擬装女神と生徒C
恐怖は、愛よりも強い感情である。また恐怖は人類の最も古い感情である。昔を生きた人たちはそんな言葉をのこした。
「猿の手とか、いろんなところで見かけたことあるんじゃない?」
僕がそう言うと、千野田は首をかしげて少し考えて、
「そういう古典なら、ポーの黒猫が怖いと思う」
「猫の名前が冥府の神のプルートーだったり、手首の跡がうかんだり、オチといい、何回読んでもこわいよねあの話」
予想以上に千野田がのってくれたので、こちらも遠慮なく話をすすめる。
「しかし、そういうのにでてくるのって大体黒猫だよな」
黒猫が横切ると不幸がおこる、とかか。
「魔女とセットなイメージだからじゃないかな」
「夜に紛れると目だけうかんでみえるし」
「祟りも強いっぽい、猫を殺したら17年間不幸が続くなんて都市伝説もあるらしいし」
「おそろしいな」
そんな猫談義に花をさかせていると、隣の女子グループからも定番の怪談が聞こえてきた。
「……それで駆け込んだコンビニまで母親に迎えに来てもらったんだけど、店の中で合流して一緒に出たところであの男が睨みつけて」
「夢と違うじゃねぇか」
なぜだかしらないが今このクラスでは、というか学年全体で怪談が流行している。夏休みまでもう少しだし、分からなくもないけど目新しい話も耳に入らないし、灰野はSFハードカバーの最新刊を消化するのに夢中だし、あとは日南田と千野田くらいしかいないけどそろそろ二人と話せそうな話題もつきそうだ。
「おい、今失礼な事考えんかったか」
「うん?」
「目が笑ってないぞ、晴斗」
「いや、ホラー談義も話題が尽きてきたな、なんて」
はは、と笑ってごまかそうとするけれど思いっきり乾いてるし。いっそこのまま心理学とかに話持っていこうかなんて算段していると千野田が話しはじめた。
「まだ弾あったぞ。怪談ってより都市伝説だけど」
「聞かせて」
助かった。机に頬杖をついて聞く体勢にはいる。日南田も僕の側に近づいて、話がはじまった。
「ある大学生が、突然大学にもバイト先にも姿を見せなくなったんだと。電話もメールにも反応がないものだから、彼の友人が心配して聞きまわってみると、バイトの方は無断欠勤しているという」
「最後に彼のアパートを訪ねてみると、彼の部屋は日当たりが良くないとかで、少し前に引っ越したと大家は言った」
「困っていると別の友人が、彼は○○アパートに引っ越すと聞いた、と教えてくれた。じゃあってことで二人して訪ねてみることにした」
あ、オチ分かったかもしれない。
僕のそわそわが隣に伝わったのか、日南田からかるく小突かれてしまった。
「早押しじゃないんだからな」
「……最後までおとなしく聞きますよ」
「アパートに着いてみると、彼はやつれてはいたが生きていた。普通に二人を招き入れた」
「嫌な言い方するなよ……」
日南田の方がうるさくないか。まあいいけど。
「だけど、二人はすぐに異常に気付いた。彼が自分の背後……クローゼットのほうを怖がっているらしいと」
「どうして最近顔ださないんだよ、相談くらいのるぜ、なんてわざとらしいくらいのテンションで二人して言ったが、彼は黙って首を横にふるだけだった。そうして怯えながらクローゼットを見た」
「だめなんだよ」
「だめなんだよ。彼はそう言った。また震えながら振り返って、彼女がだめっていうからだめなんだって」
「彼女って、ここには俺達三人しかいないじゃないかと言うと、いるよ、と」
「そうして、彼と同じようにクローゼットを見た。正確にはクローゼットと、壁との隙間を。その三センチもない隙間から髪の長い女がじっと、彼をにらんでいた」
「おしまい! やばい話してて自分で怖い」
千野田はそう言って身震いしてみせた。
それからそんな暗い隙間にいるのによく女だって分かるものだとか、胸はどうなっていたのかとかそんな話題でひとしきり盛り上がって、ふと無言になった。
「隙間っていえばさ」
日南田がぽつりと僕を見て言う。
「何」
「この隙間は?」
僕の前の空席、女神さんの席を思わず見つめてしまった。やっぱり持ち主が不在だとなんというか、彩度が低くなってる気がする。
「そろそろ復帰できるといいんだけど」
「お、やっぱり気になるんだな晴斗」
「そ、そりゃあ、まあ一応」
「俺らは邪魔しないから。というか応援してるぞ。な千野田」
「そうそ。頑張れよー」
「は? なに、二人して」
「そんだけ毎日穴があくほど見てたら、分かるって」
二人がにやにやしながら僕を見る。小心者には心臓にこたえるからやめてほしいんだけど。
いや、まあ、夢でけしかけられたのもあるしそれに、女神さんに一言告げたいのは本当だと思うからとりあえず頷いておいた。
その日の放課後、今度は入道さんに声をかけられた。
「ね、そろそろだね」
「……女神さんのことかな」
「それしかないでしょ、ねえ」
入道さんはちっちゃ……小柄だから、普通にしていてもこちらが屈むか、背伸びするような格好になるのだけど、わざと下から見上げてくるような、ホラー映画にいかにも出てきそうに目を見開いて僕を見る。
「こ、怖い怖いマリネさんやめてそれ」
「いろいろ動きはあるみたいだけど」
僕の反応にはおかまいなしに話し出す。
「私達としてはやっぱり晴斗くんに頑張ってもらわないと」
「ぼく?」
「分からないとは言わせないよ」
「ああ、えーとそれは、そのつもりでいる」
しどろもどろになりながら答えると、ぴょんっと後に跳ねて姿勢をただして、入道さんは満面の笑みを見せてくれた。
ああ、今のを逆再生したらまんまホラー映画のワンシーンだよ。
パニック映画っぽいよ。
「そっか! 安心したよ、じゃ、がんばってね!」
入道さんに応援宣言されてから特にかわりなく何日か過ぎ、その日は突然やってきた。夢の方でイチジたちに根掘り葉掘り聴取されたぐらいで、いたって平和に過ごしていたと思ったら、突然空気の色が変わっていた。
とりあえず教室に入って、先に来ていた日南田に近づくとなんだか可哀想なものを見るような、哀れみの青系みたいな視線でむかえられた。
「晴斗おはよう、この日が来たな」
「おはよう、何となく分かってるけど、なんなの」
「今日から復帰だってよ。女神さん」
「そう」
やっぱり、それしかなかった。
一人で感じていた浮足立ったような、すこしだけ殺気だったような猩猩緋色の真っ赤な空気に納得しする。
カバンを置きながら頷いていると、日南田につっこまれた。
「もっとなんかリアクションないのか」
「だって僕だもん」
その物足りなさそうな目はなんだ。
「そっか、晴斗だもんな」
朝のこの時間、だいたい教室の戸は開けっぱなしになっている。そこから廊下での話声が聞こえてきた。廊下の柱の方にいるのは、あれは陸上部だ。
「どうする、やっぱり初日はまずいか? 明日まで待つか?」
「一言くらいなら今日でよくね?」
窓際には一組の連中。
「今日しかないだろうよ」
「俺はいくぞ。玉砕は覚悟」
「骨は拾ってやるぞ、安心して逝って来い!」
「すげー良い笑顔でなんてこと言うの」
歩きながら、何組だっけ、二人組。
「激戦は必至だよな」
「でも、行くしかないだろ」
他いっぱい。
女神さんは女神さんなんだなあ、僕に勝ち目あるんだろうかいやいやそれは他の連中と条件同じなはずだ。うんそうに違いない。
夢の繋がりだってあるんだし。
結局、なんであんなふうに夢の混線がおこったのかは分からずじまいだけど考えても分からないものは分からないし、置いておこうそうしよう。
不安は、いや不安だらけでこんな自分に自信なんて無理矢理持たせている状態だけれど、朱色の炎を密かに燃やして心の準備だけはしておくのだった。
二限の終わりに女神さんが登校してきて、やわらかい萌黄色の空気を身にまとっていたので一安心した。
それから、いろんな生徒や先生が一応静かに、入れ替わり立ち替わり女神さんに会いに話にやってきて、何人かは告白をぶちかまして見事に玉砕したりしていた。
休み時間のたびにクラス中から僕に視線が集まっている気がするけど、これは無視しておく。
四限目のおわりに、入道さんと目が合って、アイコンタクトを交わす。小さく拳をにぎってみせると、そうそうとばかりに頷かれた。
本の虫と化している灰野はというと、近づいて表紙を覗きこんだときに肩を掴まれた。
「なぐさめあう準備はできてるから」
「ありがたく頂戴しとく」
そうして、放課後。
やっと人の波もひいて、声をかけられる。
「女神さん」
「晴斗くん、ひさしぶり」
「元気そうで、安心したよ」
「ありがとう。うれしいなあ」
女神さんが微笑むだけで、まわりに桜でも咲いたみたいだ。
「いつも途中から登校してくるようになって大分たつけど、しばらくお休みしてると理由もなく入りづらくなっちゃうんだよね」
「それだけブランクができちゃうとね。わかる気がする」
さあ、行くんだ。
「……女神さん、もう少し話せない?」
女神さんは僕の目をじっと見て、
「……もうすぐ閉まっちゃうし、歩きながらにしない?」
荷物をまとめるのにならって、僕もカバンを手に取った。
帰りには職員室に寄らないといけないというので、西館へ続く渡り廊下に向かって二人歩く。
「あのね、私晴斗くんの夢に入ってたんだってね」
イチジ達、女神さんにも会ってたのかそれならそうと、いやまあ会ってて当然か。
「そうみたい。エディンガー・ダルのあの本が夢の入り口だってさ」
「そっか……」
こうやっていると廊下がいつもより長い。あの空き教室を二つ過ぎれば渡り廊下だ。
今ここで、夢の所在をはっきりさせておいた方がいいだろうな。
そう思って、僕は話掛ける。
「折り癖」
「折り癖がついてたって、前に言ってたよね」
「……山小屋の絵ね」
「うん。あれは女神さんの、夢の入り口だと思う」
「……そうだよ」
「聞いてもいいかな。なぜあんなに荒れ果てた廃墟にいるのか」
女神さんはぴたりと立ち止まって足元に視線を落とす。
「そう……どうしてだろうね」
「私は、あの小屋から出たいのに。小屋を出て暗い森を出て、バイクに乗ってでかけたいのに」
バイク。取り違えた本に挟まっていた写真の女神さん。暗く荒れ果てた山小屋からじっと外を見つめる彼女。
「ええと、あの写真のころみたいに、ってことなのかな」
強い西日がさしこむ中で、僕達はじっと廊下のすみに立ってうつむいている。ここは安全で明るいのに、まるであの山小屋だ。
「晴斗くんも、バイク、好きだよね。よく千野田くん日南田くんと専門誌読んでたからそうかなって」
見られてたんだ。ちょっと心臓が高鳴った。
「バイクとか車とか、見たりいじったりするのが好きかな。うち、車の修理工場なんだ」
「そうなんだ。そういうのって、いいよね」
それから、母親がバイクが好きで、その影響で興味を持つようになったのだと教えてくれた。
「バイクはね、私の中で健康の象徴なんだ。頑張れば、皆さんにたくさん助けてもらって、またいつかあの写真の風景に戻ってこられるって、信じてるから」
顔をあげた女神さんは西日を受けていたけれど、本当の女神様のように光輝いて見えた。
女神さんはやわらかく微笑んで、
「ねえ、晴斗くんにもそんな象徴、ない?」
そう問われた。
急に僕の中でなにかが弾けた気がした。なぜ決して交わらないはずの夢が繋がったのか、女神さんに問われたことで分かったと、思う。
おもむろに歩きだして、女神さんもついてきてくれるのを横目に見ながら言葉を探す。
「うちのクラスって、女神さんとかサンドリヨンとか変わった呼び名つけてるよね」
「なんだか面白いよね。みんなのイメージにぴったりあってるし」
「うん。それに倣うと僕は、生徒C」
「C?」
「Cowardly。 臆病な、って意味なんだけど」
「僕はさ、自分自身の事をそう評価してるから。自己評価が低いというか、なんというか」
言いながら、そんな僕自身に苛立ちの感情をおぼえているのが分かる。いままでもあったものだし、これからもこれと付き合っていくことになるんだろう。
「……そっか」
「だけど、臆病者にも踏む道はあるんだよね。きっと暗くて見えていないだけで、道はあるんだ」
いつの間にか渡り廊下の真ん中まで来ていた。首無しの池の部分はちょうど影になっていて、こっちから見ると黒い水が鏡のように校舎を映している。
そう、道が地面があることは確かなんだ。あとは踏み出すだけ。それだけ。
「女神さん」
ひとつ息をしてから、僕は女神さんにまっすぐ向かって踏み出すことにした。
しずかに微笑んで見つめ返してくれる女神さん。
彼女がたたずむ山小屋に光が射して、やがてドアが開く。
そんな夢が、視えた気がした。