Ⅳ‐2 空虚、あるいは――(another route)
再びノゾミが目を開けると、ツバサは愛おしそうにノゾミの腹部を撫でていた。そこは先程よりも明らかに膨らみ、丸みを帯びている。腰の辺りに鈍痛があり、そこから黒いものが体の隅々まで伸ばされているとノゾミは感じた。ノゾミはそして、既にこの体は自分のものではないのだと悟る。
「君は、君をいじめてた人間や君を裏切った人間に復讐したいとは思わないの?」
ノゾミが意識を取り戻したことに気付いたツバサが聞く。憎んだことがなかったとは言わない。けれど復讐したところで得るものはないとノゾミは考えていた。『Real Doll』がノゾミの考えていることを簡単にツバサに伝える。それはまるで機械の翻訳のようでもあった。
「そうなんだ。でもあのいじめがなかったら、君は引きこもることなんてなかった。それにヒカリがそれに自責の念を感じて死ぬこともなかったと思わない?」
ツバサがノゾミの頬に指を這わせながら言う。ノゾミはその手を振り払うことが出来ず、掠れた声で聞いた。
「ヒカリが自責の念を感じて死んだって、どういうこと?」
〈それは……〉
痛みを堪えるような声で言ったのは『Real Doll』の方だ。しかし彼はそれ以上の言葉を紡ぐことは出来ないようだった。ツバサが溜息を吐き、ノゾミに鼻の先が触れるくらいまで顔を近付ける。
「ヒカリは君がいじめられたのが引きこもりの原因だと思っていた。だからそれを止められなかったこと、つまり君を庇えなかったことを悔いていた。君の話を聞いて『Real Doll』はそう推測したみたいだね」
「そんな……」
「『私は空っぽの人形だ』――ヒカリがそんな風に思って呪いを受け入れたのは、自分の身を守るために君を助けられなかったからじゃないかな?」
ノゾミは首を振る。ヒカリは空っぽの人形などではなかった。学校では疎遠でも、家ではいつもノゾミに優しかった。それだけでノゾミは十分だったのだ。そのことを伝えることが出来たなら、ヒカリは『Real Doll』を受け入れることはなかったのだろうか。推論でしかないとはわかっている。けれどそれは誰よりもヒカリの近くにいた『Real Doll』の予想なのだ。ノゾミの左目から滴が零れ落ちる。
「君が自分を責める必要はないよ、ノゾミ。同じようにヒカリも自分を責める必要はなかった。だって悪いのは君を虐げた人間なんだよ?」
ツバサの言葉に反論できる人は誰もいないだろう。それが全ての発端だったのは事実だ。ツバサの緑色の瞳が、ノゾミの脳裏に深く刻みつけられる。
〈駄目だよ、ノゾミ。憎しみに呑まれたら君は君でなくなってしまう〉
『Real Doll』の声がどこか遠くに聞こえた。ツバサは右の口角を少し持ち上げる。
「君が僕に肉を与えてくれさえすれば、僕は君の復讐に手を貸すことが出来る。『Real Doll』の呪いよりももっとむごいことをしてあげられるよ? 君の幸福を壊した人間がのうのうと生きていることに君は本当に何の不満も持ってないのかい?」
ノゾミは答えることが出来なかった。ミズホたちのせいで全てが狂ったと考えない日はなかったのだ。一年以上経ってその感情は薄れたものの、未だにノゾミの心の中に巣食っているのは事実である。
「実際にヒカリを殺したのは僕の呪いだけれど、ヒカリが死を受け入れさえしなければ呪いを打ち破ることだって出来たかもしれないよ?」
「それは……仮定の話でしかないわ」
『Real Doll』がノゾミの答えを伝える。しかしノゾミの心は僅かに揺らいでいた。中学に行かなくなったあと、ノゾミはヒカリに学校の様子をそれとなく聞いたことがあった。ノゾミをいじめていた人達は、すぐに他のターゲットを見つけたらしい。ノゾミを不登校に追いやった負い目など感じずに。ミズホもその仲間に加わっていたようだ。それは再びノゾミを深く傷つけ、本格的に外に出ることが出来なくなったのだ。
「ねぇ、ノゾミ。僕たちだけが一方的に傷つけられるいわれはないんだよ。僕たちが何をした? 理不尽に傷つけられたことに対しては怒っていい。憎んだっていいんだ」
ツバサの瞳から不可視の蔓が伸びて、ノゾミの心臓を捉えた。心の奥底に押さえ込んでいたものが頭をもたげる。あんな奴ら死んでしまえばいいのに――そんな言葉にノゾミの思考が塗りつぶされていく。
「隠す必要なんてないんだ。憎悪も、怒りも、君の感情は全て僕が受け入れてあげるよ。君の願いを叶えてあげるよ」
ノゾミの左目から再び涙が一筋流れ落ちた。それはノゾミが自分を手放してしまった証左でもあった。
「――愛してるよ、ノゾミ」
優しい声音でツバサが言う。まるで繭の中に包まれているような感覚だった。その安全地帯の中で、ノゾミは瞳に憎悪の炎を灯していた。
「もう頃合いみたいだね」
ツバサがノゾミの腹を優しく撫でると、断続的な痛みがノゾミを襲った。
「君ならきっと、憎しみの申し子を産むことが出来るよ」
ノゾミの頭の中で、誰かが叫ぶ声が聞こえた。しかし痛みの中にあるノゾミには届かない。ツバサはこれまでで一番邪気のない笑みを浮かべ、ノゾミの腹に両手を押し当てる。触れた部分から、煙のようにツバサの姿が消えていった。
子宮の中にあるものが胎動を始める。
ノゾミは痛みに堪えながら、息を吐く。当然ながら出産の経験などない。だからノゾミは呼吸の紡ぎ方すらわからなかった。
しばらくすると、ノゾミの股の間から黒くぬらぬらとした液体が溢れてきた。シーツを掴み痛みに耐えるノゾミには見えていなかったが、何も受け入れたことのない膣口からは異形の黒い頭が見え始めていた。それはゼリーのように柔らかく、自らの意思で這い出てくる。
それはとても人間と呼べるものではなかった。黒真珠のように丸く、粘液に濡れている。それが完全にノゾミの体外に排出され、痛みから解放されたノゾミは自分の股のあいだに目をやった。
ノゾミの声帯は凍りつき、叫びを上げることすら出来なかった。自分が産んだ異形を目の当たりにして、ノゾミはただ震えることしか出来なかったのだ。
「気持ち悪いかい? でも、成功したのは初めてだ」
黒い球体から声が聞こえた。ノゾミがベッドの隅で小さくなっているのをよそに、球体はその姿を変化させる。しなやかに伸びる足、細い腰、少し肋骨の浮き出た上半身が生成され、最後に女性と見紛うような整った顔に変異した。先程までノゾミの目の前にいたツバサと変わらない姿だ。しかしその体はしっかりとした色を持ち、まるで普通の人間のように存在している。緑の双眸も今まで以上に鮮やかに、宝石のように輝いていた。
「ありがとう、ノゾミ。これで僕の願いは成就したよ」
「そう……」
ノゾミはもう何も考えることが出来なかった。自分の体の中が空洞になってしまったような虚脱感が彼女を襲っていた。
不意に、ノゾミの体からぱきぱきと音が聞こえた。驚いて体を見ると、人形化が進行しているのがわかる。両腕は既に人形のものへと替わり、足にも変異が広がっていた。
「君の体も、完全に耐えきれるわけではなかったみたいだね」
ツバサはノゾミの手をとった。しかしノゾミの指先は人形のそれに変わっているため、ツバサの手の温度を感じることは出来ない。
「でも今までは僕を宿しただけで、みんな空っぽになって死んでしまった。やっぱり僕と君は相性が良かったみたいだね」
ツバサはそう言うと、ノゾミに背を向けて立ち上がった。ベッドの上に残されていた黒い粘液がぞぞぞ、と動き、ツバサの体に纏わり付き始める。それはツバサの全身を覆い、黒い長袖のYシャツと同じ色のズボンに変わった。
「愛してるよ、ノゾミ。お礼に君の願いは全部叶えてあげる」
ツバサはベッドに座り、ノゾミの頬に手を伸ばした。ノゾミは虚ろな目でツバサを眺めている。ツバサは微笑し、ノゾミの変異していない柔らかな唇に、自分のそれを重ねた。十三歳で死んだとは思えないほどに、ツバサの口づけは大人びていた。戸惑うノゾミの舌を絡め取り、口の中をくまなく蹂躙する。ノゾミの体からは更に力が抜け、ツバサの方に向かって倒れる。
「疲れてしまったんだね。今はゆっくりと休むといい。それからこの世界の理不尽を呪いに行こう」
ツバサがそう囁くと同時に、ノゾミの腹部から黒い蔦のような模様が広がり、人形の膚を覆った。ツバサは綺麗、と呟いて、その部分に口づけをするのだった。
***
数週間後、ノゾミは廃墟の広間からミズナラの森を眺めていた。ノゾミの中にいたはずの『Real Doll』の声はもう聞こえない。ノゾミの心は穏やかで、しかし靄が掛かったようにぼんやりしていた。
ツバサは『Real Doll』を必要としなくなった。世界中に動画という形でばらまかれた呪いがどうなっているのかはわからない。ノゾミはただ何も考えずに待っているだけだった。
ミズホたちはツバサによって惨たらしく殺された。五感を奪われた状態で一ヶ月以上も死ぬことを許されず、最後に人形化した体を粉々にされた。それを見たときノゾミの心は確かに満たされたが、今では再び空虚になっている。
生まれてすぐに捨てられ、虐待を受け続けた末に殺されたツバサはこの世界そのものを呪っている。それに引きずられ、ノゾミの心も世界の終わりの心から願うようになっていた。
「ノゾミ」
不意に、ツバサが背後からノゾミに声を掛けた。ノゾミはゆっくりと振り返り、漆黒の服に包まれたツバサを見る。ツバサはゆっくりとノゾミに向かって歩いてきて、ノゾミの体を抱きしめた。
「何を見てたんだい?」
「特に何も」
今のノゾミにとってはツバサだけが見るべきものだった。他には興味がない。そういえば一週間以上何も口にしていない、とノゾミは思い出した。体が変異したせいか空腹も感じないようになっていた。
ノゾミはそれを、幸福だと思った。
〈それは違うわ、希海――〉
廃墟に微かに響くヒカリの声も、ノゾミには届かなくなっていた。




