Temperance
もうずっと長い間、生きるのがツラかった。
信用できる人もいないし、お金もないし、人より得意なこともないし、楽しいことなんて何もない人生。人の不幸話や良くない噂に耳を傾け「自分の方がまだマシだ」と、ニセモノの自己肯定感で心のバランスを保っていた。だから幸せそうな人を見ると妬んで粗探しをして、そのすべてを否定するような言葉を吐く。そしてそんな自分に嫌気が差す。
悪循環を繰り返す日々から抜け出したくて、いろいろな方法を調べて試してみたこともあるが、どれも思ったような結果は出なかった。
そして気づけば、樹海の真ん中にいた。
楽しくない日々に嫌なことばかりが積み重なったある日、急にプツンと糸が切れたように、もう何もかも嫌になったのだ。
スマホも圏外で、今どこにいるのかも分からない。ここに着いたときより自分の影も長くなってきて、いよいよ終わりの時が近づいてきているのだと、どこか他人事のように感じていた。
自分が踏んだ枝がパキッと大きな音を立てた瞬間、カラスたちがけたたましい鳴き声を発しながらどこかへ飛び去って行く。それは偶然のことなのだろうが、カラスにさえ見放された気持ちになり、いよいよ一人ぼっちになってしまったような気がした。そのとき、
「ねぇ」
ふいに男性とも女性とも取れるような声が聞こえた。自分以外の自殺志願者でもいるのかと辺りを見回してみるが、どこにも人の姿はなかった。気のせい……そう思い、再び足を進めようとすると、
「ねぇ。聞こえてるでしょ」
また声が聞こえた。しかもさっきより近い場所から。
声が近くなったことで、なんとなく声の聞こえた方向が把握できた。恐る恐る自分の右側に目を向けると少し離れた木の横にフードを深く被った人が立っていた。驚いて思わず「うわぁ!」と声を上げると、
「キミは死ににきてるんだから、このくらい怖がる必要ないでしょ」
そう言ってクスクスと笑いながら近づいてきた。
「……あなたも、そうじゃないんですか?」
この人の目的が分からず、警戒しながら尋ねると、
「それに対しての答えはNOだね…………キミは、本当に死にたいの? そもそも、こんな普通の人間を怖がってるようじゃ、無理だと思うんだけど」
「そのためにここに来てるんです。っていうか、こんなところにいる時点で、あなた普通の人間ではないと思うんですが」
「まぁ、それはお互い様だよね。だからさ……ちょっと遊びに付き合ってよ」
「悪いけど、そんな時間――――――」
ないから放っておいて。と、言い切る前に目の前に二枚のカードが差し出された。
「どっちか選んで」
口元だけしか見えないが、そこから感じる有無を言わせないような雰囲気に飲まれ、
「…………こっち」
右側のカードを指した。その瞬間、フードから覗く口元が綺麗に弧を描き、選んだカードを裏返して見せる。逆さまになっていて見えづらいが、よく見ると角の生えた化け物のような絵と、英語でDEVILという文字が書かれているのが見えた。
「悪魔。ちなみにこっちは、死神」
左側のカードは逆さまではなく、目の前にいる人と同じようなフードを被った骸骨の絵が描かれていた。
「どっちも良くないカードだな……今から死のうとしてる奴に、いいカードなんて出るわけないか」
「そうでもないよ。タロットカードの意味で取るなら、悪魔の逆位置は……望ましい変化。はい、これ」
悪魔のカードを差し出され、なんとなく受け取った。
「これ、一枚欠けたらタロットカードとして使えないんじゃ……」
「一枚欠けたら……ね。それ、人間にも当てはまるの知ってる?」
「は?」
「人間って、別に有名人とか偉業を成し遂げるような人だけじゃなく、全員もれなくちゃんと役割りや使命があって地球にいるんだよ。だからまだ役割りの残った人間が一人でも欠けると、どんどんバランスが崩れいく」
「自分に役割りなんてあると思えないし……代わりなんていくらでもいる」
自分が居なくても世界は回るし、職場にも変わりはいるし、どうせすぐに忘れられていく。自分のいた環境を思い出して、どんよりした気持ちになった。
「よく聞く偽善的な言葉に聞こえるかもしれないけど、本当にキミの代わりなんていないんだよ。これはイメージの話だけど、魂は元々のルーツを辿ればみんな一つの大きな塊から生み出されていて、天命を全うしたらまたその塊の中に戻って転生する。その中で……魂レベルで縁があって、生まれ変わってからこの地球で再会を約束をしている人がいるんだけど、自殺者が増えるイコール待ち人に会えない人が増えるってことは、生きながらにして行き場を無くす人が増えることでもある。そして残された人の運命が変わって行く。つまりキミが居なくなったらキミと縁が深い人たちの運命も、変えてしまうかもしれないってことだよ」
「……だから、生きろなんて言われたって…………」
「うん。ここに来てるってことはツラくて限界なんだろうし、無理に生きろなんて言わないよ。でも、自分で終わらせるなら、望まない現実を頑張って生き抜いた昨日……いや、一秒前の自分をちゃんと褒めてあげてね。ってことでそれ、冥途の土産にキミにあげるよ」
最後に目に映ったのは、綺麗な紫色の双眼と、逆さまの悪魔――――
ハッと目が覚めると、昇り始めた太陽の光が目に染みた。樹海の真ん中で、いつの間にか眠ってしまったようだ。長い夢でも見ていたのかと思ったが、自分の手に握られた逆さまの悪魔を見て、夢だと思っていた出来事は現実だったのだと確信した。しかしすでに、フードを被った人の姿は見当たらなかった。
一晩寝たら、何かが変わるわけじゃない。それでも逆さまの悪魔のカードを見ていると、不思議と穏やかな気持ちになってきて、また少しだけがんばれそうな気がした。
フードを被った怪しい人を無視せず、このカードを選び取ったおかげで、今ここにいる。だからとりあえず、このカードを返すまでは生きてみよう。
そう心に決めて、立ち上がった。