第三話:危機
「それ」には目がない。鼻も口も耳も。猫が威嚇しようとも気付く事はないし、犬がその身に噛み付こうとも、なにも感じない。しかし、人間がいれば分かる。
「それ」にはそれだけで充分だった。性別も体格も年齢も
「それ」には関係ない。いるならば殺す。存在するならば殺す。
「人を殺す」という意思しか持たない存在。理由もなく、意味もなく、感情もなく、意識もなく、必要性もなく、ただ、殺す。それが
「それ」だった。
今、
「それ」の前に一人の人間がいた。目も鼻も口も耳もない
「それ」には分からないが、人間は女だった。歳の頃は20代前半。烏の濡れ羽色をした長い髪を一つにまとめて背中にたらしている。優しいしかし強い意志も秘めた瞳の女性だった。
名は月峰 雫。陰陽寮に属する、鳴神と同期の浄化術師だった。彼女の前にいる
「それ」は、今まで雫の見た事のない妖―これを妖と呼ぶには禍々し過ぎる気はしたが―だった。ナメクジを何十倍にもした形状。そこから不気味に蠢き、見たものに嫌悪感を与える触手。半透明の体の中はタールを流し込んだかのようなドロドロとした物がうごめいている。
雫の体を悪寒が走り回る。
危険。
その単語が、雫の頭の中に渦巻いていた。
自分は浄化術師であり、それ故に様々な妖、人に害をなす妖を相手にしてきたが、ここまで禍々しいものに出会った事はかつてない。この存在より凶悪なものも、力が強いものも前にした事はあるが、この禍々しさは別種だった。
嫌な汗が背を伝う。
すでに相手は臨戦状態。
背を向ける事は危険極まりない。
雫は相手を刺激しない程度に素早く懐から符を取り出した。
浄化術の符。
土地の清めを主とする雫だが、浄化術は妖との戦闘においても、有効打となる。
むしろ、霊能力において、浄化術ほど妖に影響を及ぼす術はない。陰陽道における方術は己の霊力をぶつけ霊子を崩壊させるが、浄化術は負の思念より生じた妖の霊子を分解し地球の理へと環す。つまり、前者は防ぎようがあり、損傷を受けても再生する事ができるが、後者はそれができない。ある意味、最強の術ではある。
もっとも、それは妖に対してであって、人や普通の動物に関しては何の影響もないのだが。
「それ」が動きを見せた。
ナメクジのような体型から人の腕程もある、太い触手を突き出す。速くはあったが反応出来ない速度ではなかった。体を半身にしその触手を躱す。すれ違い様に指に挟んだ符をナイフの様に振った。
中ほどから切り飛ばされた触手は数回空中を回転しながら、地に落ちる事無く消滅した。
予想もしない反撃に、
「それ」の動きが数瞬止まる。その停止を雫は見逃さない。新しい符を
「それ」へと飛ばす。符は流れる様に飛翔し、吸い込まれる様に
「それ」へと張り付く。一瞬の後に細かな紙片となり、散弾の様に
「それ」の身へと食い込んだ。己の存在を消滅させる力が身に食い込む。
「それ」は殺意しか持たないとは言え、さすがに生存本能は持ち合わせていたらしい。先程よりも長く
「それ」の動きが止まる。雫は素早く身を翻し、逃走へと転じようとした。しかし、今度は雫の動きが止まる。
「それ」に囲まれていた。
7体。禍々しさは一匹たりとも引けをとらない。なのに気付かなかった。
動けない。動けば触手によって串刺しになるだろう。しかしそれは動かなくとも同じ事。先程の
「それ」も動き出した。
合計8体。
文字通り、八方塞がりであった。
浄化術が比較的有名でないのは、その非力さ。絶対的な力では、他の術に格段に劣るのだ。
「それ」が触手を突き出そうとしていた。
とっさに結界を構成するが、それも長くは耐えられないだろう。このままではなぶり殺しだ。雫の思考回路がかき乱され、顔に焦燥の色が浮かぶ。
8方向からの触手の攻撃。それは雫の結界に弾かれるが、その攻撃力は予想以上だった。
2撃目。
雫は新たなる衝撃に身構える。
しかし。
〈なれの前に道は非ず、あるは不滅の停止のみ!〉
聞き慣れた声が響くと同時。
8体の
「それ」の前に、不可視の壁が出現、攻撃を阻む。
〈我が息は、さながら怒れる鎌鼬!〉
無数の霊力が、鎌鼬の形をともなって
「それ」の体を切り刻んだ。
「それ」達が悲鳴をあげる事無くのたうち回る。口がない
「それ」に悲鳴は発せられない。
その隙間を縫う様に、一人の青年と一人の少年が入り込む。
同じ職場の同僚、鳴神 星斗と保寿だった。