馬鹿な女と愚かな男の恋の結末
勢いで書きました。設定が甘いのは大目に見てください。
私の余命は1ヶ月だ。
どこか非現実的な響きは、まるで悲劇を謳った小説の一節のようにも感じる。ただ実感のないまま、ぼんやりと過ぎる日々は緩やかに私の生命を削っていく。
苦しい。
死にたくない。
そんな心の叫びに蓋をして、私は今日も笑うのだ。
「突然な話で大変恐縮なのですが、一身上の都合で退職させていただきたいのです」
私の言葉に目を丸くしたのは、直属の上司である経理部の係長。人は良いのだが出世欲のない壮年の男性で、ちょうど私の父と同じ年齢だという。係長にも私と同じくらいの年齢の娘さんがいて、私を娘のように可愛がってくれた。
「佐伯君、どうして急に。何かあったのか?」
表情を曇らせる係長に、私はゆるゆると首を横に振った。
「特に何かあった訳ではありません。この職場は気に入っています」
「なら、何故。寿退社か?」
「いいえ。…外国に、しばらく留学しようかと考えているのです。イギリスで暮らしたいのです」
私は微笑んだ。嘘だと、バレないだろうかと不安になる一方で、バレてしまえばいいと思う。
係長はしばらく私を見つめた後、小さくため息を吐いた。
「佐伯君は、こうと決めたら曲げないから、止めても無駄なんだろうね。分かった。辞表は受け取ろう。しっかりと勉強してきなさい」
「はい、今までありがとうございました」
困ったような、幼子を見守るような目で、係長が笑う。この笑顔が見納めになるのかと思うと、どうしようもなく寂寥に襲われた。
今日から1週間後、私はここからいなくなる。二度と、戻ることはないのだ。胸を通り抜けた冷たい何かを無視して、私は頭を下げた。
仕事の引き継ぎは順調に進み、私は退職した。経理部の係長補佐とはいえ、代わりとなる人材は五万といる。同僚たちにはただ驚かれ、そして淋しいと言われたがそれだけだ。日々の忙しさに追われて、私の寿命が尽きる頃には私の存在も忘れられていることだろう。所詮は職場の同僚。それ以上でも以下でもない。
彼も、そうなのだろうか。
海外営業部の野村正道。今は中国に短期出張に行っている。私と同期採用の27歳。ひょろりとした細身の長身で、やや青みの強い黒の瞳が印象的だ。端正な顔立ちは西洋人のように彫りが深い。
たぶん、私の恋人。
付き合い始めて2ヶ月、彼は私に興味を示すことがない。そもそも彼に惚れて口説き落としたのは私だし、告白した時も彼は
「分かった」
と言って承諾しただけだ。彼に触れるのはおろか、まともな会話すらない。メールは業務連絡のようだし、電話はかけても留守番電話がほとんど。
私たちは社会人だから、仕事が忙しければプライベートが疎かになることだってある。けれど、「忙しい」の一言では片付けられないくらい、最早避けられているのかと思うくらい、私は相手にされない。
何で、私の告白を受けたのか。当初はもしかしたら彼も私を憎からず思っていたのだと期待したものだが、今となればただの気まぐれだったとしか考えられない。
それでも、少しずつ歩み寄れると思っていた。
少しずつ好きになってもらえたら、と願っていた。
医師から余命宣告を受けるまでは。
私の病気は胃ガン。それも進行性で末期だそうだ。胃の不調から渋々行った病院で告げられた時、全身から力が抜けていくのを感じた。夢のような、霧がかかった思考ではうまく理解ができなくて。次の日、両親に医師が説明しているのを聞いて、やっと現実だと認識した。
怖い、辛い、悲しい。
ぐるぐると渦巻く感情をそのままに、泣いてみた。声が枯れるくらい喚いてみた。でも、気持ちは晴れず鬱々とするだけ。死へのカウントダウンは確かに私を殺していった。
こんな風に感情のままに振る舞った後は決まって彼を思い出す。
彼は、このことを知ったらどう思うのだろう。
同情するのだろうか。清々するのか。それとも、無関心か。
私には彼が私の生命を惜しむ姿が想像できなかった。寧ろ、離れていく姿しか描けなかった。それが惨めで、結局言えずにここまで来た。
けれど、それも今日で終わり。
私は彼に電話をかける。そして別れを切り出すのだ。
自宅の自室に閉じ籠り、私は電話をかけた。呼び出し音は珍しく、すぐに切れた。
『…はい』
低い、掠れた声。胸に熱い何かが込み上げてきて、私はひゅっと息を飲んだ。声を聞いただけで愛しさが溢れ出していく。
『佐伯?何の用?今、忙しいんだ』
電話越しの彼は相変わらず冷たい。恋人に対する言葉とは思えない言葉を平気で吐き捨てる。
私は目を閉じた。
「私、海外に留学するの。仕事も辞めた。もう日本には帰らない。…だから、別れよう」
用意した嘘はするすると唇から零れていく。声が震えないように、できるだけ明るく。
彼は何と答えるのだろう。嫌だと、何故だと聞いてくれるだろうか。何か、変わるだろうか。
こんな時にも心は勝手に期待する。もしも彼が少しでも私に好意を示してくれたらと。
電話の向こうの彼は黙ったままだ。私はただ、彼の返事を待つ。
しばらくして、彼の声がした。
『…分かった』
そっか…。そうだよね。
頬を涙が伝っていく。
私は何を期待したのだろう。分かっていたはずなのに。
「今までありがとうございました。さよなら」
私は電話を切った。そして電源を切ると、机の引き出しにしまった。
終わったんだな、と思う。
死ぬことは怖い。でも、それもどうでもよくなってしまった。
最後にすがった恋人に、手を振り払われたみたいだ。お前なんか要らないと、心臓をナイフで突き刺されたかのよう。じわじわと、心が血で滲んでいく。
「ふふ…」
笑いが、止まらない。自分の人生が惨めで滑稽で。なんてふざけた人生なんだろう。ただ真面目に、ワガママも言わず、親に会社に彼に従順に生きてきた。その結果が、これだ。
もう、いい。
私は窓の外を見つめた。ただただ青い空を。
入院してからは、怠惰に日々が過ぎた。激痛と薬の投与の繰り返し。体は痩せ細り、ベッドから起きられなくなった。
白いリノリウムの天井を見つめ、ただ時が過ぎていった。
両親には会社や知り合いに私が死んだことを伝えないでほしいとお願いしてある。葬儀は密葬で、そっと執り行ってほしいと。
両親は泣きながら了承した。
「親不孝でごめんなさい」
そう言えば、さらに泣かれた。
遠くで医師と看護師の声、両親の泣き声が聞こえる。だんだんすべてが遠くなる。
ああ、死ぬんだな。
最後に浮かんだのは両親と、彼の顔だった。
さよなら。
言葉は声にならない。
私の意識はそこで途絶えた。
「佐伯、一葉さんのご自宅はこちらですか」
端正な容姿の男性は、小さな一軒家から出てきた中年の女性に声をかけた。
女性はしばらく男性を見つめ、頷いた。
「はい、ですが娘は家にはいません」
「どちらに行かれたのですか?どうしてもお会いしたいのです」
男性は女性の返事を予測していたのか、さほど間を空けずに問いを続ける。
「教えられません」
「どうしてですか」
「それがあの子との約束ですから」
冷たく言い放たれ、男性は口をつぐむ。
それを期に女性はまた家に入ろうとした。その背中が、男性を拒絶していた。
だが、彼は諦めるわけにはいかなかった。尚も女性に食い下がる。
「僕は、一葉さんとお付き合いしています。つい4週間前、中国へ出向している時に彼女から別れを切り出されました。僕は了承したつもりはありません。ですが一方的に電話を切られ、どう頑張っても連絡が取れません。どうしてもお会いしたいのです。教えてください。お願いします」
男性は深く頭を下げる。
女性は振り返り、彼を見た。その真摯な姿に涙が滲んでいく。
「娘は、死にました。2週間ほど前に」
男性は勢いよく顔を上げた。その表情は強張り、真っ青になっていた。
「そんな、どうして」
彼女は一度も。
「どの人にも自分の死を、知られたくないと…!留学した、とっ…嘘を…!」
嗚咽混じりの声が、彼の心を深く抉っていく。
一葉が、死んだ。
「そんな…」
男性の目から涙が落ちていく。
握り締めた右手が力なく弛み、小さなベルベットの箱が転がった。蓋が衝撃で開き、中にあるダイヤモンドの輝きが日に照らされて煌めいた。
女性の目が、それを見た。驚愕した顔がやがてくしゃりと歪む。
「ばかな、なんて…ばかな子……」
その嘆きに、男性は何もできずに涙を流し続けた。
「結婚を、考えていたんだ」
ポツリと落ちた声は、仏壇に消えていく。そこにあるのは、男性の恋人の笑顔。彼を癒し、支えてくれた笑顔が、そこにはあった。
「僕は不器用で口下手で、佐伯…いや、一葉に愛情を示すことができなかった。出会った時からずっと好きだったのに。一葉の優しさに甘えていたんだ。それでも、一緒にいたくて、中国から帰ってきたらプロポーズしようと、そう決めていた」
好きで好きで、触れることすらできなかった。触れたら、もう離せないと思った。
男性にとって、初めての真剣な恋だった。
「一葉…ごめんな。一度も愛してるって言えなくて。幸せにできなくて」
写真の中の彼女はいつものように微笑んでいる。ただ、返事はくれない。
男性の肩が小刻みに震え出す。それを励ます明るい声は、もう二度と聞こえない。