第2話(1172年3月) 匿名投票
鞍馬山から京までの道中。
「なんか悪いね、付き合ってもらって。名前は?」
「熊若と申します」
貴一は熊若と名乗る少年に、京までの道案内をさせていた。
熊若は貴一を怖れぬばかりか、案内するので連れて行ってほしいと志願してきたのだ。
「寺に戻ってから、叱られたりしない?」
「もう戻りたくはありません! 何でもします! いっしょにいさせてください!」
「俺はありがたいけどさ。寺で嫌な事でもあったの?」
「私を抱こうとする僧がいるのです。男に抱かれるのは嫌です!」
「そうかー。でもLGBTを嫌っちゃいかんぞ。そもそも性というものだな――はっ! ごめん、ごめん。それ以前に子供を抱こうとする奴はアウトだよね。熊若は年はいくつ?」
「10歳です。寺が嫌いな理由は他にもあります。いじめられるのです」
「いじめは良くないね。理由は何なの?」
「私が蝦夷の子だからです。蝦夷は北に住んでいる狩猟民族です。寒いところにいるせいか、和人と比べると体毛が多く、『毛人』とからかわれるのです」
「見た目の悪口なんて最悪だな。今も蝦夷は差別されているのか?」
貴一の正義感がムクムクと大きくなる。
「どうでしょう。幼い時に奥州を出てきたのでわかりません」
「よし分かった。安心しろ! 熊若は俺が守ってやる」
「剣術も教えてくれますか?」
熊若が目を輝かせて見てくる。
「うーん。自分の身を守れる程度ならな。大きな力は争いを誘う。そもそも戦争というものは――」
「ありがとうございます! よーし、強くなるぞ!」
――後半の言葉は聞いていないね。まだ子供だ。そのうち分かればいいさ。
「なあ、熊若は子供たちの中でも賢いほうなんだよね? 俺のことで知っていることを言ってみてくれないか?」
「中国の兵法書がすべて頭に入っていて、剣の達人です」
「他にはないか」
「……ありますが、きっと悪い噂です。気になさることはないでしょう」
「いいから、言ってみろ。怒らないから」
「陰陽師の家に生まれたのに天文を見ず、兵法書ばかりを見ていて陰陽寮から追放された。保元・平治の乱で応援したほうが必ず負ける疫病神。それに――」
「もういい! もういい! 悪口はネットだけで十分だ」
――くそっ、チートキャラに転生したんじゃ無かったのかよ。変な奴で嫌われ者じゃん。しかし、俺は陰陽師のやつらと因縁があるらしいが、どうも思い出せない。
「法眼様、先に興福寺まで足を延ばしませんか? 強訴、法眼様の言うデモが起こるとの噂です」
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三日後、貴一たちは大和国(奈良)に入り、興福寺の広い境内に行くと、大勢の僧兵が集まっていた。貴一は熊若の支持で顔を布で覆っている。
「それにしても凄い数だ。3000人ぐらいいるんじゃない? 皆、布で顔を隠しているけど、一段高いところにいる僧たちは覆面をしていないね。あれは何でなの?」
「興福寺の高僧たちです。発議の内容を説明する役ですが、すでに終わっているようです」
広場から声が上がり始める。
「尤も尤も!」
「謂れ無し!」
「これは何? なんで、みんな変な声で叫んでいるの」
「発議に対して賛否を表しているのです。声を変えているのは覆面と同じく、誰か分からないようにするためです。これなら、高僧たちに対して反対意見を言っても、後で処分されることはありません。覆面の僧たちは寺での位は低いのです」
「へー、匿名による直接投票ってことね! やるじゃん! 興福寺」
「尤もの声が多かったですね。すぐに動きますよ」
高僧が強訴を行うことを宣言すると、興福寺全体がざわめきだした」
「急ぎましょう。遅れると興福寺の大衆たちで道が通れなくなります」
貴一はうなずくと、急いで京への道を先回りした。
――しかし、何なのだ、この身体。どれだけ歩こうとも疲れが全く出ない。鍛えすぎだろ! 呼吸の仕方もなんか変だし。なんか波紋でも使えそう。
熊若も子供なのに頑張ってついてきている。背負ってやると何度言っても聞かないのだ。
「しかし、凄い数だったな。あれだけの坊主。どうやって食っているのだろう?」
「法眼様は本当に記憶が無いのですね。興福寺は大和国まるまる寺の所領なのですよ。数千人程度は簡単に養えます」
「えっ、そうなの! 寺が国一個持ってるって、凄くない!」
「名門藤原氏の氏寺ですからね。叡山(延暦寺)も同じくらい所領を持ってますよ」
「マジか! 寺ヤバい!」
熊若は貴一が発する分からない言葉はもう聞き流していた。
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2人は一足先に後白河法皇が院政を行っている御所の近くに着いた。
「熊若、御所までの通りの家や屋敷はみんな扉を閉ざしていたね」
「とばっちりを怖れているのですよ。強訴の噂は京に届いています。それにほら」
内裏の前には多くの武士が待ち構えていた。
「なるほど、大規模デモの際に商店がシャッターを下ろすのと同じか。武士はデモ隊を抑える機動隊ってわけだな。おもしろそうだ。よし、屋根の上で見よう」
貴一は熊若を抱えると、ひょいと屋根の上に飛び乗る。ここまでの道中、いろんな動きを試していたため、この異常な身体能力の使い方に慣れ始めていた。
しばらくすると、興福寺の僧兵が大挙してやってきた。
「あの輿の上に載っている木は何だ。神社で良く見るしめ縄って言うんだっけ? 縄で巻かれて白のギザギザの紙がついている」
「春日明神の御神体です。神鏡もいっしょになっています。春日神社は興福寺の支配下の神社です」
「シンボル、象徴的なものか。おっ、押し合い始めたぞ。意外と平和的ではないか」
「これで朝廷側が引けばそうです。しかし、これからどうなるか――」
貴一が興奮した声をあげる。
「おっ、坊主が石を投げ始めた! 盛り上がってきたぞ。さあ、どうでる。国家の犬」
内裏を守っている武士の侍大将は、矢を放つなと命令していた。死傷者が出ないように格闘のみに留めているようだ。
「武器を使っての弾圧はしないワケね。ん? 弓を持っている坊主が出て来た! やりすぎだって、バカ! デモじゃなく内乱になっちゃう!」
案の定、僧兵の放った矢で武士に死者が出ると、武士側も弓矢で応戦してきた。次々と僧たちが逃げ出していく。
「あーあ、失敗しちゃった。敵は武士なんだから武器での戦いで勝てるわけないじゃん」
「いいえ、興福寺の勝ちですよ。ほら、春日神木が内裏の門の前に置かれています」
「慌てて忘れていたんじゃなくて? 御神体を捨てたらバチが当たるでしょ」
「春日神木は春日神社の神人以外がどかすと神罰が下ります。門の前に置かれては政に支障が出ますから、どかしてもらうために朝廷は興福寺の要求を聞くしかないのです」
「へえ、そんなルールがあるのか。おもしろいな――で、興福寺の要求は何だったんだろう。坊主たちは叫んでいたけど、よく分かんなかった」
「天台座主の流罪を叫んでいました」
「天台座主ってのは、朝廷の偉い人なの? だとしたら気分がいいね。デモで政治家の首を飛ばすどころか、流罪にまでできるなんて」
熊若はドン引きした顔で言う。
「いや、朝廷ではなく、比叡山延暦寺で一番偉い人ですよ。延暦寺と興福寺は犬猿の仲です」
「じゃあ、今回の強訴は寺同士の揉め事なの? 民のことを思ってじゃなくて」
「いつも、そうですよ」
「思ってたんと違う!」
貴一はがっくり肩を落した。
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●大和国(奈良県)の石高は太閤検地のときで48万石。鎌倉幕府成立時の日本の人口が760万人。江戸幕府成立時が1230万人。比率は1:1.6。この比率を石高に当てはめると、当時、大和国を支配していた興福寺の寺領は30万石。延暦寺も近江をはじめかなりの寺領を持っていたようです。1万石で動員できる兵は250人だから、7500人の僧兵を維持できると仮定して書いています。