02話 脱出/逆行
「え......」
ウィルの口から発せられた困惑の声。
それに反応し、ニケとミサは校門の方に目を向ける。
「ひぇっ」
「......!?」
短い悲鳴と共に尻餅をつくニケと、目を見開き、怯えた表情で呆然と立ち尽くすミサ。
ウィルは急いで逃走を図ろうとするも、小刻みに震える身体には思うように力が入らない。
(だめだ、このままじゃ......!)
三人を見つめるおぞましい異形。
焦燥感から流れる大量の冷や汗。徐々に早まる心臓の鼓動。動けと命ずるも、ただ震えるだけの四肢。
「d8k/ei9l,b;Imiwd94tykg”dg6bu49」
「b;9l<d(k/ei9.d)4tykg@dgfd@/.9」
異形が、唐突に呪詛めいたものを唱える。複数の腕は異形の中心部を取り囲むように配置され、それぞれがくるくると愉しげに回りだす。
気味の悪い光景を前に、三人は咄嗟に予感した。
それは、心が濡れ雑巾の如く絞り出されるような強烈な憂懼。
ーー何者にも侵されなかった日々が、崩れ落ちる情景を。
呼吸が乱れ、襲い掛かる恐怖から逃れるべく目を逸らすウィル。しかし、異変は決して彼を逃すことはない。
「......ッ......がぁ、っ............!!」
意識が何かに吸い寄せられるかのように朦朧とする。それとほぼ同時に暗転する周囲の光景。
もはや立つことすらままならなくなり、ウィルは身体のバランスを崩して前のめりに倒れ込む。視界は完全にぼやけ、地面に打ちつけた全身の痛みすら朧げになる。辛うじて知覚できるのは、脳内を駆け巡る甲高い耳鳴りのみ。
体は徐々に冷えてゆく。意識は消え入り、ウィルは眠るように目蓋を閉じた。
*****
小鳥の囀りが聞こえる。穏やかな陽気に包まれるなか、時折吹く風が若葉の匂いを運び、そこに住まう全てのものに生命の息吹を感じさせる。
気付けば、石畳の上で寝ていた。目蓋を擦り、ぼんやりとした頭と重たい上半身をどうにか持ち上げ、周囲を見回す。
「ここは......」
次第に意識を覆う霧が晴れ、鮮明になる。
最初に目にしたのは、生い茂る木々。ふと見上げると、無数の枝葉の間から太陽の光が差し込む光景が映り込む。
次に、粗雑に並べられている石碑のような物体の数々。同時に、自分の居る空間が校門の前でなく、濃い緑色に囲まれた何処かの遺跡のような場所であると気付いた。
そして、背後に目を向ける。すると......
「う、うわぁっ!?」
情けない声と共に、思わず尻餅をついてしまう少年。
そこには石畳の上にて両足を外側に開きながら座る、見慣れない少女がいた。
両目を閉じ指を組むその姿は、まるで何かに祈りを捧げているよう。腰まで届く長い金髪は陽に当てられて輝いており、その外見はどこか神々しいものを感じさせた。
しかし纏う衣服はボロボロで、透き通るような白い肌には所々に擦り傷があり、すすが付着している。また少女の周囲には、赤い硝子の欠片のような物が幾つか散らばっていた。
ウィルは恐る恐る少女に近づき、じっと顔を見つめる。
「生きてる......よな?」
少女は浅い呼吸を繰り返している。彼女に息があることを確認し、ウィルはひとまず安堵した。
(それにしても、ここは一体どこなんだ? こんな場所、学校の近くにあっただろうか......)
立ち上がり、再び周辺を見回す。木々に囲まれた、学校の体育館ほどの広さの空間。そして、あちらこちらに散らばる石碑のようなもの。このような場所が街にあることなど聞いたためしがなく、考えれば考えるほど更なる混乱に陥る。
「駄目だ。そもそもなんで自分がこの場所に居るのか全くわからん......」
理解不能な状況に耐え切れず、思わず独り言を発してしまった。すると、彼の言葉に反応したかのように、「んん......」といった、か細い声が聞こえた。
ウィルは即座に声がした方向を向く。
ーー大きなあくびをし、片方の目蓋を擦りながら碧色の瞳でこちらを見つめる少女。
寝起きのような呆けた表情だが、その端麗な顔立ちと繊細な体つきから、貧相な格好など一向に気にならないほどの気品を放っている。
ウィルはその光景に一瞬目を奪われるものの、すぐさま閃いた。この少女ならば、この場についての知識を持ち合わせているのではないかと。さすれば、善は急げだ。彼は少女に、躊躇うことなく声をかけ始めた。
「あの、突然ごめん。ここはどういった場所なのかな......? えっと......もし良ければ教えて欲しい」
ウィルは少女の肩に目を向け、何気なさを装って問う。だが、少女は首を横に傾け......
「......?」
「え? えっと......だから、その......」
「......」
少女は姿勢を前のめりにし、顔を近づけてきた。しかし、あろうことかウィルの言葉への反応を全く見せず、彼の瞳をじっと凝視するのみ。
(え......?)
刻々と、時が経過する。
どういうわけかそのまま石のように硬直してしまった少女の様子には流石に恐怖を禁じ得ず、彼は更なる混乱へとより深く陥ってしまった。
(まさか......言葉が通じない!? いや、あり得ない。そんな筈あるものか。というか、頼むから何か反応してくれ。こっちは分からない事だらけで頭がおかしくなりそうなんだ)
少年の精神は、既に半壊していた。
見慣れぬ場所に、瞬き一つせずに固まる謎の少女。恐怖半分苛立ち半分という、腑抜けた感情に手綱を握られるのは時間の問題だ。
もしこのまま不安を煽られ続ければ、見知らぬ少女の手前、ひとりでに泣き顔を晒すという痴態を双方の記憶に刻みかねない。
決してそのような事は認めまいと、無心になる。
物事を考えるが故に未知が深まり、口にするが故に恐怖が増す。理性を保つための策としては悪くない。だが、それも長くは続かなかった。
次第に眼球が潤い、歪み始める表情。もう自力では止められないと悟った。
「あの! 私たち、何処かで会ったことありませんか?」
「う、うおぉっ!! びっくりした!」
不意に、少年の瞳を覗き込みながら声を発する金髪の少女。あまりの唐突さに、メンタルが極限状態にあった少年は腰を抜かしてしまった。
突然、激しい頭痛がウィルを襲う。
今までの疲れによるものだろうか、或いは少女の突拍子の無い言葉によるものかは定かではない。だがいずれにせよ、幸か不幸かその鈍い痛みによって、パニック状態に陥っていた彼は少なからず冷静さを取り戻すことができた。
「あれ、起きてるじゃん。おーい」
「え、マジ? どれどれ......ホントだぁ!!」
背後から声が響き渡る。
振り向くと、制服姿の薄桜色の髪の少女と、同じく制服姿の小柄な少年が歩いて来る様子が確認できた。少女の声はやる気の無さそうな低めのトーンだが、少年の姿はそれとは真逆だ。
見知った顔を目にした途端、ウィルは安堵するあまり全身が脱力感に襲われるのであった。