03-1 知りたくない (2話構成前編、103号室)
裏野ハイツ公式設定
【103】号室 30代夫婦と3歳くらいの男の子
穏やかそうな夫婦で、ご主人は会社員、奥さんはパートをしている。時々小さな息子さんの姿を見かけるが、大人しい子で普段騒ぐ音が聞こえることはない。
まだ幼い息子の手を引き、少し古びたドアの前に立つ。
裏野ハイツ103号室。築30年のハイツはまだ十分住めるとはいえ、リフォームをされること無く随分と古い様式を保っている。
息子が生まれたことを機に、今から3、4年前にこのハイツへと引っ越してきた。
入居当時はこのハイツを見てどう思っただろう。少なくとも、今思っているような古臭く嫌な印象ではなかったと思う。
幸せの絶頂だった時にどんな印象を持っていたかを、思い出すことができない。
「ママ、どうしたの? 入らないの?」
息子がドアの前で立ち呆けていた私に声をかける。少しタレ目がちで眠そうな印象を与える息子の目が見つめている。
「ごめんね。今開けるから、待っててね」
私は感情を抑えられなくなる前にその視線から目をそらし、部屋の中へと入っていく。
靴を脱ぐために下を見れば、乱雑に靴が並べられた玄関口に封筒が一通落ちていた。
ドアに付けられた郵便口の下方には申し訳程度に受取りカゴが取り付けられている。
受取りカゴは公共料金の検針票などで埋もれていて、落ちている封筒はそのカゴから漏れてしまったのだろう。
郵便口を覆うタイプのカゴであれば、封筒が落ちることなんてなかったろうに。
わざわざ封筒を拾わないといけないなんて、これも古いハイツのせいだ。
心の中で愚痴を言いながら封筒を拾うと、そこに書かれた文字が嫌でも目に入り、ますます嫌な気持ちになる。
『返済遅延のお知らせ』
借金の返済が遅れていることを態々ご丁寧に知らせてくる。知りたくもない知らせに限って、あの手この手で必ず私に届かせてくる。
知りたいことは労力を割かなければ手にはいらないのに、知りたくないことだけは勝手に向こうからやってくる。
「ママ、お腹すいた」
耳たぶが少し大きい耳を掻きながら、息子が私を急き立てた。
「先に手を洗ってきなさい」
息子に宿る面影をこれ以上見ないで済むように、私は息子を遠ざける。
ただの借金ならば、ここまで心が乱されることはなかっただろう。
この借金の出処が夫の女遊びでなければ、私達家族は仲良くやっていけたのかもしれない。
そんなこと知りたくなかった。知らなければ幸せでいられたかもしれないのに。
私はお腹を痛めて産んだ息子を愛している。そのことに変わりはない。
でも、私の心を傷めつけた夫への愛は変わってしまっている。
簡単な夕食を済ませ、息子を奥の洋間で寝かしつける。
手前にあるリビングは、女遊びが発覚してから度々起こる喧嘩によって少し荒れた様相を示している。
掃除をする気にはなれない。掃除したところでまた荒れることが分かっているから。
私の膝に頭を載せて、息子が安らかな寝息を立てている。
息子の少し癖がかった柔らかい髪を指で撫でる。
息子の目や耳、髪、ちょっと仕草に表れる夫の影に心が掻き毟られる。
私は息子を愛している。そのことに変わりはない。そう自身に言い聞かせる。
***
息子を寝かしつけているうちに私も眠ってしまったようだ。時計がもう夜遅い時間を指し示している。
夫はまだ帰ってきていない。また、凝りもせず女遊びをしているのだろう。
「あれ?」
時計を見た時に洋間の上方の隅で何かが光った気がした。
「ママ。アイス食べたい」
何が光ったのだろうと不思議に思った時に、いつの間にか起きた息子が膝に頭を載せたまま声をかけてきた。
「もうこんな時間でしょ。我慢しなさい」
「でも、食べたいんだもん」
息子の普段はあまり言わない我侭に困ってしまう。こんな時間に家を空けることに微かな罪悪感が心をよぎる。
しかし、思い返してみると夫は外で遊んでいるのだ。
「じゃあ、一緒に買いに行きましょうか」
夫が行った大きな裏切り行為に対して、意趣返しというにはあまりにささやかなものだ。
それでも少し心が軽くなった。
家の近くのコンビニに入ると、夜も遅いというのにそれなりの人が買い物をしていた。
息子の手を引きアイス売り場に向かう途中で、大学生ぐらいの青年とぶつかってしまう。
夫と付き合い始めたのも私が大学生の頃だった。あの時の私は十数年後にこんな気持になっているなんて想像もしていなかったに違いない。
当時は一晩中でも言い続けられた夫の好きな所が今は一つも思い浮かばない。
当たり前のように好きだったのに、今はどうやって好きになればいいのか分からない。
凍てつくように固まったアイスに冷やされたのか、左手の指輪が少し痛い。
***
コンビニからの帰り道、息子は我慢できずにアイスを頬張っている。行儀が悪いと叱ろうとしたが、美味しそうに食べる姿を見ると怒るに怒れない。
普段おとなしい子だから、たまにはいいのかもしれない。
「電気がついてる」
裏野ハイツが見える距離になってきて、103号室に明かりが点っていることに気付いた。
夫が帰ってきているのだろう。顔を見合わせるとまた喧嘩をしてしまう。そう考えると気が重くなる。
部屋にはいると充満するアルコールの匂いが鼻を突く。表情を歪める息子を外に出し、キッチンの換気扇を回す。
匂いが薄まった頃合いで息子を中に入れた。奥の洋間を覗くと夫が着替えもせずに寝息を立てている。
呆れるとともに、顔を突き合わせずに済んだことに少しホッとした。息子の前で喧嘩なんてしたくない。
息子を見ると、眠たそうに見える目を更に眠たそうにしばたたかせていた。
夫を洋間の更に奥へと追いやると、離れた位置に息子を寝かせる。
コンビニにアイスを買いに行っただけなのに、予想以上に時間がかかってしまった。
夫の真上に位置する時計に目をやると、また何かがキラリと光った。
光の正体が気になり時計に近づくと、夫の寝言が耳へと届く。
「……、……、……」
良くは聞き取れなかったが、はっきりと理解できた。夫の呟いた言葉は最近喧嘩のたびに耳にする名前だった。
何かが崩れた気がした。ダムの堰が小さなヒビ割れから決壊するように、私の心の奥にある粘ついたものがその小さな呟きによって溢れかえった。
どうしてこの男はこの家に帰ってきたのだろう。夢ですら会いに行くのならば、いっそのこと戻らなければ良いと思う。
まだ私がこの男を愛しているとでも思っているのだろうか。家に戻ることが私への優しさだと思っているのだろうか。
私は感情の赴くままに傍にあった裁ち鋏を手にしていた。この男は耳たぶの大きな耳を掻きながら、気持ちよさそうに眠っている。
この口からは知りたくもないことばかりが捻り出てくる。
この目はあの女を見つめていて、私を見ることはない。
この耳も、この髪も、耳を掻くこの手も……。
「……っ」
不意に上の階から物音が聞こえた。その音に感情の高ぶりがさざ波のように引いていく。
裁ち鋏を握る手の指が固まったまま動かない。よほど強く握り締めていたのか、赤に染まった裁ち鋏とは対照的に、血の気が引いて白く変色している。
息子のために耐えていたものがほんの些細なことで瓦解してしまった。
でも、これで良かったと思う。もうこれ以上知りたくもない知らせが届くことはない。
眠っている息子を見る。
あの男に似ている目、あの男を思わせる耳、あの男を偲ばせる髪、あの男と同じ耳を掻く癖。
私は息子を愛している。それは今も変わらない。そう自分に問い掛ける。
私は顔を見ないで済むように枕をそっとかぶせた。
この子は目を覚ましたら知りたくもないことを知ってしまうのだろう。
だから、私は手を振り下ろした。