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蒼髪の戦狂いは誰がために剣を振るうか?  作者: 横地 石雄
たった、これだけのお話
3/5

初めの一歩

 


 少年は、言い訳を心の中で投げる。

 だってしょうがないじゃないか、あんな化け物に勝つなんてどうやればいいんだ。

 強い魔法なんか使えなくて、頼れる仲間がそばにいるわけじゃなくて、何より自分自身がとても弱い。

 持ってるナイフも相手の皮膚に通るかすら分からない。今さら足を動かして逃げるなんてことも出来そうにないんだから。

 少年からはやたら遅く動くように見えるが、しっかりと影狼の牙がどんどん近づいてくる。

 


 ――ああ、勇者なら、こんなときどうするだろうか。



 (おびただ)しい量の血が、少年の左上半身から噴き出てきて、辺りを鮮やかに彩っていく。

 自分から噴水のように流れていく血潮を、まるで他人事のように彼は眺めていた。

 ……なんて綺麗なんだろうか。こんなに勢いがあって、美しいものなのだろうか。初めて味わう感覚に彼は感動すら覚えていた。

 そっと自分の左肩を見てみると、深々と乳白色の牙がめり込んでいる。 

 牙の隙間から血はとめどなく溢れ出しているし、骨は圧迫されて押しつぶされ、……、……て。

 現状を確認してしまって、自分のことだと認識してしまった少年の体内に、じんわりと、何かが広がる。

 それはやがて、雷が走ったような衝撃になり、彼は為す術もなくそれに貫かれる――――



「……ぁ、……ア"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!」



 小さな子供が出したと思えないその絶叫は、あたかも少年を押さえる獣が放ったかのような荒々しい響きを持っていた。

 その慟哭は言葉ですらなく、ただ自分が感じる痛みを少しでも外に分散させるがための、野性的なものであった。

 喉から水分が枯渇するほどに少年は叫び、否、激痛に叫ばされているのだ。

 状況を把握することによって身体と精神が繋ぎ合わされ、先ほどまでの起きていた出来事を遠くから傍観していたような心持ちから、向き合いたくなかった現実へと引き戻される。



(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い)



 傷口は焼け爛れるような錯覚を覚えるほどに熱い。そこから自分というものを作っている全てが流れていきそうで、対照的に四肢の末端は冷えていくようだ。

 血を大量に失ったためか、脳が四方から揺さぶられる。視界の端から順に黒い(もや)が掛かったように、段々と意識が遠のいていく感じがした。

 熱く、痛く、冷たく、暗く。

 爆発するような衝撃をもって、様々な感覚が少年を削り取っていく。

 力が抜け、ナイフすら満足に握れない少年は、だらしなく口を開いていることしかできない。



「あぁア……あ……」



 自然と、少年の叫び声は止まっていた。

 彼はずっと目の前を見ているはずなのに、影狼の姿がまた、遠くに感じられた。

 少年が叫んでいる間も、彼の関節を押さえ続け肩口に牙を添わせていた影狼だったが、絶叫が止んだのを知るとゆっくりと口を離していった。



 クチャ、クチャ、と。影狼の口端から流れ滴る血と、屠殺されたばかりの鶏肉のような薄い肉片が見えている。

 食べている影狼の方からしたら、量的には少ないかもしれない。

 それでも御馳走のように新鮮な肉を余すところなく咀嚼している風に見えるのは、絶対的な勝利への確信を、圧倒的強者としての格の違いを少年に見せつけるためだろうか。

 その顔は、ともすれば下卑たように見え、驕りを存分に滲ませた禍々しい笑みであり、赤い二つの眼は弱った少年(えもの)をしかと見据えていた。



 少年のささくれだった喉の奥はこれ以上声を発するの無理であったし、首から下もほとんど力が入らない。ただ影狼を見ているしかなかった。

 身体の痛みが危険を知らせてくる上で、少年は先程よりも強く諦観という感情に包み込まれそうになっていた。

 焼け千切れるような鈍痛に絶え間なく襲われていて、目の奥を黒い靄が形を変えながら薄く塞いでくる。

 かすかに息をする以外には、人形のように動かない少年。

 もはや体の異変の対処に精一杯なのか、少年は影狼からの恐怖だとか焦りだとかそういったものを感じなくなっていた。

 対する影狼はよほど空腹だったのか、少年の様子を見ながら未だに咀嚼を楽しんでいる。

 


 だからこそ、少年はここにきて初めて影狼をしっかりと観察できた。

 まじまじと、相対する獣の顔を。



(…………なんか、クリス……みたいだ)



 それが、少年の思ったことであった。およそこんなときに考えることではないのであろうが、少年は目の前の魔獣に記憶の中のクリスを重ねて見ていた。

 顔の作りだけで言えば、クリスはかなり整っている容姿をしているので、別に顔自体が似ているわけではない。

 また、クリスが獣人でありいつも下卑た笑いをしているわけでもない。



(……お前は、勝てると思った時に、そのまま気持ちが顔に出るんだよ、……か)



 少年は疼く頭に耐えながら、思い出す。

 いつの日だったか、いつものようにチャンバラをしていた時だ。勝ちを確信して最後の一手を打ち込んだが、軽くいなされて反撃を食らって負けたという少々苦い思い出である。

 少年は何故負けたのか分からなかったが、先の言葉をクリスに言われ、その日から表情をうまくコントロールできるように練習し始めたのだ。

 ……その後に、こんな顔してたぞ、と言ってクリスは締まりのない汚い笑顔に変な動きを付け加えて茶化してきた。それに怒った少年はつい手を出してしまったのであった。まあそれも、クリスに避けられ反撃を受けてしまったが。



(……そ、れを考えると、クリスっていうより俺か…………あんな顔してたのかな)



 今はもう分からないが、あんな下衆のような顔をしていたと思いたくない。

 少年は、その時にクリスが言っていた別の言葉を、鈍い痛みに慣れてきた頭で思い出す。



(『勝てるって思ったとき、弱いやつはつい隙を作っちまう。すぐぶん殴ってもいいけど、それじゃつまらないだろ? だからこっちも隙を作って相手を誘い込んで、相手が隙を見せた時にそこを突く。そうすりゃお前みたいな顔になんだよな』……なんてことを、言ってたっけ)



 少年が薄く開く目蓋の先に、影狼がいる。

 だが、これまでのような純粋な恐怖はどこかへ過ぎ去ってしまった。

 数分前までの死の恐怖と痛みは、現実逃避をしているわけでもないのに薄れてきた。

 それも、目の前の魔獣があの時の少年と同じ気持ちでいるから。慢心の中に全身をどっぷり浸からせて、彼のことをただの食べ物としか見なしていないからだ。

 体は満身創痍をとうに超えて、なぜ考えるという行動が出来るのかなぜまだ死んでいないのか、少年には理解が及ばなかったが、さりとて及ばせる必要も無かった。



 今、少年が考えることはただ一つ。

 目の前の魔獣があの時の俺とするなら、俺はあの時のクリスみたいにあいつをぶん殴る。

 いや、このナイフで――――、そんなことを考える彼の表面上をつたう冷や汗とは裏腹に、心はどうしようもなく昂っていた。



(なら、俺が今するべきなのは、……ただ待つこと)



 ズキズキと痛む傷痕が気になるが、今は気にしない。

 か弱い被食者を演じて、ぐったりと体を地面に預ける。

 


 そんな彼を見て、影狼はまた食事を再開しようと体勢を低くする。

 もう少年は動けないと思っているのか影狼の挙動は隙だらけで、彼の右肩を押さていた前脚も地面に置いてしまっている。

 ……そのまぬけな姿は捕食者ではなく、罠に自らおびき寄せられる野犬と言うべきか。

 さあ、来い。今度は俺が待つ番だ。少年は胸中でそう独り言つ。



 よだれを垂らすことを隠さずに(おもむろ)に動く影狼が、少年の胸へと再び歯牙を突き立てようとして――――果たしてそれは叶わなかった。



「ガァァァアアアアアアア!!!」



 皮膚を突き破るには長さが足りず、牙を折るには硬度が足りない。

 だが、目ならば。魔獣の中には目を弱点としない種族や個体もいるが、大多数にとって急所中の急所であることに変わりはない。影狼に対する眼球への刺突は、キチンと通ったようだ。

 少年は、右腕に伝わる柔らかな抵抗を押しのけるように、すぐさま引き抜いた。



「や、った、ぜ……」



 激痛に悶える影狼は、少年から離れ森の方へとよろめいていく。逃げるわけでもなく、崖下に落ちないためにそうしているだけのようだ。

 自分のものではないかのように上手く動かない足、腕。左肩には風穴が空いたとでも思える感覚が残っているが、気にしている暇はない。

 最大のチャンスが巡ってきたのだ。少年は何とか立ち上がって、そのまま目的地を目指そうとしたが、立ち止まる。



「がッ……!」



 不意に、息が苦しくなる。

 遅れて口の中から、もう嗅ぎなれてしまった臭いが湧きたつ。

 視界には、際限なく漆黒の闇空が広がっている。ああ、月もかすかに見える。



 少年の横っ腹を、影狼の犬歯に当たる部分が慈悲なく(つんざ)いていた。文字通り、今回は貫通しているかもしれない。

 余裕なんてものは投げ捨ててきたのか、四足で踏ん張る影狼は、尚も少年の傷を深めようと力を込めてくる。

 しかし、余裕がないのは影狼だけじゃない。



「グ、ガッァァァァァァアアアア!!!」



 軋む体を捻って、少年はさっきとは逆の目へとナイフを突き刺した。

 影狼はこの一撃で全てを決めようとしていたのか、結果としてまともに受け入れてしまう。

 ……攻撃手段は噛むことしかないんだ。それならもう一度やられて、また刺せばいい。

 こちらに向かってきた影狼を見てそう少年は考えた。自殺覚悟の単純なアイデアだが、運が良かったのか今度もダメージを与えられた。



 両目を潰された影狼だが、溢れさせる殺意は寧ろ段々と増していくようであった。

 形勢が一方的でなくなった今、少年も恐怖心より敵意を影狼に向け始めている。

 


(……なんだ、これ)



 そんななか、少年の心に生まれた疑問が、ナイフを持つ自分の右手に視線を落とさせた。

 怖気を感じていたはずの手が、震えとかが、収まっている。

 彼は怖くなった。感覚が鈍っているせいとか、現実を感じないほど想像に気を巡らせているからとか、そんなものじゃない。

 勝てる可能性が絶望的でなくなったからというのもあるかもしれないが、それはとても些細な動機だ。

 彼は知ってしまった。彼の脳細胞が、心根が、教えてくれた。



 ――この状況(ころしあい)が、凄く楽しいものだ、と。



 ……皮肉にも、そこからは一方的な虐殺となってしまった。

 鋭敏な察知能力や感覚器官を持っている魔獣であっても、両目を潰されながら対抗できるのは、知能が高い一部の上位種だけであろう。

 影狼は本来、群れを作って獲物を狩る種族。加えて、基本的に夜目を利かせて狩りをするので、嗅覚や聴覚が優れて良いわけではない。

 冷静でいれば、多少使い物になったかもしれないが、少年と対峙する影狼はパニックに陥っていてとても攻撃に移れそうになかった。



 反対に、少年は急所を狙って徹底的に影狼から体力と血を奪っていった。

 ナイフを使って鼻を削ぎ落そうと幾度も切りつけ、耳を刈り落そうと力を籠め、目にも突き刺して混ぜるように動かしてみる。

 もし傍から見ている人間がいたならば、その少年からはおぞましさと不気味さを感じられずにはいないだろう。

 その少年は、魔獣をいたぶりながら、確かに笑っていた。



(……こんなものか)



 死にかけた時など忘れたように、随分前に動かなくなった影狼の全身にもナイフの切れ具合を試していったが、やがてそれを止め嘆息した。

 極細くだが、影狼は息をしている。遠からず散る命だろう。動くこともままならなさそうだから、このままにしておくか。

 少年はそう考える。そこには、影狼に追いかけられていた時の少年はいなかった――――いや、彼に新しい一面が出来たという方が合っているだろう。

 その彼は怯える顔もせず、笑顔になるようなこともなく、ただ影狼に対して失望していた。

 あんなに恐怖を感じた、死の一歩手前まで追い詰められた、そんな相手が今じゃ反撃することもなく、死を待つだけの存在になってしまったのだ。



(……ありがとう、と言っとく)



 別に欲しかったわけではないが、これまで感じたこともなかった気持ちの良い感覚が味わえた。

 まだ自分も生きていることだし、勝った者として感謝しといた方が良いのかな。

 少年は横たわる影狼のすぐ横にしゃがみ、心の中でそう呟いた。

 よし、と少年は立ち上がろうとする。もう疲れたし体中は痛いし、早く帰りたい。ああでも、このまま帰ったら父さんたちになんて言われるだろうか。まあ、あんま追及はされないかな。

 そうやって影狼から意識を移し、家に帰った後のことを考える少年。 

 影狼には傷痕が無いところが無いというほどに、影に紛れるための黒い体毛は赤く染まり、呼吸も殆ど聞こえなくなっていた。

 言うならば虫の息。……の、はずだった。



 刹那。



 最後の力を振り絞って、影狼は少年に喰いかかろうとする。

 少年の心臓がある場所を寸分違わず狙って、先鋭な犬歯が肉を、骨を掻き分けていこうとした。

 だが、ナイフを口内に垂直に入れられて抵抗され、元々なけなしの力を出し切って行動を起こした影狼は、それ以上力を加えることは無かった。

 そして、ゆっくりと地面に倒れ、事切れたのだった。



 一連のことがあった最中、少年は今日の中で一番の興奮を覚えていた。

 胸がバクバクと鳴動して、皮膚を突き破って出てくるんじゃないかと思うほどに。



(――そうか、殺す、死ぬじゃない。殺されそうな、死にそうなのが、良い。凄い良いんだ)



 それを自覚した時、脳の中も快感で埋め尽くされる。

 心臓の高鳴りは止まることを知らず、脳内は快楽物質で溢れ出しそうだ。



 だからか、少年は気付くのが遅れてしまった。

 自分の下半身がジットリと湿っていることに。失禁してしまったのかと確認してみたら、見たこともない、なにやら粘つく感触の液体であった。

 それに気づいてから、少年の意識は急激に遠くなっていく。

 今まで動けていたことがおかしいほどに、彼は血を流し続け疲弊しきっていた。

 そのまま地面に倒れ込み、仰向けになって、目が自然と閉じられていくのを感じる。

 ……今日最後に見た月は、黒い影が遮ってよく見えなかったような、そんな気がした。




 結果として、少年はこの日、精通を迎えたのだった。





最後の一行を書くためにここまでの文がありました。決して過言ではありません。

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