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第9話(1173年4月) 天狗の谷

「おーい、帰ったぞ!」


 出雲から鞍馬寺に返ってきた貴一が大声で告げても、誰も出迎えようとしなかった。


「ったく、俺がいないと思って修業をサボっているな」


 舌打ちしながら、熊若たちが起居している不動堂の扉を開けた。


「マジかよ……」


 机に熊若と遮那王(しゃなおう)が突っ伏していた。あたりには兵法書を書き写した紙が、足の踏み場も無いほど埋め尽くしている。

 熊若が貴一に気づいて起き上がる。


「申し訳ありません……。お迎えもせずに」


「これ、お前らが書き写したのか?」


「いえ、ほとんど遮那王です。私も負けないよう頑張ったのですが……」


 貴一は遮那王の寝顔をのぞき込む。


「全然、起きそうにないな。顔もやつれているじゃないか」


「食事も取らず、何かに取りつかれたように、一心不乱に書き写していました」


「なんでまた、そんなに熱心に」


「早く兵法を習得して平家を倒したい、そう言ってました」


 この執念が、遮那王にとって良いことなのか、悪いことなのか、貴一は黙って考え込んだ。



 それからも、遮那王の勉学熱は治まらなかった。講義以外の時間も兵法書を一人で読んでいた。貴一が止めても、夜中に隠れて読むので、最終的には諦めて遮那王の好きにさせた。ただ、熊若が負けずに兵法書を読もうとするのは止めた。


「世間を知らないうちに兵法書だけを読んでも頭でっかちになるだけだ。それに――」


「何ですか? 法眼様」


「兵法というのは、敵の裏をかき、騙し、急所を攻める、そんな学問だ。熊若にはそんなことばかり考える男になって欲しくない。相手に勝つことだけではなく、争いを避けることも選べる男になって欲しい。熊若は優しくて賢いから、そのほうが向いている」


「法眼様……」


 熊若は尊敬する貴一に褒められて涙を浮かべていた。


「さあ、剣術の練習をするぞ。太刀を構えよ」


 熊若はフェンシングの剣に似た太刀を構えた。貴一は竹の棒を持ち、動きを指導していく。防具などはつけないため、激しい稽古をすると、すぐに打ち身や擦り傷だらけになった。

 ガマの花粉と弟切草を乾燥させ煎じたものを熊若の傷に当てながら貴一は言った。


「弟切草という名前なのに傷を治す効果があるっておかしいよな?」


「元々は鷹匠が鷹の傷を治すために使っていた秘伝の薬草で、それを弟が恋人に話したんです。そうしたら広まってしまって、怒った鷹匠が弟を切ったことから、名付けられました。葉にある黒い斑点は弟の返り血の怨念と言われています」


「薬草一つ一つに伝説があるんだねえ。ガマの花粉は『因幡の白兎』からだし」


――しかし、この薬草では外傷しか効かない。打ち身に効く薬が欲しいな。


 それから、貴一は時間を見ては山の野草を調べ始めるようになった――。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 それから一年後。


 貴一が起居している魔王殿の前では、あれから十数名の男たちが弟子となり、剣術の稽古をしていた。顔ぶれは山賊に破戒僧、悪事を働いた公家など、身分は様々だが、他所から追い出されるようにやってきた厄介者であることは共通していた。


――まるで、いきがった不良をボクシングで更生させているようだ。


 貴一は生意気な弟子たちを稽古でボコボコにしながらそう思った。

 連れてこられた若者は、エネルギーが有り余っていた。連れてこられる前は腕に自信があった奴らだけに、貴一にも恐れずに何度も挑んでくる。それを貴一は徹底的に打ちのめした。


 稽古場に使っていた鞍馬寺の僧正ヶ谷では、一年中、戦いの叫び声がこだまし、いつしか人々から天狗の谷と呼ばれるようになっていった。


「今日の稽古はここまで! 熊若組は赤直垂(あかひたたれ)に着替えて賊狩り。遮那王(しゃなおう)組は薬造りだ。じゃあ、締めの掛け声を言うぞ。師匠の言うことは――」


「「「絶対!!」」」


 弟子たちが声を揃えて叫ぶ。

 貴一は切株に腰を下ろすと、ひとりぼやく。


――皆を食わすのも大変だ。鉄の増産が軌道に乗るにも、後一年はかかる。


 鞍馬寺は人が増えたからと言って、支給米を増やしてはくれなかった。さっさと食い詰めて賊になれと言わんばかりだ。それどころか、朝廷に訴えて、貴一たちを追い出そうとさえしている。

 熊若は厄介者をすべて受け入れるのを反対したが、貴一は聞かなかった。


「ここに来る奴らは、世間からはじき出されただけで、根っからの悪じゃない。そして今の世間を変えたいと思っている。いわば俺の革命同志だ」



――そう言いながら、増えた弟子を食わせるために官憲の仕事を手伝っている。そんな俺の言葉に説得力があるかどうか……。


 力を蓄えるまの我慢だと言う貴一の話を弟子たちが本心で納得しているかどうかはわからなかった。


 今年、平時忠は検非違使(警察)の別当(長官)に再任すると、すぐに貴一を呼び出した。


「貴様が皆殺しにしたせいで、赤禿(あかかむろ)はいなくなった。責任を取って代わりをやれ。米も出す」


 しばらく考えた末、貴一は受けることにした。今の時点ではまだ、時忠と繋がっていた方が利益がある。革命の色である赤に惹かれたことはちょっとだけ内緒だ。


 遮那王組は、牛革草の乾燥した葉を手で細かく砕いてから土鍋の中に入れ、茎を取り除いていた。この後、鍋に火にかけながら日本酒を吹きかけていき、黒色になるまで焼く。最後は薬研(やげん)で粉末になるまですり潰す作業を行う。


「師匠は薬にも詳しい。この薬は打ち身や捻挫、骨折にすごく効きます。典薬寮(てんやくりょう)(朝廷の医療部門)にいたことがあるのですか?」


 遮那王は手で葉を砕きながら聞いた。


「典薬寮で何冊かの本を盗み見ただけだ」


 貴一はあいまいな返事をした。


――戦国と幕末に詳しいだけだ。


 作っている薬は『石田散薬』。若いころの土方歳三が売って歩いていた有名な薬だ。現代は販売こそされていないが、土方歳三資料館のイベントで体験したことがある。シンプルな造り方だったので貴一は覚えていたのだ。


――生産量が増えたら行商でもしてみるか。


「師匠、薬づくりも良いが、私も賊を倒しに行きたい」


「いい加減にしてくれよ、遮那王。僧になるということで助命されているお前が京をうろちょろしてみろ。捕まって殺されるぞ」


「しかし――」


「駄目だ。師匠の言うことは――」


「絶対――です」


「本当だな」


「……賊の討伐は絶対にしません」


 言葉とは裏腹に、遮那王の目には不敵な炎が灯っていた――。

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