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優しい女神と色彩中毒


優しさは、どこかから湧き出てくるのだろうか。


 一時限目の退屈で意味不明な古文の解読がやっと終わって、僕は解放感に酔いしれながら本を開いた。左側に大きくカラーの挿絵が載っていて、白黒赤しかなかった板書から一転原色を用いた明るい色彩が視覚を強烈に刺激する。余白にあるタイトルは「新大陸の女神」。


 新大陸とはアメリカ大陸のことであり、コロンブスが発見した僕らモンゴロイド系民族の住んでいた場所だ。女神といえば、ギリシア神話に登場する愛と美の女神アフロディテのような白人系美女をイメージする人が多いだろうが、この絵の女神は現代でいうところの健康的美女といった趣がある。


 ちょうど今、黒板の前でなにやら談笑している山谷彩夏のような。山谷は身長一五三センチと小柄だが、白いリボンでまとめたポニーテールの自己主張がやたら激しく、日焼けした肌とあいまって納得の存在感を放つ存在だ。性格は外見に似合って活発でリーダータイプ。女子風紀委員でもある。本の右側に目を戻す。きっちり整列した縦書きでこう書いてあった。


(他人の心を動かそうとするなら、まず自分が感動体験をもって型から抜け出そうとすること。そうでなければ感動すら停滞し色を温度を失ってしまう)


 感動ね。アニメやマンガをみて感動するのと絵画に感動するのとでは月とすっぽんくらい違うんだろうなと僕は無感動に言葉をかみ砕いていく。


 絵の中の女神は紅白の羽飾りを頭にのせて、弓矢を抱えてこちらに笑顔を向けている。これから狩りに出かけるのだろうか。僕だって早く学校の敷地内から出掛けてしまいたい。そして本日午後一発目に待ち構えているマラソンから逃げてしまいたい。あるいはこの女神なら、嬉々としてマラソンだろうが短距離走だろうが混ざってきそうで、それはそれで良いものが見られそうではあるのだが、こちらのやる気を回復させるまでにはいたらない。


 ページをめくると、黄色いドレスを着てガレー船のへりにもたれかかった同い年くらいの少女がこちらを見ていた。寄港中に船員の家族が見学に来たところだと注釈があった。


「それ、エディンガー・ダル?」


後ろから覗きこんできたのは灰野麻衣香だった。ストレートの髪をたらして、眠そうなこげ茶の瞳をこちらに向けている。おおかた先日言っていたSFのハードカバーを一気読みでもしてろくに寝ていないのだろう。僕は肯定代わりに表紙を見せて、感想を聞いてみることにする。


「三巻で最初の敵は消えるらしいってきいたけど、次の敵は誰?」


 身も蓋もないネタバレ要求だ。双方の同意無しにネタバレ行為をすると孤独度が上がりかねないので注意。僕はというと、あんな厚いハードカバーを読破する速度も文庫化されるまでの数年を楽しみに過ごす気の長さも持ち合わせがないので、よくこうやって気になるけれど読める気がしない作品は、灰野にあらすじだけ聞いている。


 灰野は良いレビュー書きで、聞いただけで一冊読み切った気にさせてくれる。灰野の方も、まがりなりにも読書仲間が増えるのが嬉しいらしく新刊情報や自分が布教したい本を僕に教えてくれる。意識せずに話ができる、数少ない女友達だ。灰野は腕に抱えた与謝野晶子の歌集を僕の机に置いて、答えた。


「眼鏡が裏切った。第三勢力に情報流してたばかりか皇女の即位に必要なクリスタルまで持って行ったしもう散々」


「それで与謝野晶子なんだ」


「解った? 皇女ってヤンデレぽいところあるし、そろそろ次の巻あたりで皇女のターンくるんじゃないかな」


「女性の権利をこの手に、ね」


「そうそう、原始女は太陽であった」


それは平塚らいてうだ。


「ちゃんと寝たほうがいいんじゃね」


「うん、さっきまで寝てた」


寝起きの目だったのか。


「あれ、そういえばその表紙ってまさか」


彼女は気づいたようだ。僕はにやっと笑いかけて本をかかげる。


「そうさ、初版限定カバーに直筆サインが入った五〇部限定版」


「よくそんなシロモノほいほい持ってこられるね、私ならそれは一切手を触れずに箱作って保管して、読むのは通常版にする」


「この中にこれの価値を知ってるのが何人いることやら。ちゃんと書店のブックカバーかけてるし、サインさえ見られなきゃ平気だって」


「困ったことになってもしらないよ?」


灰野は顔にかかる髪を耳にかけて、そう忠告を口にした。


 灰野が去って、入れ違いで戻ってきたのは千野田武彦だった。メールで頼んだとおり、英語のノートを持っている。


「ありがと、助かった」


「昼休みに自販機な」


 英語の単語調べと和訳の宿題が間に合わない時は、誰かに見せてもらうにかぎる。代わりに数学のフォローが僕の担当で、お互いジュース一本を対価にこれを引き受けることにしている。


「千野田、今日の英語って何番からだっけ」


 英語教師はかならず番号順にあてていくので非常にやりやすい。自分があたる箇所さえ真面目にやっていれば、それで授業が進んでいくのだから。


「三十二番からだったな、たしか」


「なら、まだ安心か」


 まだまだ高一の僕らの意識はそう高くない。抜けるところは全力で手を抜こうというのが大部分の生徒の基本方針だったりする。


「それ何の本?」


「エディンガー・ダル」

  ふうんとそれきり興味をなくして、千野田は戻って行った。


「来週の件、大丈夫そう?」


唐突に千野田に話しかける女子が一人。この二人が付き合っている事実は、すでに学年全員の知るところとなっている。なにがどうなってこうなった。


 二限目の地理が始まっても、僕は板書を写し終わると授業の進行を無視して地図帳の世界地図を開いてはコロンブスの航路はどこだっけ、などとどうでもいい逃避に忙しかった。


 ふと気がついて前の席を見る。からっぽの椅子と机のセットがそこにある。ここに彼女が着席するまで、あと何分もないだろう。

追加された板書を写しながら、密かにカウントを始める。黄色の線が引かれた部分を間違えて青で書いてしまったが、まあたいした違いはないだろう。


「このように、多数の民族が集まって国家が構成されているころから、人種のサラダボウルと例えられることがあり……」


教師が解説にはいると、控え目にカラカラと音がして前の戸が少しずつ開いていく。


「お、木乃瀬だいじょうぶか」


「はい、検査では良性でしたし」


退屈な授業の解説より、よっぽど聞いていたいハリのある声が教室中に広がっていく。そのまま教師に一礼して、僕の前の空席に向かって歩く。それより一番前の喜田が鼻を押さえているのはどういうわけだ。匂いにでもあてられたのか。


席に着くと一言。


「授業を中断させてしまってすみません、どうぞ再開なさってください」


なんという完璧なフォロー。日本人の誇るべき姿がここにある。


 着席してカバンから筆箱や教科書ノートを引っ張り出す一連の動きさえ、授業無視で見入ってしまう不思議な魅力が彼女にはある。そしてそれは、僕が一番後の席で彼女が二番目という数奇なめぐり合わせによって、僕だけに許された特権でもある。


濡羽色のしっとりした髪は絶妙なカーブを描きながら背中の中程まで垂れ下がり、茜色のブレザーとあいまって美しいコントラストを見せていた。菫色(すみれいろ)の筆箱から取り出された銀色のシャーペンがキラリと蛍光灯の光を反射して、彼女をいっそう綺麗に魅せるのだった。


 いささか唐突ではあるが、僕が一番好きな色は常盤緑だ。パソコンの画面上であらわすと、十六進数でシャープ〇二八七六〇となる。いまどき耳慣れない色の名前だと言われるだろうか。


 さっきから連発している色は和色とよばれる日本の伝統色で、横文字ばかりの鮮やかな色の群とはまたちがった趣がある。名前には身近な植物や動物の特徴を抜き出したものが多く使われている。代表的なものをあげるならば、桜色、小豆色、海老茶、蜂蜜色など。名前を聞いただけで簡単に色を連想できることと思う。


 なぜ僕が和色にこだわるのか。そんなの単純な理由だ。美しい彼女を形容するのにバイオレットだのターコイズだの西洋の色彩を持ち出すなんて興ざめだし、なにより彼女と彼女の美しさに対して失礼じゃないか。

そのくらい木乃瀬深憂は一目置かれる存在なのだ。


 彼女の魅力を考えるうち、四月の自己紹介の記憶がよみがえってきた。

入学したてで互いの顔をうかがいあっている新入生にとって最重要なミッション、それが自己紹介。今後三年間の指針がここで決まる大事な場は、まず担任の自己紹介から始まった。


「えー、黒江卓造といいます。インドア派なので見た目は白いですが」


これで自己紹介の作法は定まった。


「じゃあ出席番号一番から」


「足立充、サッカー好きなアウトドア派っす」


「……緒方享也です、ゲームばっかりやってるからインドア派かな」


そうして、彼女の番がまわってきた。ぱっと立ち上がると、少し恥ずかしそうに、でもよどみない口調でこう言った。


「木乃瀬深憂です、深いうれいと書いてミユウと読みます。最近はカフェ巡りにはまってるのでアウトドア派ということで。いっしょに食べ歩きしてくれる友達募集中です」


 木乃瀬の声は珊瑚色(さんごいろ)で、深い海を照らし出す宝玉さながらクラスの胸にしみわたった。なんなんだ彼女は、というのが第一印象だった。ただの四月の教室を、たった三文で生命満ちあふれる海に変えてしまうなんて、一高校生のなせる技なのか。


 そして確信した。彼女がその身にまとう空気は上品な薄紅で、濡羽色の髪に気高い高麗納戸の影がつき従う。彼女を形容するのにそれ以外の語彙は無粋だと。うん、自分で思っておいてなんだが、ちょっと気持ち悪い。

「高麗納戸」ときいて、ああ四世松本幸四郎が鈴ヶ森で着た合羽の色かと即座に思いつく高校生がいてたまるか。


 あえて昨今の流行に従うならば、僕は「色彩中毒系男子」とでも自分で命名してみるか。中毒者呼ばわりされてなんともおもわず納得できてしまうことに悲しんだ方がいいのだろうか。


 さて、木乃瀬深憂の次は僕の番で。

軽く息を吸って吐いて、あたたかい海にさようなら。


「古泉晴斗です、趣味は車いじりのインドア派です」


わかりやすくするために車いじりといったが、興味があるのは板金塗装だけだ。

最初のホームルームはつつがなく終了し、休み時間。よお、と日南田という男子がさっそく話しかけてきた。


「日南田くん、だよね」


「おう、古泉。ちょっと思ったんだけどさ」


「何」


「おまえ、名前だけはさわやかで女子にもてそうだよな。ハルト」


「名前だけだってわかってるさ」


 こいつは、人の暗い部分を容赦なく暴いている自覚はあるんだろうか。いや、ないんだろうな。その能天気そうな笑い顔で分かるから。


「で、女子共はさっそく会議中か?」


日南田が指す方を見ると、木乃瀬深憂をはじめとしたクラスの女子生徒がなごやかに談笑していた。


こうして眺めてみると、うちのクラスはレベルが高い。体育会系から委員長、美人に可愛い人形みたいな子もいて、どこのオーディション会場かなにかですか?といった装いだった。


 僕たちがいる位置から女子達の会話内容は聞き耳を立てなくてもよく聞こえて、ほかの男子連中も密かに耳をそちらに向けているのが分かった。


「彩夏ちゃん、なにか委員会入る?」


「そうねー、ほかに立候補なかったら手あげるかも」


すでに委員決めの根回しを行っているというのか。情報網恐るべし。


「そだ、まだ呼び方決まってない人いる?」


「木乃瀬さんまだじゃない? ミユじゃなくてミユウなんだよね、ちょっとこのままだとあれかな」


「ミュウ、……ミューズ?」


「なにそれ石鹸?」


小柄な子の石鹸発言で、どっと笑いが起こった。


「ミューズって、たしか英語だったよね。ムーサ、ギリシャ神話で文芸を担当してる女神様達の名前」


いちはやく笑いから立ち直って真面目な方向に戻したのは、端のほうで話を聞いていた灰野とかいうおとなしそうな女子。


「女神かぁ、すてき」


「えっと、この女神様達は九人姉妹でね、それぞれ専門分野があるんだけど」


むう、と全員で木乃瀬深憂を見つめる。


「喜劇」


しばし沈黙があった後、灰野がぼつりと言った。


「カリオペイアとタレイアで迷ったんだけど、叙事詩より喜劇のほうが似合うかと思って」


「うん、あたしもハッピーエンドの方が好きだよ」


木乃瀬深憂が嬉しそうに笑う。


「よし、今日からあなたは伝説の戦士タレイア!」


「どこの魔法少女アニメよ」


「語感が合ってる気がしたから言ってみた」


なんだかんだあって、彼女の呼び名は女神ちゃんと落ち着いたのだった。


 そして今。

 

 彼女は名実ともに女神として学校中に認識されている。

 

容姿端麗で品行方正な人物の名前が(間接的に)女神ともあればそれはもう、ほかの女子に申し訳ないほどの一種信仰にも似た熱い視線をもって男子連中が木乃瀬深憂を見るのも無理はない話だった。

 

そしてその見方は女子にも適用されているようで、ベタな話ではあるが靴箱にある女子からの手紙が入っていたとか、女神の使ったチョークで旧校舎の大きな黒板に願い事を書いたら叶うだとかひっきりなしに話題が提供されていると灰野を通して聞いた。

 

 むろん教師からの評判もすこぶる良い。

 

実際堅物でとおっているOC(オーラルコミュニケーション)教師がうちのクラスで授業をしたとき、女神と隣の奴とで会話文の実演をやるよう指名してあまりの女神の演技力の高さにおもわず涙したところをこの目で見たことすらある。

 

ちなみにその会話文の内容は、映画館で当日券とポップコーンとコーラを買い求めて会場の自分の席につくとただそれだけで、どこに泣きどころがあったのかはよく分からない。

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