恋バナ OR DIE
夕方。
俺は一人で食料の買い出しに出掛けた。
昼間の喫茶店での会話以降、ネージュは殆んど喋ろうともせず、部屋ではずっと怒った様な顔をしているし、いたたまれなくなった俺は一人になりたかったのだ。
俺の部屋なのに。
理不尽なものを感じながら、スーパーからの帰り道をトボトボと歩く。
なんでネージュは怒ってるんだ?
俺がセックスができないのを、モテないせいにしているから、なのか?
モテる為の努力をしてないから?
そんな事で怒られてもな。
死人に鞭打つようなものだぜ。
女の子と一緒に住むなんてラッキー、と単純にそう思っていたけれど、そんな事も言っていられないかもしれない。
部屋に戻ると、神妙な顔をしたネージュが謝ってきた。
「怒っちゃって、ごめんなさい。わたし、トモヤの事とか全然知らないのにね。傷つけちゃったかもしれないって、思って……」
ネージュも、さっきの会話の事をずっと考えてたのか。そんなに真剣に。
真面目で、律儀な子だな。俺なんかの事でくよくよしなくてもいいのに。
「いいよ、ネージュが言った事、全部その通りだし」
食料をしまい終え床に胡座をかくと、ネージュも俺の前にペタンと座り込んだ。
「トモヤも、恋バナとか少しはあるんでしょ?」
そして、そんな事を言い出したのだ。
「いくらモテないって言っても、人を好きになることはあるんだし。それに、まさか本当に女の子とまったく関わった事が無いとか、そんなんじゃないよね?」
話す様子に熱気が感じられる。
「そりゃあ、まあ、少しくらいはな」
「聞かせて。そうしたら、この先どうすれば恋人が出来るか、アドバイスもしやすくなると思うの」
ネージュが期待に目を輝かせる。
……単に、そういう色恋の話が好きなだけなんじゃないのか。
まあいい。俺にだって恋バナのひとつやふたつはある。聞かせてやろうじゃないか。
俺は『佐藤涼子』の事を、随分久し振りに思い出しながらネージュに話して聞かせた。
***
佐藤涼子とは高校2年の時に、近所の図書館で知り合った。同じ本に手を伸ばし、譲り合ったのがきっかけだ。
その後、たまに図書館で顔を合わせるうちに話をするようになり、しだいに親しくなっていった。
互いに奥手だったせいで、付き合い出すまでには時間がかかった。
一緒に出掛けた夏祭りで、花火を見上げながらそっと手を握り、驚いて顔を向けた涼子に俺から想いを打ち明けた。
初体験は両親が旅行中だという彼女の部屋で、ぎこちなく済ませた。
普段はおとなしい涼子の時折見せるワガママな一面なんかも、俺には可愛らしく感じられた。
一通り高校生カップルがしそうな事をこなし、春が来て、彼女はカナダへ留学して行った。おしまい。
「…………なんなの、その話?」
「嘘彼女」
それは、友人や知人へ見栄を張る為に童貞が創り出す、幻想の女。
『佐藤涼子』は10年程前、ドロドロとした自意識と妄想に溺れていた俺の前に現れた《嘘彼女》だ。
モテない自分を恥じ、他人に女に免疫が無いと思われたくないと願う年頃の童貞の多くが、嘘彼女と付き合うのだ。
《嘘彼女》とのなれ初めや、彼女とのセックスを、友人や知人に長々と開陳してはいけない。
あくまで、女の影を匂わす程度に収めるべきである。会話の流れの中でさりげなく、また、性体験の有無などを尋ねられた場合のみ、彼女との思い出を語れば良い。
その時に慌てぬよう、そして後々矛盾が生じないように日頃から愛する彼女との日々を妄想し、思い出を積み重ねていく事が重要だ。
本来は豊かな童貞の妄想力なのだが、女の子と知り合って付き合うという事に関してだけはどうしても現実感が無く、想像が及ばないので、陳腐なシチュエーションになりがちなのが《嘘彼女》の特徴である。
なけなしのリアリティを出そうと、わざわざ欠点を設定するあたりもなかなか興味深い。
まあ、聞かされる方も信じてはいない。相づちを打ちながら大人しく拝聴し、少し羨ましがってやるのが童貞同士の仁義だ。
だんだん面倒になり唐突に別れが訪れるところは、現実のカップルとも似ているかもしれない。
佐藤涼子は今頃元気でやっているだろうか。
どうか幸せであってほしい。存在しないけど。
「……むなしくならなかったの?」
ネージュは哀れみの表情を浮かべ、濁った瞳で俺を見つめる。
「今じゃいい思い出だな。曲がりなりにも半年くらい付き合ったわけだし」
「それ、付き合ってないよ……」
うなだれながら、悲し気にネージュは言った。
《妄想嫁》の『靖子』もネージュに紹介しておきたかったのだが、やめておこう。
4つ歳上の、優しくて甘えさせてくれる、家庭的な理想の嫁。夜はとんでもなくエロい。俺の脳内では彼女と数年前から結婚している。
「本当のこと話してよ。そうだ、初恋は? ねえ、初めて好きになったのはどんな人だったの?」
ネージュの瞳に輝きが戻った。俺に食いつく勢いで迫ってくる。
***
初恋は小6だった。
相手の名前は瀬戸あやめさん。
その名前に懐かしさは感じない。まだ時々、思い出すから。
好きだった。本当に好きだった。どうすればいいのかわからなくなるくらい、好きだった。ずっと好きだった。今でも少し、好きなのかもしれない。
クラスで一番可愛かったわけじゃない。どちらかと言えば大人しい、ちょっと地味な子だった。
小学5年で同じクラスになり、6年の時にはもう彼女の顔も見られない程好きになっていた。
まともに会話をした事もほとんどない。
だけど、好きだったんだ。理由なんか要らないだろう。
彼女を好きな事が、嬉しかった。
彼女を好きな自分が誇らしかった。
彼女の事を、ずっと、ずっと好きでいさせて欲しいと思った。
「……」
ネージュは目をうるうると潤ませ、これ以上無い真剣な顔で話を聞いている。
どうだ。俺の恋バナも捨てたもんじゃないだろう。
まだ、この先が本番だからな。
卒業も近くなったある放課後、俺は過ちを犯してしまった。
衝動を押さえられなかった。
彼女の、リコーダーを――――
ここまで話した時、俺は蘇る記憶のあまりの生々しさに深い溜息を吐いた。
キョトンとしているネージュに説明してやる。
「いわゆる『笛舐め』だよ。好きな女の子のリコーダーを舐めるんだ」
「ッッッッッッ!!!」
言葉も出ないらしい。座ったまま、ずりずりと俺から遠ざかっていく。
正確に言えば、俺が行なったのは舐めるなんて生易しいものでは無かったのだが。
あの高揚。背徳感。絶望。
しゃぶり、ねぶり、嬲り、吸った。
少し吹いてみた。
瀬戸あやめさんのリコーダーを。
その頃の俺は、まだ自分がモテないなんて事も知らないし、そんなのどうだって良かった。
だけど、はっきりと、瀬戸さんと自分が別の世界の住人だって事はわかってた。
——決してこの先、二人の人生が交わる事は無い。
なんでそう思ったんだろう。
彼女を好き過ぎたせいかもしれない。
眩しく輝く素晴らしい瀬戸さんは、俺と関わるべきではないし、そうはならない。
そんな風に思った俺は、笛を舐めた。
せめて。
笛を。
乾いた唾液の匂いがした。
目を瞑り、おそるおそる、そっと、触れれば崩れてしまうかのように、俺は口づけた。
笛に。
外は奇麗な夕焼けだった。
思えばあれが、俺のファーストキスかもしれない。
ネージュは俺の甘酸っぱい思い出に悶絶し、身をよじっていた。
俺の恋バナはまだある。
瀬戸さんとは同じ中学に進み、1年と2年ではまた同じクラスになったが、もちろん進展なんかない。話しかける事すらできなかった。ただどうしようも無く好きだった。
中一の時。その日、放課後の駐輪場には俺しかいなかった。
帰宅するため自分の自転車を出そうとした俺の目にとまったのは。
瀬戸さんの名前の書かれた自転車。
俺は慚愧の念に堪え兼ねてまたも溜息を落とし、ネージュを見つめる。
断罪して欲しい。罵ってくれ。俺はクズ野郎なんだ。
「?」
なにも察していない彼女に、俺は告げた。
「盗んだ」
「……なにを?」
「サドルを」
「ッッッッッッ!!!」
ズザザッッと思い切り後ずさりをしたネージュは、壁を背に当てて忍者みたいに貼り付いた。
あの後、俺は罪の意識に押し潰されそうになりながら、自転車を押して歩いた。鞄の中のサドルが重かった。
そしてそんな俺を、彼女が追い抜いて行った。
スカートを翻し、少し困った顔で自転車を立ち漕ぎする瀬戸あやめさんの姿は忘れられない。
ああ、あの日に戻って返したい、自転車のサドルを。謝りたい、若き日の過ちを。取り戻したい、笛嘗めの、あの高揚を。いや、取り戻したらダメだ。
ネージュは頭を抱えていた。
「恋バナって、そういうんじゃないと思う……。もっと、なにか素敵な思い出はないの?」
瀬戸あやめさんに関して、もうひとつ切ない記憶がある。
瀬戸さんは、鼻炎だった。
時々手で隠しながら、ポンプ式の容器で薬をプシュプシュと鼻の中にスプレーしていた。
ある日の放課後、俺は見つけてしまったんだ。
彼女の机の上に――薬の容器を。
もう何度目かの過ちを、俺は繰り返してしまった。
俺は鼻の奥までそれを突っ込み、夢中で薬を噴出した。鼻が痛くなった。勃起した。涙が出たのは、鼻の痛みのせいじゃない。
中二の俺は、自分の卑劣さ、成長の無さ、決して手に入らないものへの憧憬、失ったなにか、それらをその行為の中で確かめ、噛み締めたのだった。
「……もういい」
ネージュは諦めたように頭をふるふると横に振った。
思えば、それ以来恋をしていない。
その事はネージュには言わなかった。