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試作「S極とN極は引かれ合う」

作者: 紙屑

 教室にはチョークのすれる音だけがやけに響いているように思えた。でも実際には教科書やノートをぺらりとめくる音だったり、シャーペンや鉛筆をかりかりと走らせている音だったりもしっかりとしていたはずだった。なのに俺にはそういった音の一切がまるで耳に入ってこず、とは言えそんなような音なんてのは小さ過ぎて元から聞こえやしないのだけど、とりあえず俺が今しかと聞いているのはやっぱり、柳瀬が黒板に荒々しく書き殴っている時に鳴る音だけのような気がどうしてもしていた。しかし本来ならそういうチョークの音だとか周りの連中が生じさせる雑音なんぞに気をとられるような俺ではなかったし、そもそもの話、俺が今気になってしまっている音というのはがんがんと鳴り響いているわけでもなければしつこく耳に残るというわけでもない。それらはあくまでも微細だったし、結局のところ、頭の中ではそれらが別に気に留める必要のないただのありふれた生活音に過ぎないということを十分に分かってもいた。でも頭で理解出来ていることと、心で実際に感じていることというのは、どうやら丸っきり違うらしい。俺の胸の内は授業が始まってから今に至るまでずっとぎゃあぎゃあと騒ぎっぱなしで静まるところを知らなかった。くそ。何もかも柳瀬のせいだ。あいつがいつも通りのやり方で授業をしていれば俺は何一つ焦らなくても良かったっていうのに。……今日は確かに廊下側の一番後ろから聞かれていくパターンのはずだった。今までの傾向から考えればそれは間違いのないことだったんだ。なのにどうしたっていうんだ。何で今日に限ってランダムなんだよ。それじゃあいつ指名されるかがてんで分からないじゃないか。名指しする方はそりゃ楽しいのかもしれないがそうされる方はたまったもんじゃない。いつ当てられるかの見当が付かないとなると、こっちとしては質問される日を定めてその時だけの準備をするというのが出来なくなってしまう。そしてそれが不可能になれば俺が柳瀬の問いかけに答えられなくなるリスクは一段と高まる。では仮に俺があいつの問いに返せないでいるとしよう。するとやつはまず俺のことを嘲笑するだろう。「簡単な質問をしているだけなんだが?」と意地汚い笑みをうっすらと浮かべながらにやつは言って、俺が教室のただ中で一人みっともなく突っ立ったままでいるところをまるで汚物を見るような目で見据えるんだ。そうすると柳瀬は今度は周りのやつらに「皆はもう分かっているよな?」と聞いて同調を求め始めるだろう。そうやってあいつは俺を孤立させる算段をどんどんと付けていくに違いない。そしてそういう柳瀬のもくろみを面白がる輩もまた、やつと同じようにしてにたにたと笑いながら、俺がどうすることも出来ずに呆然とする様をあざけっているに相違ないのだ。でも中には俺のことを気遣ってくれる心根の優しい人間がもしかするといるのかもしれない。いや、きっと俺が置かれている状況を大いに心配して手を差し伸べてくれる人は多少なりともいるはずだ。助けてくれ。こっそりと俺に答えを教えてくれ。そしてそれが出来ないのだとしたらせめてヒントだけでも良いから示してくれ。情けないことではあるが、俺にはどうやらやつの問いに答えられるだけの頭もなければ、その問いに答えようとする気概すらもないらしい。でもそんな俺にも柳瀬に勝ち誇った顔をされるのは嫌だという気持ちはあるし、皆の前で恥をかきたくはないというプライドみたいなものもちっぽけだがある。だから頼む。心優しき友人の諸君、どうか俺に力を貸してはくれないか。というかいっそ俺の代わりに答えてくれやしないだろうか。だってきっと君達になら出来るはずだから。俺には到底無理なことなんだとしても、君らみたいな優秀な頭を持っているのならば、柳瀬の質問に答えることなど造作もないだろうし、人様に誇れるような立派な頭を持ち合わせている人間なら、困っている人を見捨てるといった非道極まりない真似など断じてすまい。信じているぞ。君達が必ずやこの窮地から俺を救い出してくれるのを。また俺は同時に願ってもいる。どうか君らが俺を見限らずにいてくれる人情深い人達であってくれとな。まあ、でも、報酬なんてものは求めるなよ? 人助けっていうのはな、無償で行うからこそ価値があるんだ。だって考えてもみろ。もしも対価を目的にして手を貸したりなんてのをしてしまったら、助けられた方は一体どんな感情を抱くだろう。喜ぶだろうか。いや、がっかりするに決まっている。もっと言えばそんな愚行を犯しながらも誇らしげにしている姿を一度でも目にしてしまったのなら、棚からぼた餅の感謝はどこへやら、その愚かしさに対する大きな失望ばかりを感じてしまうに違いないのだ。そしてさらに加えると、恩着せがましい偽りの救いが、またいつ自分の身に降りかかってくるのだろうかと不安になるなんてのも有り得るだろう。そしてそういう偽善が次第にエスカレートしていくのを想像したり、それによって身も心もずたぼろにされていく未来を思ったりしたなら、ぐっすりと眠れる夜なんてのはもう二度とは訪れなくなってしまうってのが関の山だ。するとどうだろうか。確かに自分を助け出してくれたはずの天使はもはや、世にも恐ろしい悪魔にしか見えなくなってくるだろう? そうしたら助けを請うた方は思わずにはいられない。助けなんて求めるんじゃなかった、助けられない方が自分は幸せだったと、そう思わずにはいられないんだ。……だからこそ人助けっていうのは何も求めずにするべきなんだ。そしてそうした時にこそ本当に人を助けたと胸を張ることが出来るんだ。まあ、つべこべと回りくどい話を繰り広げてしまったが、俺としては一つだけ肝に銘じてもらえるのなら、こんなごちゃごちゃとした理屈なんて理解しなくても良いと思っている。で、その一つだけ覚えておいてほしいことっていうのは何かというと、それはようするに、ただで助けた方がうんとかっこいいだろってことさ。そっちの方が絶対にいかしてるだろってことなのさ! そうやって考えると、例え何も得るものがないのだとしても手を差し伸べてやろうって気になってくるだろう? でも不思議なことに、そうやって何もいらないと心から思えていた時にだけ、反対に得られるものというのがある。良いか? それこそが正真正銘の喜びというものであり、それこそが何にも代えがたい感動というものであり、それこそが真の善意というものなんだ。どうだ? すぐにでも人を助けたいって気持ちになってきただろ? 早くそういう得がたい思いってのを味わってみたいって気にもなってきただろ? そんな君達にうってつけの話がある。さあここらで改めて述べるとしよう。諸君、即刻俺のことを助けたまえ! 手も足も出ずに困り果てている俺を今すぐに助け出すことをしたまえ! 事は急を要している。こうやっている間にも柳瀬は俺のことを辱めてやろうと機会を窺っているに違いないし、あいつに味方する取り巻きの方も俺が槍玉に挙げられるのを今か今かと待ち望んでいるはずだ。……嘘だと思うのならやつらの目を見てみると良い。あいつらの目はまるで狩人のそれだ。獲物を射殺すことしか考えていない冷酷な目。虎視眈々とタイミングをはかる鋭い目。一発で殺してやると意気込む力強い目。らんらんと光る怪しい目。じっとこちらの方を見つめる不気味な目。何らかの合図を交わそうとする濁った目。獲物が今にも仕留められようとしている様子を嬉々として見ている目。静かな笑いを奧に秘めている細々とした目。やつらの目は全て恐ろしいと言えた。そしてそういう末恐ろしい目の数々が見ているのは俺だった。あいつらが狙っている獲物というのは俺をおいて他にはいなかった。俺だけが標的となっていた。俺だけが矢を放たれる運命にあってそれから逃れる術は一つとしてなかった。俺はそれが嘘であるのを願ってちらりちらりと周りを見回してみた。しかし俺の視線の先には多くのおぞましい目が確かにあり、それらがしかと捉えているのはやっぱり俺以外にはいなかった。でも俺はそんな中にあった優しい眼差しを見逃さなかった。それらの数は決して多くはなかったし、それらが携えていた温かなものは今にも消えてしまいそうなほどに弱々しくもあったが、そういった瞳はそれでもこちらの方をちゃんと見てくれていた。俺のことを思いやり心配し、俺なんかにはもったいないくらいの澄んだ目をこっちに向けてくれていたのだ。……ありがとうよ。こんな俺なんかを気遣ってくれて。俺は本当に嬉しい。こんな俺を支えようとしてくれる友がいたってのを知れてさ。でもな、友達だったらしっかりと俺を助けなきゃいけない。俺が困っているのをただ見ているだけでは事態は何も解決しないし、そんなことをしていてはいずれ君らも柳瀬みたいな非情な人間になってしまうかもしれないよ? いや、そうなってしまってはもはや、君達を人という言葉で言い表すことは出来なくなるのかもしれない。人の不幸を省みない。自分が良ければそれで良い。そんなような浅ましい存在にはなりたくはないだろう? だったら迷っていないで行動に移しなさい。つべこべ言わずに俺の力になりなさい。幸いにもまだ猶予は残されている。まだ柳瀬は俺を指名してはいないんだ。でもやつがこのまま俺を当てないままでいるという保証はどこにもない。脅威が目の前に迫ってきているのは間違いのないことなんだ。だから早く助けろよ。何をしてんだよ。今しかチャンスはないんだぞ? 俺に恥をかかせたくないんだろ? 無償で手助けをしてくれるんだろ? そしたらさっさとしろよ。何をいつまで怯えてんだ。早くしないと罰金だからな。あるいはもっと大層な要求を呑んでもらったりもするんだからな。……おい、何とか言ったらどうだ? 黙ってないで返事をしろよ。俺の声に耳を傾けろよ。でないと、俺、泣いちゃうよ? 餓鬼みたいにわんわんと泣き叫んじゃうよ? それでも良いのか?……本当に良いのか?……えーと、じゃあ、うわーん。誰も助けてくれなかったし、誰も話を聞いてくれなかったようわーん。――ふう。何と言うか、その、とても空しい気持ちにもなってきたし、そろそろやめるとするか。ちょっとだけ喋り過ぎたな。いや、俺は一人きりで悶々と妄想をしていただけであって一言も話してはいないのか。うーん。一体俺は何をしてるんだろうな。授業もろくに聞かず、教師やクラスの連中をまるで悪人であるかのように扱ったかと思えば、でたらめな持論を唐突に展開し、それによってあたかも俺が正しいみたいな雰囲気を作り出し、勝手に説き勝手に悦に入り、そういうので調子を良くしたからか俺は俺の想像をやめるどころか反って膨らませてしまったわけだが、よくよく考えてみると俺はただただ惨めに皆に縋り付いていただけに過ぎず、そんな俺は道端に捨てられた犬っころみたいで、いや、でも、飼い主に見放されてしまった犬というのにはきっと、何と言うか、必死に現状を打開せんとする気高き魂が宿っているはずで、不運にも手放されたことを嘆かず、己を捨てた人間への恨み辛みを抱えながらも懸命に生きようと藻掻いているはずであって、それだからこそきゃんきゃんといった鳴き声は新しい主人の耳に届いていくのだろうし、だからこそその新たな主はたくさんの愛情をそいつに注いでやろうと思えるのだろうし、そうやって足掻こうとするパワーを少しでも持ち合わせているのを考えれば、俺は多分そんな野良犬よりもずっとしょうもない存在だったろうし、だから俺が自身を捨て犬のようだと例えたことは、犬と俺とをまるで同等であるかのように捉えてしまっている点を鑑みればあまり適切ではなかったと言えるのだろうし、まあ実際、俺は根性もなければやる気もない、犬よりも随分と劣っているただの愚か者に過ぎないのであって、それに対する反論の余地は少しも有りはせず、またそれをどうにかして改めようとする気さえも持っていなかったのはもはや言うまでもないのかもしれないのだが、加えて俺にはあらゆることにおいてすぐに他人に頼ろうとする精神というのが元より備わってもいたらしく、しかもその他力本願っぷりは日に日にひどくなる一方であり、とにかく、だらだらと不毛な考えを巡らせるによって行き着く一つの結論というのは俺がどうしようもない人間であること以外にはなかったのだし、それを否定したいだとか、それ以外をどうにかして導き出してやろうだとかも別に思わなかった。だからなのだろう、そんなだらしのない俺なんかに構おうとするやつなどこの教室の中には一人としていなかった。しかし、ぐだぐだと考えた末に至った、俺がくずであるから見向きもされないという認識は、自らで結論付けたのを自らで否定することにはなってしまうのだが、単なる俺の思い違いに他ならないとも言えるのかもしれない。でも俺が人に誇れるような何かを持っているわけでないのは確かだったし、人に褒められるような性格をしているわけでないのもやはり確かだった。それに今俺が周囲からほっとかれているというのも本当だったし、皆が俺をまるでいないかのようにしながら黒板の方ばかりに意識を集中させているのだって決して嘘ではなかった。が、俺がとことん駄目なやつであるのと周りが俺にそういった態度を示しているのは多分イコールでは結び付かないだろう。つまり俺が言っているのはそれら二つには因果関係などないのかもしれないということだ。ではどうして俺は一人だけ蚊帳の外にいるみたいな状態になってしまっているのだろう。なぜクラスの人達は頑なに俺を無視し続けるのだろうか。俺には分からない。分からないから俺はとてももやもやとした気持ちになってしまっていた。……俺は何で答えが明白な、言ってみるならば当たり前のことに対してこんなにも頭を悩ませ、あまつさえ分からないなどという見え透いた嘘を付いてしまっているのだろう。俺が周りのやつらから構われないでいる理由。そんなのは今が授業中だから、俺以外の人達が皆して柳瀬の話に耳を傾けているからだと決まっているのにな。しかも何度も言うようではあるが、俺が今までたらたらと考え込んできた世迷い言は全て俺の頭から出てはいず、やっぱり俺は一言も言葉を発していないわけであって、ようするに最初から誰にも何も話しかけてはいないのだから反応されないのは当然であり、加えて俺はあたかも自分が危機的状況にあるかのような感じを出してはいたが、はっきりと言ってそれは全く違っていて、本当はいつもと同じように教師の話なんかはほどほどにしつつ、ただただ余計で意味のないことをぼうっとした頭で何となく思っていただけに過ぎない。つまりは俺はのんきに暇を潰していた。それだけのことだった。でも柳瀬がなぜか生徒を無作為に当て始めていたってのは事実だったし、俺がさっきから名指しされたら嫌だなあと感じているのも合っていたから、平々凡々とした時間を送っていた俺ではあったけれど、完全に気を緩めているとは言い切れなかった。しかし例え少しは気を張っているのだとしても、板書もせず、話もほとんど聞かず、それどころか授業の予習さえもしてこなかった俺なのだから、もしも柳瀬から不幸にも指名されてしまった時には気を抜いているだとか抜いていないだとかは関係なく、単純にやつの問いに答えられないでいる俺の醜態がクラスの連中に晒されることになるだけなんだろう。でももしそうなってしまったとしても、素直に「分かりません」と言ってあっさりと難を逃れられるのはすでに分かり切っているし、そういった場面における俺の無気力さというのは柳瀬が俺を諦めるための十分な因子と成り得るに違いなかった。そしてそういう風に思っていると当てられることへの漠然とした不安であるとか、妙な緊張であるとか過度な焦りであるとか柳瀬へのちょっとした畏怖であるとかがすうとなりを潜めていって、後には何もかもがどうでも良いという諦観と、全部どうにかなるだろうといったわけの分からない自信の二つのみがぽつんと残った。そうしたら、先ほどまでは変に意識してしまっていたチョークのかつかつとした音なんてのは大して気にするほどのことではなかったのだなと思えるようになったし、その上、今は書くではなくて懇々と何かについての説明をしている柳瀬の声でさえも気付けば快いと思えていたし、何だかその声というのはこの静かな教室の中に落ち着きであったり趣であったりを如実にもたらしているなあとぼんやりと思っていたのもあって、俺はそれを雑音なんかではなく、ましてや耳障りなものでもないとし、本来ならば何と言うこともない普通の低い声に対しての、まるで良質かつ壮大なBGMを聞いているみたいだといった気取った感想ってのを、誰かと分かち合うではなしに、やっぱり一人だけでひっそりと抱いたりしていた。まあようするに俺はそういうのを思えるくらいの心の余裕を取り戻したってことで、いつもとは違うと感じていた授業の空気についてを普段通りの何気ないものとして考え直せたってことでもあって、だから今の俺はいつもと同じように、いや、あくせくと取り乱したり、大いに張り詰めていたりしていたのが綺麗になくなったので一気に日常に引き戻ったのを踏まえれば、俺はおそらくいつもよりもずっと腑抜けた態度をしていて、いつも以上に呆けた面構えに自然となってしまっていたんだろう。あるいは俺がそういったようになったのは、過度な緊迫から急に解き放たれたことが原因であるというよりかは、単に今この空間に満ちている雰囲気に慣れたからだとするのも合っているのかもしれないし、もしくは前提として、いつもと違う環境にあると思っていたのは実は俺だけで、他の人らは始めから何もそんな風には感じていないのかもしれず、だから俺は結局、自分で自分の首を絞めていただけに過ぎなかったのかもしれない。思い込みってのは案外やっかいなもんなんだな。でもそれをつくづくと思い知ったにしても、俺は一人であれこれと思案したり、一人でたわいもない想像を膨らませたりするのを結局はやめられないに違いない。意味のない思考も生産性のない妄想も暇な時間を潰せるって点では有益ではあったし、何よりもそうすることは俺にとっての癖みたいなもんで、どうにかしようとしても多分どうにもならないと思う。それにどうだって良いことを考えたり余計でしかない物事に思いを巡らせたりするのって、意外と楽しいしな。最初は何の役にも立たないだろうって思っていたのが何やかんやと頭を回しているうちに実は凄く使えるアイデアだったと気付いたり、逆に当初は大事なんだろうと考えていた一つの事柄がどんどんと思索していくにつれて何にも使えないがらくただったと思い知ったり、何てことないものがやはり何てことなかったと改めて知ったり、大それたものの見方ってのはやっぱり大それていたんだなと納得したりするってのが、個人的にではあるけど結構面白かったりする。つまりは何かを思い付こうと意気込むでなく、ましてやそれを誰かに披露しようなんてのもなく、あくまで何となく、そしてあくまで内に秘められた俺だけの思想として楽しむのがコツで、何と言うか、導き出される答えとか結論とかが重要だというよりかは、そうやってあーだこーだと考えている過程を重んじたいっていうか、あるいはそうやっている間にしか味わえないものを満喫するのがただ好きなだけっていうか、そんなような言い回しをした方が俺の感覚としては合っているのかもしれない。とっちらかった話を軽くまとめるとすると、俺は別に考えなくても良い何かを適当に考えることこそが好きで、それで妙案を閃けたんならそれで良いし、例えこれといった答えに辿り着けなかったり何一つぴんとこない結論に至ってしまったりしてもそれはそれで良いし、結局は俺は何を見つけても見つけなくても良いと思っているわけなのだが、もしも何かを見つけられたって場合には、それが間違っているか間違っていないかの吟味をきっとするのだろうとばかりに思っていたし、出来るならばそうあった方が良いと思っていたのも強ち間違いではなかったのだが、それはただそう思うだけに留まり、最後にはそうするのが面倒だという欲が勝ってしまったのもあって、詰まるところ俺はそういうのの是非をちっとも確かめようとはしなかったし、さらには無理して確かめる必要なんてないとさえ思った。うん。ようは何だって良いのさ。好きな物思いにふけられてそれによって退屈な時をちょっとでも紛らわすことが出来るのならば、事の顛末なんてのはどうなろうとも良かったし、そう考えていたからこそ俺が何らかに支障をきたしてしまうなどは万に一つもありはしなかった。でも一つだけ言えることがあるのだとしたら、俺はそろそろ今好きだと言ったばかりの一人遊びを嫌いになってしまいそうではある。どうしてなのかと言えば、それはやはりいくら楽しんでいたとは言えど、流石に思いを巡らし過ぎたせいで、だんだんと考えるのに飽きてきたからだとするのが最も適切なのかもしれない(あるいは楽しさしかなかったはずのその行為に、あろうことか苦しさが伴い始めたからだとするのも良いのかもしれない)。とりあえず何事にもバランスというのはあって、つまり何かが過剰だったんならそれと釣り合いが取れるだけの別の何かを求めようとする摂理ってのが自然と働くわけであって、だからこそ大切なのは例えば根を詰めたり力を抜こうとしたりするのをどちらか一方だけから心がけるじゃなしに、その時々によってそれらを俯瞰で捉え、それらを意識的にまたは無意識的に、自由自在にコントロールしていくってことなのではなかろうかと誰かが言っていたような気がしたんだが合っているだろうか。とにもかくにも俺は本来ならば面白いはずのことをつまらなく感じてしまうのは滅茶苦茶もったいないと思うし、そもそも辛くなるまでするほどの事象でもなかっただろうから、ここらが潮時なんだときっぱりと思った上で一旦頭を休めようとはかり、俺は今度は反対に考えたり思ったりするのをほどほどにして、ぼうっと柳瀬を眺めるのをした。やつは今もなお、真剣に耳を傾け続ける生徒達のために話をしている最中である。……俺よりも背の高い柳瀬(担当科目は現代文)。すらりとしているのに肩幅はなかなか広く、また細身ではあるのに意外と筋肉質なその様は、スマートさとワイルドさをどちらも兼ね備えている理想の体だったと言えるのかもしれない。彼は今日もその整った体躯にぴったりとフィットした、品の良い、それでいてそこそこ高価だと思われる真っ白なシャツを腕のところをややまくり上げながらに着熟していた。しかし一見するときっちりとしてはいるその見てくれからは、自分は教師であるとしかと自覚し、服装を過度に乱すような真似はなるべくすまいとしながらも、かっこよくありたいとか洒落ていると思われたいだとかの欲求を完全には拭い切れなかったというような葛藤めいたものが、なぜかは分からないけれど今日に限ってはくっきりと見て取れて、嗚呼、だからこそ柳瀬が腕の部分をまくって白シャツを着ているってだけなのにこんなにももやっとした感情を覚えていたわけかと、俺は今になって初めて深く納得出来たような気がした。そしてそれに気付いてからというもの、俺は柳瀬に見られる、いつもだったら全然気にならないであろう些細な特徴についてを、いつの間にかまるで宝探しをしている時のようにわくわくとした心持ちで次々と見出し始めていた。それは例えばわりかし短い方ではあった髪をワックスで遊ばせることによって色気を出そうとしている点であったり、例えば左右が対称になるように丁寧に整えられてはいる眉毛が若干濃過ぎる点であったり、例えばのど仏が少しだけ人よりも大きい点であったり、例えば元々大きかった背丈が、ほど良く鍛えられているって観念が俺の中にあるからなのかもしれないが実際よりもずっと大きく感じられて、しかもその感覚のせいもあってか、やつが次第に椰子の木のように見えてきていた点であったり、例えば袖の方はラフにまくっているのに襟はきっちりと正している点であったり、例えば真摯になって教え子らに説いているようには見えるが、そうやって話している口調には抑揚といったのがまるでなくてむしろ冷たい印象を受けるって点であったり、例えば彼の真剣ではあった眼差しが実は微かにどんよりとしている点であったりで、俺はそんなような、言うなれば別段かいつまむ必要のない、本当にちっぽけでとりとめのない、かつ本来ならば正直探し出したくはなかった一教師の、もはや特徴と言うよりかは荒と言った方が良いのかもしれないことを、さながら世紀の大発見をしたみたいな調子で、未だぼんやりとしてはいる脳内にどんどんと並べ立てずにはいられなかった。ただしこの時の俺は手鏡なんてものを持ち合わせてはいなかったから、今そうやっている間に自分がどんな面をしているのかってのを確認することが出来なかったわけなんだけど、ついさっき柳瀬を悪者のように扱っていた俺の方こそがにたにたとした意地汚い笑いを堪えられずにいるのは確かなんだから、おそろく現在の俺は空想上の彼の悪人面でさえも比にならないようなとても悪い顔ってのを不覚にも浮かべてしまっているんだろう。でも俺がそういったような人を不快にさせてしまうかもしれない表情をしているのに気が付いた連中なんてのはやはりただの一人もいなかったし、だからこそ俺はだらしなくにやけた面立ちを無理に隠さずにいたのだが、徐々に俺は、周りがあんなにも熱心に柳瀬の話に聞き入っているってのに自分だけがへらへらとしていて、しかも自分だけがそのことを知っているという現状に対してあろうことか滑稽さを感じ出していて、だから今の俺はもはや世の中の全てがおかしくて仕方がないって気分にはからずもなっていたと言ってしまって良かったかもしれない。よって今までつらつらと頭に並べてきていた柳瀬についての取るに足らない事柄に対しても、始めは単純に思い浮かべていただけだったのに、一度そうなってしまった後で改めてそれらを思うと、実はそれらは腹を抱えて笑えるくらいの面白さを秘めていたんじゃなかろうかって気がだんだんとしてきたのがあって、俺はやつをまじまじと見つめながらに、今でも静まっているこの教室の中で場違いな笑い声を上げてしまいそうになっていた。しかしここで一つ断っておくとするならば、俺がやたらと面白がっている柳瀬のちょっとだけ目に付く部分っていうのは、周囲からするとやはり特に気にするほどのことではなく、またそれらは彼にとっての普通であるとすでに認知されているのもあってか、皆当たり前のようにしてそれらを見過ごしているわけではあったが、授業中である今を考えた時、そんな何てことないところにいちいち目を付ける暇があるんだったら、彼の話す一言一句に耳を澄ませたり、彼の書き記す重要なポイントを書き漏らさぬようにしたり、授業の内容をきちんと理解しようと努めたりするのはもはや当然であると言えるのだろうし、俺だって本来ならばそうした方が良い、いやなるたけそうするべきだと考えているってのも本当だった。それに俺は次から次へと笑いが込み上げてきている中ですこぶる冷静にそれらをとてもありふれた物事であるとしていたし、加えてそれらはそもそも良くない面なんかじゃなく、むしろ彼を彼たらしめているって点や他よりも優れているって点で大いに肯定すべきなのではないかと思い始めてもいた。実際ワックスで毛先をところどころはねさせている彼の髪型は彼によく合っていたし、少しだけ濃さが目立つ眉だって凜々しくこれまた彼に凄く似合っていたのも間違いなかったし、ちょっぴり大きなのど仏は彼の男らしさをより引き立てていたし、背が高いことによって彼の持つ風格は一層醸し出されていたと言えるし、袖はまくりつつも襟を正している彼の身なりだって彼だけに合う独特のファッションとして見れば全然変ではなかったし、経を唱えているみたいだった彼の平坦な口調も聞き取りにくいなんてのはこれっぽっちもなくてすっと頭に入ってくるものだったし、沈んでいるように見えた彼の瞳の中にもよくよく見ればきらきらとした光はちゃんと残っていて、それはむしろこれでもかってくらいに煌々とした輝きを放っていたし、ついでに言うと彼は実にハンサムで、それはそれくらいの顔立ちをしているんだったら教師なんかとっとと辞めてモデルなり俳優なりになった方が今よりもずっと良い暮らしが出来るんじゃないかと皆が思わずにはいられないほどで、だからこそ彼は女共からモテモテだったし、だからこそ彼女らは昼休みや授業と授業の合間なんかで、わざわざ取り上げなくても良い話題なんじゃないかと俺が陰で思っているのを余所に、やかましいまでに彼を褒め叩いたり愛しんだりし合ってきゃーきゃー言ってるわけだった。なのにどうして俺はそんな長所ばかりが目立つ柳瀬から無理して短所を見出すといった行いをあろうことかノリノリでしてしまっていたんだろう。気付いたら俺は今そんなことに思いを馳せてしまっている。しかし俺はそれで頭を悩ますことはしなかった。案外すぐにその疑問に対する明確な答えってのは俺の中にわいて出ていた。それが何だったのかと言うと、つまりは俺は実は柳瀬がとことんいけ好かなくて、単刀直入に言えば嫌いだってだけのことだった。ゆえに俺はやつの出で立ちに強引に難癖を付けたりありもしないことをでっち上げたりしていたってわけで、俺が今に至るまでだらだらと思ったり考えたり見てきたりしたのは全部、やつを否定したかったから、悉くやつを悪く仕立て上げたかったからそうしていたとするのがきっと合っているんだろう。何なら俺は今や、想像するのが楽しいっていう心からの感情はむしろ、柳瀬への嫌悪を際立たせるためにこそあったのではなかろうかと勘ぐっているくらいではある。うーん、何とまあ、恐ろしいことよ。思えば初めはただ何となく柳瀬が好かんってだけだったはずなのに、日々俺の思い込みを介して対しているうちに、やつに向けられた小さな嫌悪は、自分でも抑えが効かないくらいにまで大きな憎悪へといつの間にか成り果てていた。それを恐怖と呼ばずして何と呼ぶのかを自身に問いかけてみると、それは恐怖以外の何でもない、そう、それは恐怖としか言い表せない変化であるってのがすぐさま返ってきて、だから俺はますます己が実に末恐ろしくなった。俺は一人の人間を、それも俺の友であるとか家族であるとかライバルであるとか敵であるとかそういうのではない赤の他人についてを、こうやって自分のことが恐くなってしまうほどに深く憎めてしまえるのか。ううむ、しかし、これといった取り柄はなく、人から世辞ではない真の賛辞をもらったりしたこともなければ、反対に蔑まれたりも多分されていない、いてもいなくても良い、平凡極まりない、いや存在する価値がないってのを踏まえると平凡でさえなくて他よりもずっと下であると言えるのだろう塵みたいな俺が、これほどまでに鋭い憎しみを知らず知らずのうちに抱けてしまっているのがどうしてもにわかには信じられない。だから俺の内部よりあふれてくる、彼を骨の髄まで憎しみ尽くそうとする気持ちは、実はそれとは別の感情、それは例えば彼への密かな羨望であったり彼を少しでも受容したく思うことであったりなのかもしれないし、俺だって叶うのならばそういうのであって欲しかったのは確かだ。でも俺が俺の心の中でごうごうと燃え盛る炎のようにしてあり続ける、純粋でしかも膨大な、やつをどうしようもなく忌み嫌う心情にしか触れられずにいたってのは紛れもない事実だったし、それは未だに一向に収まろうとはせずにむしろより高ぶっていくばかりでもあった。薪としてくべられた俺のたわいのない空想や思想は、最初はとても小さくて取るに足らなかったはずの火種を、今では広い世界の全てを焼き滅ぼせるんじゃないかってくらいにまで大きくしてしまっていて、そんな憎しみの業火は今もなお、消えるなんてのは一切合切なくかっかと胸の内で燃え上がり、それはもう凄まじい勢いで俺を支配しようと暴れ回っている。……大分大袈裟な比喩なのかもしれない。でも決して言い過ぎてなどはいなかったし、俺は素直に今の状態を表しただけに過ぎなかった。とは言えそんな風な現状から一つ言えるのは、俺が柳瀬を手の付けられないほどに嫌ってしまったのは彼に非があるからでは決してないってことだった。そしてそうだとすると本当に憎むべきだったのは彼ではなくて俺のこの脳みその方だったと言える。俺がこんなにもやつを嫌いになってしまった原因は全部、俺が好んでやまない頭の体操の方にこそあったと声を大にして言える。だってもしも俺が想像することを好きではなかったんなら授業中にくどくどと思いを巡らせたりはしないだろうし、そうしたら俺もおそらく皆と同じようにして彼の話に真面目に聞き入る毎日を送るだろうし、そういった生活をしていると彼の嫌なところなんてのはまず目に入らずに彼の良さばかりに目が行くようになっていくのだろうし、そうなっていくとしたならば俺が彼に対して最初に抱いたいけ好かないって印象だってオセロをひっくり返すみたいにくるりと変わったはずだったし、いや、でも、そうなったらそうなったで、つまり俺が見聞きしている彼という対称に好意を持つようになったとするなら、雑念がわいてはこなくなっているのだとしても、俺は今度は彼を否定するためにではなく彼を一生懸命に肯定するために頭を働かせていくのだろうから、詰まるところ、俺から悪癖が取り除かれる可能性は死ぬとか事故に遭って脳がやられたりだとかがない限り有り得ないと断言しても良かったくらいであり、そんなこんなで、俺はさっき自らで控えようとしていた与太話をいつの間にか再開させている次第ではあって、あれ、おかしいな、俺は柳瀬をとことんまで憎んでいたはずなのに、彼の全てを忌み嫌っていたはずだったのに、俺の脳内に突如として浮かんできた天秤のイメージは見事に均衡を保っているわけであり、「柳瀬が好き」という質量を持った分銅と、「柳瀬が嫌い」という質量を持った分銅の数は、前者が少なかった状態からいつの間にか変化せしめていたらしく、気付けば同じ数の分銅が両方の皿に乗っている次第ではあった。で、それはシーソーみたいにぎっこんばったん動いているわけはもちろんなく、二つは釣り合っているのだから当然、天秤のうでは同等の高さで停止し、針はぴったりと目盛りの中心を頑なに指し示しているだけだった。……突然だが眠くなってきた。睡魔が踊り出すのと引き替えに俺の瞼は生気をみるみると失ってしまう。まずい。首がこくりこくりと不規則に上下して俺は一瞬だけ頭を机にぶつけそうになる。眠りと死って俺の感覚ではほぼ等しい。実際に死んだ経験はもちろんないけど、例え電車に引かれて死んだとしても刺されて死んだとしても寒すぎて死んだとしても、最後は結局意識が途切れる過程を踏むわけだから、死と睡眠はもう同じなのではなかろうか、とわけの分からない考えを巡らせてみる。死は意識を失う。寝ると意識が飛ぶ。ゆえに死とは睡眠である。というわけで死にそう。永眠しそう。全然頭が機能しなくなってきた。本当に、もう、駄目だ――。……何かの終わりと始まりを予感させてみたは良いが、もちろん俺はどこかにタイムスリップしたり別の世界に瞬間移動したりはしなかった。俺の日常はやはりびくともしなかった。やたら眠い。俺は手元にあったシャープペンシルを回し始めた。くるりと回転するそのシャーペンをみると幾分心が安らいだ。一回親指の上で回ったペン。もう一度同じ動作を繰り返す俺。俺は左利きだった。もう一回ペンを回したところで俺の左手に収まっていたペンはするりと逃げて、机の上にあった開かれたままのノートの上にぽとりと落ちた。俺の視線は何も書かれていないそのノートに移った。すると俺は脳内で紙がじりじりと焼けていくのを想像した。真っ白な何の変哲もない一ページが俺の視線によって発火して徐々に黒く焼けていくのをイメージした。俺の目からは光線など出やしないけれど、その時だけは何だか漫画に出てくる能力者になったみたいな気分になり、俺は本当に目の前の紙の束を焼けるのではないかといった見当違いな期待を抱いていた。俺はじっと白の一点を見つめる。「焦げ付いてくれよ俺のノート!」と内心で叫びながらも、俺は絶対にそんな風にはならないと完全に見切り、多分相当に虚ろな目をしていたであろう俺という一人の男子生徒はしかし、「何か起こるんじゃないか?」って渇望をどうしても拭い切れずにいたんだが、そんな望みのないことを考えながらずっと同じ箇所ばかりを見ていると異様に目が疲れてしまい、俺はふと外の方を見たくなったのだが、俺が座っている席は教室のど真ん中に位置していたため、窓の方を見やるとどうしても他の生徒諸君の面々をも視界に入れなくてはならないから見ようにも見られない。恥ずかしいし、嫌だし、みっともない。……何でこの高校に入学してしまったのだろう? 何かイメージと違った。俺の高校生活はこんなんじゃない。俺の高校生活はこんなんじゃないんだ! 俺はそうやってふつふつとわき上がってきた熱情に当てられて気付けばがばりと頭を上げていた。そうしたら俺の視線の先にはちょうど俺の方を見ている柳瀬の顔面があった。

「……」

「……」

 まずいと一瞬だけ思ったしほんの少しだけびくつきもした。互いに交わしたちょっとした沈黙は思ったよりも激しくぶつかっているみたいだった。だが俺を見下ろすやつの顔が実はのっぺりとしているとその時に感じたからこそ、何でこんな野郎をかっこいいだとかいけているだとかを思う人達が存在するのだろうと、俺は瞬時にひるみをどこかに追いやってぴりついていた。しかし柳瀬の方はそんな俺を他の生徒と同様に平等に見ている風だった。何事にも波風立てないのを心情にしているようで、クールを気取っているようで、だるそうな雰囲気を意図的に醸し出しているようで、それを周りの連中は馬鹿みたいに評していて、それを当人は大したことないようにふるまっているようで、余裕綽々な態度でいるようで、大人ってこういうもんだって暗に示しているようで。でも俺は知っている。柳瀬よ今に見ておけ。俺は今にお前の化けの皮を剥がし、お前の薄汚い本性をつまびらかにしてやる。だが俺は悪を解き明かす探偵でもなければ悪をとっちめる正義のヒーローでもないだろう。加えてもはや、どちらかというと俺の方が悪に部類しているとさえ言えるくらいに、俺は大層性格のねじ曲がったひどい人間だ。だがな柳瀬。惨めな俺だけど、お前に勝っている部分なんて一つもない俺だけど、でも俺はどうしてかは分からんが、お前にだけは負けたくない。何でと言われても俺にはまだ分からん。だがとにかく俺はお前にだけは絶対に勝ってみせる!……ぎろりと睨みを利かせた俺と、それを平然と見下す柳瀬。すると柳瀬は「じゃあ明良。答えてくれ」と、俺に何かの質問を投げかけてきた。しかし興奮しきった俺はやつがどんな問いを俺に聞いてきたのをちっとも分かっていなかった。しかしそんなことは今はどうだって良い。俺はふいに訪れたこの好機を決して逃すまいと息巻いて「はい!」と言い、すっくとその場に起立した。周りは俺のその大きな返事をちょっとだけ訝しんでいたように思う。が、俺は今そんな些細な雑事に構っている場合ではないと内心で「わあ!」と声を出す。俺はこの時にこそやつへの宣戦布告の意味を込めてあの台詞を言うべきだと判断した。俺は満を持して口を開き、頭に一つだけ浮かんできていた「分かりません」という柳瀬への文言をいざ言い放とうとした。が、その時に授業の終わりを告げるチャイムが高々と教室中に響き渡り、俺の口に出すのも恥ずかしい粋がりは強引に幕を下ろされたのだった。

 俺は呆然とその場に立ち尽くし、あんぐりと口を開けたままでチャイムの音を聞き、他の生徒達ががたがたと立ち上がる音を聞き、柳瀬が何食わぬ顔で教室の扉を閉める音を聞いた。すると俺に声をかけてくる男が一人。「危なかったなあ! 明良」

 声の主は名を大山優一と言った。大山は野球部で一年生からレギュラーを勝ち取っていた凄いやつで、俺の元チームメイトだ。……そう、「元」。情けない話なのだが俺はもう野球部の一員ではない。俺はもう野球部を辞めた身でありどこの部にも属していない放浪の身でもある。そんな中で俺が所属している部活をこじつけるとするなら「帰宅部」ってのが一番しっくりとくるのだろう。部員は俺一人だけの小さな部活。……いや、うーん、部活ではないのだろうか? 一応「部」って漢字は表記として馴染んではいるけど、それは何と言うか、他の色々な部活と比較した上での蔑称なのではなかろうかと個人的には思っている。で、俺はそんな帰宅部のエースの座に君臨する男で、ようするにこの高校でもっともしみったれた根性の持ち主が俺なんだってのをまずは言いたい。するとそんな俺の肩をぽーんと景気良く叩いた大山は言う。

「ぎりセーフ! 流石、持ってるものが違うべ明良はよお!」

「まず言っておくが声がでけーよ。……部活頑張れよ」

「はは。まあちょっくら遊んでくるわー。練習だりーしな」

「監督には十分に気を付けろ。……グッドラック」

「何やその唐突な横文字。そして帰んの早すぎな!」

「それは言わない約束だろう、ミスター大山。……じゃあまたな」

「おう! また明日な、明良!」

 大山が帰り際にジャブを打つみたいにして声をかけてくるのは以前からの通例になっていた。そして以前からのというのは俺が野球部をリタイアしてからすぐの頃合いを指し示していた。大山は快活だった。いつも明るくて、クラスでも野球部内でも大の人気者で、何よりびっくりするくらいに優しかった。俺は常日頃から思っている。正直、辞めたやつなんかに声なんかかけるか? もしも俺と大山の立場が逆だったとしたら、俺は多分何も干渉しないように努めるか、下手すればきつく当たってしまうなんてこともあるかもしれない。優しく出来る自信がちっともない。だってそうだろう? 皆が頑張っていて、本当に血反吐を吐いてしまうかのような練習を熟していて、それでも皆で乗り越えていこうなって言い合って、それに一度は「おう!」とはっきりと答えたんだぞ? そんな中一人だけ「辞めます」と部から逃げていくんだぞ? 許す方が難しい。これが普通の心理ってもんだろう。……まあそういうのがあるから皆部を辞めないってのもあるのかもな。皆から蔑まれるのが嫌だ。仲間を失ってしまうのが辛い。そういった感情が働いているからこそ、皆懸命に、想像以上に過酷な訓練に食らい付いている。勝ちたいがためではなく保ちたいがために、皆集団の中で藻掻いていると考えるのも可能ではあるだろう。しかしだからこそ内部の結束は固まっていくんだろうし、だからこそ仲間は仲間としての輪郭を帯びていくとだって言えるのかもしれない。でもそんな中で俺は大山を裏切った。いや、もはや俺が裏切ったのは大山だけではない。俺はチームの皆や監督、マネージャー、とにかく色々な人達の思いを無下にしてしまったんだ。加えて俺は俺の家族にだって迷惑をかけてしまったわけでもあって、なのに俺は未だに性懲りもなく時間を浪費してばかりいる。最低だと思う、自分でも。なのにどうしてなのだろう、大山は俺に本当に優しく、部を抜ける前と何一つ変わらずに気さくにコミュニケーションをとってくれる。いつだって会話の始まりは俺ではなくて大山だった。大山が俺に話を持ちかけ、で、俺はそれを渋々返す体をとる。こんな大山にとっては何のメリットもないであろうやりとりを大山はずっと俺に温かくしかけてきてくれていた。野球部を退部してから本当にずっとだ。でも俺は大山が話をしてくれるのに対して上手く応えられないでいた。それでも大山はいつだってにこりと微笑んでくれた。俺は分からない。というか、痛かった。そのまっすぐな優しさがむしろ痛く、俺はもう、俺をぼろぼろの雑巾みたいになるまで痛めつけてくれと願っていた。そうされた方が反対に楽だったんだと思う。俺はとにかく、色々なものから逃げて楽になりたいだけのごみだった。

 牢獄みたいな教室からそろそろと抜け出し、廊下の端っこの方をこそこそと歩き、階段をひそひそと下りていった俺は、ようやく俺の下駄箱のところに辿り着いた。その下駄箱はゲームで言うところのセーブポイントみたいな役割を担っているような気がしている。今日も無事に襲い来る敵からとことん逃亡して蚊みたいな命を一応は取り留められた。ふう。一つ息が漏れ出た。随分と長いプレイングだったなあ。で、また明日からもこの学校って名のダンジョン攻略は続いていくのか。三年間って果てしないな。俺はたった三年をまるで永遠みたいに感じた。正直すでにうんざりしている。早く、もう何でも良いから終わってくれと切に願わずにはいられない。

 終業を俺は教室ではなく昇降口で強く感じた。で、そこから出ていってようやく俺はこの身が解放されるのを感じた。でも解き放たれた感覚を持つのと同時に、俺はまるで足に枷をはめられているような気分にもなっていた。大して動いていないのに、そして頭だってほどんど使っていないのに、俺の体は鉛みたいに重く、だから少し歩いただけですぐに疲れてしまうのが常だった。ここ山形にもようやく春が到来し、最近続いている晴れ模様は相変わらず継続していて、俺の遥か上の方から降り注いでいる温かな陽光は今日もまた、俺の頭と体をますますどろどろにした。晴れている日がどうにも好きになれなかった。明るくいるのを強いられているような気がした。温かいことは俺に全く似合っていなかった。そしてそもそも俺は外にいるのが嫌いだった。だから俺は足早にチャリ置き場へと進んでいく。何も考えず黙々と、重くはある両足を素早く動かし、俺はずんずんと歩んでいく。雨が降ってくれないかなあと思った。そうしたら俺の足はもっと軽く感じるはずで、そうだったらもっと早くあの場所から離れられるのにと俺は思った。

 自転車に乗った俺の心はさっきまでとは丸っきり違っていた。今の今まで感じていた陰鬱な気分はどこへやら、俺は大層気分良く帰路に就いていた。周りの景色などまるで目に入らなかった。俺はどんどんと風を切って進む。ぐんぐんとペダルをこぎ、すいすいと路地を抜け、はあはあと息を切らしながらちょっとした坂道を上って、ひゅうっと勢い良く坂を下った。米沢市。ここは以前城下町だったせいもあって道が細く、また様々に入り組んでいた。だから帰るのに退屈しなかった。色々な進路をその日の気分に応じて選択し進んでいけたからだ。ごちゃごちゃとした道筋を俺はぐちゃぐちゃと行った。俺の気分の赴くままに、俺の進みたい道を進みたいように行った。そうすると俺はまるで絡まった毛玉を解きほぐしたみたいな気持ちになった。でもそんな俺の中にあるのは解放感ではなくて罪悪だった。俺は多くの人々が今も時間を削って、決して楽しいばかりではない、いや、むしろきつく苦しいと言って良いだろう部活動を行っているのに、罪の意識を感じずにはいられなかった。自転車で駆け抜ける道中をるんるんと楽しんでいたさっきの俺はどこへ行ってしまったのだろうか、今、俺の頭の中にはまたしても、校内で味わっていたみたいなべちゃべちゃした感情が戻ってきていた。それは俺にとっては呪いのような感覚に違いないと思った。もちろん実際に呪われたことなんてないから、呪いというものがどれほど辛いのかは俺には全く分からないし分かりたくもない。ただし俺は心底辛かった。帰宅部が楽で有意義だなんてのは真っ赤な嘘だったと、俺は帰宅部ってのに身を投じてみてようやく気付いた。直に体験してみないと俺には気付けなかった。俺は思う。何て俺は馬鹿なんだろうと俺は何度も思う。……野球部を辞める時も「野球部がこんなに厳しい部活だったなんて知らなかった」と思っていた。そして今俺は「帰宅部でいるのがこんなに辛かったなんて知らずにいた」と思っている。ようは俺はとことん弱かった。何にも夢中になれず、またなろうともせず、だから長続きせず、それを他人や環境のせいにし、逃げ、勝手に嘆き、毎日を楽しく過ごしたかったはずなのに、俺は真逆の思いを抱きながら日々を憂鬱に過ごしている。俺はやはり阿呆で向こう見ずで、何よりとても貧弱だった。俺はペダルを弱々しく回しながらそれを思った。息は切れ、脂汗が滴り、ふくらはぎがパンパンになっている俺はすると、ただ思い切り「うわあ!」と叫びたくなった。立ち並ぶ民家に住んでいるであろう住民への配慮や一高校の一生徒としての体裁を、俺は知ったことかと一蹴出来たらなと強く思わずにはいられない。まだ日も暮れていないってのに静まっている辺りへ、こんな脆弱な俺が思いっ切り衝撃を与えられたらどんなに爽快だろうと、俺は思わずにはいられなかった。というか、今日なら出来そうな気がした。普段と何も変わらない俺だったけど、何一つ揺るがない凡庸な日を今日も送ってきた俺だったけど、でも俺はなぜか今日なら大声を張り上げ、周囲から「うるせーぞ馬鹿!」と罵られる非日常を体感出来る気がしていた。かちかちに凝り固まった俺の日常って膜を突き破れるような気がしてやまなかった。もし仮にそれが叶うとしたら、俺は多分「やーい!」と捨て台詞を吐き捨ててその場から逃亡するだろう。へらへらと浮かれ、チャリを立ちこぎして、俺はもう一度「わあ!」と声を放つだろう。そしてそれを言い終わった後で「ここが河川敷だったら絵になったのにな」と笑うだろう。そんなドラマか何かで何度も目にした気がする分かりやすい青春の一コマってのに俺は憧れた。俺は自転車をとめる。赤を示す信号機のところでぴたりととまる俺が大嫌いだった。交通ルールを守らなければならないのはもちろんそうなのだろうが、それを律儀すぎるほどに遵守する俺がこの日もとても小さく感じられた。ここは市内と言っても都会ではなかったから、車はちらほらと十分な車間距離をとりながらつまらなそうに横行しているだけだった。排気ガスの匂いがちょっとだけした。でもそれ以上に空気が澄んでいるせいか臭いとはあまり感じなかった。……鼻がねじ切れるくらいに臭くあってくれよ。俺はふとそう思って下を見た。目には自分の細い足やチャリのフレームやペダル、そして乾いたアスファルトのグレーがただ目に入っただけだった。……込み上げてくるものがあった。全て運命のせいにしたかった。こんなくだらない毎日が訪れるのは全て俺が悲運だったからだとしたかった。でもそれははっきりと違う。俺が今こんな風なのは偏に、俺が辞めてしまったからなのだ。全部辞めて、逃げて投げ出してしまったからなのだ。俺は顔をがばりとあげる。息を肺に目一杯送り込み、かっと目を見開き、ブレーキを壊れてしまうくらいに握り締め、のどが潰れてしまうのを覚悟し、いざ、自分でも制御出来ないほどの音量で叫ぼうとした。するとその時背後から妙な気配がした。背筋が凍るほどの鋭い視線を投げられているのに気付いた。そしてそれは何も突然わいて出た感覚ではなく、どうやら大分前からずっとそうされていたらしいのを今更ながらに感じた。信号が少し点滅して何度目かの赤に変わった時だった。

「……」

後ろを振り返るのがとても恐ろしかった。しかし俺はふとこの感じが今日初めて味わったものではないとも思っていた。実を言うと今月の初め頃、俺は今日と似たような状況にしばらく陥っていた。多分だけどストーカーにでも付き纏われていたんだと思う。俺なんかをストーキングするやつがこの世の中に存在するのかとその時は軽く捉えてしまっていた俺だったが、よくよく考えてみると俺はとても危険な状態にあったと言って良いだろう。そしてただ付けられているだけではなく、一歩間違えればナイフか何かで刺されてしまうなんて事態にもなっていたのかもしれない。いや、しかし、俺の頭によぎるのは甚だしい被害妄想に過ぎないとも言えるのかもしれない。こんなど田舎で、しかも昼間から、一介の男子高校生が殺傷される事件が起きるのははっきりと言ってどうかしている。で、俺の過ごす毎日ってのは実にどうもしていない。実に乾き切っていて、本当に空っぽで、毒にも薬にもならない。だからそんな、まるでテレビで見るみたいな出来事が俺に降りかかるイメージがどうしても明確にはわかずにいる。何かを慮るのが得意だった俺ではあったのに、今、俺の頭の中に浮かび上がる想像のビジョンにはざあざあとした砂嵐が断続的に発生していて、全貌をいくら確認しようにも確認し切れないままだ。俺はまだその場に立ち尽くしながらそれを思い、依然として俺の背中に当たっている誰かの眼差しばかりに意識を持っていっていた。そうすると俺はもう、いっそずぶりと背に刃を突き刺してくれといった感情を抱き始めていた。佐藤明良、帰宅途中で死す。俺にとっては全然悪くない結末だ。むしろ俺はそんな死に方を暗に切望していたのかもしれない。傍で家族に看取られて死ぬ。病気で死ぬ。事故で死ぬ。自殺する。そういった己の死に方についてを俺は少しだけ思った。何者かに刺されて死ぬ。うん、何か、謎めいていてかっこいいかもしれん。血をだらだらと流して倒れ込む俺。それに少しして気付く町の人。あがる悲鳴。次第に群がってくる野次馬。向かってくる救急車。それを待たずして息絶える俺。……もしも俺がこんな最後を迎えたとして、で、もしもそんな最後がニュースか何かに取り上げられたとして、一体何があるのだろうか。得が果たしてあるのだろうか。俺は思う。すぐに忘れられるだけだとただ思う。家族だってこんなどうしようもない俺がいなくなれば清々するだろう。ただ飯を食い、ただ眠り、ただ排泄し、時々文句を言う。こんな生き物のどこに愛情を感じるのだろう。俺にはそれが分からない。そして俺自身が分からないのだからきっと親父やおふくろ、それに弟なんかには分かるはずもない。そんな風に思っている俺はすると、四月の頭辺りに確かに誰かに見られていたことや、たった今誰かに凝視されていることがまるで嘘であったかのように思い出していた。そうだ。思えば四月初頭の感じだって少しだけ気になっていたってだけで、最近は見られているとか、誰かに付けられているだとかなんて全然思っていなかったわけだし、きっと今回の件だって、不審なんかでは全然なくてただの俺の過剰な思い込みに過ぎないのかもしれないな。はは。何だ、そうやって考えるとちっとも怖くなんてなかったじゃないか。何をびくついてんだよ俺は。畜生。何か腹が立ってきた。俺のただでさえ脆い精神をいたぶりやがって。で、同時に俺にはそんな勘違いをさせる何かの正体についてをこの目でしかと見てみたいといった欲求がわいてもきていた。だからこそ俺は俺の中でタイミングを見計らった上で後ろを振り返ってみようと思い立った。しかしそのタイミングを己の中で合わせる作業ってのが案外難しく、背後にある妙な気配と対面しようとはするものの踏ん切りが付かなくてまごついてしまう。元々プレッシャーには弱かった俺だからそうなってしまうのも仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないのだが、でも現在の俺はあまりにも膨大な怒りを抱え込んでもいたため、緊張していたからって理由で簡単にこの場を立ち退きたくはないというか、むかむかした感情を背面を見やるによって一気に発散したく思っているというか、そんなような心情ってのを持て余していたのもあったから、俺は辺りを(と言っても前方に限られた狭い範囲を)きょろきょろと見て、俺に火蓋を切らせてくれるものが何かないかを一応は探してみたりした。で、結果俺は信号機っていう力強い味方を発見したわけであった。俺は目の前で律儀に仕事を全うし続けていた歩行者用の信号が赤から青に変わった瞬間にこそ、がばりと後ろを振り返ってみようと意を決した。だから俺は目の前にある古びた信号機のマークをじっと見つめて、またそれと同時に俺は俺の息を潜めたりなんかもして、着実にボルテージとテンションを高めていっていた。……赤が点滅し始めた。ハンドルを握る手にはぐっと力が入った。というか手だけではなくて全身に力が入っていた。俺はやはり相当にどきどきしていた。心音が周辺に漏れ出てしまっているかもしれないと俺はちょっと思った。それほどに俺の胸の高鳴りは大きかった。が、それは俺にとっては全く嫌なんかではなく、むしろ俺は多分わくわくしていた。俺の頑なな日常がびりびりと音を立てて破れる瞬間が訪れるような気がしていたからなんだと思って、俺は少し嬉しかった。

 点滅がやみ、赤が綺麗さっぱり青に変わったのを一瞬見届けた俺は、顔を後ろにぐいっと向けた。すると結構離れたところで、自転車を降りた状態で直立している女の人が見えた。その女の人は女性と言うよりも女の子って感じの人で、背丈は低かった。髪は長い。遠くにいるから顔立ちがまだよく分からないが、可愛い子だっていうのはすぐさま分かった。そしてそのとても可愛い女の子は、俺の通っている高校の制服を華麗に着熟していた。見慣れているはずのその制服姿がなぜかその時は新鮮に見えた。で、俺はその子に対して「見かけない顔だな」と、心の中だけでぽつりと思っていた。しかしそんな風にのんきにしていられたのはほんの少しの間だけだった。俺はその子が俺に向かってゆっくりと歩みを進めているのに気付いた。その子はゆっくりと、表情一つ変えずに、俺の方にじりじりと歩み寄ってきていた。瞬間、俺は言葉にならないほどの恐怖を感じた。あ、まずい。俺はこれだけを思ったが、俺の体は迫り来る恐怖によってすくんで全く動かなくなってしまっていた。その女の子の顔がよく見えるようになってきた。その子は笑っていた。本当に純粋無垢な笑顔を浮かべていた。俺はそれが途轍もなく恐ろしかった。は? 何? 何で俺の方に向かってくるのかがまるで分からなかった。彼女は一直線に俺に向かって自転車を引いてくるだけだった。自転車のタイヤがからからと回る音が次第に耳に入ってくるようになった。彼女は変わらない笑みを携えたまま歩いてきている。怖い。何なんだよ。笑顔が全くといって良いほど崩れなかった。それがより俺の恐怖心を駆り立てた。遂に彼女は俺の目前までやってきた。……やっぱり見ない顔だった。そしてびっくりするくらいに可愛い顔をしていた。が、それでも俺はその子を怖いと感じずにはいられない。しょんべんを洩らしてしまってもおかしくはなかった。声が出なかった。全身は相変わらず微動だにしなかった。するとその女の子は「ちりん」と一回だけベルを鳴らして、俺の隣をすうっと通り過ぎていった。そしてまるで何事もなかったかのように、彼女は青になった信号機の元で、横断歩道をてくてくと渡っていった。

 俺は姿が見えなくなるまでその女の子のことを目で追っていた。そして完全にその子が見えなくなってしまった後で、俺は一人、「何なんだよ」とぼそっと呟いていた。

 実に奇妙な空気を味わった後の俺はどこにも寄り道をする気になれなかった。本来ならばあまりある時間を消費する行動をとっても良かったのだろうが、俺は今し方遭遇した謎の美女のせいでにっちもさっちもいかなくなってしまっていた。一体何だってんだよ。せっかく今日もカラオケで好きな歌を歌いまくり、ゲーセンで好きなだけ得意なリズムゲームをプレイし、本屋で好きな漫画を探し回り、コンビニで好きなココア飲料とメロンパンを買い、それらを飲み食いしながらどこかのベンチで町行く人々を観察し、まあ要するに十分に米沢という地を満喫してから俺の家に帰りたかったってのに、今日の俺はもうあの微笑みから一向に逃れられなくなってしまっていて、やはりどこにも立ち寄る気分にはなれなかった。……ま、今列挙した俺の理想の帰宅部生活なんてのはもはやとうの昔に諦めてしまったわけではあるんだが。もちろん帰宅部になりたての頃の俺は浮かれていたし、帰宅部になったからには大いにだらけた日々を謳歌しようと決めていたのも確かだったんだが、そういったのに反してある俺の意志が、楽しくてしょうがないであろう帰宅部での日常を送るのを間違いなく躊躇させてしまっている。あんなにも望み焦がれていた夢のような帰宅部としての活動を、俺は全くと言って良いほど楽しめていないって話だ。で、ちなみに言っておくとするとその意志ってのは「さっさと帰ろう」であり、なぜそうなるのかを紐解くとすると「他の皆が部活動なり勉強なりに汗水垂らして頑張っているって時に、俺だけがぐうたらと怠けていて良いわけがない」って感じだ。でも俺が好きなだけ豪遊したかったのは本当だったし、さっき一人で並べ立てた実に俺好みの行動パターンを気の向くままに味わいたかったってのも本当だった。だけど何よりも本当だったのは俺が実に臆病者で、粋がったり、不良ぶったりをちゃんとは出来ない体質だったってことだった。そんな俺を俺は今日も一番嫌っていた。根は真面目。本来はしっかり者。何度そういった性質から逃れようとしただろうか。俺はそんな風に人から言われるのが怖くて、大嫌いで、だから校内では両手をポッケに突っ込んで歩き、それだから椅子には浅く腰かけ、だからこそ四六時中眠いふりをし、だから俺はきつい目つきを周囲にふりまき、だから俺は「話しかけるな」って雰囲気を醸し出している次第ではあった。でもそんなふるまいは俺にとっては徒労以外の何物でもなかった。うん。俺がどうして何もしていないのに疲れるのかはもう知っている。つまり俺は何もしていないふりを一生懸命に演じているから疲れるんだ。俺の内側の方ではずっと前から、俺って人間の真実を隠すための動きを実に活発に行っていたってわけで、結局俺の本当の姿ってのは実に生真面目に出来てしまっているんだよな。ふむ。そんな俺がやっぱり、世界で一番嫌いだった。次々と頭を埋め尽くしてくるそういった観念を振り払うために俺は自転車をこぐスピードを上げた。まだ続く帰路をチャリンコを速くこぐによってぐんぐんと進んでいった。まだ夜にはなっていなかったが、夕方と呼べるくらいには日は傾き始めていた頃だった。

 米沢駅に隣接してある駐輪所に辿り着いた。その中には当たり前ではあるが自転車が複数駐輪してあった。しかしそれらの数はぽつぽつとしていた。まだ他の多くは学校だったり会社だったりに在中しているから、自転車がとめてある数はそういった他に応じて少なかった。鉄骨とコンクリートで建てられているここの中は暗くひっそりとしていた。店番をしているおっちゃんが事務所内で茶を飲みながら週刊誌を読んでいた。いや、もう何回も読んだ後なのだろうか、彼の表情には色味がなく、読んでいるってよりかはぼうっと眺めているって感じだった。俺はその人に軽く会釈をして「こんにちは」と言った。でもそう言った後でもしかすると「こんばんは」って言った方が良かったのかもしれないと一人で思った。そのおじさんは「はいよ」と俺の方は見ずに言った。俺は定期券を見せることなくその場を通過し、いつもの場所に俺のチャリをとめにいった。ここは二階建てではあったけど、俺は二階のスペースを使った試しがなかった。一階の窓際の空いているところに適当に駐輪していたらいつの間にかそこらへんが俺の縄張りと化していた。だから俺は今日もその辺りに自転車をとめてそそくさとここを後にした。

 俺は米沢駅に併設してある売店の入り口から中に入った。で、通路を通る時に売店の方を軽く見てみた。そこにはあまり人はいなかったが、早々に帰宅してきた点では俺と同じと言えるであろう他校のヤンキーが今日も数人、そこの雑誌売り場のところで何かを立ち読みしていた。だから俺は何かを買おうにも買えなかった。俺はちらっと彼らの方を一瞥しただけだったから何を読んでいるかまでは分からなかったけど、きっとそれは漫画か週刊誌だったんだろう。漫画だったら不良漫画、週刊誌だったらエロいページ。そう一瞬だけ思った後で「偏見」って言葉を思い浮かべた。俺の偏見がもしも彼らに筒抜けになったらと思うと背筋が冷えた。だから俺は漫画だったら青年漫画、週刊誌だったらコラムと、彼らの読んでいた読み物についての上書きをしたが、こういった物思いをされるのが彼らの気に障ったとしたらと察し、結局何一つ彼らについてを考えないように努めながら足早にそこを横切っていった。

 俺は待合室のベンチには座らずにすぐに改札を抜けた。改札のところでは駅員の方が俺の定期券を見て「どうぞ」と言い、手でホームへと俺を促してくれた。その人はいつもマスクをしているように思えた。しかし風邪を引いているわけではなさそうだった。花粉症だろうか、時期的に、と俺は思ったが、マスクがあまりにも彼と彼のスーツ姿に溶け込んでいたのがあって、それも多分違うと改めた。「いつもお疲れ様。丁寧にどうも」と俺は言いたかったが、何か偉そうに聞こえるかもしれないと思って、黙って会釈だけをしてホームへと行った。ホームに入った俺は自動販売機近くの鉄柱に身を預けに行こうと静かに歩みを進めた。ちらほらとしか人がいなかった。それが田舎の駅だからなのか、それとも時間帯のせいによるものなのかは俺にとってはどうでも良かった。大事なのは人が少ないかどうかと居心地が良いかどうかの二点だった。そしてこの時分に関して言えば、この駅はそれらの両方を十分に満たしていると言って良かった。高架橋の階段近くの柱の傍で身をかがめる他校の女子高生が今日も目に入った。他にもいた数人には不思議と目が向かなかった。彼女は良質なイヤホンを首にかけながら線路の方を眺めていた。彼女を目にするといつも俺は「平常」って言葉を頭に浮かべた。休みの日以外はほぼ毎日出会していたにも関わらず、俺と彼女の間には本当に何にも起きてこなかったし、これから何かが起きる気配もさらさらなかった。そういったのを俺は平常であるとしていたわけだった。彼女はショートヘアで、髪を茶色に染めていて、美人だった。肌が白かった。ただし傍目から見る限り目は暗く沈んでいて、俺は彼女が何かに疲れているように見えていた。そして、だからこそ彼女はいつも体育座りでいるのかもしれないと密かに思ってもいた。販売機の隣が俺の定位置であるのと同じように、名も知らぬ彼女もまたいつもと同じ場所でいつもと変わらずに呆けているのを横目に見て、俺は心底安心した。同士と言うほどの仲ではもちろんなかったし、仲間と呼べるほど親しくだってなかったし、友達では元よりなかった上、当然俺の彼女なんかではなかったんだけど、でも赤の他人って感じにはどうしても思えなくて、そんな風に思えるのがちょっとだけ嬉しかったりもした。だからこそ俺は大体一時間に一本のペースでしかやってこない電車を、気長に、悠々と待っていられたんだと一人で思った。

 電車がやってくるまでの間俺も線路の辺りを何となく眺めて過ごした。でも俺の目に映るのは敷き詰められた砂利や古くなってはいる枕木やレールしかなかった。それらは総じて彩りに欠けていた。彩る必要が全くないってのは分かっていたんだが、こうも地味な色合いばかりだと目が退屈だった。しかしつまらなくある反面じーんと心にくるものはあった。地味で華やかさの欠片もないそれらが電車っていう乗り物を下でがっちりと支えているからこそ人々の生活は回っていくんだよなあと、俺は唐突に訪れた感傷に軽く浸った。でも数秒後にはそのしみじみとした感情はどこかに消えた。で、そしたら急に悲しくなった。線路は確実に人の役に立っている。レールも枕木も砂利も、明確な役割があって今ある場所に配置されている。でも俺はどこにも何にも組み込まれている気がしない。誰にも必要とされていないような気がする。物言わぬ設備と文句ばかりを言う俺という人間。俺と線路は対極に位置しているのかもしれない。線路は今日もまた、多くの人達を方々に運ぶ電車ってやつの手助けをしている。そして俺は今日もまたその働きに甘んじて早々に帰る。非常に情けない。けど俺にはそうするしかないし、そうした方がきっと良い。俺はおもむろに空を見上げた。空は晴れ渡っていたが、ホームから見上げる空は結構狭く、また少しだけ暗く感じられた。名前も知らない小さな鳥が二匹空を舞っていた。厳しい冬を乗り越えたせいもあるのだろうか、鳥達はとても生き生きとしていた。自由で良いなあと俺は思った。そして、いや、俺も自由っちゃ自由じゃんとも思った。友達が俺にもいれば違うのだろうか。俺と共にいてくれる存在が一人でもあったとするなら、俺も少しはあの鳥達のようにのびのびとしていられるのだろうか。俺を友だと思ってくれるやつは果たしているのだろうか。俺はそういったのを少しだけ考えた。でも俺にはそれらの正解が分からなかったし、また俺がどうこうしてもどうにもならない問題だと思った。人の好意が全て嘘だったり俺に気を遣ってのものだったりに思える。人からもらう言葉が全て世辞や建前であるように思える。そういった病気みたいなものに俺は感染してしまっているのだろう。で、それは多分俺が幼かった時からすでに俺の中に居座っていたんだろう。発症したきっかけは部活を辞めたことにあったとは思うけど、根本にある人と上手く繋がっている気がしないって思いはきっと、俺が生来より持っていた気質に違いない。俺はふと、階段のところでまだかがみ込んだままであろう例の女子高生の方を見たくなった。俺がセンチメンタルな気分になっている時、彼女はどういった感情を抱えてそこにかがみ続けているのかを確認してみたくなった。彼女も俺と同じであったら良いなと思った。彼女も俺と同じように鬱屈した日々の中でうようよと漂っていてほしいと強く思った。そうしたら俺と彼女は友達になれるかもしれないと思った。名を知らなくても、言葉を交わさなくても、それはれっきとした友の証だと俺は思わずにはいられない気分だった。俺が彼女を見やると彼女はヘッドホンで耳を塞ぎ、好みの曲であろうものを薄く微笑みながらに聞いていた。素敵過ぎる笑みだった。今を楽しんでいるって顔をしていた。凄く綺麗な顔だなあって心から思った。でも、また今日も俺は彼女と友達にはなれなかった。俺がそれを思った時、電車が早めにホームにやってきた。「ぷしゅう」と音を立ててとまった列車の扉を開き、俺はとぼとぼとがらがらの席に腰かけ、発車時刻までの間、ひたすらに呆けていた。

 俺にとって一番好ましくない出来事が電車の中で発生してしまった。俺は他校に進学した同級生と鉢合わせになってしまった。俺は今日も電車が発車するまでの間大人しく暇を潰していただけに過ぎなかったってのに、その俺が最も避けたいと思っている事態は非常にも俺の前に突然に訪れてしまった。列車内に「まもなく発車します」のアナウンスが鳴り響いた直後、駆け足で車内に入ってきた人物が二人あった。その二人の内の一人が俺の知った顔だったってわけで、俺はそいつとあろうことか目を合わせる形になってしまった。くそ。違う車両に乗り込んでおけば良かった。そう一瞬だけ思った俺を余所に、俺が「そいつ」と心中で言った男は、ずいと俺の前に立って俺に話をふっかけてきた。

「おー! 明良じゃん。何? 今帰り?」

 その男は名を浅沼隆行と言った。浅沼はサッカーが抜群に上手い男だった。その印象は俺が彼に初めて会った時から根強く俺の中に残り続けていた。で、俺が初めて彼に会ったのは俺がこの山形って地に移り住んできてすぐの頃合いだったから、えーと、それはそう、俺が小学二年生の時だ。その頃から浅沼はサッカーに明け暮れる毎日を送っていたように思う。朝の休み時間には決まって校庭でボールを蹴っていたし、授業と授業の合間にはいつだって彼のサッカー仲間とサッカーについての話をしていたし、昼の休み時間にもグラウンドで活発にサッカーボールと戯れていたし、授業中だって先生の見ていないところで筋トレに勤しんでいたし、放課後にだって一番に外に駆け出していってやはりサッカーって競技に没頭していたわけであって、つまり俺は浅沼がサッカーに熱中する日々を小さい時から送り続けていたってのを言いたかった。そしてそんな浅沼は昔から今に至るまでずっといけたままだった。彼の運動神経は群を抜いて良かったし、顔だって周囲を圧倒するほどに良いし、言動だってまるで漫画の主人公のそれみたいにきらきらとしていたし、行動だっていちいちかっこ良かった。そんな俺とは別世界に生きているような人間が何だって俺と同じ時間に帰宅しているのか。俺にはそれが全くと言って良いほど分からなかった。それにそういう事実が確かに俺に降ってきたのを決して信じたくはなかった。俺は浅沼と目を合わせられないままに「おー」と小さな声で言った。本当は話したくなんてなかったけど、彼から放たれる「同級生に久しぶりに会ってテンションが上がった!」みたいな雰囲気が、俺に話をするのを強いているような気がして黙るに黙れなかった。……列車が動き出した。すると浅沼は俺に対して笑いかけて言う。

「めっちゃ久しくね? 会うの」

「な。……元気そうだな」

「おうよ。でも明良の方はあんまりって感じだな」

「まあ、ぼちぼちな」

「そっか。まーとにかくなついな!」

 浅沼ははつらつと話していた。でも俺はそういうのが伝われば伝わるほど辛くなった。「俺とは違って」って思いが俺の口の動きを鈍くした。上手く言葉が出てこない。結果俺は浅沼にそっけなく接してしまったかもしれないと思ってまたさらに自分が嫌になった。で、俺の視線は浅沼の隣の方に移った。すると俺の口は俺の中に突然わいた卑しさを発端として自然と動く。「隣の人、彼女?」

「ん! んだよ? へへ。結構可愛いべ?」

「……もう。『結構』は余計なんでない?……初めまして。隆行君の彼女の園崎です」

 分かり切ってはいたんだけど、俺はその分かり切ったことが間違いであったら気が楽なのにと思わずにはいられなかった。「隆行の彼女」と言ったその園崎って女は当然であるかのように美人さんだった。ちょっとだけ残っていた独特の訛りによる田舎臭さを一変に帳消しにしてしまうくらいに、彼女はとにかく浅沼に似合いのべっぴんさんだった。で、俺はそんな彼女の自己紹介に対して「あ、どうも。佐藤って言います」と律儀に応えていた。でも、佐藤っていう俺の名字を名乗る必要はもしかするとなかったのかもしれないと言ってから気付いた。……下心が出てしまった。俺は目の前で淑やかに浅沼の彼女をやっている園崎さんに一瞬にして心を動かされちまったようだった。彼女のブレザー姿は清楚で可憐だった。しかしその制服は浅沼の通っているところの女子が着るものとは違っていた。紺色の生地に赤のリボンがよく似合っていた。ここらの高校の制服は総じて野暮ったくて間違っても洒落ているとは言えない出来ではあったというのに、彼女がそれを着ると全くの別物みたいに見えた。彼女に着てもらっている制服にもしも感情ってものが存在するとしたなら、きっとその制服は大いに喜び、また誇っているに違いない。校則通りであろうスカート丈が彼女の清楚さをより引き立てているように思えた。しかしその下にすらりと伸びる白い足は妙にいやらしく、長いソックスでほとんどそれらは露わにされていないってのに、彼女の両足は俺の琴線にばっちりと触れてしまっていて、叶うならば一度撫でてみたいって気が一瞬だけわいた。でもそれに覆い被さるようにして生じた過度な緊張によって、その考えはすぐにもみくちゃにされてしまった。俺の視線は園崎さんの足から胸の辺りに移った。着痩せしてはいる彼女のバストではあったけれど、おそらく脱ぐと結構凄いんだろうなあと、俺は危うくよだれを垂らしてしまいそうになった。そうしたら俺の視線に気付いた園崎さんは「宜しくお願いします」と苦笑いを浮かべながらに言って、後は隣の浅沼の方を向いた。で、軽く肘で彼の脇腹の辺りを小突いた。が、浅沼は俺が園崎さんをいやらしい目で見てしまったり、園崎さんがそれを嫌がっていたりするのに一向に気が付かないままに会話を続ける。

「不細工が何か言ってっけど、まあ、宜しくしてやってな」

「不細工って何だべ、不細工って。もう。隆行君ってほんと意地悪」

「こんなもん意地悪でも何でもねーべ。俺は事実を言っただけ」

「ひどーい。……私、隆行君の彼女、やめようかなー」

 そう言った園崎さんはちらりと俺の方を見やった。「佐藤君の方が隆行君よりもうんとかっこいいし!」

 そう言われた俺の方はどういう顔をして良いかがすぐには分からなかった。でもそう言われて嬉しいと不覚にも思ってしまったせいで、多分俺はその時、だらしのないにやけた笑みってのを浮かべてしまったかもしれなかった。するとそんな俺の腑抜け面を見た浅沼は「ふーん」と言って、「まあ、明良ってイケメンだしなあ」と言った。浅沼は少々むくれていた。「でも俺の方がかっこよくね?」と言いたそうな口をしているのがすぐに分かった。でも彼は俺が頭に思ったその台詞を口にはせず、俺から目線を外し、後は園崎さんの顔をじっと見つめた。浅沼の横顔は驚くくらいに整っていた。でもそんな整った横顔が携えているのは不安そうな表情だった。浅沼はみるみるとしょんぼりしていった。子犬みたいだと俺は思って、そんな浅沼を可愛いとさえ思ってしまった。で、そういう風に思ったのは何も俺だけではなかったらしい。園崎さんはそんな浅沼に対して「ふふ」と可愛らしく笑いかけ、後は浅沼の頭を優しく撫でた。園崎さんはただ少し笑んだだけで何も言わなかった。でも俺の頭では「隆行君の方がずっとかっこいいよ?」ってのがはっきりと再生されていた。で、それから二人は蕩けるような視線を交差させて、俺という存在を完全に二人の間から消し去った。園崎さんにしてやられた。俺は噛ませ犬だ。俺はふとそういったのを思ったが、別にがっかりしたりはしなかった。そう扱われるのを予期していたし、そう扱われて当然だと思っていたからだ。そう分かり切っていた分、俺はだんだんと恥ずかしくなった。園崎さんが見つめる先にいるのは浅沼以外にはいなかったってのに、ちょっとかっこいいって言われたぐらいで舞い上がってしまった自分を心底情けないと思わずにはいられなかった。その点についてを俺は後悔せずにはいられない。俺の笑顔なんてのは結局気色の悪いにやけ面にしか成り得ないのだ。俺がそれを思っていたら、しばらく二人で見つめ合っていた浅沼と園崎さんが、見つめ合うのをぱっとやめて、座っている俺の方をふんわりと見下ろした。

「へへ。わりーわりー。明良の前でのろけちまった」

「いや、全然良いよ。気にすんなって」

「……サンキューな。明良」

「お前の彼女、やっぱすげー可愛いじゃん」

「……『まあまあ』な」

 浅沼は鼻の下に人差し指を持っていって「へへ」と笑った。真っ白な八重歯がちらりとこぼれた。それは彼の爽やかな笑顔をより引き立てていた。そしてそれを思っていたら俺は浅沼の健康的な肌にも気が向いていた。春先の今は分かりやすく肌色をしていた彼の肌だったが、夏が近づいてくるにつれて、それはまるで木々の色味が巡るみたいに変化していくに違いない。真夏の太陽の下、真っ白な歯を覗かせながらグラウンドを駆け巡る小麦色の肌をした美青年。人並み外れたテクニックをもつ彼の名はそう、浅沼隆行。はあ。溜息が思わずこぼれ出た。何と魅力的なんだろうと思っての溜息だったのか、それともそんな浅沼と俺とを比べて出た、俺の鬱憤を紛らわすための溜息だったのかは定かではない。ただとにかく俺は溜息をつかずにはいられなかった。浅沼って人間が思った以上にかっこ良く見えて、同時に彼がやっぱり俺とは離れたところで生きている人間だってのを痛感して、俺は二人の前であるにも関わらず、こぼれてくるものを抑えられなかった。

「佐藤君ごめんね。……私ってほんとひどい」

「いや、全然。俺の方こそごめんね? 園崎さん、俺から変な目で見られるの、嫌だったでしょ?」

「変な目だなんて、そんな。……佐藤君の目元、きりっとしててかっこいいよ?」

「いやいや。それはないよ、本当に。……あー、俺も何か彼女欲しくなってきたー」

「ふふ。きっと佐藤君になら素敵な彼女さんが出来ると思うよ?」

「はは。……園崎さんみたいな?」

「私よりもずっと美人さんが、だよう、もう」

「園崎さんより美人っているの?」

「いっぱいいるよー、もー。佐藤君ってば、やめて。恥ずかしいべ」

 園崎さんは顔を赤らめて照れていた。でもそれが演技であるのが俺にはすぐに分かった。俺は彼女の声の調子から彼女が全くと言って良いほど俺に興味をもっていないのを敏感に嗅ぎ取った。園崎さんが好きなのはあくまでも浅沼の方だってのをまざまざと見せつけられたような気が俺にはした。でも、俺は園崎さんを結構良いやつだとも思った。俺を巧みに利用して浅沼にアプローチを仕掛ける辺りは流石に少しあざといなと思ったけど、でも、そうまでして彼女は浅沼って男に好かれていたいんだなあって思うと、園崎さんが可愛く思えたし、そんな園崎さんのやらかしたちょっと狡猾な行動にも好感を持てた。……まあ、そりゃそうか。浅沼は本当にモテるやつだからなあ。浅沼の彼女でいるっていうのはつまり、浅沼を好きだった他の女子達を全員敵に回しているようなもんなのかもしれない。だからこそ園崎さんは賢く、またずるくならざるを得なかった。そういった周りの女子共から浅沼を守り抜くために、浅沼をずっと引き留めておけるほどの頭と裁量がどうしたって必要だった。俺はそういったのを思うと「お疲れ様」と言って園崎さんを労いたくなった。で、それと同時に俺は浅沼に対して「馬鹿だなあ」とやんわりと言ってあげたい気持ちにもなった。

「で、明良は何で今帰りなん?」

「ん? いや、俺、部活辞めたからさ」

「え? そうだったん?」

「そう。で、することなくて暇だからすぐに帰ってるってわけ」

「はー。そうだったんかあ。……色々大変だったんだべ?」

「まあ、そこそこ」

「勉強も大変そうだもんなー、明良んとこ」

「周りの連中は大変そうにしてるよ」

「おー。でも、明良は苦にはしてない感じ?」

「俺は単に諦めてるだけ」

「何だそれ。……へへ。まあ、明良ならどこでも上手くやってけるって」

「だと良いんだけどな。……で、浅沼の方はどうしたん? 今帰りなんて珍しいな」

 そう言った後で俺は「しまった」と思った。そして安直な質問をしてしまった自分を恥じた。さっき俺は浅沼に馬鹿だと言ってやりたいと思ったばかりだったけど、馬鹿なのは彼ではなくて俺の方なのかもしれないと一人で訂正した。浅沼達が今帰宅している理由が唐突にふってきた。浅沼はおそらく部活で忙しい時間帯であろう今、園崎さんを連れて帰宅している。で、彼や彼女は体調を崩しているわけでも怪我をしているわけでもない。つまり何かトラブルがあって抜け出してきたって感じではない。加えて二人はとても今を楽しんでいるように見える。であるならば正解は大体決まってくるよなあ。あーあ。どこまでも見せつけてくれちゃってまあ。俺は浅沼の太ももに拳をこつんと当てた。彼の太ももはとても筋肉質だった。日頃からよく鍛えてあるのが触れただけですぐに分かった。すると俺からそうされた浅沼は「ん? どうした?」と言って軽く笑んだ。俺はそんな鈍感な彼に対するうらやましさを拭えない。……電車が俺の降りる駅に停車した。だから俺はのろのろと立ち上がって近くの開閉ボタンを押しに行った。「ピンポーン、ピンポーン」と音をたてて扉は開いた。俺は車両から出ていった。でも浅沼の方は降りる気配を見せなかった。が、本来なら同学区に住んでいる浅沼も俺と共に降りて良かったはずだった。彼は園崎さんの隣でにこにこしながら俺に、「じゃあ、明良、またな」と言っただけでその場から動かなかった。そして園崎さんも俺に「さようなら」と言ってにこりと微笑んだだけだった。だから俺は「おう」と空返事をしてそこを足早に離れた。高畠駅に降りる乗客は俺を含めても数人しかいなかった。俺はとてもやりきれない気持ちになった。浅沼はきっとこれから園崎さんの家にでも招かれる手はずなんだろう。それでそこで二人で上手いもんでも食って、語らって、良い雰囲気になったところで園崎さんの方が浅沼にセックスを持ちかけるんだろう。園崎さんはああ見えて結構激しいそれを好むんだろう。だから体力のある浅沼の方が先にばててしまったりもするんだろう。でもそれを園崎さんは咎めたりはしないだろう。「また今度ね」と言って浅沼の気を引き続け、それで二人はまた互いに部活なりを抜け出して肌を合わせるんだろう。……畜生。それに引き替え俺は何だ。ただ早く家に帰るだけ。それしか出来ない童貞。時間だけを持て余した愚図。惨め過ぎるにもほどがあるだろうよ。……だがな、俺は良いなあ、なんて決して思わないぞ? 悔しいなんても思ってないぞ? だってそもそも、俺みたいなやつに彼女なんて出来るわけがないんだから。そんなの、とっくに諦めてしまったんだから。辛くなんてない。寂しくなんてない。嗚呼! 童貞万歳! 帰ったらオナニーでもしてさっさと寝よう! 俺はそんな風に思って力強く歩んでいった。改札のところで駅員から「おかえり」と今日も言われた。にたにたとした笑いが嫌でも目に付いた。あーもうただいま! 俺は心の中でそう叫んだが、実際は軽く頭を下げただけだった。俺はさっさと駅を出た。そして出たところでぴたりと立ちどまって空を見上げた。夕焼けがとても綺麗だった。そんな中俺は思わずにはいられない。「なあ神様。俺も顔はいけてるんだ。ちょっとは誰かと出会わせてくれても良いんじゃないか、空なんか綺麗にするよりも先に、よ」

 駅を出た後は駐輪場にまっすぐに向かっていった。米沢の立派な駐輪施設とは違って高畠駅近くのそれは吹きさらしになっていて、天候が悪い時なんかにはよく自転車が将棋倒しになっていたりもするんだが、今日はあいにくの晴天だったからそんな風な事態に陥るなんてのはなく、俺の母親から譲り受けたおんぼろのママチャリはとても大人しく、盗まれたり壊されたりなんてのもなく、朝、俺がとめた状態そのままにあった。俺の以外にもチャリンコは結構な数駐輪されていた。それはここらの学生や電車を利用する社会人なんかが、今の季節、通勤に自転車を二台使用してる場合が多いからだった。米沢の方の駐輪所がすいている時、つまりまだ各々が職場や学校から帰宅していない時は当然、高畠の方のチャリ置き場の方はぎゅうぎゅうになっていた。俺はバッグから鍵を取り出した。そして他のに挟まれるようにしてあった俺の自転車の鍵をかちゃりと解いた。俺はずるずると自転車を引き出した。嗚呼、愛しのマイバイシクル。やっとお前に触れられるところまできた。やっとこさ帰れる。今日も頼むぞ。無事に、安全に、俺を家まで導いてくれ。……まあ運転するのは俺なんだから、安全に帰れるかどうかは全部俺次第なんだけど。

 俺の家はわりと駅の近くにあった。で、そこに辿り着くには大通りを通るのが一番手っ取り早かった。俺は駐輪場を後にしてからはぐんぐんとペダルを回した。何か今日は色々あって疲れたから早く家に帰って一休みしたかった。俺は残り少ない力を振り絞ってチャリをこいだ。コンビニやスーパーやドラッグストアや飲み屋なんかが間隔を置いて立ち並ぶ中を俺は突っ切っていく。風を切り、浴び、勢い良く進んでいくのは何だか気持ちが良かった。でも俺の青春ってやつはどうしたってくすんでいて、だから俺はふと「全然爽やかじゃねー」っても思った。肥料の匂いが軽くしていた。匂う方をちらりと見やると田が広々と広がっているのが見えた。町の中心なのに結構寂れてるよな。まあ田舎だからしょうがないか。俺が一瞬そう思った時、「俺の生活がちっとも華やかじゃないのも、『田舎だから』だよな、きっと」と、軽く自分を慰めてみたりもした。でも胸のつかえはちっとも取れず、むしろそれは深く刺さってきたような心地がしたから、俺は自転車のギアを切り替えてより急いで家に向かった。で、それが功を奏してだろうか、体感では五分とかからずに俺は家に到着していた。

 俺は車庫の手前の方に自転車をとめた。本当は奧の方にチャリを置くスペースを設けてあるのだが、慣習が俺の行動をねじ曲げてしまったため、結果ほとんど車庫に入ってすぐのところに捨てるようにおくようになった。でも俺はそれを悪いとは思っていない。むしろそうするようになって自転車を毎度奧から出してくる手間がなくなって余裕が少し出来た。だから俺はその余裕を睡眠時間を延長するのにあてた。するとどうだろう、俺がほんの少しだけ出来たと言った余裕とやらは一瞬にしてどこかに消え去り、その分俺はむしろ毎朝忙しなく起床し、ばたばたと用意された朝食をかき込み、という生活を送る羽目になった。自転車を奧の方に置いていた時はもっとゆったりとした時間を過ごしていたと思うけど、それを変えてからは徐々に何もかもが狂っていってしまった。そしてもう昔の、ある程度規則正しくはあった生活には戻れそうにない。嗚呼、何と恐ろしいことよ。チャリの置き場所一つで習慣ってのは簡単に崩壊する。で、一度壊れてしまったリズムを取り戻すのは容易ではない。あー、二度寝最高!

 とぼとぼと力なく歩いていった俺は玄関のところまで行き、鞄から鍵を取り出して戸をかちゃりと開錠した。家の中はしんと静まり返っていていた。まだ誰も帰ってきていない。今日も俺が一番乗りだ、わーい。……一番になってこれほど感情が揺さぶられない、むしろ恥ずかしい気持ちになるなんて珍しいな、なんて思いながら俺はローファーを脱いだ。そしてすぐにバッグをほっぽって洗面所に手を洗いに行った。洗面所は脱衣所でもあった。隣には風呂場があったが、いつも風呂はどこかに出かける前に入ると決めているから、今はそこには用はない。俺は鏡の前で制服のボタンを手早く外した。加えて俺は制服をこの身からひっぺがし、中に着ていたちょっと汗ばんだTシャツもすぐに脱いだ。シャツを側に設置されている洗濯機の中に入れた。その後でちらりと鏡に映った肉体を確認してみると、まだ腹筋が割れているのが見てとれた。ちょっとだけ喜ばしかったけど、太り過ぎてもいないし、痩せすぎてもいないその体付きがあんまり好きではなかった。最もあるべき姿であるのは間違いないのだが、それが最も面白みに欠ける体型でもあったのを否めない。俺はそれが嫌だったから鏡からすっと目線を外し、後は手に抱えた制服を片付けに二階の自室へと行った。階段を軽快な足取りで上がっていって部屋に入った俺は制服をいつものハンガーにかけた。そのハンガーにかけられた状態の制服をじっと見て、俺は俺の制服がブレザーではなくて良かったと胸を撫で下ろす。学ランは良い。ちょっと小さいサイズのそれを着るだけで他を威嚇するヤンキーのような出で立ちになれるから。俺の本当を不良のような服装ってのが誤魔化してくれるから。多分本物の不良達は他を圧倒するため、攻撃的であるために学ランを着るのだろう。しかし俺は己をひた隠すため、防御的であるためにそれを着ていた。俺の一番柔で、ピュアで純粋な部分を屈折させて他に見せるためには短ランは必須だった。それがなければ俺はとうに学校からも逃げてしまっているだろう。俺っていう人間の素をもしもそこでつまびらかにしてしまったらと思うとぞっとする。立っているのすらもままならないのを思ってさらに俺は恐怖する。だから俺は本日も、心の中だけで学ランに「ありがとうございます」と言った。それに仏様を拝むみたいに手を合わせたりもした。「今度手入れでもしよう」と俺は思った。で、そう思ったら何かが一段落したような気分になった。俺は衣類ケースの中からださいジャージとだぼだぼのシャツを引っ張り出した。それにささっと着替えた俺は後は一階の茶の間へと一目散に行ってぼうっとテレビを見て過ごした。夕方の番組は正直に言うとそんなに面白くはなかったが、何も考えずに見ていられるのがあったから別に嫌いではなかった。俺はチャンネルを意味もなく回した。どこも似たり寄ったりだなあなんて思いながら不規則に画面を変えていった。結局俺はテレビをつけた時に画面に映っていたニュース番組を視聴することにした。でもそれの内容は全くと言って良いほど頭に入ってこなかった。聞いても駄目だし見ても駄目。とにかく何も情報を得られないままに俺は時間だけを食っていた。物凄く時間が余っているように感じられた。しかもそれが少しずつしか使われていないような感覚にも陥った。だるい。俺はそう痛感した。そして横になってみて初めて、俺が今、想定していたよりもずっと疲れているのを思った。だから俺は軽く目を瞑って眠ろうとした。しかしその時、裏口ががちゃりと開かれる音がした。……ばあちゃんが帰ってきたみたいだった。

 ばあちゃんはゆっくりと家に入り、ゆっくりと廊下を歩いてきた。そして俺のいる茶の間の方にちょっとだけ顔を出して言った。「おお、明良君、おかえり」

「おー。ただいま」

「今日も学校ご苦労さんな」

「うん」

「まんま、すぐにつぐっから待ってろな」

「うん」

「何食いっちぇ?」

「何でも良いよ」

「ほうか。んじゃ待ってろな。旨いのつぐっぞー?」

「うん」

 緩やかに卓球をしている時のようなテンポで俺はばあちゃんに応えた。しかしその返事には何の感情もこめてはいなかった。軽く、味気なく、仮になかったとしてもどうってことはない応答だった。するとばあちゃんは台所にゆっくりと歩いていって夕飯の準備をし始めた。で、俺はそんなばあちゃんを手伝うなんてのもなく、別に見なくても良いテレビの前でうとうととしていた。涅槃像みたいな体勢で、時折頭をこくこくさせながら、俺はただ黙ってばあちゃんが料理を作る音を何となく聞いていた。その行為は俺にとっての日課みたいなものになりつつあった。茶の間でくつろぎ、ばあちゃんが夕食を作ってくれるのをただ待つ。そしてその最中に聞こえてくるテレビの音や調理している時に鳴る音なんかを、俺は知らず知らずのうちに耳に入れるのだ。つけっぱなしにしているテレビからはアナウンサーが流暢にニュースを読んでいるのが聞こえてきていた。でもそれは滞りないのと同時に随分と俺の眠気を誘っていたから、先ほどから訪れている睡魔は反って俺に猛威を奮ってきていた。しかし俺がそんな状態にある中で、ばあちゃんが米を研ぐ音だったり、水を出す音だったり切る音だったりは凄くはっきりと聞こえてきていた。テレビの音もちゃんと俺の耳に届く音量だったはずだった。でもどうしてか、俺はばあちゃんのたてる音の方に、相当眠かったけれど、次第に聞き入らざるを得なくなっていた。ばあちゃんが夕食を作る音はテレビから流れてくる音とは違ってぎこちなく、また危なっかしかった。音の間隔がまちまちで、かつ大きすぎていた。包丁で切る音はとんとんではなくざくざくとしていた。火をかけられた鍋の水はことことではなくぐつぐつとしていた。少しだけ焦げ臭い匂いがしてきていた。危なっかしいにもほどがある、と俺は再度思った。でも俺の体はその場から微動だにしなかった。俺は必死で目を瞑っていた。きつく、瞼が壊れてしまうんじゃないかってぐらいに、俺は目を閉じているしか出来なかった。……ばあちゃんが調理をミスして、それの結果火事になってしまえばどんなに良いかと、俺は思わずにはいられなかった。ばあちゃん。俺はもうそんなに生きたくないよ。飯だってなかったらなかったで良いんだよ? 毎日作るの大変でしょう? 別に作りたくなかったら作らなくて良いんだからね? 何でそんなに一生懸命生きようとするの? 何でそんな年になってまで生きようとするの? そんな風にされたら俺、困るよ。さっさと死んでしまいたいのに、決して生きるのに前向きになんてなれないのに、ばあちゃんがそんなだから、死ぬに死ねない。ばあちゃんが生きようとするから、俺も何か、生きなきゃならないのかなーと思わされる。それが物凄く辛い。贅沢な悩みだと重々承知している。世の中には飯もろくに食えない子供達がいて、生きようとしても生きられない人達がたくさんいて。そんな中で俺は悠々と生きていられる。これ以上の幸せなんてないんだってのも、馬鹿じゃないんだ、よく分かってるに決まってるじゃないか。……でもな。それでも俺はもう疲れたよ。死ねば楽になれるような気がする。いや、死んだ方が苦しいのかなあ? 分からない。分からないんだけど、とりあえず俺はこの現状から今すぐにでも逃げてしまいたかった。どこへなのかは相変わらず分からないままだけど、とにかく俺はもう、ばあちゃんが飯を作る音なんて聞きたくなかったんだ。

 飯を作り終えたばあちゃんが俺に「まんまだぞお」としゃがれた声で言ってきた。だから俺はむくりと体を起こして台所へとよろよろと入っていく。俺はいつもの椅子に座って出来たばかりの夕飯を食らった。白飯と味噌汁と漬け物と焼き魚だった。わりと質素な食事だと言えるのかもしれない。でも俺は十分に満たされていたし、手伝いもしない俺なんかがごちゃごちゃと言って良いわけがないだろうから、決して旨いとは言えなかったけれど、俺はがつがつとそれらを食らう以外にはなかった。そしたらそんな俺の様を目の前で見ていたばあちゃんは俺に向かって言う。

「旨いが?」

「うん。旨いよ」

「ほうか。もっとけえな。いっぱいあっから」

「うん」

「漬け物もっとけえ。ばあちゃんつぐったやづだぞ? 旨いぞ?」

「うん」

「どれ、皿さ取ってけっか?」

「いや、いいや」

「ほうか」

 俺は早々と飯を食らっていった。ばあちゃんと一緒にいるのが何だか辛かった。ばあちゃんが楽しそうに俺に話かけた分だけ居たたまれない気持ちになった。だから早く飯を済ませてこの場を立ち退きたかった。ぼそぼそとした白飯を味噌汁で強引に流し込んだ。焼き魚は小骨をあまり気にせずにばりばりと食った。そしてばあちゃんが俺に勧めていたしょっぱすぎる漬け物はぱりぱりと噛み砕いて素早く胃袋へと送った。味気ないのは食事ではなく俺の食いっぷりの方なのかもしれない。しかしもちろん俺はばあちゃんに対して申し訳ない気持ちを持ってはいた。俺のために作ってくれた夕食をこうも適当に食われたんじゃたまらないよな。もしも俺が作った料理をばあちゃんに無下にされたらショックを受けるだろう。あるいは皿を床に投げ付けたりして、「何だその態度は!」と声を荒げてしまうなんてのもあるのかもしれない。そういう風になってもおかしくはないくらいのひどい態度ってのを俺は平然ととってしまっている。……人の気持ちを慮れる方だとは思う。でもそれを元にして優しい行動をとったりはしないし気遣ったりもしない。俺は何もしない。何もしない俺なのにばあちゃんはいつだって俺に構おうとする。それがとても奇怪でならなかった。

「今日も勉強お疲れ様なあ」

「うん」

「明良君は頭良いがらなあ。……いっぱいけえな? いっぱい食って、いっぱい体力つけて」

「うん」

「明良君はめんごいなあ」

「めんごくないよ」

「素直で、頑張り屋さんで」

「……」

「ばあちゃん誇らしいべ。自慢の孫だべ」

 俺は今日もばあちゃんの方を見られなかった。ばあちゃんの声色から、ばあちゃんが今笑って話をしているのが分かった。俺を「自慢の孫」とばあちゃんは言った。でもそれはばあちゃんが勘違いをしているからこそ出た言葉に違いなかった。ばあちゃんは俺が毎日頑張って部活に励んでいると思い込んでいる。俺が毎日必死に勉強に力を入れていると勝手に思っているんだ。しかしそれは完全に間違っている。俺が学問を楽しんでいた時期はすでに過ぎ去った。そして俺が部活動に精魂込めていた時代ももう終わった。成績優秀で、部活でもレギュラーを張っててクラスの中心にいて、皆から「凄いね」と言われるきらきらとした学生生活はすでに崩壊しているんだ。そんなものはどこか遠いところに置いてきてしまったんだよ。だからこそ俺はばあちゃんと顔を合わせられなかった。こんな俺をまだ肯定してくれるばあちゃんにどんな顔をして向き合えば良いのかがよく分からなかった。でも、とにかく俺が俺の疲れ果てているであろう顔をばあちゃんに見せないようにしているのだけは確かだった。しかしそれは俺の印象を保つためでもないし、ばあちゃんに対する体裁を守るためでもない。俺にはもうそうやって頑張る気力は残されてはいない。「自慢の孫」でいられる自信もなくなったし、そうい続けるための実力も失ってしまっている。だから俺がばあちゃんと顔を合わせられないのはしつこく残り続けていた醜いプライドのせいなんだと、そう俺の中だけではあるが思うことにした。ばあちゃんの前ではかっこつけていたかった。ばあちゃんが俺にくれる言葉に甘えていた、酔っていたってだけの話なんだと思うことに今決めた。でもそういう風に思うと俺はさらにばあちゃんの方を向けなくなった。ダサい。かっこ悪い。しょうもない。俺の頭にはこういったのが強烈に浮かんできた。だから俺の背中は丸まり、俯く顔はもっと下の方を向いた。俺はばあちゃんに「じいちゃんは? まだ仕事?」と言った。そうやって俺は話題を逸らした。するとばあちゃんは「んだ。まだ畑さいだ。お天気良いど帰ってくんのおそぐなってわがんね」と言った。俺は「ふーん。……ばあちゃん達の作った野菜、旨いね」とでたらめを言った。そしたらばあちゃんは「ほだべ? ばあちゃんだぢ、いっしょけんめつぐっだがら旨いべ?」と言った。だから俺は「うん。旨い」と言った。でもそう言った後で俺は物凄く切なくなった。ばあちゃんが一生懸命作ってくれたものを俺は何の感情も抱かずに食っているのか。そしてあまつさえ俺はばあちゃんに嘘ばかりをついてしまっているのか。そんな非常な人間に俺は成り下がってしまったのだろうか。そういう風に思って俺は残りの飯をかき込んだ。本当は腹を割って話したい。正直に、まずいものにはまずいと言いたい。そしてばあちゃんに怒られたい。「ほだなごど言うもんでねえ!」って怒られて、で、俺はそれに対して「じゃあ、俺が作ってやるから」と言ってみたい。そして出来るならばばあちゃんに楽させてあげたい。でも俺が作った飯にばあちゃんは言う。「こだなまずいもの食いっちゃぐね! ばあちゃんつぐっがら明良君はおどなしぐまっどげ!」。でも、俺もばあちゃんの作るまずい飯を食いたくない。それじゃあどうしようかってなった時に、俺とばあちゃんは顔を合わせて笑う。そして俺の方から「じゃあ、一緒に作る?」って提案するんだ。

 俺は夕飯を平らげた。俺は空になった食器類を洗い場へと運んだ。ばあちゃんは「そごさ置いどげな。あどでばあちゃんあらっどぐがら」と言った。俺は「うん」と言って、そそくさと二階へと向かっていった。

 二階に上がった俺はもう寝る準備を始めた。外が少しだけ暗くなった頃合いだった。まず俺は二階の洗面所へと行って歯磨きをした。他の諸々は今となってはだらけがちになってはいたんだけど、不思議と歯を磨くのだけは欠かさなかった。俺は入念にかつ長い時間をかけて歯や歯茎なんかに歯ブラシを走らせていった。時間は腐るほどあった。でも歯磨き粉が唾液と混ざり合ってどろどろになってきたぐらいで俺は歯を磨くのをぱっとやめた。ずっと口の中を見ているのに耐えられなくなったからだった。歯並びは整っている方だと思うし、今磨いたばかりなんだから口内は清潔だとは思うけど、ピンク色の舌と半透明の液体とのコントラストに吐き気がした。歯磨きは気持ち良いものだが、長い間し続けていると流石にその気持ち良さは薄れていき、終いには仕打ちを受けているみたいな気分になってしまうのが俺の中での通例だった。俺はぺっと口に含んでいたのを吐き出し、コップを手に取ってぐちゅぐちゅと口をすすいだ。このぐちゅぐちゅって音がどうにも好きになれなかった。俺は口から水をぷっと出して歯ブラシを元の場所に戻した。そうして俺は自室へとすぐに向かった。

 部屋に入った俺はベッドにすぐに横になった。そしてスマートフォンを意味もなくいじって余りある時間を少しでも消費しようと奮闘した。しかし俺は今こそ勉強に力を入れるべきなのをよく理解していた。他よりもずっと多くの時間を持ってはいる俺がするべきなのは勉学以外にはないと強く思ってもいた。……俺の通う笹木高校は地元では有名な進学校だった。県有数の学力を誇る生徒達が通う高校と言ってしまって良かった。俺はそんな笹木高校に入学した。難しいと言われる試験を突破し、俺は晴れて笹校生となったわけだ。入学したての俺は今とは打って変わって自信に満ちてはいた。他人に自慢出来るような高校に入学出来たって事実は俺の自尊心を大いに膨らませていたし、新たに始まる生活を有意義なものにしようと意気込んでもいた。俺は実に誇らしい気持ちでいっぱいではあったのだ。しかしそこまで記憶を遡らせていた俺は唐突にそれをやめてしまった。それ以上を思い出すのがとても辛かった。まあ簡単な話、俺は笹木高校に入って早々に挫折を味わったってわけだった。でもどのようにしてそれを経験したのかを忘れてしまったわけでは当然ない。俺は一年経った今でも鮮明に、俺がどのようにして失敗の道を転げていったのかを事細かに思い出せた。でも思い出せるのと思い出したいかはまた別の話だ。俺はもう、あんな惨めな姿を二度と思い返したくはなかった。

 カーテンを閉め切った薄暗い室内でしばらくの間スマホの画面を見ていると次第に眠くなってきた。思えば俺はいつどこであっても眠気に苛まれている気がした。しかしそれを深く考えていく前に俺は眠りに就いてしまったみたいだった。眠る前に覚えていたのはベッドがある程度ふかふかしていたってことだけだった。俺は夢を少しも見なかった。せめて夢の中だけでも楽しい気分に浸っていたかったっていうのにだ。

 室内が真っ暗になった頃に俺は目覚めた。手元のスマートフォンで時刻を確認すると午後九時五十一分だった。俺はむくりと上体を起こした。まだ頭の中がもやもやとしている。酒を大量に飲んだわけではもちろんなく、また風邪を引いているわけでもないはずだったのに、俺の頭はずーんと重かった。四肢はくたびれていた。血液ではなくて疲れが全身を巡っているみたいだった。そんな中だった。一階の方からとても大きな声がした。俺は頭をひっぱたかれたみたいな心地がした。しかし、それでも俺の脳はまだ完全には働き始めていないみたいだった。俺は目を擦った。そして「何事か」と軽く思ってのろのろと声のする一階へと歩んでいった。

 声の主が誰だったのかと言うと俺の親父だった。親父は台所にいた。どうやら酒を飲んでいるようだった。俺は途端に息を潜めた。そして中に入っていこうとしていたのを急遽やめた。俺はちょっとだけ開けた戸の辺りで聞き耳を立てた。すると親父が何かに怒っているらしいってのが分かった。途中から聞き始めた話だったけれど、親父が誰について怒っているのかもよく分かった。親父は言う。

「……だあーかあーらあ! 俺は何も間違ってないんだってえ! 一つも間違ってねーんだってえ! 悪いのはどう考えても明良の方だろうがよお! どー考えたって明良がだらしねーのが悪いんじゃんよお!」

「忠広さん。やめて下さい。明良を悪く言うのはやめて下さい」

 親父に言葉を返したのはおふくろだった。声は震えていた。今にも泣き出しそうな感じではあった。そんな二人の会話を俺はただ黙って聞いていた。さっきまでは随分と眠かったはずなのに、俺の頭はいつの間にかこれ以上ないってくらいに冴え切っていた。

「あんなのは俺の息子じゃねえ! あんな腑抜けは俺の息子じゃねえ!」

「やめて下さい。明良は精一杯頑張っています」

「どこがだ、ええ? 毎日ぐだぐだしてるだけじゃねーかよお! 勉強もしねー! 部活もすぐやめる! どこが頑張ってんだよお、おい! 言ってみろ!」

「明良は毎日学校に通ってくれています。明良は毎日健康でいてくれています」

「そんなのは当たり前だろーがよお! 学校は通うもんだ、休むもんではそもそもねー!」

「明良は健康でいてくれています」

「だからそれも当たり前だって言ってんだよお! 丈夫にしてやったのは誰だ? 丈夫に生んでやったのは誰だ?……明良は相当な親不孝だろーが!……くそお!」

 親父はテーブルに酒瓶を叩き付けた。それがけたたましい音を立てて割れたのが聞こえた。おふくろが「やめて下さい!」と絶叫するのが耳に入ってきた。しかしその後は弱々しい涙声で「やめて下さい」とひたすらに繰り返すしかしなかった。

「どこで間違ったんだあ、ええ? どうして明良はくずになった?」「俺は間違ってねーぞー? 間違ってんのは明良の方だ! 俺の教えでは断じてねー」「俺は認めんぞ? あんなへたれなんか絶対に認めん! なーにが『頑張っています』だ! なーにが『健康でいてくれています』だ! ふざけんな! あいつはただぼうっと、何の気苦労も知らずに過ごしてるだけじゃねーか! 適当に!」「あんなやつの親であるのを思うと虫酸が走る!俺が今までやってきた全てを否定されているような気がして腹が立つ! もうあいつの顔なんか見たくもねー!」

 親父は俺への不平不満を畳みかけた。おふくろに向かって、喉が裂けてしまうんじゃないかってぐらいの音量で言い放っていた。それに対しておふくろは「違います。違います」と言い続けた。親父が言う文言一つ一つにノーをぶつけていっていた。おふくろの声はもう消え入りそうなくらいに小さくなっていた。だから親父にはおふくろの訴えなどまるで耳に入っていないようだった。酔いが相当に回ってきているようだった。しかし親父の言っていることは全てが的を射ているように俺には思えたし、俺は親父の言い分に納得しこそすれ、反対したり怒ったりなんて真似は到底出来るはずがなかった。すると親父は急に話のボリュームを下げてつらつらと続きを並べ立て始めた。ひどく冷静で、酔っているのをまるで感じさせない話し口調だった。

「良いか、弓子。笹校に入学したならば勉学に励まなければならない。懸命に、実直に、学問ってものに向き合っていかなければならない。どうしてなのか? そんな疑問を抱く前に、まずは必死になって他を蹴落とすための努力をしていかなければならない。理由を考えちゃいけない。良いか? 理由を考えてはいけないんだ。無心で、点数をいかにして取るかの訓練を積む。これだけなんだよ、大切なのは。学校なんてのは結局、この一点だけを意識すれば十分にやっていけるところなんだ」「学校ってのは案外単純だ。ようは通過点なんだよ、弓子。学校は通過点でしかない。もしくは滑走路だ。世に出てから恥をかかないようにするための滑走路。世に高々と飛び立つために通る滑走路」「……重要ではある。確かに重要ではあるんだろう。だがな、弓子。重要ではあるが、やはり俺はそれを一番大事だとは思わない」「最も大切なのは学校を卒業してからだ。学生という猶予から解き放たれた後なんだ。弓子。考えてもみろ。お前が高校生だった頃と今とを比べてみろ。どっちが辛いだろう。どっちが重いだろう。疲れるのはどちらだ? 苦労を強いられるのは一体どちらだ?」「世間ってのは大抵非常だ。馴れ合って上にいけるようには出来てはいない。敵は山ほど存在する。それも一旦倒したからと言って終わりではない。戦いは果てしなく続いていく。苦しいからって終わりはしない。むしろ大変な時にこそ争いってものはふってくる。どんどんと、容赦なく、『明良』って人間を潰そうと襲いかかってくる」「そんな時に必要になのは何だ? そういう時に重宝するのは一体何だ?……それは『学』だ。学んでおいて損はない。学ばないよりも学んだ方がずっと戦えるのは紛れもない事実だ。社会って獣を乗り熟すためには学歴って手綱がどうしたっている。反対にそれがないやつは決して上にはいけない。そういうやつはまともに戦えすらしないだろう。そんなのに待っているのは劣悪な環境と、低い給料と、社会的敗北だ。良いか、弓子。考えなしはいずれ淘汰されていく。隅の方、端の方に追いやられていく。軽んじられていく。人ではないかのように扱われていく。……俺は明良がそんな風になるのを決して許さん。俺の息子がそんなところに葬られていくのは絶対にあってはならん」「明良は俺のように気高く生きる使命を背負っている。他人とは違う道をいかねばならない運命にある。だからこそ、まずは学校って場所を利用して学をつけなければいけないんだ。しかしそれは己を守る盾ではないだろう。学ってのは社会という壁を突き破っていくための矛として機能しなければ意味がない。そして、そういった行いが許されるくらいの高みに登り詰めるためにはどうしたって学はいる。だから明良は勉強しなければならないし、学ばないなんて愚行は取るべきではない」「お前の考え方には明良が困らないようになりさえすれば良い、というような甘えが含まれている。俺はそれが大嫌いだ。俺はそんな次元では話をしていない。俺は明良に世を統べるような大きな存在になって欲しいし、またなるべきだと思っている。だからこそ俺は今まで明良を厳しく育ててきた。だからこそ俺はあいつを笹木高校に入れてやったんだ」「しかし、お前はそれが間違いだったのではないかと言う。明良には笹校は合っていないのではないかとお前は言う。……正直、俺はお前に失望している。お前は明良のことも笹校のことも何一つ理解していない。そしてお前は『本当にしてやるべきなのは一体何なのか』を見落としてしまっている。一番違えてはならないポイントってのを完全にはき違えてしまっているんだ」「子育てとは何だ? 子供に優しくしたらそれは子育てなのか? 子供を甘やかすのが子育てなのか?……はっきりと言ってやろう。育てるのに優しさは必要ない。甘やかす必要もなければ温かくある必要もない。いるのは厳しさだけだ。他に負けないための圧倒的な力を付けるために、俺達は厳しさとは何かを徹底して明良に教え込まなければならない。何度も言うようではあるが、世の中ってのは本当に厳しいものだ。そんな中に厳しさを知らないままの息子を放り込んでしまったら一体どうなるだろうか? そんな過酷な環境下で今のだらけ切った明良はやっていけるだろうか?俺はそれが本当に心配だ。明良がしっかりと、社会の一員として立派に立っていけるかどうかが本当に気がかりだ」「俺は明良ならどんな世界ででもやっていけると信じている。俺の息子だぞ? 俺が手塩をかけて育ててきた息子なんだぞ? 上手くいかないわけがない。必ず明良は大物になる」「だからこそ、今のままでは駄目なんだ。甘やかしては駄目なんだよ、弓子。厳しさを教え、世でやっていける粘り強さを付け、あいつの才能を伸ばしてやらなければならない。そうしなければもったいない。あいつの才を枯らしてしまうのはもったいなくて敵わん」「だからこそ明良は学ばなければならない。だからこそ明良は武器を手に入れなければならない。……合っている、合っていないの問題ではない。嫌でも通って、嫌でも食らい付いて、ちゃんと力を付けなければならないんだ」「でないと困るのは明良の方だぞ? 弓子。お前は明良が困るところを見たいのか? 自分の息子が苦しむ姿を見たいのか、ええ?」

 おふくろは少し黙った後「でも」と言った。そして「明良は望んでいるのでしょうか?明良は偉くなるのを望んでいるのでしょうか?」と続けた。すると親父は再び癇癪を起こした。「うるせえんだよお前は! 良いから黙って俺に従え! 明良の意志の話ではねーんだよ、だから! 明良には力がある! それを生かさないのは親のやることではない!そういう話をしてんだよお、俺はあ!」

 おふくろは「でも……」とまた言った。そして親父は「だから……」とまたでかい声で何かを言った。しかし俺には二人の会話を最後まで聞く気力は残されていなかった。俺の頭には以前テレビで見たカーレースの映像が浮かんできていた。けたたましい音を立てて走るレーシングカー。脳内では残響がファンファンと鳴っていた。それはやはりうるさかった。でもどこか空虚な感じを俺に覚えさせたりもした。疲れた。俺は唐突にそれを思って静かにその場を去った。そして忍び足で二階の自室へと戻ってひっそりと床に就いた(布団をかけたら今日もマスターベーションをしそびれたのを思った。しかし俺は今日もそれをせずにそっと目を閉じた。俺はそうやって今日もこの世界から完全に目を背けた)。

 気付けば俺は目を覚ましていた。短くはない時間を睡眠に費やしたはずだったのに、俺の意識はちょっとだけしか途切れていないように感じた。朝。スマートフォンで時刻を確認すると午前五時三十三分だった。目覚めは決して良い方ではなかった。というか相当に悪い方だったと言えるかもしれない。……やたら眠い。そう思った時には俺は再度眠りに就いていたようだった(二度寝が出来るくらいの時間的な余裕が今日も俺にはもたらされていた)。三十分くらいがちょうど良かったんだろう。でも、再度目を開いた時時計は午前七時二十二分を表示していた。誤差、約一時間二十分! 俺はベッドから跳ね起きるのを余儀なくされた。今日も時間通りに起きるってミッションは失敗に終わった。だから俺が得たのは少しの快楽しかなかった。本日も強固なまでの日常が俺の背中をぐいぐい押してきていた。それだから俺はそれに促されるがままに部屋の扉を開ける。開けたくなんてなかったのは事実だけど、俺は滅法弱かったから開けざるを得なかった。引きこもる勇気や学校に行かないって強い意志を俺は未だに持ち合わせてはいなかった。だからこそ、俺に出来るのは学校って空間にただただ引き寄せられることだけだった。掃除機に吸われるごみくずみたいに。

 扉を開けた直後俺はまた部屋の中に戻った。着替えの準備が抜けていたからだった。俺はまずハンガーにかけられた学ランの上下をクローゼットから取り出した(下の方にはベルトを付けたままにしてある)。そして次に中に着るYシャツを引っ張り出した。そしたら俺は衣類ケースの中からTシャツとトランクスと靴下をぱっぱと出した。用意したそれらを両手に抱えて俺は風呂場へと直行する。階段をどんどんと音を立てて降り、一階の脱衣所に飛び込んだ俺はすぐに身に纏っていたびろびろのTシャツとだぼついたジャージと下着とを脱ぎ捨てた。そしてそれらを洗濯機の横に置いてあったかごにぽいと投げ入れた。素っ裸になった俺は浴室に入った。入った俺はまずは頭から豪快にシャワーを浴びた。出る水は冷たかったけど、俺にはそんなのに構っている暇は残されてはいなかった。全身が急激に冷えた。しかしそれがなかなかに爽快でもあった。俺はシャンプーを手の平にどばどばと出して泡立てた。で、それを用いて頭をごしごしと洗った。浴室の鏡をちらりと見ると髪の毛がへんてこな形になっていた。それは炎のようでもあり生い茂る雑草のようでもあった。俺は冷水でその芸術的な造形を一息に崩した。俺にもっと時間があったのなら、俺は鏡の前でそんな髪をいじってみたりするかもしれない。しかし、とにかく、時間がない! そう一瞬だけ思った俺は後は無心で体を洗った。ボディーソープをふんだんに垢擦りに含ませて勢い良く全身を擦っていった。痛いくらいの力加減だった。力を込め過ぎた箇所は赤くなっていた。俺は流水でざあざあと泡を流した。泡は排水溝にみるみると飲み込まれて消えた。浴槽には入らなかった。というか、それにはまだ水は張られていなかった。俺は風呂場から出た。そしてタオルで体や髪を拭いた。手付きには無駄がなかった。水気を拭き取った俺は次に洗面所に備え置かれていたドライヤーで髪を乾かした。やかましい音が室内に響いた。俺はそうしながら適当に髪を手で整えた。ワックスとかは付けなかった。というより、いかしてるやつがやるみたいに髪をセット出来なかった(俺は器用ではないらしい)。……時間がないのは確かだったけど、俺は時間がないなりにきちんと身なりを整えていっていた。でもそういう能力は俺にとっては皮肉でしかなかった。俺はもっと悠々と朝を過ごしていたかった。そしてそんな風に過ごせたとしたら俺の手付きはこんなにも荒々しくはならないはずだった。もっとスマートにありたかったし、もっと心にゆとりを持って優雅に朝を過ごしたかった。俺はふとそういうのを思った。でもすぐに「そんなのは俺には似合わねえ」と自分を戒めた。俺は所詮みすぼらしい学生でしかなく、そんな俺が思い上がるのはもはや罪に近しいとし、俺は気をぐっと引き締めて、生活の水準を一人でぐんと下げた。俺は持ってきていた衣服を着ていった。ソックスは左足の方から履いたけど、トランクスは右足の方から履いた。Tシャツからは仄かに柔軟剤の匂いがした。俺が着た全ての衣類はばあちゃんが洗濯してくれたものだった。学ランのボタンを下から順に留めていった。第一ボタンは閉めなかった。そっちの方がより演じられる気がしていたからだ。鏡には出来上がった佐藤明良がぼうっと映っていた。出来映えは悪くはなかったんだけど、決して良くはなかったのもまた本当だった。すると俺は凄まじい速度で歯を磨き始めた。昨日のそれとは打って変わっていた。火が出そうなくらいの速さでブラシを使った。歯茎からは少し血が出ていた。ちょっとだけ痛くて、でもちょっとだけ気持ち良かった。しかしそんなちっぽけな感情は歯を磨き進めるうちに消えていった。磨き終えると俺はその場を後にした。そして真っ先に玄関へと突き進んでいった。

 玄関のところには俺の鞄が捨てるようにして置かれていた。昨日と全く同じ位置にそれはあった。俺はローファーに足を滑り込ませた。で、俺は鞄を左肩にかけた。俺は玄関の戸をいざ開こうとした。すると、台所の方からそれを遮るようにしてばあちゃんの声が飛んでくる。

「明良君! まんま食ってがねのがあ?」

「うん。いいや」

「弁当はあ? 今日もいらねのがあ?」

「うん」

「ほうか。気を付けで行ってこいなあ!」

 朝食は食わなくなっていた。そして弁当も大分前から持っていかなくなっていた。でも、それでもばあちゃんは毎日欠かさずに俺に朝飯や弁当を作ってくれていた。俺が元気に過ごせるように、なんだろう。俺が学校で勉強や部活に精を出せるように、なんだろう。でも俺にはそんな気遣いは必要なかった。俺はただ学校に行くだけなんだから。ただ学校に行って、ただぼんやりとして、ただ帰って来るってだけなんだから。過度なエネルギー摂取を俺はむしろ避けたかった。ばあちゃんの期待の込められた食物を食うと一段と頑張らなければならない気がしてくる。それは今日も根強く俺の中に存在していたけど、それは俺にとってはただの重荷でしかなかった。頑張りたくなんてない。呼吸ですらしたくない。何にも危害は加えないから。大人しくしているから、だから。もう終わりにさせてくれ。終いにさせてくれ、全ての物事を。俺はそんなように思いながら渋々戸を開けた。朝日はもう世を隅々まで照らしていた。その眩しさは俺にとっては毒以外の何物でもなかった。俺は一気に調子を崩した。そして「あー、もう、やめようかな」って思った。すると俺の足はぬるりと後ろに下がった。一度乗り越えてしまえば後はきっと楽だ。きついのは最初だけだ。どこからともなく耳元でそう囁かれているような気がしてきた。そして気付けば俺は家の中にぬるぬると戻らんとしていた。その時だった。俺は後ろから親父に声をかけられた。「明良。おはよう」。

「おはよう」

「勉強頑張ってくるんだぞ。お父さんも仕事頑張るからな?」

「うん」

「お前は出来る子だぞ? だから頑張れよ?」

「うん」

「よし! じゃあ、いってらっしゃい」

「うん。行ってきます」

 駆け足で俺はチャリを取りに行った。親父の猫撫で声はわんわんと耳の中で鳴っていた。しかし俺は駆けながらに思っていた。親父が俺に言った「お前は出来る子」ってのを思っていた。果たして俺には何があるのだろうか? 俺には才があるのだろうか? 親父は俺を高く評価したけど、それは鵜呑みにしてしまって良いものなのだろうか? 親父の言葉は俺を焚き付けるための嘘ではないのだろうか? 分からない。分からないよ、親父。それに正直分かりたいとは思わない。見つけたいとも思わない。可能な限り楽をしていたい。才なんてなくて良いのに。そうすればもっと俺は気楽に過ごせたかもしれないのに。それなのに俺の醜い自尊心は親父からの一言を大いに受け入れていた。「お前には才があるぞ!お前には才があるぞ!」とわめき散らすそれに対して、何と言うことだろう、俺は喜びってものを如実に覚えてしまっていた。

 はあはあと朝っぱらから息を切らしながらに俺は自転車をこいでいった。車道では車がたくさん横行していた。交通事故にだけは遭わないように注意しながら俺は駅へと急いだ。すると、やはり帰宅する時と同じであっという間に目的地には到着出来た。俺は終始忙しなくあった。でもだからと言って自転車に鍵をかけ忘れるなんてへまはしなかった。こういう朝にはもう慣れていた。だから俺はその感じをそのままに駅の中に入っていった。中にはそんなに人はいなかった。だから俺は「ふう。今日もいつも通りだ」と胸を撫で下ろす。人は少なければ少ないほど良い。雑踏ってのはどうも俺の心をざわつかせてばかりだ。そういった雑念を軽く抱きながらにすたすたと俺は改札の方へと進んでいく。

 大分前から始発で学校に通うのをやめていた。とても混雑するそれに乗って通学するのが本当に苦だったからだ。だからこそ一本遅れの電車の中は天国だった。席も空いているしむさ苦しくもない。そこは俺にとってはオアシスに違いなかった。しかし油断は出来ない。もしもトラブルとかのせいで俺の乗る電車に始発組が流れてきたりしたら、なんて思うと俺はいつだって気が気ではなかったのも確かだった。あの寿司詰め感は出来るならば味わっていたくない。田舎だからって舐めてはいけない。朝の移動は田舎ででも「通勤ラッシュ」と呼ぶべきなのはもはや間違いなかった。でも俺はそんな通勤ラッシュを見事に回避するのに今日も成功した。駅のでかでかとした壁時計を見やると午前七時四十四分。「間に合ってしまった」と俺は一つ思ってホームに向かい走った。駅員の人から「おはよう」と言われた。だから俺も「おはようございます」と返した。でもそれが駅員さんに届いたかどうかは知らない。俺は二番線にとまっていた電車の中に滑り込むようにして入った。どたばたとした俺の朝にピリオドが打たれたような心地が一旦した。しかしそれはどうやら俺の勘違いでしかなかったようだった。日常は終わったのではなくてむしろ始まっていた。本当に少しの間を置いて電車はごとんごとんと動き出していた。

 車内には多くはないけれど少なくもないってくらいの人がいた。それらの内訳は工業高校の生徒らが三分の一、商業高校の生徒らが三分の一、その他の会社員の人らが三分の一って感じだった。俺は場違いだった。笹木高校の制服を着ている生徒は俺以外には一人もいないようだった。ぎりぎりに駆け込んできた俺は開閉扉付近で息を整えていた。周囲からちらっと視線を送られたのが瞬時に分かった。しかし注目されたからと言ってそこから何かが起こるわけではなかった。皆は俺を軽く見やってからすぐに各々の会話なり作業なりに戻ったみたいだった。俺が見られる側ではなくて見る側の人間だってのに今日も変わりはなかった。

 米沢には十五分程度で到着する。で、俺はその短い時間を景色を眺めるのに使っていた。田園や古びた家屋や木々なんかが電車が進むのとは反対の方向に流れていっていた。桜が開き始めていた。小川が緩やかな速度で流れていた。そして水面は太陽の煌びやかな光を反射させていた。バイパスが町を縦に切っていた。電信柱のところにとまっていた鳥がぱっと空に舞い上がったのが見えた。空は今日も青々としていた。雲が飛び立った鳥を応援するようにしていた。……何の意味もなかった。見なくても全然良かったありふれた風景だったし、こんなのよりも美しい眺めってのはこの世界には山ほど存在するってのをしっかりと理解出来てもいた。だから特に感傷的な気分になったりはしなかったし、そもそも俺は朝が苦手だったから、流れゆく自然を楽しむ余裕などはなく、どちらかと言うと再度俺の身に訪れていた気だるさや眠気の処理の方に四苦八苦していた。はあ。乗ったところまでは良かったが、うん、今すぐにでも帰りたい。帰って今一度横になりたい。ほとほと疲れた。今、俺の中にわき上がるのはそんなような感想ばかりだった。俺は外を見るのをやめた。そしてくるりと体の向きを変えて扉に寄りかかった。ななめ前の優先席辺りには工業のいかつい二人組がいた。右は黒々とした髪をばっちりとセットしていた。そして鋭い視線を下に送り続けながら浅く腰かけていた。左の茶髪の方は上で揺れるつり革付近をにらみつつ手すりに寄っかかっていた。つり革とは違って彼の目線は全く動かなかった。それに瞬きも心なしか少ないように俺には思えた。で、彼らは共に当たり前のように制服を着崩していた。一緒にいるってのに一言も言葉を交わしていなかった。何かに苛立っているようでもあり、しかし何かに深く怯えているようでもあった彼らからそっと目線を外した俺は、やや離れたところで群がっていた商業の女子達の方をこそっと見た。彼女達は終始小さな声で何かを話していた。時折「マジで?」ってのと「ウケる」ってのが聞こえ、それらが聞こえた後にはささやかな笑いが起こっていた。その集団の近くには別の集団があった。だぼだぼの制服を着た工業生が三人で、つり革をしっかりと握り締めながら何かについてを熱く語り合っているのが見えた。何の話をしているのかは詳しくは知らない。けどそれがあるアニメの話であろうことは容易に想像出来た。彼らが背負っているバッグがアニメ「蝦蟇」のヒロインである「蛙カエデ」のストラップで一様に彩られていた。それらは色とポージングが各々で異なっていた。リーダー的立ち位置の男子生徒は緑色の帽子と衣装を身に纏ったものをバッグのファスナーのところにくくり付けていた。ひょろりとした体型の手前の男子はピンク色のコスチュームを着ているものをバッグの持ち手のところに付けていた。そして背丈が小さくて眼鏡をかけている奧の男子が持つそれは水色で塗装されていて、交通安全か何かのお守りを付けているところにまとめて取り付けてあった。そういう出で立ちをしているからこそ、俺はきっと三人が「蝦蟇」の話で静かに盛り上がっているのではなかろうかと一人で勘ぐったわけだった。「蝦蟇」、面白いよな! 俺は内心でそう思った。面白いし、エロいよな! 俺は胸の内だけで再度似たようなことを思った。……俺がアニメにはまり出したのは俺が部活を辞めた頃合いからだった。やりたい何かがあるわけでもなく、日々をただただ浪費していた俺に授けられた唯一の趣味。それがアニメを見ることだった。アニメの力は偉大だとつくづく思う。生身の人間が繰り広げるような生々しさもなく、なのに生身以上の臨場感を手軽な時間で味わえてしまえる。何より、アニメを見てると辛い現実から目を背けていられるような気がする。だからこそ俺はそれにどっぷりとはまってしまった。あー、共に語らいたい! 俺は一瞬だけそう思ったが、その考えはまたしても一瞬で取り消された。俺みたいな若輩者が熟練の猛者達の中に混ざって良いはずがない。というより、混ざれるだけの知識がまだ俺には備わっていないかもしれない。それに人見知りの俺がのこのこと入っていって良い空間ではないんだろう、きっと。すみません、お三方! もう一度「蝦蟇」、見直してきます! 俺は胸中でそれを思って一人で薄く笑った。「いや、何を一人で興奮してんだよ、気持ち悪いな」。上機嫌の俺は目線を社会人がまとまって座っている方へと移した。そして彼らを学生らと同じ要領で観察しようとした。しかしそれは叶わずに終わった。――電車が米沢駅に到着したからだった。 

 電車を降りるとまるで夢から覚めた心地がした。一睡もしていなかったってのに俺はなぜかそれを思ってしまった。なぜなのだろう? 俺は早足で歩きながらにそれを考えていた。出来るならばずっとごとんごとんと揺られていたかった。快感さえ覚えるその揺れを俺は一生味わっていたいとさえ感じていた。電車が俺をここではないどこかへと運んでいってくれたり、もしくは永久に同じ路線を回ってくれたりしないかなあと期待した。「ここではないどこか」は出来れば遠く離れていて欲しかった。とりあえずうんと遠く離れてくれれば、具体的な行き先なんてのはどうだって良かった(それが地獄であってもだ。天国であったらなお良いのかもしれない)。というか、むしろ俺はそういった非現実的で神話的な世界へと運ばれるのを願っていた。だから俺が最も恐れているのはそんな暗黒の死や光明の死への道筋を絶たれてしまうことだった。だからこそ、俺は終着駅の存在を草を根元から刈り取るみたいにして頭から消した。また俺は終点さえなければ、俺の思い描いた言葉としては知っている未知へと到達出来るのではないかって気でもいた。しかし、そんな空想は突風に吹かれた木の葉みたいに俺から離れていってしまった。だから俺は俺の中にしぶとく残ったままでいたもう一つの望みの方に縋り付いていた。でも俺が望んでいた「永久に同じ路線を回る」ってので連想されたのはまたしても死だった。乗っていた人々が各駅で一人、また一人と降りていく光景が歩きながらに次々と、まるでプリクラをべたべたと貼り付けるみたいに頭の中に重ねられていくのを俺はイメージしていた。そんなイメージ群に映り込む人の数は、イメージの数が増えていくに従ってむしろ減っていっていた。そして頭の中がそれらでいっぱいになった時に俺は多分死ぬんだろうと想像した。最後の一つには何が映っているだろうか? 誰も乗っていない車内の様子だろうか? それともそんな様子さえもない漆黒だろうか?……そこまで思い終えた時、俺は俺の自転車の前に立っていた。俺は生きていて、立っていて、ここは現実以外の何物でもなくて、今は何でもない日の何でもない朝でしかなかった。

 駐輪場を後にした俺は自転車を早々とこいでいった。寄り道はもちろんしなかった(というかしている暇はない)。俺は一目散にまるで何かから逃げるように学校への道を選び進んだ。帰る時とは違って、俺は通い慣れた最短コースを今日も選択して突き進んでいくだけだった。時折信号のところで停止し、車道にはみ出ないように自転車を操作し、俺はいつもと同じように急ぐのだけは意識しながら、猛然とペダルを回していくだけだった。しかし思考が単一化していくにつれて、むしろ余計な考え事は一つまた一つと、まるでしみが増えていくみたいに俺の頭の中に出現してきていた。それらを蠅を追い払うように頭の中で消していく作業をしていると、俺の足の運びは自然とリズミカルに進み、それに比例して学校までの距離はどんどんと短くなっていった。しかしいざ笹校に到着するってぐらいのところまで来ると、ペダルは急に重くなり、また俺の息はぜいぜいと分かりやすく乱れた。体力を通学だけでだいぶ消費してしまうのはもはや恒例になっていた。でも俺の足がスムーズに動かなくなっているのや呼吸が苦しくなってきているのは、俺にスタミナがないこととはあまり関係がないらしかった。俺は明らかに体ではなく精神の方に以上をきたしていた。学校に無慈悲に引き寄せられていく俺にはもっと強大な力が働き始めていた。それは俺を高校に行かせる力ではなく、俺を一刻も早く自宅に帰そうとする力であるらしかった。もうすぐ学校に着くって時に流星のように現れたそれは、俺の学校へ行かなければならないって決意をぐにゃぐにゃにした。俺が行ったところで何かが変わるわけではない。むしろ俺が行くと他人に迷惑がかかる。俺は邪魔者で、異分子で、言わずと知れた不良品なのだからって考えが胸中に突如として灯った。そうしたら大人しく家で煎餅でも食いながら縮こまっていろって声がどこかから聞こえた気がした。だからこそ俺の足腰はまるで筋力ってものを根刮ぎ奪われてしまったみたいになった。こいでもこいでも前に進んでいないような感覚になった。学校が近づくにつれてむしろそれは遠くなっていくような気がした。引力と斥力。笹校は俺を校内に引きずり込もうとしている。しかしそれに俺の心身は一向に従おうとはせず、逆にこれ以上ないってくらいに俺を家に帰そうとしている。そんなような二つの力が激しくせめぎ合う中で、俺はあるシチュエーションをすでに疲弊し始めてはいた頭の中に描いていた。俺はそのシチュエーションの中で綱渡りをしていた。サーカスなんかでよく見られる高所での綱渡りだった。人々がぐるりと俺を取り囲んでいた。その人達はわあわあと何かを叫んでいたが、何と叫んでいるのかは定かではなかった。不気味な声だと俺は思っていた。そう思いながらに俺は一輪車で少しずつ綱を渡っていっていた。始終ふらふらとしていた。すぐに下に落っこちてしまいそうになっていた。でも俺は何とか体勢を立て直しつつ前進していた。そして前に移動していくたびに周囲は怪獣みたいな雄叫びをあげていた。それを聞いて気分が良くなったからか、俺はますます調子良く綱を渡っていった。時折観客(と言って良いだろう)に向かって手を振ったり投げキッスをしたりした。そんなふるまいが出来るくらいの余裕が俺に出来てきていた。そしたら俺のその行いに周りは大いに応えてくれた。もはや狂ったように俺に声援を送ってくれているのが上から窺えた。だからこそ俺は「絶対に綱を渡り切ろう」とさらに気合いを入れて前にじりじりと進んでいった。そんな時だった。突然その場を照らしていたライトが一斉に消えた。辺りは一瞬で闇に支配されて、だから俺の目にはその黒さ以外には何も映らなくなっていた。そしてさっきまでの歓声はぴたりとやんだ。静寂と暗黒の音だけが薄く鳴っていた。すると俺の後ろの方からじりじりと迫ってくるものがあった。それは炎だった。その炎は縄を焼いていた。瞬間、俺は拭いようのない恐怖に襲われた。頭の中は真っ白になった。俺は必死になって車輪を動かした。持てる技術を駆使してどうにかしてその炎から逃れようとしていた。しかし俺がこぐスピードよりもその炎が縄を焼くスピードの方がずっと速かった。だから、もうどうしようもなかった。抱いていた恐れは不思議となくなっていた。その変わりにあるのは諦めと死への期待だった。しかし俺がそこまで気持ちの整理を付けた時、その炎は声を発した。その炎は大声で何かを喋っていた。炎は俺に到達した。炎はタイヤを燃やし、俺の両足を燃やし、俺の頭を燃やした。全く熱くはなかった。むしろ俺は心地良さを感じていた。俺の肉体はぼろぼろと崩れて下に落ちていった。しかし俺には得体の知れない力が漲ってきていた。霊魂だけの存在になった俺はすでに綱を渡り切っていて、辺りからは再び猿の鳴き声のようなものが上がり始めていた。

 我に返ると笹校にいつの間にか到着していたのに気付いた。このわけの分からない妄想は一体何だったのだろうか、と俺は思った。すでにチャリはチャリ置き場に置いてきたようだった。鍵はかけただろうかと鞄の中を確認してみると、ちゃんとそれはポケットに収められてあった。昇降口近くのでかい時計を見やると午前八時十二分だった。全身が隈なくだるかった。そして気持ちも凄く落ち込んでいた。しかし校内へと入っていく以外の選択肢を俺は選べなかった。ゾンビみたいな歩き方で校舎へと進入していくしか俺には出来そうもなかった。俺の憂鬱な学生生活は今日も容赦なくスタートした。チャイムはまだ鳴ってはいなかった。

 教室に入ると各々が予習なり読書なり談笑なりをしていた。俺はすごすごと自分の席に座った。そしたら窓のところで他のクラスメートと話していた大山が、そのクラスメートとの会話を切り上げて俺の前にやってきた。そして彼は俺の顔を真正面から捉えて「グッドモーニング!」と片言で言った。俺は即座に後ろを振り返るふりをした。すると大山は朗らかに笑ってから「いや、お前に言ってんだよ!」と言った。俺は「誰に?」と聞き返した。大山は「だからお前にだよ!」と元気に言った。

「初めまして。佐藤明良って言います」

「今更? 何年付き合ってると思ってるん?」

「六億年」

「長過ぎだろ! 何だ? 俺達はドラキュラなのか?」

「日光! ほら、大山、日光!」

「ぎゃあ! やめろ! 死ぬ! 死ぬう!」

「……ちなみに何だが、俺は吸血鬼ではない」

「知ってる」

 俺は大山に拍手を送った。「今日もきれきれだな」。大山はけらけらと笑ってから「当たりめーよ!」と言った。そして俺に片手でハイタッチを求めてきた。だから俺は彼の分厚い手の平にそっと手を合わせようとした。それを待たずに「へーい!」と大山は言い、ばしんと俺の手を叩いた。で、弾いたのをまたぐっと引き寄せた。「腕相撲しようぜ!」と大山は続けた。しかし彼がそう言った直後に着席を促す鐘がなった。俺は「また今度な」と言った。それに対して彼は「おう! また後でな!」と応えて自分の席へと戻っていった。「朝っぱらから気を遣ってくれてありがとう」と心の中だけで俺は思っていた。随分と気が重かったけれど、大山と話せたおかげで今日も少し楽になれた気がする。本当にほんの少しだけだったけど。

 笹木高校での朝は小テストから始まるのが通例になっていた。若干名が自分の席に戻っている最中、係の人はもう今日の分のプリントを、廊下側の一番前で律儀に座っていた生徒に配り始めていた。教師さながらのスピードで、俺にとってはただの紙切れでしかないものを数え渡していく係員。渡された用紙をテンポ良く、後ろの席の人に回していく一番前の人達。リレーのバトンみたいにさらに後ろへと送られていく紙の束。束は俺のところにも早々に回ってきた。だから俺はその中から自分の分をすっと取り、前の人と同じような動作で残りを後ろの人に送った。小テストを受け取る人数が増えていけばいくほど、教室の雰囲気はぴりっとしたものになっていった。順々に空気が侵食されていくのを俺は部屋の中央でひしひしと感じていた。室内は和やかだったのに、大半のクラスメートが身に纏い始めたやる気によって、そんな和やかさは一変に崩されてしまった。配られたのはプリントだけではないらしかった。隅々に巡っていった何かが教室をすっかりと覆ってしまったのが肌で分かった。そんな様を俺は津波に呑まれるみたいだなと思った。凄まじい速度で土地を破壊し、家々を破壊し、美しい自然を破壊し、人々の命を破壊する津波のようだと強く俺は思っていた。しかしそう思っていたのはおそらく俺だけだったろう。察するに俺と周りとでは感じ方がずれているような気がする。多分皆は俺のように壊されたとは感じていないだろう。壊されたのではなくてむしろ作られたと思っているんだろう。勉強をする上で欠かせない心地良い環境ってのが今日も整えられたと、皆、おそらく上機嫌だったろう。シャーペンなり鉛筆なりが走る音が聞こえる。耳障りなかりかりって音が今日も聞こえる。いつものつまらない日常がめきめきと立ち上がっていくのがよく見えた。そして俺は俺が音を立てて崩れていくのもよく見えていた。客観と主観を行き来しながらに俺は小テストの問題に向かった。いや、向かってはいなかった。ただ名前を書き、ただ回答欄を知っていることで埋めただけに過ぎなかった。正解不正解を確かめる時間になったので隣の人とテストを交換した。問題に答えられないって恥ずかしさは完全になくなっていた。そして向こうもそれを熟知してくれているようだった。俺の手元にはすぐに六十と赤ペンで書き記された用紙が戻ってきた。だから俺も隣に百と書いたものを戻した。六十って数字を見ながら、大概俺はこれくらいの点数しか取れた試しがないなあと思った。そうそう、六十。俺は六十点の人間でしかないんだ。ぴったりだよな、この数字。というか、何にも勉強しないで六十点も取れちゃうテストってどうなの? はっきり言って簡単過ぎじゃね? もっと難しくても良いんだぜ? そしたら俺は零点を取れるだろうし。俺が一番取りたくてやまない零点ってやつを難なく。そんな風に思うと俺は実に苦しくなった。くそ。つまんねえよな、六十。何で答えてしまうんだ? 何で真面目に考えてしまうんだ?恥など捨てたのではなかったか? 見栄など持たないのではなかったか? 思い切れよ!割り切って、振り切って、零って数字を受け入れてみろよ! 俺は小テストを机の中にしまった。しまう時にちらりと流し見た六十って数字が、なぜか薄くぼやけた黒色に見えた。

 小テストを終えた途端に担任の斉藤が入ってきた。彼は教壇に立って皆の起立を促した。学級委員長が「起立!」と澄んだ声で言った。皆立ち、俺も立ち、皆礼をし、俺も礼をした。そして皆一様に席についた。その後で斉藤が何かを皆に告げた。しかしそれを俺は全く耳に入れていなかった。多分いつもの寒いジョークだろう。適当にそう思って俺は彼を見た。中年太りの彼が着ている衣服は今日もぱつぱつになっていた。まずはそこに着目してしまうのが俺の癖だった。もっと合ったサイズを着れば良いのにと俺は思っていた。が、「まあ別にどうでも良いけど」と早々と改めた。彼は今日も優しい表情をしていた。嫌みったらしくないとても自然な笑顔だった。彼はまだ独身だった。しょっちゅう「結婚したい」と言っていた。あまりにも結婚結婚と言うものだから、周囲の活発な女子なんかはよく彼のそんな様をからかっていた。「先生気持ち悪ーい」と言われながらよく笑われている姿を俺はこのショートホームルームの時間に目にしているような感じがした。でもそんな風に言われながらもてへへと笑って「今に見てろよお!」と言えるような人ではあった。俺は彼のそんなところがちょっと好きだった。年上なのに若々しく、また年上なのに腰が低かった。言う冗談だけがあまり刺さらなかった。でも俺はそれがいつか刺さる日が来るかもしれないと暗に彼に期待していた。

 斉藤が教室を出ていくのと古文の水口が中に入ってくるのがほぼ同時だった。斉藤は「あ! すみません、遅くなりましたあ!」と水口に言ってから次に行くべきところへと駆けていった。水口はそんな斉藤に「はいはい。お気を付けて」としゃがれた声で言ったが、当の斉藤はそれを聞きもせずに走っていっていた。「おやおやまあまあ」と水口は穏やかに笑った。そしてゆっくりと教壇に立ってから「始めましょう」と言った。そうして今日の一校時目がスタートした。

 一校時目がようやく終わった。そして二校時目が小休憩を挟んだ後に始まった。二校時目は数学Bだった。と思ったら俺は理科室で化学の授業を受けていた。で、気が付けば俺は元の二年二組に戻って英語の授業を受けていた。早いんだか遅いんだか分からない時間の流れに乗って四六時中呆けている俺が今日もあった。俺にとっては古文も数学Bも化学も英語も同じようなものだった。なぜならどの授業も話を聞かずにただ座っているだけだったからだ。教室に降り注ぐ陽光の違いとか、匂いとか、教師の見てくれとか、授業に臨む皆の様子とかの方に俺の気はいっていた。理科室はひんやりとしていて快適だった。だからそこから戻ってきた後で受けた英語の授業中、俺は二年二組の教室がいかに蒸し暑いかってのを思ってばかりいた。まだ春だった。なのに夏のような日差しがそこには降り注がれていた。清潔な匂いがどこの部屋にも漂っていた。芳香剤や整髪剤のような人為的な匂いではなかった。かといって森や林の中で薫るような自然の匂いでもなかった。潔白な匂いであることだけが確かだった。で、それは多分無味無臭に限りなく近しいものだという結論に今日は至っていた。

 古文が担当の水口はれっきとしたおばあちゃんだった。淡い緑の上着とベージュのズボンを履いていた。腰はぴんと伸びていた。背が小さかったので黒板の高いところに字を書けていなかった。背伸びをして書こうとはしていたのだが結局上手く書けていなかった。字は綺麗だった。俺は今日古文の時間での指名を免れていた。今日はおそらく当たらないって予感がしていた。だから俺は五十五分もの間水口の姿を執拗に見続けていた。色気も何もないただの老体をじっと見つめてばかりいた。それくらいしかやることがなかった。水口がもっと若くて、欲を言えばもう少しだけ良い体だったらどんなに良かっただろうかと思った。そうすればじっくりと舐るように彼女を見る楽しみが出来るのにって思わずにはいられなかった。いやらしい視線を送るによって彼女が少しでも女として輝くのを、俺は知らず知らずのうちに待ち望んでいたのかもしれない。背が高いよりは低い方が好みだった。そして胸も大きいよりは小さい方が好みだったりした。だから何かと水口は俺の好みに合った体型をしていた。さらに言えば彼女の顔は今でこそしわだらけだが、その造形はなかなかに整っている方だと言えるのかもしれなかった。だから若かりし頃はきっとそこそこ可愛かったのではなかろうかと想像していた。でも水口は決して若返ったりはしなかった。年相応のやんわりとした教師としての面立ちで生徒達に対しているだけだった。で、それは何も水口に限った話ではなかった。数学Bを担当している森谷も、化学を受け持っている金池も、英語を教えている安武も、皆教員としての一面を見せているだけに過ぎなかった。先生と生徒って関係が揺らぐような気配は全くと言って良いほどなかったし、双方がそれをこれっぽっちも望んでいないように思えた(森谷、金池、安武は全員が男だった。森谷は骸骨みたいな体型で、金池は風船のような風貌で、安武はプロレスラー並みの肉体を持っていた)。

 やっと昼休みになった。だから周りのクラスメート達は広げられていた教科書やノートを片付けて弁当なり菓子パンなりを準備し始めていた。さらに言えばいつもの面々で昼食を食べるために机をくっつけたり、あるいは他のクラスの友人と食べるために席を離れたりしていた。静かだった室内は急に騒々しくなった。ガタゴトと机や椅子を動かす音がなった。弁当を開ける音だったり包装を破く音だったりが聞こえてきた。そうやって周囲は着々と自らのポジションを確立していった。で、その果てに俺は教室の中央でしばらく一人きりになった。その様をまるでドーナツ化現象みたいだと思っていた。でもだからと言って焦燥したり不安になったりはしなかった。することもなければ行くところもない。食う弁当もない。よって俺に出来るのは背中を丸めて寝たふりをする以外にはなかった。ダンゴムシみたいに見事に丸まって自分の席でじっとすることだけが、今この空間で俺に許された唯一の行動だったように思えた。ただ一人を除いては俺に構うなんて野暮はしなかった。ただ一人を除いては、俺に近づこうとするやつなんていなかったのに。

「おっす!……明良、お前また弁当抜きかよ」

 大山は俺の一つ前の席でほっとかれていた椅子をこちらに向けた。そして俺が顔を上げるや否や、彼は彼のでかでかとした弁当箱を俺の机の上にどんと置いてきた。俺の中にある感情のスイッチがかちりと入れられた気がした。もしくは俺にもようやく昼が訪れたような気にもなった。でも俺はそれを極力表には出さないように努めた。あくまでも大山が俺にちょっかいを出してきたのに嫌々応えるって体を懸命に保つようにしていた。孤独を好いているから、一人でいるのが好きだから俺はこうしているんだって態度を必死で崩さないようにしていた。「俺は一人でも平気なんだけど」という分厚い仮面を大山を見るまでの短い間にさっと被った俺がいた。でも大山は俺のそういうごたごたなど構うものかと言わんばかりに俺の目の前で旨そうに弁当を食らうだけだった。物凄い勢いで飯を彼の胃袋の中に送り込んでいくだけだった。俺と一緒に食いたいから近寄ってきたのではないのかもしれないと俺は思った。そして事実、彼は俺と共に食べるのよりも別の何かを望んでいるようだった。では彼は何を望んでいるというのか? それが俺には分からなかった。いや、多分、分からないふりをしていた。大山の箸を乱暴に扱うかつかつとした音だけが鳴っていた。それはもはや教室中に響いていた。……あーもう。良いんだよ大山。大山の優しさは今日も甚大だった。でもそれは俺を守っているようで守っていなかった。がやがやとしてはいた教室は次第に静まっていった。ほとんどが大山の主張を受け入れざるを得ない感じになった。でも俺としては正直、大山の方にやめてもらいたかった。「過保護」って言葉が浮かんできた。なあ大山。気遣いは時として刺さるんだぜ? やっぱり痛いよ。恥ずかしいよ。大山には俺がそんなに弱く見えているのか? それを思うと余計に俺は俺が情けなくなるよ。もう餓鬼じゃないんだし、こういう時にどうすれば良いのかぐらいもう分かってるよ。それにさ、皆そもそも、俺なんかに興味ないんだよ。だから良いんだよ。そんな取って付けたようにしなくたって。良いんだよ。無理に目立たせなくたって。そっとしておいてくれよ。そう、そっとしておいてくれ。内心でそう思い、俺は声を発さずにはいられない。「いや、うるせーよ」。そうしたら大山も即座に言う。「いや、おせーよ!」。

 思ったよりもずっと低い声が出た。まるで地鳴りみたいな声だった。でもその音量は驚くほど微かだった。「いや、うるせーよ」は大山に届く前に空中で散ってしまったかもしれない。それに比べて大山の「いや、おせーよ!」はでかかった。彼がそう言った瞬間、周囲からは笑い声が上がっていた。すると俺の全身は痺れるようになった。特に頭がびりびりとしていた。俺は大山の方をちょっと見てみた。彼は俺の方をまっすぐに見ていた。そしてへらへらと何の気苦労もなく笑っていた。周りの声が溶けていって俺の耳には何一つ音が入らなくなった。本当に恥ずかしかった。何だよ。さらされてたんじゃなかったのかよ。大山が「いや、おせーよ!」って言いたかっただけなのを完全に理解した。大山はクラスメートを巻き込んで盛大に俺をからかっていただけだった。大山に何と言って良いかが分からない。でもどうやら俺はごにょごにょと「やめろよ」とだけ伝えたみたいだった。大山は「まだまだだな、明良!」と言った。だから俺は「何がだよ」と言った。そうしたら「お!……良いじゃん今の!」と言われた。でも俺はどこがどう良かったのかが分からなかったから、「だから何がだよ」と言い返した。大山はかっかと笑った。そんな彼の顔を見ていると俺も少しだけだけ笑いたくなったが、喉元近くまで込み上げた笑いは出てきそうで出てこなかった。

 大山は「ちょっと待ってろ」と俺に言って一旦自分の席に戻っていった。そして水筒とボトルと小袋を持ってきて再度元いたところに座った。俺は「またプロテイン?」と聞いた。すると彼は「おうよ!」と言いながら小袋を開封し、中の粉末をボトルに入れてそれにさらに水筒の水を加えた。大山は俺に「振るか?」と言ってそのボトルを差し出してきた。しかし俺は振り混ぜる様を見られるのが恥ずかしかったから、「大山君が振るとこ見たーい!」と適当に口裏を合わせて、やんわりとそれを拒否した。大山は「ほほう! そうであったか!」と言って、「じゃあ見せてやろうじゃねーの!」と続けた。そう言った直後大山はボトルを激しくシェイクし、中の粉と水とをよく合わせた。あっという間にプロテインは完成した。そしたら大山は「飲むか?」と俺に聞いてきた。しかし俺は腹も減っていなかったし喉も渇いていなかった。それに何より大山に申し訳なかった。だから俺は「いいや」と大山の勧めを断った。彼はそれに対して「そうか」と軽く言って今作ったばかりのプロテインを一気に飲み出した。瞬く間にそのプロテインは大山の胃袋の中に送り込まれていった。

「旨くないけどまずくもない」

「そりゃそうだろうよ」

「明良は腹減んねーの?」

「うーん。減んない」

「マジで? サイボーグじゃん」

「サイボーグだって腹空かすだろ」

「あー、まー、そうか」

「知らないけど」

「いや知ってる時の話し方」

「大山の方がサイボーグっぽいじゃん。体付き」

「ん? そうか? ま、鍛えてるからな」

「どんだけ鍛えたらそうなるの?」

「知らね」

 ようやくいつもの調子を取り戻せてきた。高くもないが低くもない心地良いテンションだった。ゆりかごの中の赤ん坊はこういった波長をたくさん感じているんだろう。血流が俺の内部でじんわりと巡るのを感じた。頭頂から爪先へと感覚が張られていく。さっき味わった麻痺のようなものはさっぱりと消えていた。

 大山がとても良いやつなのはもう分かり切っていた。彼と話すのが楽しくないわけではなかったし、俺がこのクラスでまともに話せるのは大山だけだったのは紛れもない事実だった。正直に言うと俺はクラスに全く馴染めていない。はぶかれてはいない。けど確実に馴染んではいなかった。でも、だからこそ彼は俺のとっての救いだった。俺の高校生活は沼のようだが、その沼と繋がる川のような大山があるおかげで、俺は海ってぐらいに広い集団生活にようやく適合出来ている気がした。大山がいるからこそ辛うじて許されていると、俺は常日頃からそういう認識を崩さずにいるよう努めていた。決して冗談なんかではなく、俺は大山によって生かされているとさえ言えるのかもしれなかった。しかしそれほどの存在になっている大山の何てことないちょっかいに困る時があった。皆魚だとする。魚らはそれぞれに夢や高い目標を持っていて生きが良かった。水中を淀みなく泳いでいた。何なら遊泳なんていう洒落た真似が出来るやつもいたりした。俺以外は広大な海原の中、何らかの目的を持って明らかに生きていた。そんな中俺は死んでいた。ぷかぷかと浮いていた。水面でゆらゆらと静かな波に揺られながら延々と流されている死魚こそが俺に違いなかった。俺は漂流する丸太にぶつかった。朽ちた身がばらけるのが分かった。けれどそんな俺の汚らしい身がえさになるはずは到底なく、むしろそれは皆を大いにげんなりさせただろう。散らばった俺の死肉は皆に避けられるだけだったろう。そんな俺の欠片は終いには灰みたいになって海に溶けるだろう。塩か何かかも分からないくらいに小さくなった俺はどこにも行き着かないだろう。うようよと漂うだけの流れみたいなものに成り果てて終わるんだろう。しかしそれくらい存在があやふやな俺の位置を的確に割り出してしまえるのが大山だった。大山以外にはまず出来ない芸当に違いなかった。俺はそういったのを思えないほど乾いてはいなかった。一人きりは何だかんだ言って少し寂しかったし、何よりつまらなかった。だからこそ大山が俺に構ってくれるのは単純にありがたかった。俺は俺を流れみたいなものだと言ったが、彼はそんな俺に形を与えてくれているように思えた。だからこそそうやって形を与えてもらった俺は、元よりしっかりとした形を持っている大山とやっとのことで話をしていられるんだと思った。でも俺はそれ以上を望んではいなかった。こんなどうしようもない俺に形を与えてくれた大山には感謝してもし切れない。しかし、そうは言っても、俺と大山との間には溝があった。大山は現役の硬式野球部のレギュラーで、俺は五ヶ月くらいで部を辞めた元補欠だった。そういう溝がもう出来てしまっていた。だからいくら大山が俺に優しくあっても、いくら俺と近くあっても、どうしても駄目だった。奥底で受け付けてはいなかった。少ないけれど大きく決定的な裂け目があった。俺は彼が俺のところに入ってくるのが苦しかった。俺と彼とのはっきりとした境界線を目で確認しながらつつき合っているくらいで良かった。だからこそ俺は大山の過度な情に苛ついた。苛つける身分ではなかった。それを十分に分かっていてなお俺は大山に苛ついた。大山は甘過ぎだ。彼の気遣いも、彼のからかいも、何もかも甘過ぎだ。大山の優しさを「痛い」と俺は言った。痛いところにはきちんとした傷薬とかを塗るべきであって、決してミルクチョコレートなんかを塗ってはならないんだと思う。

「野球部の方はどうよ」と俺は聞いてみた。久しぶりだったが急に気になった。

「ん? ま、ぼちぼちよ」

「監督」

「毎日しごかれる。超こえー。後うぜえ。でもうめえ」

「卜部」

「卜部って明良と同中だっけか」

「うん。昔からスタミナめちゃあった」

「俺の方があるけどな。卜部よりも」

「俺からすると両方あり過ぎだとしか思えん」

「俺の方がある」

「そこ頑固な。……山内」

「相変わらずエロいぞ」

「尻? 胸? 足?」

「腰回り」

「マジで? 尻じゃなくて?」

「腰回りの、何つーか、ライン? 腰のライン? 曲線美的な?」

「見るとこ凝ってるな。美術的」

「客観的な意見が聞きてー。明良はどう思うよ」

「総合的に見て山内の体に点数を付けるとするならば……」

「『ならば……』じゃねーよ焦らすなよ。もっと直感的で良い」

「うーん。じゃあ顔は八十点。胸は七十点。尻も七十点。足は九十点」

「結構具体的」

 大山はそう言った後、少し間を置いてから高笑いをした。「ひゃはは」と笑った。くすぐられた時に出るような笑いだった。そんな大山の笑い声を聞いた周りもまたわははと笑った。大山が今日もクラスの中心であり続けているのをその時に思った。大山が笑えば皆も笑う。大山が嫌がれば皆も嫌がる。大山の一挙手一投足に注意を払っているクラスメート達がある。彼の発言に聞き耳を立てている皆が確かにいる。皆は大山に従順だった。逆らえなかった。いや、逆らえないというよりは不満がなかったんだと思う。大山は本当に人気者で好かれていた。皆大山を肯定していた。大山の行動を肯定し、大山の言葉を肯定し、大山の考えを肯定していた。大山が話すと華やかな笑い声がいつも上がっていた。そこまで思った俺は突然ぞっとした。大山が話すと? 俺と話している時ではなくて? そういう考えに至った俺は内心で震え上がっていた。俺は許されてなどいないのか? 大山が肯定しているであろう俺という存在は許されてはいないのか? そういう風に思い始めたら俺の思考はそういう方向にどんどんと向かっていった。周囲の目がやたらに気になり出した。途端に大山と話すのが恐ろしくなった。皆には俺はどういう風に映っているのだろうかってことばかりが頭を埋め尽くしていた。世間体ってやつが閃きみたく俺を貫いた。そうしたら俺は大山が敵であるかのように思い出していた。大山は俺と公衆とを結ぶ電話のような人間なのに違いはなかった。しかし彼は同時にスパイのような役割を担っているのかもしれなかった。俺の言動を皆が盗み聞くための機能を暗に果たしているのかもしれなかった。本当は皆は想像するのも嫌になるほどに俺を蔑んでいるのかもしれない。本当は俺をこれ以上ないってくらいに馬鹿にしているのかもしれない。いつぞやの授業中に遊びで思い描いていたイメージが途端にわいてきた。俺が皆から世にも恐ろしい目で見物されている様が連続して頭に浮かび上がってきていた。大山が俺に「明良? どうした?」と言った。俺は彼の問いかけに応えさえしなかった。余裕が見事になくなっていたからだった。そしたら昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。

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