第75話(1185年4月) 壇ノ浦の戦い②・平家の誤算
(源氏水軍・河野通信視点)
甲板では、ずぶ濡れの伊勢義盛が義経と静御前の前でひざまずいていた。
河野通信はこの大男がただの武者ではなく、義経の私的外交官であることを知っている。河野も伊勢義盛に説得されて義経への協力を決めた男の一人だったからだ。
「御大将、時忠様と会えました」
「でかした、義盛! して、天皇と神器の場所は!」
「敵左翼(山陽道側の海)の奥深く」
河野は合点がいった。
――囮を知っていたのは内通者がいたからか。それも平家のお偉いさんとは。
「よし! 通信、すぐ敵左翼に攻撃を集中させろ!」
「梶原殿への援軍は?」
「送らぬ! 敵左翼に圧力をかければ敵も動く。景時に軍才があれば生き残ることもできよう」
――それまで、梶原殿が持てば良いが……。
河野は義経の言う通り、水軍に指示を出した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
(出雲大社水軍・貴一視点)
「よく戻ってきた、熊若」
貴一が乗る大型蒸気船の甲板でも、熊若が天皇と神器の場所を報告していた。
「伊勢殿らしき男の姿を見ました。おそらく義経様にも伝えているかと」
「だろうね。時忠様は二枚舌外交が得意だから」
「義経様と会った場合、どうなされますか?」
「鬼一流兵法でひらりと躱すさ――ふふふ、すでに俺は水軍の思い込みを見つけている」
戦わないとわかると、熊若はほっとした顔を見せた。
「でも法眼様、もし義経様も水軍の思い込みを見つけたとしたら――」
「――うん、アイツならありえる。対応できるようにしておこう」
貴一は水軍の隊列を組み直させると、平家の左翼後方に船団を待機させた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
(平家水軍・総大将平知盛視点)
平家棟梁である平宗盛は軍の指揮を採っておらず、弟の平知盛が大将軍として指揮をしていた。狭い海域に囮の船でおびき寄せて、鶴翼の陣で迎え撃つ。この戦略は半ば成功していた。しかし、あるときから敵の攻撃が左翼に集中していることに知盛は気づいた。
――偶然か? それとも……。
知盛は平教経を呼んだ。源平争乱の中で頭角を現した一門の猛将である。
「左翼が押されている。義経がいるかもしれん。そなたが行って支えるのだ」
「心得た! 景時こどき首では物足りぬと思っていたところだ!」
教経は嬉々として小早船に飛び乗ると、左翼に向かった。
知盛は水軍に命令を下す。
「敵が左翼を押すのならこちらは右翼を押し出し包囲する。中央の兵力を右翼に回せ!」
源平両軍が合わせ鏡のようにお互いの左翼に攻撃を集中する形になった。
――これで形は同じ。操船の腕はこちらが上だ。充分勝てる。
知盛の読み通り、はじめは平家が優勢に見えた。しかし、しばらくすると右翼・左翼ともに押され始めた。右翼からの伝令が知盛に元にくる。
「右翼が反包囲されました!」
「押し出しているのはこちらのはず! 左翼の間違いではないのか」
「陸にいた和田義盛軍が馬を海に乗り入れて遠矢を浴びせてきました。予想していなかったため、右翼が混乱を……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(源氏軍・和田義盛視点)
源範頼軍に配されて、ふてくされていた和田義盛だったが、敵が海岸近くまで来るのを見ると大はしゃぎで味方を鼓舞した。
「わしは運が良い。敵船がこちら側に集まってきた。皆、弓を思い切り引き絞り、遠くに放て! 馬が溺れそうになるまで海に乗り入れよ! これが最後の戦いだ、矢をすべて使い切れ!」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(平家水軍・大将軍・平知盛視点)
「陸からとは……。狭い海域で船数の差を補うつもりが仇となったか……」
続いて左翼からの伝令がきた。目に悔し涙をためている。
「源氏は汚いやつらです! 操船の腕で負けているのを知って、水夫を攻撃し始めました」
「なんだと! 源氏が卑怯だとは知ってはいたが、そうまでして勝ちたいか!」
知盛は咆哮すると、怒りのあまり、見開いた目から血涙が流れた。
だが、同時に平家の敗北を予感した。
側近も戦の不利を感じたのだろう。知盛に進言する。
「退却して、後日、恨みを晴らしましょう!」
知盛は静かに首を振った。
――もう我らには、逃げる場所は無いのだ……。
全軍に敵右翼への総攻撃を命じると、知盛は自らも小早船に乗って左翼へ向かった。
――源氏に汚さたくはない。後始末は自らの手で……。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(源氏水軍・源義経視点)
河野通信の制止を振り切って、大将船から右翼へ移った義経は自分の戦術に満足していた。
――水夫を殺すなど、河野通信がいたら止めたに違いない。私とて馬を殺す戦術はためらう。しかし、ためらいもまた思い込みなのだ。
櫓を漕ぐ非戦闘員は水軍にとっては馬と同じく大切だ。だから敵味方とも水夫を殺すという発想は無い。だからこそ、義経の水夫狙い撃ちは効いた。平家水軍の水夫は恐怖で櫓を捨てて海へ飛び込み、その結果、操船の腕で劣っていたはずの源氏水軍の機動力が上になった。
――あの船だな。間違いない。
義経は左翼の中にある大船を見て思った。ひと際大きな青色が揺らめいている。不利な戦況に天皇付の女官が嘆き悲しんでいるのだろう。同時に濃い赤色も見えた。
「平宗盛がいる御座船の前に一人、手ごわい敵がいる」
義経は側にいる静御前と伊勢義盛に言った。
静御前が烏帽子を取って応える。
「義経様、兜をお貸しいただけますか?」
「何をするつもりだ」
「静が義経様に成り代わります」
静御前は兜を受け取るとヒラリと、小早船に飛び乗った。




