微笑む花と俯く木
教室についても、女神さんはいなかった。カバンに入ったあの本は、なんだかやけに重く感じられるし、どうしよう。さあ、どうやって元に戻そう。
女神さんのことだから、今日持って来ないことはありえない。でも、できればこちらから声をかけたい。べつにあの占い師と灰野に背中を押されたわけではないけど、少しでも納得いくように事を勧めたいというかなんというか。
ただ、木乃瀬深憂という生徒は通院による遅刻が多いのでも有名で、特に週のはじめで二時限以降から出席するのは常だったりする。となれば短い休み時間、昼休み、放課後。このうち休み時間はいつも他の女子でいっぱいになるから話しかけられないだろうな、昼休みが無難かな、うん昼休みにしようか。
そう決めてからは実にのどかないつもの授業がすぎて行った。
灰野が真剣な話をするときの目で、
「鷲と太陽が関係あるみたいだけど、勢いつけて展望台に登ったらいいのかな」
「それより睡眠時間の心配をしようか」
「高層階で寝ろってこと?」
「もう活字から離れて心配だから」
なんて噛み合わない会話を繰り広げたくらいで。
さて、昼休みだ。
昼食と本を机に出して前を向くと、そこに女神さんはいなかった。
「あれ、まだ交換してなかったんだ? 女神さん職員室に呼び出されてたよ」
今の僕の顔色は、たぶん白茶くらいだろうか。
気にするそぶりもなく灰野はどうしたんだろうねとだけ言って、入道さんたちのところへ行ってしまった。かわりにやって来た日南田は、なんだか嬉しそうだ。彼の周りにきれいなバーミリオンの花が浮かんでは消え浮かんでは消えしているのがわかる。
「枯れてしまえ」
「は?」
「こっちの話」
思わず本心が出たところで、千野田が彼女を伴ってこっちに来た。
「晴斗くん晴斗くん」
彼女がなにやら手招きをしている。
「女神ちゃんに用事あるんならね、今日中に済ませたほうがいいと思うよ」
「え、うん?」
「まだ無責任なことは言えないけど、なんかそんな雲行きだったから。じゃ」
ぱっと制服をひるがえして去っていく彼女に、僕はただただ首をかたむけるばかりだった。
そして、あっという間に放課後。
「ハルト、なにかあるんか?」
「ごめん、時間かかりそうだから先帰って」
「ん、じゃーな」
いまだに席に着いたままの僕を見て、察してくれた千野田に感謝。
女神さんはいない。
まだ鞄が残っているから、ここで待っていれば入れ違いになることもないだろう。
ストーカーではない、断じて無い。そんな赤い赤外線ランプがついた盗聴器みたいなものではまったくないから。
そこまで臆病者ではないと思う。現に今もこうして直接言葉を交わそうと努力しているわけだし、待ち伏せと言うわけでもないし。これは正当な用件があってこうしているんだから。うん。
普通に借りたものだって日が開けばなんとなく言いだしづらくなるものだし、そうやって非常に残念で許し難いことに、借りてそのまま返さない、意図的に返さないままにしてしまう事だってあるのだから。
なかには意図しない別れが突然きてしまい、年単位で顔を合わせるチャンスがないまま途方に暮れている人もいるものだし。
まあそんなことになるのなら借りなければ良かったのになんて、人は、特に若い人間は好奇心と突発的な知識欲には勝てないものなんだって。これ本当。
そんなこんなで一人帰り二人帰り、とうとう教室にまだ居座っているのは僕だけになった。
「やっぱり、すとー……」
いや、そんなことない。
性懲りもなく頭を出してくる不安を、窓から見える空のグラデーションを観察して追い払った。
なんてきれいな秘色色だろう。これでひそくいろ、と読むのだけれど、少し水色に灰色が混ざったようなきれいな色だ。
なんどもいうけど、僕は臆病者なんかじゃないし卑怯者でもない。
”Cowardly”
そんな綴りの”臆病な”生徒じゃない。Cじゃない、ああ、このクラスの半分を占める不文律にのっとるなら、生徒Cではない。
「あ……しののめいろ」
水色ばかりだった空に、暖色が入り込んでいた。淡いかんじの東雲色だ。
空を眺めていると、あっという間に時間はすぎていった。
そうして、その時はきた。
たぶん出て行った時と同じように、女神さんは教室に戻ってきた。まるい瞳はなんとすぐにこっちを向いて、更にまるくなった。
「あれ、どうしたの?」
首を少しかたむけて、まっすぐにこっちを見て女神さんは、他ならぬ僕にそう質問をなげかけてきた。
ああもう、余計な修飾が多いぞ僕の脳内。
「あの、女神さんに用事があってさ。どうしても今日中にすませたくて、待たせてもらってた」
ちゃんと伝わっただろうか?
女神さんは更に首をかたむけると、やがて合点がいったとばかりに頷きを返してくれた。
「そうなんだ、ごめんねこんな時間まで」
「ううん、僕が話しかける機会逃してなかったらもっと手早くすませられたんだけどね」
そういって例の本を取り出して見せた。
「本当にごめん、僕のこの本と女神さんの本、入れ替わっちゃったみたいで、勝手に持ち帰っちゃってたんだ」
そういうと、女神さんははっとした顔になって、その本を鞄から出してくれた。
結論から言うと、女神さんもこのエディンガー・ダルの画集が自分のではないと分かっていた。
「でも、誰と入れ替わったのかが分からなくて。晴斗くんよく私のだって分かったね」
「それなんだけど、写真」
「え」
写真がはさまってたんだ、と言い終わらないうちに女神さんの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
どうやらビンゴらしい。
「……見たの?」
小声でそう訊ねられる。
なんとなく無言で頷いて肯定を返す。
「あー……」
そんな真っ赤にならなくても、すんごく可愛かったんだけど、うん。
「……そっか、それで分かったんだ」
「バイク、好きなんだ?」
質問をなげかけたのはどうしてだか、いや、どうしても聞いておきたかったからだ。夢の廃墟の事もあったし、入れ替わった状態ならあれは本来女神さんの夢で、あんな状態のままで返したくなかったから。
それから女神さんは、ちょっとさみしそうに話してくれた。
「この体が治ったら、もう少し自由にうごけるようになるんだけどね」
「それで、明日から治療の準備のためにしばらくお休みすることにしたの」
「夏休み前には、終業式には出てこられる、と思う」
具体的な話はお互い一切しなかった。
その方がいいよね。
そうして、あやうく忘れそうになっていた話題を口にする。
「そういえば、女神さんはどうやって自分の本じゃないって気付いたのか教えてくれる?」
「ああ、それはね」
にっこり微笑んで、
「折り癖がついていたから」
それは、あの暗い山小屋の絵の箇所だった。
「彼」は、いや、「彼女」は、今もずっと暗い部屋からこちらを見ている。