第1話 少女と白竜#1 ★
深い穴の中、ゴーグルと一体型のマスクを被る人物の姿がある、黄土色の厚手のつなぎを着込み、革の手袋を装着した手が太い根を掴む、強く握ったり揺すったりすると、根に着いた土がパラパラと落ちていく。
腰に付けたランタンを外し足元に静かに置くと、腰に手を伸ばし小さなナイフを手に、そのまま根に切り込みを入れ、力を込めて根を折り断面を眺める、中心部は瑞々しいまでに淡い黄色をしており、そこから放射上に黒い斑点が見える。
「これは―、まだ間に合う、良かった今助けてあげるからね」
マスク越しに聞こえてくる少年とも少女とも取れる声、背負っている小さな鞄を広げ、小瓶に入っている水色の液体を手に取ると、鞄から今度は注射器を出し液体を手際よく装填する。
「ねぇフィンまだ?」
後ろから声が聞こえてくると、眼は注射器を見ながらそれに反応する様に。
「もうちょっとだよスティンク」
容器から針を抜き、根にその針を差し込む、徐々に親指に力が入っていき液体はみるみる根に吸い込まれていく。
「ふぅ、これで大丈夫、本当間に合って良かったよ」
取り出した荷物を綺麗に整頓しながら片付ける、ランタンを拾い上げ腰に付け直すと、とても狭い道を後ろに下がっていく、ブーツの底は泥だらけで幾重にも重なり絡まった根を丁寧に払いながら後退する。
◇◇◇
「お! 出て来たぞ!」
太陽が降り注ぎ一瞬視界は白一色になる、周りには民家や畑が並び巨大な樹木の根元、幹から染み出した水は小川となり街の至る所へ流れている、川を挟んだ両脇には立派な麦畑が風に揺られ擦れあい心地よい音を奏でる、遠くでは子供達の声が青空に響き、とても長閑な田舎町の風景だ。
そんな街の人々に囲まれながら先程の防護服に身を包んだ人物がひょっこりと顔を出す、この街の風景から見ると何とも浮いている、体全てが穴から出て来ると土埃を手で払い、身に付けている物を全て地に置く、空に向かって手を伸ばし大きく息を付くとその手は後頭部にあるマスクの接続部に向けられ、その大層なマスクを外す、その下にはあどけなさが残る顔付の少女だった、後ろで束ねていた長い髪を解き。
「はぁはぁ―ここの樹街は大丈夫です、少し弱っていたので栄養剤を注射しておきました」
「では我々は移住しなくても良いのですね?」
「えぇ、安心してください」
喜びの声が上がる、その声を聞いて笑みが零れる。
「やったねフィン! さぁご飯にしよう、お腹空いたよぉ」
上から湧いて出て来た、純白の小さな竜、腹部を擦りながら空腹を訴えて来たが仕事を終えたばかりのフィンには食事よりも。
「スティンク、僕はまずお風呂に入りたいよ―」
笑い声が町に空に響き、風が吹き稲穂が躍る、この樹街全体が喜んでいるようだった。
◇◇◇
「いやぁ本当に助かりました」
年配の男性が頭を下げる、それを見たフィンは両手を左右に振りながら。
「い、いえ、これが僕のお仕事ですから」
ここは先程居た場所から少し離れた町長の屋敷である、大きなレンガ造りの屋敷で立派な暖炉が堂々とした態度で鎮座しており、その前にある談話用の机で話し合っていた。
「しかしまさか樹医師さんがこんなに若い方だったとは、私はてっきりもっと年配の方がやって来るものかとばかり」
恥ずかしそうに語る町長、するとフィンも人差し指で頬を掻きながら。
「確かに年配の樹医師もいますが、熟練の樹医師はユグドラシル専属になってますので、代わりに僕らのような新米樹医師が派遣されるんですよ、依頼が無い時は流れに任せて辿り着いた街の柱樹の様子を見る―、といった感じでしょうか」
前に出されているカップを取りお茶を一口啜る、太陽に照らされる中、更には防護服を着こんでの、地中での作業となれば喉はカラカラに乾く、地表に比べれば気温は安定はしているがそれでも狭い穴の中だ、精神的にも肉体的にも過酷な部分もある、それ故あっという間にカップのお茶は空になった。
「おっと失礼、もう一杯いかがです?」
「あ、えっと、いただきます」
「町長さん、これもっとある?」
机の上で大人しくクッキーを食べていたスティンクが不意に言葉を発した、机に視線を送ると、スティンクの周りはクッキーの食べ散らかしたカスで汚れていた、小さな子供がまだスプーンやフォークを巧く使えず溢しながら食べるような、そんな様子を見て驚きと頬を赤らめながら。
「ちょっとスティンク、もっと綺麗に食べてよ、恥ずかしいじゃないか―」
何ともバツが悪そうに小さくなるフィンを横目に、クッキーをもう一枚もらったスティンクはご機嫌だ、小さな口を目一杯広げだんだんとその形が無くなってく、それに比例する様に周りにはまた一段と食べカスが出来る。
「はっはっは、いっぱい食べて行ってくださいね、小さな樹医師さん」
呆れて物も言えないフィン、カップを両手で持ちなるべく顔が見えないようにしながらお茶を飲む、不意に町長が話しかけて来た。
「ところで、樹医師さんは何人ほどおられるのですかな?」
興味津々の面持ちでフィンに尋ねる、手に持ったカップをソーサーに置き質問に答える、樹医師と呼ばれる者はこの世界には一握りしかいない、フィンも詳しくは知らないが三十まではいかないだろう、そう告げると町長は驚く、無理もない何故ならこの世界は途方も無く広いからだ。
その世界をたったの三十人程が駆け回り治療にあたる、終わればすぐに次の樹街へと向かう、その繰り返しをしている、フィンとて例外ではない、いや新米樹医師だからこそ更に多くの樹街を回っている事だろう、町長は終始感心しっぱなしだった―。
「どうもご馳走様でした」
頭を下げカップや提供してもらった食事が盛られた皿を丁寧に重ね置く、椅子の背もたれに掛けてあるコートを着込み脇に置いてある茶色のランタンやロープ、診療具が吊るされた大きな鞄を背負い扉へと向かう、机の上で横になっていたスティンクもこちらに気付き飛んでくると、静かに肩の上に乗る。
「おや、もう行ってしまうのですか」
「えぇ、今日中に次の樹街に着いておきたいので、ではまた何かあれば」
長い髪を後ろでまとめ上げ、脇に抱えていた帽子を深々と被り町長の家を後にする、次の樹街へ向かう為この街の近くにある駅を目指す、その街から出る道中住民から感謝されっぱなしだった「また何かあったらよろしくな樹医師さん!」「これ少ないけど列車の中で食べてね」次々と水や食料を手渡される、いつの間にか両手は抱えきれない程の飲食物で満たされスカスカだった鞄の上部はみるみる荷物を食べ膨らんでいく。
「こんなに頂いちゃって――何か悪いなぁ」
「だったらおいらが食べておくよ!」
そう言うといそいそと鞄の中に潜っていく。
「あ、こら! 二人で食べるんだからダメだよ!」
尻尾を掴み鞄から引っ張り出す、しかしその口には既にパンが咥えられていた、小さな両足でパンをしっかりと掴み物凄い勢いで食べ始める、かと思えばそのパンはいつの間にか姿を消し去った、呆れた表情で溜息を付くと。
「ふぅ、食べた食べた、さて次はお昼寝の時間だ!」
間髪入れずそう言い、今度はフィンの帽子の上によじ登り丸くなって寝息を立てる、何とも忙しい奴だと心の中で呟く、だが昼寝をしたいという気持ちは分からなくもない、陽気に包まれ、優しい風が頬を撫でる、それに含まれる麦帆の香りが更に眠気を誘う、どこででも寝れるスティンクが羨ましく思い「まったくもう」と小さく呟いた。