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レイ・九曜・クジャーの祈り


 私は幼い頃からいつも頭の中で誰かが叫んでいた。

 声は聞こえない。言葉も分からない。

 けれども確かに誰かがワンワンと叫んでいるような、目眩にも似た騒々しい感覚があり、酷い時には割れるような頭痛を伴った。

 そのせいで寝込みがちで、父も母もずっと私を失敗作だと思っていただろう。

 いつも誰も見舞いには来なかった。朝晩二回、執事が手ぬぐいを換えてくれるだけで。


 ただ、叫びが私の頭のどこから来ているのかは分からなかったが、意味することだけは不思議に分かった。


 警告だ。


 その叫びは私がアルヴィンと仲を深めることに強い警告を発していた。

 意図が分からなかった。なぜ将来の結婚相手と仲良くしてはいけないのか。


 ひょっとしたらアルヴィンと結婚したら何か良くないことがあるのかも知れない、と考えたこともある。

 だが、出来の良い兄や姉は戦争や流行病で死に、父と母も老齢だった。

 私の他には年の離れた弟が一人だけ。

 すぐにでも力のある家に嫁がねばならなかった。アルヴィンは申し分の相手と言えた。


「あやつらが生きておればな……レイ、殿下に失礼の無いようにな」


 …はい。お父様。


「レイなんですかその格好は。昨日も一人で森へ行くだなんて」


 でも、お母様。魔法の練習を


「口答えするんじゃありません!貴方が幾ら練習したところで…っ!

 ああ…どうして?どうして死んでしまったの? うっ…ううっ……」


 …お母様。


 私は、結婚しなければならなかった。

 それしかなかった。家にも。私にも……


◆◇◆


 入学試験当日の朝、生涯最大の雷鳴のような頭痛が私を襲った。

 学院傍の別荘でなければ、とても試験会場まで体力が保たなかっただろう。同じ受験生達がメイドやエスコートの騎士を伴って素通りしていく中、私は一人這うようにして学院へ辿り着いた。公爵家の威厳も何もあった物では無かった。


 そこに彼がいた。


 率直に言って、我が目を疑った。遂に白昼夢を見たかとすら思った。


 新興都市の家柄も無い形ばかりの騎士であろうその男は、あろう事か堂々とホールの隅でサボタージュを決め込んでいたのだ。

 しかも何故か、誰一人それを咎めない……と言うよりも、路傍の石の如く気を止めなかった。

 名ばかりの貧しい騎士が買えるとは到底思えない高価なチーズやドライフルーツを…まさか、この学院の厨房からくすねたのか?…むしゃむしゃと頬張る姿は不貞不貞しいを通り越して不気味ですらあった。


 だが、私の中にわき上がった感情は呆れや恐怖などでは無く、怒りだった。燃えるような怒り。


 このような不届き者がいることへの怒り。誰も正さないことへの怒り。

 父にも母にも省みられぬ我が身の不甲斐なさへの怒り。

 アルヴィンとの婚姻で周囲の気を引こうと考える我が身のさもしさへの怒り。

 怒り。怒り。怒りが私に充ち満ちた。


 気付けば私は彼にエスコートをさせていた。


 いつの間にやら怒りに任せて彼の頬を何度か張っていたらしく、赤く晴れた頬をしきりにさすっている情けない顔が、昔可愛がっていた犬のムクを思い出させて何だかおかしかった。

 その時の私は何故か酩酊したように饒舌で、如何に公爵家が偉大か、アルヴィンが素晴らしい男かなど、今まで誰にも話したことの無いようなことを延々と彼に語って聞かせていた。


 その後に起きたらしいことはよく覚えていない。


 曖昧に思い出せるのは顔をぐしゃぐしゃに濡らして椅子に座り込んでいた所からだ。

 もう何もかも無くしたのだ、もうなるようになってしまえ、というような、ある種の諦観に近い状態にあった。

 だが、その時の彼の言葉と顔だけは今もはっきりと思い出せる。


「美人は泣き顔も綺麗……って、よく聞きますよね。だからビックリするほどブス」


 私は彼が持ってきてくれた水を受け取り、グラスごと顔面に投げつけた。

 オギャアと悲鳴を上げて転げ回る尻を蹴っ飛ばし、立ち上がって婚約者を見据えた。

 頭の中は再び火箸でかき回されたような熱で満たされている。

 嘘のように視界の何もかもが鮮明で、炎のように煌めいていた。

 辺りで囁かれる嘲笑も、こちらを気遣うようなアルヴィンの動揺も、傍らの少女の怯えも、周囲の者達の瞬きすら聞こえそうなほど、一切がクリアだった。


 アル。試験は二人ひと組ずつ行われるそうだね。

 貴方はこのまま彼女をエスコートしてあげるといい。


「いや…レイ。しかし」


 私なら心配ご無用。

 こちらの騎士殿がこのままエスコートしてくれるそうだからね。


◆◇◆


 地下迷宮での入学試験は今でも在り在りと思い出せる。

 初めて歩く迷宮の石畳の感触、石壁の滑らかでひんやりとした手触り。蛍火の魔力灯から浮かび上がる今も色褪せぬ太古の壁画、満月の夜の森で嗅いだような甘く重い匂い。

 彼が事あるごとに溢す滑稽な愚痴の一つ一つ、前に立たれると思っていたよりもずっと広く大きな背中、アルヴィン以外に初めて握った手のざらりと固い感触。


 完全にアルヴィンへの当てこすりでエスコートさせた彼は、全くもって役不足だった。

 常に先へ進みたがり、その癖しょっちゅう弱音を吐いて休憩を主張し、その都度食べきれないと言ってチーズやドライフルーツを私に押し付けた。

 本当に役不足な男だった。


 学院の誰もが私が自棄になったと思ったはずだ。実際、そうだったと思う。

 だから私と彼が試験をトップで通過し、あまつさえ禁呪を見つけてしまうなど誰にも想像出来なかっただろう。


 朽ちかけてなお威厳を失わない、美しい神殿だった。

 隠された神殿の祭壇に手をかざすと、最も古い魔法の一つが私の中へ流れ込んできた。

 その恍惚は素晴らしかった。私はこのために生まれたのだと錯覚するほどに。


 しかし、もっと素晴らしいものがその先に待っていた。


「やりましたね。何をやったのか全然分からんすけど。とにかくやりましたね。

 貴方はこれから何だってできる」


 そうだ。きっとお父様もお母様も、アルだって――



「あなたは何処にだって行ける」



 その一言が。

 突然私の中の何かを吹き飛ばした。



 何処にでも行ける?何処にでも?

 いや……何でも?できる?



 そのたった一言で。

 私は今『自由』なのだと、唐突に理解した。


 何と言えばいいのだろう。

 前触れもなく突風が濃霧を掻き消し、遥か先の地平線が見えたかのような、そんな感覚。

 『蒙を啓かれる』とは、ああいった瞬間を指すのだろうか。


 私は今、自由だった。

 いや本当はもっとずっと前から私は自由だったのだ。


 ああ。何ということだろう。


「うわぁ!ビックリさせんで下さいよ。笑うともう、美人の中の美人って感じっすね」


 いつからか叫び声が消えていたことに、その時やっと気づいたのだった。



◆◇◆



 入学試験を終えてすぐ、私はアルヴィンに婚約破棄を申し出た。

 学院と両親を交えたゴタゴタがしばらく続いたが、何も恐ろしくはなかった。例え思い通りにならずとも私はやりたいことを選べるのだから。


 それまでしようとも思わなかったことを色々とやってみた。

 友達を作ること、好きなお洒落をすること、休日に買い物に出かけること、気に入った小物を部屋に飾ること。


 けれども初めてのことばかりで上手くいかないことも多かった。そんな時は彼の真似をすることにした。

 いつも穏やかに笑えること。人に興味を持ってよく知ろうとすること。さり気なく皆の手助けをすること。


 休戦期が終わって彼は忙しくなり、あまり会えなくなってしまってけれど、いつも私を影で支えてくれた。

 何でもない時はどこを探しても捕まらないのに、辛い時に窓を開けると必ず彼がいて、黙って頷きながらいつまでも私の話を聞いてくれた。


 彼は『話を聞くぐらいしかできねえっすから』なんてお道化ているけれど、影からずっと私を守ってくれていることを私は知っている。

 けれども彼はそ知らぬふりをしていて、しかもそれが私にバレていないと思っている。そこがどうにもおかしくって、かわいい。


 ただ私はちょっぴり悔しかった。

 彼からもらうばかりで何一つ返せないどころか、その機会すら彼は作ってくれないことに、少なからず幼いプライドを刺激された。


 だからある日、私はちょっとした意趣返しの意味も込めて彼の部屋に忍び込んだ。

 そこに置かれていた鎧に魔法をかけたのだ。


 隠されていた太古の禁呪。最も古い原始の魔法。

 それは『祈りの魔法』。

 誰かの無事を願う、ただそれだけの魔法。けれど最古にして最強の魔法。


 私は今も祈り続けている。

 彼が出て行った窓の外へ向けて、彼の無事を祈り続けている。


 何故なら私だけが知っているから。


 勇者よ、英雄よと称えられる彼の血の滲むような努力を。

 おどけた仮面の裏に隠した繊細さを。

 そして、痛いほどの優しさを。


 それを私だけが知っているのだから。


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