第二話 道中記 〜草原地帯の一角〜
始まりの風が吹き、風は地に生える草を泳がせていた。草もまた、風に身を任せて踊っている。何処までも続く草原地帯に、まるで海のようだと錯覚する。昼には、微かに香る潮風の匂いも相まって、さらなる錯覚を引き起こしていた。
故郷からどれほど歩いただろうか。既に五十キロは歩いたか。故郷から離れたのが、だいたい巳の正刻か。まだ宵ではあるが、そろそろ野宿をしなくてはならない。
野宿用セットには寝袋はもちろん、薪、マット、火打ち石、獣用の罠なんかも入っている。薪に関しては一夜分しかないので、明日からは調達しなければならない。そのためにもこの草原を一刻も早く抜け出しておきたい。最悪の場合、素掘りしたところで野焼きをすることになるだろう。それよりも最悪なケースは想像したくない。
こういう時に魔術があればいいのだが、私たちの国では魔術など無縁なのだ。他国では『国民が最低限治めるべき学問』として魔術を採用している国がほとんどだ。しかしわが故郷は魔術ではなく、自然魔術を採用している。自然魔術とは即ち、磁力、言語術、錬金術など、様々な分野の学問をまとめたものである。魔術だけにとらわれない幅広い範囲での学問のため、我が故郷は他国から、すべての学問の親と言われている。中でも商いに関しては秀でているものがあり、他国との交渉では必ずこちらが有利となる条約を結べるほどだ。
と、まあ、このように私たちは魔術など要らないと門前払いしていたわけだが、いざこういう状況になると、便利さにおいては魔術が一番なのではと思えてしまう。長きに渡る修行により身につけた力を持った状態で呪文を唱えれば、即座に何もかもを生み出せるのだから。
ひとまず、薪は土の部分に置いた。あとは火打ち石を使って火種を飛ばすだけだが、書物で読んだことはあるものの、実際に起こしたことはない。少し不安だが、打つしかないか。
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私は底冷えを防ぐためにマットの上に寝袋を敷いた。余分にあったマットは折りたたみ、食事の際の椅子の代わりにした。程よい高さだったのでストレスなく食べられた。今夜は缶詰だが、次からは本格的に料理でもしてみたいものだ。あるいは、どこかで剣術を教わり、狩りにでも出かけてみたいものだ。
しかしまあ、草原にも草が生えていない部分があって助かった。しかも土の範囲が広いので他の草に火が飛び散らないだろう。
焚き火はごうごうと燃えて、私の身体を暖めてくれている。この安心感を感じられているうちに私は寝袋に包まれようと移動する。缶詰もゴミ袋に入れて、火元から遠ざけた。
罠もしっかりと設置しており、寝てる間に罠が発動すれば獣害に見舞われることもない。さらにこの罠は使い回し可能なので安心して使える。火もやがて消えていくので、消す作業も必要ない。
こうして私は安心感に包まれて就寝した。
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例えば、例えばの話としてだが。
あなたの周囲に恐ろしい獣が何匹もいたらどう思うだろうか。今日の処刑者と言わんばかりに、中央に立たされて、恐ろしき集まりのなかで一人、恐ろしいことを考えてしまう。だいたいの人々は、このように恐怖するだろう。怯え、おののくだろう。もちろん、私も震え上がってしまう。
さて、ここからは例えばの話ではない。
私は今、危機に晒されている。察しはつく、と思われそうだが、先程の話のように囲まれているわけではない。むしろ、囲まれていることよりも恐ろしいことである。
私の周りに、何百匹もの獣や魔物がうごめいていた。
私は目も開けず、動かず、ただその時が来るのをじっと待っていた。早く、早くいなくなってくれ、と。
草を踏み、本能のままに動き回る獣たちは、時折私の寝袋の匂いを嗅ぐ。そして何も無かったと思い込んだのか、すぐいなくなる。けれど、獣たちや魔物が入れ替わりでここにやってくる。この繰り返しだ。
クンクンと、鼻を鳴らす音は幾度も聞いた。もう飽き飽きだ。頼むからいなくなってくれ。
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楽しみの時間というものは、すぐに過ぎてゆくものである。幸福と感じるそれらの時間は、楽しさで時間を忘れ、おおいに盛り上がる。
しかしながら、苦しみの時間というものは、すぐには過ぎない。不幸と感じるそれらの時間は、苦しさで我を忘れ、恐怖さえも感じてしまう。
私が体験したかったものは前者であるが、実際に体験したものは後者である。何事も上手くいくものではない、とわかった夜だった。
陽が昇り始め、空は薄闇色を描いていた。冷たい風が吹き、草は露に濡れている。土は湿っており、数多の獣達の跡が残っていた。
私は草原のなかで寝ることがどれだけ危険なことか、身を以て知ることができた。これからは、野宿する場所を選ぼうと思う。あるいは何処かの村を探し、泊めてもらうことも考えよう。
経験の浅い私は、当然旅のルールや常識を知らない。旅にルールやタブーがあるのかというと、自身でも見当がつかない。これからの旅のなかで知ることができれば、どれだけ幸せなことだろうか。私は旅というものに、多大な期待を寄せていた。私の人生を大きく左右するものであることは間違いない。
ただし、昨夜のことに関しては経験したくないと思う。もう一生忘れないだろうから。