたことと同義。しかし彼女は迷う事なく見つめ返し、口を開いた。
「ごめん、ウチはリッキーに従う。ナズナを探したいのは分かるけど、そもそも町の中はこんな状況だし、歩き回るのは危険だよ......?」
「......違う、無駄に歩き回ろうとしてるわけじゃない。ナズナを連れ去ったあの人に、彼女の居場所を直接聞き出すんだ」
「............それやめた方が良くない? 見た感じ爆発を引き起こしている張本人じゃん。絶対やばいって」
ーー周囲に響き渡る、金属同士が激しく衝突し合う高音。ニケを含む三人は息を飲み、反射的に音が発生した場所へ目を向けた。
「............」
全身を豪勢な鎧で覆う騎士が、盗賊団の頭領に斬りかかっている。両者の動きは観戦者である三人の目では当然追うことが出来ず、彼らにとっては強者同士の激しい戦闘が繰り広げられている、という事が辛うじて理解できるのみであった。
崩れた壁に身を隠し、両者の戦いを見守ること数分。均衡を保っていると思われていた戦況は、次第に傾いてゆく。それも、ウィル達のような素人の目でも明確に分かるほどに。
騎士の俊敏な剣捌きが、頭領の体勢を僅かに崩す。迫り来る白銀の刃によって地面に叩きつけられた頭領は追撃を避けるべく、後方に跳んで大きく距離を取った。
劣勢に追い込まれ、息を整える頭領を目にしたウィルは、小声でそっと呟く。
「......シャヴィさん、押されてる。このまま攻め続けられたらまずいよな............」
ミサはそれを耳にするなり、彼の顔を横目で見つめ、彼と同じくそっと呟く。
「......そうっぽいね。ちょっと心配だけどウチらに出来ることは何もないし......やっぱり早くお店に戻ろうよ」
「............」
ミサの言葉を間近で耳にするも、ウィルは言葉を発することなく、先端を地面に下ろした大剣に体重を乗せ、肩で息をしている頭領の様子を見ていた。
彼女は何か嫌な事態を予感し、少年の顔を睨み付けながら声を発する。
「助けに行きたい、とか考えてる? そこまで馬鹿じゃないとは思いたいけど」
ミサが語調を強めるも、彼がそれに反応する様子は見られなかった。彼女は遂に見かねると、腰を上げてその場からゆっくりと離れ始める。
「ニケ、何してるの? さっさと行こ」
「え? あ......はい。ウィル、僕は先に行ってるかんね」
繰り広げられる激しい戦闘に圧倒され、終始茫然としていたニケは彼女に声を掛けられるなり、再び息を吹き返したかのように身体を動かし始めた。
「ヘヘッ、凄すぎて気付いたら涎が出ちまってたよ」
「......」
「ゴメン、何でもないです」
軽口を叩くニケと、それを全力で無視するミサ。微笑ましいはずの光景は、蛇口から流れ出た水のように、坦々と背後へと吸い込まれてゆくのであった。
ウィルは振り返り、二人の姿が淡い暗闇の向こうへと消えてゆく様子を確認すると、再び前を向き、睨み合う両者の元へと近づく決心をした。
ウィルとて、強者同士の戦いを呆けて観ていた訳ではない。戦闘能力という観点では、彼の実力は盗賊団の頭領や騎士には到底及ばないのは明白。それゆえ、仮に無策で両者の間へと割り込もうものならば戦いの巻き添えを食らう形で、瞬きもせぬ内に身を滅ぼすことになる。
彼は頭領からナズナの居場所を聞き出す為、今は援護を最優先に行動しなければならない。足を引っ張ることなど、断じてあってはならないのだ。
崩れた城の残骸に身を潜めながら、ウィルは自分が打てる最善手を探る。
(無闇に突っ込むのは論外。遠方から支援するにしても、魔素の扱いの基礎を覚えたばかりの俺に出来ることなんて殆ど......いや、全く無いか)
仲間の声から耳を塞ぎ、覚悟を決めてこの場に足を踏み入れたは良いものの、彼には自身が意図する結果に辿り着くだけの手段が備わっていないのである。彼は奥歯を噛みしめ、頭を抱えて蹲った。
(でも、必ずある筈だ。こんな俺でも劣勢である彼の助けとなれる方法が。じゃないと、ミサの言葉を無視し、蔑ろにした意味がなくなってしまう)
こわばる全身から力を抜き、長い呼吸を一つ。
思考を埋め尽くさんとする焦燥感を抑え、ウィルは周囲に目を向けた。それこそ、藁にもすがる思いで。
視界に映るは瓦礫の山々。莫大な破壊力と共に生み出された炎は城の残骸を欠片も残すまいと、勢いよく熱を放っている。燃焼によって生じた橙色の輝きが夜の暗闇を退け、その淡い広がりによってその場がぼんやりと照らされている。
堂々とそびえ立っていた城は今や見る影もなく、きっと後世に続いたであろう繁栄の道は閉ざされ、瓦礫の下敷きとなった無数の肉塊と共に埋まってしまった。
生々しい光景に吐き気を催したウィル。しかし、瓦礫と共に横たわる"物"に目を向けた瞬間、彼は何やら考え込んだ後、亜空間から短剣を取り出し、それに向かって急いで駆けていった。
彼はとある作業を終え、戦いを繰り広げていた男達に再び目を向ける。すると、気が付けばその戦況は一変していた。
地に膝をつく騎士と、それをつまらなそうに見下す赤髪の頭領。先程までは劣勢とばかり思われていた頭領は、ウィルが目を離している間に"何らかの方法"でその形勢を逆転させたようであった。
騎士に背を向け、その場を去ろうと歩み出した頭領。ウィルは一瞬だけ戸惑ったものの、援護に入る手間が省けただけと前向きに捉え、彼に声をかけるべく腰を上げようとした。
だがその刹那、彼は透き通る糸ような高音が自分の耳にそっと触れるのを感じ取る。激しい燃焼音が辺り一帯を覆う中、彼は思わず頭領から目を離し、音の発生源と思わしき方向に目をやった。
ーー巨大な炎の嵐によって城がその造形の大半を崩した中、辛うじて美しき外観を保ち続けている門塔が一つ。その頂上で、二つの影が微かに揺らめくのを目にした。
その数秒後、突然妖しげな光が影を包んだかと思えば、その光は暗闇の空へと向かって打ち出される。
「なっ............!?」
打ち出された光弾が上空にて弾け、直後、円状の何かが急速に膨れ上がった。
水平に膨張を続ける、霧の塊のようなそれは徐々に彼の視界を占領してゆき、遂には公国の空一帯をも覆い尽くすほどの大きさとなった。
ウィルは想像を絶する出来事を目の当たりにし、短く息を漏らす。また、現在上空を覆う謎物質の膨張に類似している現象を、彼はつい最近目にしたばかりであることに気が付いた。
それは今朝リッキーに教わった魔素の扱い方の一つであり、彼らがこの世界に降り立った夜、突如として窮地に陥った状況を打破するべくナズナが見せた超常的な力。
「............魔法陣?」
身体中が熱くなり、息が震える。
巨大な魔法陣という未知の存在がこの地を見下ろす様は、まるで支配者による人々への監視。
咄嗟にそのイメージを脳裏に浮かべた時、彼の身体は硬直し、頭の中に漂白剤を流し込まれたかの如く停止してしまった。
一瞬だけ、気を失っていたらしい。
疲労の蓄積によるものであろうか、倒れて気を失った少年は目を覚ますなり、自分を取り巻いている予期せぬ状況に思わず口をポカンと開けてしまった。
人間味を感じられない、錆びた金属のような手に背後から首を軽く掴まれたまま、高々と持ち上げられている。
そのような状態のウィルに対し、眼前で冷ややかな視線を送っている人物は、盗賊団の頭領であるシャヴィ・ギークその人。
「お前、何がどうなってこんな所に居やがるンだよ」
シャヴィは目を細め、気怠げに話しかける。彼のあからさまな苛立ちは、数メートル離れた地点に居るウィルにもヒリヒリと伝わってきた。状況が未だ飲み込めない少年は当然、曖昧な態度で言葉を返す。
「............いや、これはその......」
言葉が終わらぬうちに、掴まれていた少年の身体は静かに降ろされていた。
黒い人型の影はウィルに害を加えるどころか、目の前に居るシャヴィに対する警戒で手一杯であるように思われる。
(この黒いのは......魔獣か? まさか、この混乱に乗じて外から入り込んで来たのだろうか。何故俺に襲い掛からないのかは分からないけど)
黒い魔獣は、シャヴィに向けて人差し指を差す仕草をした。巨大な右手から生える指には、鋭く細長い鉤爪が剣のように真っ直ぐ伸びている。
一方、シャヴィはそれに臆することなく魔獣をじっと睨みつける。流石はリッキーの認める強者と言うべきか、未知なる魔獣と対峙する際は闇雲に斬りかからずに、冷静に状況を見極めて相手の出方を伺うようだ。
「ーーーー」
グルグルといった低い唸り声が、耳を震わせる。驚くべきことに、魔獣は何かを訴えるかのように言葉を発し始めたのだ。言葉には靄がかかっており、その内容自体は聞き取ることはできない。しかしその事実は、この魔獣には知性があるという事を示していた。ウィルは無意識のうちに後退り、シャヴィと同じく魔獣の動きを警戒する。
「あン? おれの知った事かよ。少なくとも、おれがお前と闘り合ってる時にはそのガキの気配なんざ感じなかったが」
シャヴィは大剣を片手で背負い、眉を顰めて言葉を発した。ウィルは思わず、シャヴィを凝視する。
あろうことか、彼は魔獣の言葉に対して返答をしてのけたのだ。信じ難いことだが、現状を見ればその解釈で間違いない。彼には魔獣の言葉が理解出来るが、ウィルにはそれが不可能である。
魔素に関する知識についてはシャヴィの方が圧倒的に勝るため、彼が魔獣と会話することが出来るという事実については、ウィルも受け入れざるを得なかった。
「ーーーー!」
魔獣が雄叫びを発しながら、鋭い鉤爪の先をシャヴィに向けつつ、一歩だけ片足を踏み出す。
対するシャヴィは目を細めたまま、大袈裟に口を開き、気怠げな態度を見せびらかした。
「おいおい騎士団長サンよォ、お前さっきから言ってることが更に謎めいてきたぞ? よく分からんが、話し合いをしてェなら取り敢えずその剣を腰に収めろや」
その発言を耳にするなり、再び心身共に硬直するウィル。
シャヴィは、この黒い影で覆われた魔獣を"騎士団長"と呼んだのである。しかし魔獣は、ウィルが意識を失う直前に目にした騎士とはやはり似ても似つかない。彼の話から察するに、シャヴィと剣を交えた相手は騎士団長であったに違いないが、ウィルが目にした騎士には巨大な鉤爪など生えておらず、このような禍々しい雰囲気を纏ってはいなかったのだ。
また、シャヴィの発言に反応した者はウィルだけではなかった。驚くことに、どうやら黒い魔獣までもが後退り、戸惑いを見せているのである。
(......どうなってるんだ? この黒い奴といい、俺が倒れてる間に何が起こったんだよ! シャヴィさんはシャヴィさんで、言ってることが滅茶苦茶だ。だって俺がさっき見た騎士団長は............)
ーー現状を取り巻く状況に困惑の色を浮かべるのは、シャヴィも同じであった。
平然を装い、この状況でさえ余裕のある対応を見せる彼であるが、内心はそう穏やかではない。
(おいおい、騎士団長サマは呪いに掛かったショックでどうかしちまったか? ガキを降ろすなり急にまた剣の先を向けてきたかと思えば、『一般人に危害を加えるな』だの『貴様とは初対面の筈だ』だのとほざきやがる。お前も割とノリノリで戦ってたくせに今更なんぞって感じだわ。それにあのガキ......)
シャヴィはしかめっ面で、自分に視線を送る少年を横目に見る。
(確かおれァ、ガキ三匹の処分はリッキーに任せた筈だ。甘っちょろいアイツの事だから、身ぐるみ剥いで野放しなんてこたなく、アジトに連れて適当に雑用をやらせたりするンだとは思った。だが事実、ガキの一匹はこうして目の前に......位置的にはローグリンの城内部に現れやがった。まァ、取り敢えず目の前で一丁前に剣構えてやがる死に損ないをぶっ叩いた後、ここに居るワケを詳らかに聞かせてもらうか)
赤髪の盗賊は行動の方針を定めると、自分に対してひっきりなしに殺意を向けている、黒い靄を纏った騎士団長の方向へゆっくりと歩み寄る。だがーー
「............!?」
突然上半身が前のめりに傾き、シャヴィは訳の分からぬまま大きく体勢を崩す。片足を前に出そうとするも、足元に横たわる透明な何かに躓き、咄嗟に突き出した左手を地面に打ちつけてしまった。
その身に降り掛かった予想外の出来事に彼は恥じる間もなく、不可解な転倒の原因を即座に探り始める。
(おれが、何もない場所でコケただァ? いやいや、リッキーじゃあるめェしあり得んだろ。となると、奴は何らかの魔法、或いは能力を発動しやがったのか。だが奴は剣を構えてはいるが放っている魔力は微弱。今もこれといって悪さを働く気配はないが......)
彼は足下の空間に意識を向けた。しかしいくら気配を探ろうとも、魔法が発動された痕跡は無い。魔素探知に痺れを切らした彼は額にしわを寄せながらも、とある可能性を脳裏に浮かべ、今度は何も無い筈の空間に触れようと試みる。
ーーその瞬間、彼は驚愕のあまり息を呑んだ。
頭領の背後にゆっくりと忍び寄る、黒き影。だが、当のシャヴィはそれに気付くことなく、何も無い筈の足下の空間に意識を傾けている。
シャヴィが躓き、その不可解な事象の原因をさぐるべく黒き魔獣への警戒を解いた途端、魔獣は彼の背を目掛け、ゆっくりと歩み始める。
ウィルにとっては、シャヴィの取る行動こそがあまりにも不可解であった。突然の転倒が不自然であったわけではない。
寧ろ、"何故、彼は自分が転倒した原因を探っているのか"という事がどうも不思議に思えて仕方がないのである。
シャヴィにじわじわと接近する魔獣は、その黒く鋭い鉤爪の先端を、夜空に高らかと向ける。警戒を解き、隙だらけである彼の背中を垂直に引き裂くつもりに違いない。その一方、彼は何故か足元に存在する物体に夢中で、魔獣の接近に気付く様子はない。
(このままだと、油断しているシャヴィさんは魔獣の爪に引き裂かれてしまう。............俺が、それをなんとかするない。振り下ろされる爪の一撃を防ぐ必要があるけど、大丈夫だ。それを実行するだけの備えはある......!)
魔獣の足が止まる。小刻みに震えるその鉤爪には、黒い靄がより一層纏わり付いてゆく。
ウィルは脚部全体に意識を集中させ、体内魔素の動きを観測した。彼は魔素の放出を保ち続けることを得手としないゆえ、シャヴィと黒き魔獣の間に割り込むには、先の平野で猪に似た魔獣を仕留めた時の如く脚に魔素を集中させ、魔力の爆発的な瞬間放出によって無理矢理身体を向かわせるしかない。
しかし、その場合問題となるのはブレーキだ。
爆発的な速度で移動する身体を、望んだ位置で止めることは困難である。目標とする位置までの距離を考慮して初速度を調整するならば良いが、その場合はウィルの身体が二人の居る位置に届く前にシャヴィが斬られてしまう。
何より前提として、初速度を調整するだけの技術が彼にはない。
目標とする位置に着いた瞬間、手の平から前方下部に魔力を放ち、それを反発力とするーーいわゆる急ブレーキをかけるといった手段も存在する。しかし、魔素の扱いを覚えたばかりの彼にはそれを行うだけの動体視力がなく、また魔素の出力場を脚から腕へと瞬時に切り替えるには、相応の訓練を経る必要があった。
よって彼が魔獣の一撃からシャヴィを守る事は、非常に困難である。
それを理解している少年は十メートル程離れた距離に居る二人を見据え、精神の底へと意識を向けた。
命運を分けるは、黒き魔獣の鉤爪から魔力が放出される一瞬の間。
黒き影は今、赤髪の盗賊の背中を見据え、殺意の刃を振り下ろす。




