木曜日7
南町の家に寄るのは朝からにーちゃんには申告済み。九時十五分までに帰ればお仕置きは無しと言われていた。
九時十三分に玄関で靴を履き替えた俺達は、だからにーちゃんから、――お帰り、今日も暑かったな。雨、大丈夫だったか。とだけ言われた。
「すぐ食べるだろ? いや宿題だって有るんだからすぐ食べろ。――あぁ、今日はランさん、戻りが”お昼”過ぎそうだから気にしないでくれって。さっき連絡があった」
そして一〇分後には、我が家最強の主夫であるにーちゃんが手際よく温め直した夕飯も食べ終わった。即座にコーヒーのカップが三つ並ぶ。手際よすぎだろ……。
にーちゃんは気にしないで良いぞ。と言ったのだけれど、今日は月乃が台所に立って洗い物。
生活全般、全てにーちゃんに頼り切っていいわけが無い。
「ねー、ところでさぁ。にーちゃんは天井に付いてる火事を知らせるヤツとか詳しい?」
台所で洗い物をしながら月乃がにーちゃんに声をかける。
「……? 自動火災報知器、ねぇ。どんな理由でツキが興味を持ったのか、僕としてはそっちの方を聞きたいんだけど」
「単純に見たまんまなんだけどさ。……今日、ちょっとお使いで旧高校校舎に行ったのね。で、前にボヤ騒ぎが有ったって聞いたの。今、火事になったら誰か気付くのかなぁって。あのボロ校舎の火災報知器、って言うの? ちゃんと動くのかなぁ、とかね。――さっき雑学王コンビには聞いたけど、陽太もチカも具体的な中身なんか当然知らなかったし」
……そんなコンビを結成した覚えはない。
「確かに俺も意識してその辺見たこと無かったしね。にーちゃんはたまに工場とかの建設現場にも行くだろ? それに消防団の班長だし。だからそういうの詳しいかなって思って」
「僕の仕事としては火災受信機から緊急の信号貰うだけ。消防団の仕事も啓蒙活動が主なんだけどな。一般的な範囲で良いなら教えるぞ。どうせ専門的な話は僕も知らないし」
――だから込み入った話にならないので時間もさしてかからない、宿題の邪魔にはならない。
そう言いながらコーヒーを一口啜るとカップをテーブルに置く。月乃もテーブルに戻ってくる。
「アレってどうやって火事だ! ってわかるの?」
「天井に付いている感知器の周りが一定以上の温度か煙の濃度になると発報、要するにベルが鳴ったり非常放送がかかるんだな。家庭用だとただその場でピーピー鳴るだけだけど、大きな建物だと建物全体でベルや非常放送をかけて、必ず人が居る筈の部屋でも警報と、それからどの部屋が火事って言う表示が出る。学校なら職員室だろう。そして誤報でないことを目で見て確認したら初期消火開始と共に消防に通報する。そう言う仕組みだ。天井に付いてる熱や煙の感知器は全体の一部でしか無いんだよ。消火器の場所やドアの開く向き、壁の材質や誘導灯、建物を管理する人、大袈裟に言えば使う人も含めて一つの大きなシステムを構成していると言う事だ」
――年に一回くらい避難訓練とかやるだろう? お前達も学校の防災システムの一部だと言う事だ。そう言うとにーちゃんはコーヒーのカップを傾ける。
「でもにーちゃん、ほぼ建物使ってないんだよ? 旧職員室、誰も居ないよ?」
「なら使ってる建物に電線引っ張ってるはずだ。消防法って言うのがあるから、その辺がいい加減だと消防署が建物の使用許可を出さないんだよ」
「建物使うのに消防署の許可が要るんだぁ……。別に警察とかじゃ無いから逮捕されたりしなさそうだし、別に無視しても良いんじゃ無いの?」
「使うだけならそうなんだろうだけどな。何かあったら全てが建物の持ち主の責任になるし、その上保険がかけられないぞ? ……絶対に火事にならないって誰も言えないだろ?」
「じゃ、あのボロ校舎も火災報知器動くんだね。……教室に付いてるのは温度? 煙?」
「学校の教室は作動型感知器。って消防団の講習の時に言ってた気がするから、多分温度。作動型は周りの温度が急激に上がると発報するタイプ、だったかな?」
……この説明が正しいなら温度が急激に上がる、つまり火の勢いがある程度大きくならないと火災報知器は火事を検知しない。
その後高等部新校舎二階にある職員室にたまたま居た先生が、火元を確認しに、立体迷路の中を走って駆けつけるまで五分はかかるだろう。
そしてその時、常禅寺先輩が本気でお昼寝中だったとしたら。
入り口と窓中心に火の手が上がったとしたら。
火の勢いが弱いうちに目を覚まさなかったとしたら。
先生達が来る頃にはもう理科準備室の中には誰も入れないし、中からも当然出られない。
更にそこから通報して、消防車が到着するまではもっと時間がかかる。ごちゃごちゃした燃える物だらけの部屋の中、逃げ場を失った先輩がどうなるかは……。
「でも、県立でボヤって聞いた事無いけどな……。いつの話だって言ってた? ツキ」
……あ、バカ月乃。固まるな。なんで返しを考えておかないんだよ、消防団にそう言う話を振れば当然そこは突っ込まれるだろ!
――今バレるわけには行かないし、仕方ない。
自分ではもっと器用だと思っていたのに、アドリブは意外に効かないと最近わかった俺だが、ここは不器用なりに援護してみるか。
「昔、火災報知器にイタズラされたことがあったってそう言う話、だったよ? な、月乃」
『ないすあしすと! 陽太』
うるせぇ、さっさと話繋げろ!
「う、……うん、そうそう。先岡高校の頃、って言ってたよね」
「……考える事ってみんな一緒なんだな」
なんとか乗り切った。って、――え?
「え?」
「なんて?」
「僕も昔、中学の時にやったことがある」
中学生のにーちゃんなら、【火事の時押して下さい】。と書いてある押しボタンくらいなら。
何かのついでに普通に押しそうではある。
そう言う人が消防団をやってる以上、イタズラの目は速やかに摘み取れるんだろうな……。
「……実は僕も火災報知器をライターで炙ってみたことがあってな。……自動で消防に連絡が行くシステムになってて、消防車が五台と救急車にパトカーまで二台来た」
さすがヤンキー全開時代、やることの桁が違った。
火災検知器を実際に炙ってみようなんて想像したことさえなかったよ……。
中高時代のにーちゃんに限界の文字は無い。
面白そうなことを思いついたら、何でもその場のノリで即やっちゃうんだよ、話を聞いてる限り。
但し、自分の悪行は今回みたいに自分で喋る事はほぼ無いから、お母さんであるところの宇都宮のおばちゃんから聞いた話が主だけど。
「でも、にーちゃんがやったってバレなきゃ……」
「バカだったからな、自分の教室で机を積み上げたんだ。当然クラスのみんなが目撃者だ」
「……えーと。バレない方がどうかしてるよねぇ、それ。――先生に、怒られた?」
「凄く。……学年主任に中学校は常識を教える場所じゃない! って一時間正座で怒られて、副担任は女の先生だったんだけど消防と警察が帰るまでずっと泣いてた」
「おんちゃんとおばちゃんは?」
「親父は、“動くかどうか確認したくなるよな、あー言うの”。と言ってお袋に酷い目にあわされた。そのお袋には“バカで構ねーから周りに宣伝すんな。だべからバカなんだ”。と怒りもしないであっさり言われた。かえってショックだった……」
にーちゃんのお母さん、宇都宮のおばちゃんこと手塚麗菜は母さんの妹に当たる人。
母さんに見た目が似ているのは当然として、とても行動的な人だ。
例えば。お隣から貰った野菜を届けに自分で黒のシャコタンマジェスタを運転して、宇都宮から突然家に来たりする。
先月そのパターンで来た時は滞在時間二十分でとんぼ返り。
例えば。近所に出来たプールの只券を貰ったと言う理由で始めた水泳で、三十歳の時に全国大会出場標準記録を何気なく突破したりする。
その時は“息子が今年高校受験で”と言って辞退したそうだ。……でも三〇歳で息子が高校受験、って言うのは本当の話。
例えば。にーちゃんを生んだのが若干法律に引っかかる歳だったりする。つまりは今の俺や月乃とはさして変わらない歳、と言う事だ。
しかもにーちゃんには妹も居るんだけど、実は一つ上にお姉さんも居るのだ。……宇都宮のねーちゃん、ありちゃんを生んだ時、おばちゃんは今の俺達と学年、一緒だった筈。もっとも。ちいねー、なりちゃんを生んだ時だって高二在籍中。
だからおばちゃんとにーちゃんは親子ではあるけれど十五歳しか離れてない。俺達兄妹とランちゃんの年の差とほぼ同じ。
こうしてならべてみるともう、国家公務員でもあり、常識に迎合することを是としていた母さんと姉妹であるのが不思議なくらいだ。
かつてにーちゃんが世間の常識に真っ向から挑戦するような人間だったのは、意外とおばちゃんの遺伝なのかも知れない。
「ねぇねぇ、にーちゃん。ありちゃんとなりちゃんは、そんときなんか言ってた?」
「ありねーはともかく、ちいねーはちょっと気になるかな」
「ねーちゃんからはやっぱり馬鹿だな、お前は間違いなくうちの子だ。と言われてケンカになった。なりひからはにーちゃんすげー、かっけーと言われてアイツが心配になった」
……なんと言う予想通りの会話。手塚広大とありす、なりひは間違いなく兄妹だな。
「まぁ何しろ実験したいと言うなら僕は止める立場に無いが、せめて人気の無いところで、逃走ルートも確保して、バレないように段取りを付けてから、だぞ?」
「なんで俺達が火災報知器炙るの前提になってんだよ!」
ちなみに乳飲み子二人(高校二年の二学期には三人に増えた)を抱えながら、現宇都宮のおんちゃんであるところの彼氏の家から商業高校に普通に通って卒業し、その間資格も五つくらい取ったのだと言う。
息子のにーちゃんこと広大と同じく。
元ヤンキーのカテゴリに所属するおんちゃんと違って、ヤンキーでは無かったどころか成績優秀者として表彰されたことまであるおばちゃんである。
もっとも本人はその時、出産のために入院してたらしいけど。
お上品な近所のおばさん的な見た目に反してバリバリの栃木弁で良く喋る上、冗談が大好き。
その上、家族を罵倒する時は一切の躊躇が無い。
おんちゃんは全く頭が上がらない。
そのおばちゃんが怒らなかった、つまりは“くだらねぇ上に、笑えもしねぇ事しやがって”と判断されたことがショックだったんだろうな。
――全くその通りだとは思うけど。




