◆イブ カムアウト フロム ザ オールドウェル
……こいつ一体何してんだ? と、ただただ異様さに言葉が出ない。背広の裾を手に取り、恍惚とも取れる表情の幼女は、浴びるように俺の匂いを吸っている。
格式のありそうなバーに、背広から異臭のするオッサンが入ってきちゃ迷惑だなんてチェックされてるのかと、まして子供に失礼だぞなんて怒れない俺。ていうかさっきの態度からしてもウザがられてたんじゃ? なのにこいつ今俺に滅茶苦茶近いのはどうしたんだ、うわーつうか今週クリーニング忘れてたんだよなぁ。なんてぐるっと思考が回る中、視線だけがヤツを覗いてる。すると時期に気付いて、漸く目が合った。
「……ニャ!? ッフー!」
今まで見られていた羞恥心からか、スカートと一緒に髪の毛がぶわっと広がって、声と共にバックステップで下がる店員。いや、ビックリしてるのは俺なんだけど。何か目的があってやったことなら逃げずに答えてくれないと余計にわからなくなる。しかし、とにかく今度は子猫みたいに威嚇する姿を視界から外して、次の注文を頼むことにした。疑問以上にきっと目を合わせない方がいい、ていうかよく考えれば店の佇まいからして、余計に関わってしまわない方が身の為だろう。
「……あの、グラスが空いたんだが」
中に入った氷が振られてカランと鳴ると、幼女は今しがたの奇行など他所に置くかの如く落ち着きを取り戻し、ポンポンと前掛けを払いカウンターへと戻った。むしろ逆に不自然なんだが……にしたって視線を合わせずに注文なんて俺もキザったらしい、まるで大嫌いなトレンディドラマの主人公みてぇ。
それで注文を待つ相手も聞かずそのまま無言なもんだから余計に雰囲気は加速して、まあ店そのものの雰囲気故だ諦めよう……清涼感のあるソーダ割で後はおまかせ、なんて試す意味で頼んでみた。そしたらグラスが入れ替わり、度を越す程の嫌味な清涼感を臭いに乗せた、赤黒い炭酸が出てくる。
「……あの、これは?」
「ブラック・アンド・ブラウンと呼ばれるカクテルです。
……スッキリします」
いや、スッキリってどう考えたって湿布臭だけだろ、飲まなくても臭いだけで分かる。やっぱ俺絶対嫌われてんだろ、もう分かったわ……なんてヤな顔しながらそっと上目遣いに前を覗き込むと、翡翠の中で眠る黄金を思わせる眼の下から案の定少しニヤついた口元が見えて……
……いやよく見たら広角と眉尻が歪んでんぞ。そしてなるべく息をしたくないのか、浅く細かく鼻をヒクヒクさせながら呼吸をしている。嫌がらせの為なのか知らんが嫌悪感剥き出しになるぐらい嫌いな匂いの酒を、わざわざ作って出すとかどこまで必死なんだよ。
なんかイラッとした俺は、さあ飲んでみろとゲテモノを差し出し頑張ってドヤ顔を作る眼の前で、グイッと一気に飲み干してやった。
「っ! っ……!?」
店員は何度もカラになったグラスと俺に視線を往復させながら、信じられないと言った風に口を半分開けてはアホみたいたいな顔を晒した。どうせ飲めないだろうとでも思ったか間抜けめ、苦虫の味を知り尽くしたリーマンにはこの程度余裕なんだっつうの。何ならそっちにもチョットお裾分けしてやろうなんておくびで返すと、本当に嫌そうな顔で鼻を覆い、にゃぁなんて可愛らしい声と拒否感を全面に表し姿勢を逸らす。
思い知ったかこンの野郎が……とはいっても今の酒は俺自身も相当ヤバい。イマイチ得体の知れない店と店員の傾向を探ろうと曖昧な注文をしたこっちも悪いんだろうが、俺はアメリカ人じゃねぇ。全く見た目に似つかわしく可愛げのある事をしてくれるなんつって鼻を通る刺激に促され、グラスからまた一滴脂汗の如く声は落ちコースターへと滲んでく。
天井に吊るされたランプからは酸素を燃やしジリジリと灯りを放つ色が聞こえた。これでマンツーマンでもなけりゃ何かのタイミングでサッと出て行きも出来るんだが、今しがたの仕返しに睨まれ、視線で居心地悪いわ逃げも出来ないわ……もうウンザリだ。ああ誰か来てゴス子の気でも逸れねぇかな、なんて僅かに溶けた冷水を啜る。そしたらまるで願望が実現して、入ってきた扉が開いた。
「おはよーイブ……あれ? シンジくんだぁ」
カランと鳴るドアベル。入るより先に声は中へと響き、此処になかった明るい色がその途中俺へと向かい、知った声に思わず振り返ってユラの顔と会う。
「お? おう……」
我ながら間抜けな返事、動揺はまるで俺の欲しかったものを知ってるサンタへの違和感に近く、偶然とは思えなかった。しかしユラは違いすぐに理解したのかホクロを押さえ、笑顔に戻って俺の隣りに座る。
「えへへ、お隣いいよね」
「いらっしゃいませ、おしぼりどうぞ」
「…ああ、いいけど。それよりどうした、ここ飲み屋だぞ?」
「え? 違うよぅ。確かにお酒も出すみたいだけど。
僕、ここのほうじ茶ラテが好きでいつも来るんだ」
じゃあこの店はカフェバーなのか。ならあの酔っぱらいと俺は時間も憚らず飲ん兵衛やってたってことになる。しかし朝っぱらから酒出すとかどうなんだ。こうやって青年も来るんだし、時間によってメニューを分けをしないのは行政から文句が来てもおかしくない。いや、おかしいのは入る前からわかりきっていることなんだが……。
「どうぞ」
「わあ、ありがとうイブ」
いつも同じものを注文するからだろうか、それとも決まった時間に来るからか。注文する間も無く湯気の立った木製のマグカップがユラの前に差し出される。俺の時とは随分物腰が柔らかい気もするが、常連との差とって事なんだろう。名前はイブだったか、なら外人は身内になってく程サービス良くしてくれるし、そんなもんなんだろうと胸の内で無理に納得した。
で、ユラは早速出てきたラテを見つめ嬉しそうに脚をパタ付かせながらも、目を閉じ湯気の匂いを嗅ぐだけでまだ口を付けようとしない……猫舌か。しかし棚に飾ってある美しいティーカップと違い、器は日本の茶に合わせたのだろう熱々のまま保温できる木製で、きっと飲める温度まで下がるのもまだ先に違いない。よく見ると特注なのか側面には揺らぐ水面に映る三日月のマークと、OLDWELLなんて文字の焼印が押されている……店名、そういや見てなかった。
「……仲良さそうだな。いつも来るつってたけど」
「あ、そうそう。紹介するね。
話してる内に服が好きなボクと裁縫好きな彼女と意気投合しちゃって。
サンドウィッチが名物のカフェバー、オールドウェルの店長でイブさんだよ」
「……ん!?」
驚き視線を向けたがイブサンは今更挨拶するスキさえ与えてくれず、知らぬ間に離れた調理場でトースターを使いパンを焼いている。チンと音がして、さっきから微かに漂っていた香ばしさが一気に爆発して鼻を擽った。柔らかで暖かな包容力のある香りについ俺の心も穏やかに……穏やかになる訳がねぇ。
「シンジくんもこの店によく来るの?」
「いや、今日来たばっかりだ。ってか……」
「うん」
「……いや、何でもない」
「? そう。じゃあイブ、いつものサンドお願い!」
「直ぐにお持ち致します」
こいつが裁縫好きってことは、つまり聞いたことも無いユラの服とかYシャツの変な俄情報も全部コイツの仕業って事じゃねぇか。ゴスロリ服なんか着てるのがいい証拠だ、何なんだこのアングラな世界、頭が痛くなりそうだ。と、ウンザリしてる間に軽食が届く。
「チーズとトマトが美味しいんだぁ。
生ハムとレタスにね、タマネギのスライスも入ってて。
……あ、来た!」
「……たしかにこりゃ美味しそうだな」
「でしょ? シンジくんもどうかな」
「んーまあ、そうだn」
「すいません材料が切れました」
わざとらしく被った店長の言葉。思わず、えー……なんて声が漏れちまう。明らかに拒否されてるがそれでいいのかよ客商売、流石GAIZIN。だがヤツの言葉はすぐ本人の意図した所からはみ出、結果的には歯痒さに変わる。
「そうなんだ、じゃあ……やっぱ半分こしよう!」
「いや、まあ……いいのかよ」
「ボクから言ってるんだもん、一緒に食べたほうが美味しいから」
……遠慮じゃなくお前らの友情に配慮してんだよなぁ、と店のシンボルが如き鋭く尖った模様の視線を受け渋い顔になった。ユラの話を耳にしたテンチョーサマはまるで断れと言わんばかりの形相でこっちを見てて、だが結局俺に意地悪したお前の自業自得なんだが。それにいくらユラの為に作ったかとか俺に食わせたくないとかがあっても、頼んだ本人が俺に譲るって言ってんだ……ああもう何で俺が板挟みに合なきゃならん。
「あ、でもお皿無いや。
汚れ物増やすのも悪いし……じゃあ直接どうぞ、あーん」
「子供じゃねぇんだよなぁ」
「ほら、早くしないと今度は僕の分が冷めちゃう」
「ああ糞……」
儘よと口から飛び込んで、眼前の光景にゴス子ちゃんは固まる。いやまあ俺が女でも、好意のある男の子が同性と、しかも年の離れたオッサンとイチャイチャしてるの見たら、流石にどうなってんだって固まるけどよ……ああ、だからユラもそんな嬉しそうに俺の食うトコ見ないでくれ。
「どう、美味しい?」
「そ、そうだな……美味い。
ここの店長は手際も良いし、料理の腕も最高だと思う」
僅かながらの謟諛を付け足し、異様な場の空気を和ませたい俺なりの機嫌取り……つっても俺への対応を除いた正当な評価のつもりで言った。実際テキパキと働く姿は着ている服には似つかわしくない姿なんだが、同時にプライドも高そうなもんだからこの程度で靡く筈が無いと半ば諦めてもいる。
「お口直しにどうぞ、ブレクファスト・ティーです」
「……あ、ああ? ありがとう」
だがイブは予想を裏切り言葉に直ぐ靡いて、上品なティーカップで俺に紅茶を差し出した。コントかよ、それとも見た目通り中身もやっぱ子供ってことか? 良い意味で腑に落ちん。
「あー美味しかった。
やっぱり誰かと一緒のご飯って楽しいネ」
「いつも私が居ます」
「だってさ、一緒にカウンターで食べてくれないもん」
「私はお饗しする側の身ですので」
「それにタマネギ! 味のバランスが大事なんだよ?」
「タマネギは……食べられません」
俺に話しかけていた筈のユラだが、いつの間にか店長のイブと言葉を交わし合っていて、タゲの逸れてくれたお蔭もあり何とか一息つく。本当はこうやって誰かの話を横から聞いてるぐらいが一番落ち着くんだよな。サービスなのかお金を払わないといけないのか、出された紅茶は当然ペットボトルと違い砂糖は入って無く、しかし本当ならさっぱりする筈が胃の中のハッカ臭と混ざり合い喉元まで押し寄せ、それで酔も薄れてしまった……全くもう。
「ね、この後どうするの?」
「ちょっと、行きたい場所がある」
「そうなんだ、ボクも一緒に付いて行って良い?」
「……ああ、構わないが。でも別にお散歩って訳じゃないぞ」
「うん!」
再び此方に向けられた言葉に、俺は何故か肯定的な返事をしていた。もしかしたら次にぶっ壊す場所の下見が1人では不安だったのかもしれない……なんて自己分析をしてみたが、正直複雑でもある。機械のオーナーであるユラは俺のしていることに加担してもいるが、無邪気さ故にまだ要領を得てないのかもしれないし、薄汚れた俺の悪意になるべく触れさせたくない。なんて身勝手さにも頭を抱えてしまう。じゃあ自分の会社壊して喜んでんなよって話なんだよな、そもそもの話。
「ボクならいつでも大丈夫だよ?」
「……じゃあ、そろそろ出るかな」
立ち上がりレジへと進むと、あっと声を出し向かうユラを手で制す。見ていた店長は微かに笑いながら銀行のカードをと、両手で受け取った。デビットカードなんか久しぶりだ。
そして直ぐ側の出口専用と言われた扉に手を伸ばし、先にユラを送ると後に続き自身もカフェバーから出る。上品にゆっくりと閉まっていく扉の刹那、外から眺める店内の景色が淡く虚ろげで触れがたい異質さを思い出させた。そうだ……俺はこの店にあまり関わっちゃいけないと思ってたんだった、と徐々に戦慄が体を包み、やがて気付く店主からの視線で一気に駆け昇る。
逃げ込むように入ってしまう切っ掛けとなった目の痛み、外から一瞬見えた彼女の両目はその銀河に犯されていた。鳥肌に身震いし完全に締まり切った後、思い出して周りを確かめる。
……出た先は灰と闇の中では無く、どこか狭い路地の中だった。後で大通りに出てるとそこはゲーセンのある繁華街の近くだったことが分かるのだが……元いた会社からは電車でもなければとても歩いてなんて来れない。あのアンティークな街灯も姿を消していた。
思い返せば流されるようにユラとの行動を許した言葉さえ、この場所から出る……或いは俺の望んだ全てだったのかもしれない。俺の後ろでちょこんと待つ姿、持参していた紙袋に気付くと、店長から譲ってもらった新しい衣装だということで……別の意味で冷や汗が出る。