プロローグ1
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「はぁ……」
ある晴れた春の日の朝、佐藤祐一はアルバイト先のアニメショップの前でため息をついていた。身長178㎝、体重127㎏の肥満体が小さく見えるほど肩を落としうつむいた様子を見れば、これから自殺すると言われても誰も疑わないだろう。
そこまで落ち込むのも当然だ。祐一は出勤するや否や、新しい店長の「キモい」の一言で即時解雇されたのだ。確かに自他ともに認めるデブオタだからキモいと言われても仕方がないのではあるが。
(だけど、今まで6年も無遅刻無欠勤だったのに、アニメショップに「今後は美形の店員しか置かない」ってなんなんだ? どう考えても客が気おくれして買いにくいぞ。店を潰す気か、それともあの女の趣味か?)
考えてみれば解雇予告手当も昨日までの給与も支払われていない。いっそのこと労働基準監督署に訴えてやろうかとも思ったが、前の店長や同僚に迷惑をかけるわけにもいかない。信じられないことに新店長と名乗ったあのヒス女は前の店長の娘だというのだ。
「はぁ……」
いつまでも店の前でボーっとしていても意味がない。もう一つため息をつくと、祐一は家に帰る道すがら前向きに今後のことを考えることにした。
(今の貯金だとせいぜい2か月分の生活費にしかならないから、早いところ次の仕事を見つけないと。ただ、この就職氷河期にフリーター歴6年の上「キモい」と面と向かって言われた人間が就職なんてできるわけがない気がする)
キモいの一言に意外と傷ついている事をやっと自覚した祐一はやっぱり訴えてやろうかとも思ったが、今後の生活が最優先だと頭を切り替える。
(とりあえず生活レベルを下げて食いつなぐにしても、今のボロアパートより家賃の低いところなんてそうはないし、食費はもともと最低限だからこれ以上削りようがない。いっそのこと田舎に帰るのも手かな……いや、実家はクソ兄貴が継いでるし、親にこのあいだ電話したときは農業じゃ生活できないから廃業も考えているとか言ってたんだよな。本当だったら俺が継ぐはずだったのに廃業って、あのダメ兄貴なら当然か)
明るい未来が全く見えず、これは野垂れ死ぬしかないかと考えが後ろ向きになったとき、ふいに足元の地面が消えて無くなった。
「えっ?」
突然の浮遊感とともに真っ暗な縦穴をどこまでも落ちていく。
あまりの事態に祐一はあっさりと意識を失った。
「なんだ、ここは?」
気が付くと祐一はソファに座っていた。
とりあえず自分の状態を確認すると、体のどこにも痛みはないし服や所持品もそのままだ。ちょっと心配したが漏らしてもいないようだ。
多少落ち着いてあたりを見回すと、そこはテレビで見たことのある大豪邸のような、二十畳はありそうな豪華な応接間だった。目の前にはいかにも高級そうな応接セットや調度品があり、座っているのは最高級のソファらしく、その感触も実に素晴らしいものだ。
上を見ても人が落ちてくるような穴など開いていない。豪奢なシャンデリアと装飾があるだけだ。出入り口は……そこだけ部屋の雰囲気に合わない地味な扉が一つあり、窓の一つもない。見る限り地下のようにも思える。
扉を開けようとするが鍵でもかかっているのか開く様子もなく、移動できないなら仕方がないと祐一は元のソファに座って状況を考えてみることにした。
(道に大穴が突然あいてそこに落ちた。普通なら落盤事故だがこれは違う。崩れる音もしなかったし服にも泥汚れひとつない。そもそも事故の被害者なら病院に運ばれるはずだ、こんな豪華な部屋に一人放置するはずもない。となると普通ではない、つまり異常な状況なわけだが、そこで思いつくのが小説やマンガでよくあるあれだ、異世界召喚や転生だ)
「ピンポーン、大正解~!」
その声に驚いて目をやると、いつの間にか向かいのソファに一人の男が座っていた。
そこにいたのはごく普通の中年男だった。グレーのスーツを着て七三分けの、何の特徴もないそこらにいそうなおっさんだ。
「佐藤祐一さん、あなたは異世界に行ってもらうことになりました」
「ちょ、ちょっと待ってください。突然あなた誰です、それに今、俺の心を読みましたか?」
「私は神です。神ですから人間の心を読むくらいできて当たり前です」
神か、確かに心を読まれたように見えるがこんな異常な状況だ、素直に信じられるはずもない。祐一は他の可能性を考え始めた。
(第一はこれが落盤事故で入院した俺の夢であること。第二はかなり低い可能性だが、実際に超能力、読心能力をもっていて、そのために自分が神だと思い込んでしまったか、あるいはその能力で俺を駒として利用しようとしているのか)
そしてなにより神様の姿がそこらにいそうな普通のおっさんだというのが怪しすぎる。これが事実なら世界中の宗教家が絶望で自殺しそうだ。
「ひどいですね、あなたが驚いて気絶したりしないようにわざわざ平凡な姿を選んだのですが。でしたらこんな姿のほうがいいですか?」
その瞬間周囲の風景が一変した。大海原だ、潮の香りがする。目の前には全裸の金髪美女がいた。よく見ると自分は海面に、美女は大きな貝殻の上に立っている。思わず凝視しそうになるのをこらえて目をそらすが、一面の大海原で他には何もない。生まれてこのかたこんな美女には全く縁がないはずなのに、なぜかどこかで見たような気がする。不意に気付いた、このシーンはヴィーナスの誕生だ。ということは目の前の美女は美の女神か?
「それとも、こちらのほうがよろしいですか?」
女神にふさわしい美声が聞こえたと思ったら、また風景が一変した。今度は目の前に長い髭を生やした老人が立っている。祐一はそのとてつもない威厳に思わず後ずさりしながらもよく見ると、老人には片目がなく、長い槍のようなものを持っていた。周囲は心地よい風が吹く草原で、そこにとてつもない巨木が一本だけそびえたっている。上を見てもどこまで伸びているのかわからないほどの高さだ。これは……世界樹? すると、目の前にいるのは大神オーディンか、とその威厳に得心が行った。
「儂が恐ろしいか、ならばこれはどうじゃ」
みたび周囲の光景が変わった。今度は洞窟、というよりも地底の巨大空洞だ。幅、高さ、奥行きともに100メートル以上はあり、光源がないのになぜか明るい。そこにいたのは……黄金に輝く巨大なドラゴンだ。下手なビルどころではない大きさで、恐怖だけではなくその眼は偉大さと深い知性を感じさせる。
「どうだ、いいかげん納得したか、小僧」
その言葉とともにドラゴンの口から炎が放たれ、あまりの事態に身動きもならない祐一の頭をかすめた。熱い、それに炎の臭い、焦げた髪の臭いもする。これは間違いなく現実だ! 精神の限界に達した祐一は大声で叫んだ。
「納得しました、納得しましたからどうか最初の姿に戻ってください!」
「やっと納得していただけましたか。これでひと安心です」
気が付くと元の応接間に戻っていた。男も元通りだ。あまりの展開にソファに倒れ込んだが、ひとまず姿勢を直して気を落ち着かせることにした。
頭に手をやると焼け焦げた髪の毛が一房ポロリと落ちてきた。これがバーチャルリアリティであることに一縷の望みを託していたが、やはりそれもないようだ。潮の香りに草を踏みしめた感触、さらにこの焼け焦げた髪の毛。そもそもバーチャルリアリティ技術はまだ実現されていないはずだ。
あとはこれがすべて夢という可能性だが、今までこんなに現実感のある夢を見たことはないし、頭にはやけどをしたらしい痛みもある。胡蝶の夢ではないが、夢か現実かわからないなら現実とみなして行動したほうがいい。夢だと思って無茶をして、死んだら本当は現実でしたなんて冗談ではない。神か悪魔かわからないが、少なくとも人間とは隔絶した力を持っていることは間違いない。とにかく礼儀正しく接することにしようと覚悟を決めた。
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