03-2 知りたがり (2話構成後編、202号室)
裏野ハイツ公式設定
【202】号室 ???
人の気配はあるのだが、誰かが出入りしている様子はない。201号室のお婆さんは事情を知っているようだが、詳しくは教えてもらえない。
この部屋には物が少ない。見る人が見れば全く物がないと言うかもしれない。
この部屋にあるものは5つのモニタ、5つのカメラ、物入れに押し込められた栄養補助食品とミネラルウォーター、その他トイレットペーパーやカーテンなどの細々とした物ぐらいだ。
厳密に言えば、5つのカメラはこの部屋にあるとは言えないかもしれない。
しかし、物が少ないことを不便だとは思わない。
モニタに映る四角く切り取られた画像だけが世界の全てなのだから。
裏野ハイツ202号室。この部屋を借りられたのは僥倖だろう。
もう随分長いことこの部屋を借りている気がするが、日にちの感覚がないので具体的にどれくらいかは分からない。
1階3戸の2階建てのハイツ。その2階の真ん中の部屋。これだけが部屋を借りる際に検討した条件だった。
5つのモニタには裏野ハイツの202号室を除く全ての部屋が、俯瞰の映像でモニタリングされている。いわゆる盗撮だ。
全ての部屋と言っても、洋室だけに限られているが。
全てのモニタには各部屋の洋室が映しだされていて、その奥にはリビングに続く扉が映っている。
この部屋の洋室の壁や床、物入れには細工を施し、各部屋を映し出すためのカメラが設置されている。
リビングは風呂やトイレが邪魔になるので、カメラを設置していない。
202号室以外の場所だったら、全部屋で統一された映像を撮るのは多大な苦労を要するだろう。
誰かに弁明したい訳でもないが、この盗撮は何も脅迫や性的な目的のために行っているのではない。
ただ観察したい。住人たちの他人には見せない暮らしを、ただ知るだけで満足できる。
もし脅迫でもしようものなら、その影響がモニタの中の住人たちに出てしまうだろう。
もし性的な目的でモニタの世界を見てしまったら、二度と世界を純粋に眺めることができなくなってしまうだろう。
だから、観察だけしかしない。モニタの中の住人たちに何の影響も与えず、それを眺める目にも何の色もつけない。
自分の世界はこれらの四角い映像だけで完結している。
洋室であるこの6畳の空間から出ることは基本的にない。
トイレなどの生理的欲求を除き、例外として月に一回のゴミ出しや飲食料の受け取りの時だけ玄関をあけている。
もっとも玄関より先は、入居当時からいた201号室に住むお婆さんを雇って済ませている。
モニタに映る世界以外を知りたいとは思わない。
太陽がいつ沈もうと、天気が何であろうと、きっとそれは程遠い世界の出来事だと思う。
***
モニタによって四角に切り取られた5つの部屋。最近はその多くが停滞していた。
203号室は空室になっており、102号室は部屋が暗くて映像が見えない。
101号室は映像奥のリビングではどうなっているか分からないが、映像手前にある洋間では50代の男性が常に等身大に拡大した写真に話しかけ、古い携帯とスマートフォンを並べている。
201号室ではお婆ちゃんがボロボロの写真を眺めている。ただそれだけで、時間から取り残されたように動かない。
5室あるうち4室が同じ映像を巻き戻したかのように、日々繰り返していた。
気落ちはしていない。同じ日々の繰り返しであっても、それを観察することが目的なのだから。
それに1つ変化の激しい部屋がある。入居して数年の目新しい世界だ。
最初の頃はとても順風満帆な暮らしをしていた。
優しいご主人に、綺麗な奥さん。そして日々成長している可愛らしい父親似の息子。
四角く切り取られたそれは、温かいヒューマンドラマのようだった。
不意にモニタに反射される自分の顔も微笑んでいたと思う。
しかし、残念なことに最近は上手くいってないようだった。
今も奥のリビングでは夫婦の喧嘩が行われていると思う。映像のみで音声は入手出来ていないから、モニタの外にあるリビングでの詳細はわからない。
ただ、洋間に一人でいる息子の怯えた様子から、よほど激しい喧嘩なのだと思う。
悲しいのは、息子が両親の喧嘩を怯えて聞いていることに両親が気づいていないことだった。
もし両親が息子の前では喧嘩をしていない気になっているのだとしたら救われない。
例え喧嘩をするのがリビング以外の、それこそハイツの外だったとしても、きっと息子は気づき、心配するだろう。
モニタには母親の膝枕で眠る息子が映しだされている。息子はとても幸せそうだ。
母親はそんな息子の顔を見て時折表情を顰めたが、それでもすぐに慈愛深い母親の顔に戻っていた。
ウトウトし始めた母親と安心して眠る息子。それはとても優しい世界だった。
しばらくして、母親と子供が連れ立って奥の部屋へと移動していった。
母親は洋間から出る前にこちらを見たようだが、カメラに気づいたわけではなかったようだ。
真っ暗になったモニタを見て、二人が部屋を出たことが分かった。どこに向かったのかは知らないし、興味もない。
暗闇しか映さない映像の中で、先程の優しい世界を反芻する。
急に映像に明かりが差し込まれると、奥の扉が荒々しく開け放たれ、一人の男が洋間に倒れこんだ。
数年前の良き夫だった面影は微塵も見当たらない。
やがて母親と息子が帰ってくると、母親は変わり果てた父親の姿を見て呆れているようだった。
母親は手荒く父親を手前に移動させると、息子を父親とは離れた奥の位置に寝かしつけていた。
また、母親がこちらを見た。カメラに気づいたのかもしれない。少しずつ母親がこちらに近づいてくる。
1つの世界の危機だというのに他人事のようにドキドキする。カメラに気づかれては、もうこの部屋は観察できないだろう。
しかし、母親は何かに気づいたかと思うと、父親の方を振り返り、洋室にあった裁ち鋏を掴みとると父親の身体の至る所を刺し始めた。
「…っ!」
突然の展開に叫び声を上げてしまう。それは長年声を出していなかった影響か、叫んだ自分でさえもとても人の声だとは思えなかった。
母親は父親を刺し終えると、一瞬呆けた表情をした。呆けたというよりも、感情の全てが抜け落ちたと言った方が適切かもしれない。
おもむろに母親は息子の方に移動していく。
まさかと思った。やめてくれと思った。
しかし、そんな心の声は何の力も持たず、母親は息子の顔に枕を当てると、裁ち鋏を突き立てていた。
呆然と映しだされる映像を眺める。母親も動かず、一面血に染まった洋室が静止画のように映しだされている。
しばらくすると母親は奥の扉へと移動していき、洋室の電気を消した。
四角い世界は電源を落とされたように暗く沈黙している。奥の部屋から漏れ出る光から母親はリビングに居るのだろう。
怒涛の展開に手に汗がにじみ出ている。カメラに近づかれてからはハラハラの連続だった。
今日の観察は素晴らしく満足できた。
次の日、洋間に引かれたカーテンの隙間から陽の光がこぼれていた。だから、今はきっと昼だろう。
モニタに映し出される103号室の洋間は、昨日から何も変わっていなかった。
動かない父親と息子、そして血に染まった洋室が出来の悪いお化け屋敷のような様相を示している。
母親は洋室には入らずに、一日中奥の部屋にいるようだった。
更に次の日、恐らく昼頃だと思うが、ようやく世界に動きが加わった。
母親が奥の部屋から手前の部屋へと入ってきたのだ。
しかし、父親と息子を奥の部屋へと連れ出すだけで、洋室にまた静寂が戻ってしまった。
今は赤く染まった洋室だけが映しだされていた。世界が停滞してしまったようだった。
次の日もそれは同じだった。
***
夜、四角く切り取られた視界から部屋を覗き見る。
手前の部屋には何の動きも見られず、奥の部屋へと続く扉から微かに漏れる光だけが人の存在を知らせていた。
それから、時間が止まっているかのように何の変化も見られなかった。
止まった時間の中を時間だけが過ぎ去っていく奇妙な感覚に囚われた。
次の日の夜も全く同じだった。相変わらず奥の扉から光が漏れているだけだった。
今は真っ暗な部屋とその微かな光しか見えなかった。
このまま観察するだけでいいのだろうかと少しだけ不安にかられたが、動きが無いのは何も今だけではないと思い直した。
気長に動き出すのを待つとしよう。
次の日の夜も昨日の繰り返しだった。今日はもう観察しても無駄かもしれない。
更に次の日の夜。思いの外早く、動きが見られた。
奥の扉が開き、暗い室内に人影が差し込んでいる。あのまま停滞したように何日も過ぎずに済んでホッとした。
部屋が暗いため人影が何をしているかは分からない。何かを探しているのだろうか。
目的のものを見つけたのか、人影は動きを止め、おもむろにこちらに近づいてきた。
バレてしまう危機だというのに、他人事のようにハラハラしてしまい、少し可笑しくなる。
人影はなおもこちらに近づいてくる。いつの間にか空が少し白澄んでいた。
扉が少し開けられて、その隙間から腕が伸びてくる。
私はその腕を掴みとると、力の限り隙間から見える顔めがけて、固く握りしめた手を振り下ろす。
その時、カチャリと離れた扉の鍵が開けられる音が響いた。
急いで掴んでいた腕を離し、202号室の扉を閉める。
開けられた扉から201号室のお婆さんが顔を出す。
「あら、103号室の奥さん。こんな朝早くにどうしたの? 会いに来てくれたの?」
***
ゴミを出すために玄関の扉を開けると、急に腕を強く掴まれた。ゴミ袋が扉の外に落ちる。
ドアの隙間から濁った目がこちらを見ている。叫び声をあげようとしたが、うまく声が出ない。
突然、視界が暗くなった。眼の奥がとても、とても熱い。何か燃え盛る棒を眼の奥に差し込まれている。
腕が急に離され、玄関が閉じられると、その場に崩れ落ちた。
震える手を顔に当てると、何か持ち手のようなものが顔から生えている。
「裁ち……バサ……ミ?」
玄関の外から隣のお婆さんの声が聞こえてくる。
「あら、……奥さん。こんな……したの? ……の?」
意識が急に薄れていく。頭の奥がひどく痛い。
だから、外の世界なんて興味が無い。こんなこと知りたくなかったのに……。
***
「いえ、このゴミが気になって見に来たんですよ」
「あら、それは婆が処理するから放っといていいのよ」
「そうなんですか。知りませんでした」
「ずっと前からの婆の仕事なのよ」
お婆さんはそう告げると、ゴミを拾い上げ、ハイツの階段を降りていった。ゴミステーションに持っていくのだろう。
私は四角い形状をした郵便受けから、202号室の中を覗き込む。
暗い部屋の中で一人の男性が息絶えていた。
この顔も知らない住人は私の秘密を知っていた。きっとそれを知るために労力を払ったのだろう。だから、それはいい。
でもきっと、この人も自分の死なんて知りたくもないことが勝手にやってきたのだと思うと悲しくなった。