Ⅳ‐1 呼ぶ声、あるいは光(main route)
不意に、ヒカリの声が聞こえた。ノゾミのものよりも少し高い、驚くほど澄んだ声。
「起きて、ノゾミ」
ノゾミは体を丸めてそれに答える。
「あと五分……」
ヒカリの手がノゾミの肩を掴んで揺らし始める。学校に通っていたときは、いつもこうやってヒカリに起こされていた。ノゾミは夜更かしをしがちだったので、寝起きが非常に悪かったのだ。
「目を覚まして、ノゾミ」
「えー、もうちょっと」
ヒカリはクスリと笑ってから、真剣な声でノゾミに呼びかける。
「私はどんなときでも自分を見失わないノゾミが好きだった。だから起きて――あいつに塗りつぶされてノゾミがなくなってしまう前に逃げて!」
はっとしてノゾミは目を開いた。
歪な笑みを浮かべたツバサが、ノゾミの腹を愛おしそうに撫でていた。既に先程よりもその部分が心なしか大きくなっている。ノゾミはゆっくりと右手の指を動かした。滑らかに動く。足も少しだけ動かして確認する。動きは封じられていないようだった。眠ったと思って油断しているのだろうか。
ノゾミは即座に行動を開始した。急に起き上がり、ツバサが驚いている間に部屋を出る。頭の中では、「逃げて」というヒカリの声だけが響いていた。辿ってきた道を闇雲に走る。建物の外に出るまで気が付かなかったが、既に西日で周囲が染め上げられていた。
朝に降りたバス停が見える。もう少しでそこに辿り着くと思った瞬間、ノゾミはその場に膝から崩れ落ちた。腹部に今まで感じたこともないような痛みが走る。ノゾミの額や首筋は脂汗で濡れ、黒髪がじっとりと張り付いていた。
「は、くぅ……!」
逃げても無駄だったのだろうか。ノゾミは呻き声を上げながら思う。為す術もなく、自分は憎しみに体を与えてしまうのだろうか。ツバサが追ってくる気配はなかったが、それは意味の無いことだと知っているからではないか。疑念が渦巻く度に、ノゾミの意識は侵蝕されていく。
〈自分を見失わないで!〉
「ヒカリ……」
どこからか聞こえてくる、ノゾミの大好きな声。聞いているだけで、不思議と心の霧が晴れていくようだった。
〈私はあなたみたいになりたくて、でもなれなかった。人に流されるばっかりだった。でもノゾミは違う〉
「そんなこと……っ」
〈あなたは私の希望なの。――だから生きて、希海!〉
いつもよりも強い声音で名前を呼ばれた。それがノゾミの魂に一つの芯を作る。手放したくないと、誰にも侵されたくないと願っていたものの輪郭を、ノゾミは唐突に思い出した。
ノゾミは肩で息をしながら、今度こそ意識を手放さないようにシャツの胸元を掴む。呼吸をする度に、体の違和感が消えていくのがわかった。
「ありがとう、光莉……」
違和感が完全に消え、ノゾミは安堵の溜息と共にヒカリへの言葉を吐き出した。ヒカリの声が聞こえなかった、胎内に植え付けられた憎悪に呑まれていただろう。ノゾミはゆっくりと立ち上がり、廃墟のあった方角に目をやる。
ツバサを責めることは出来なかった。ノゾミとツバサは同じような境遇だったのだ。傷つけられることに疲れ、思考を放棄してしまった彼を思うとノゾミの目からはとめどなく涙が零れるのだった。
〈君のような人が、もっと早く僕たちの前に現れてくれれば良かったのにね〉
「え……?」
寂しげな声がノゾミの頭の中に響く。少年はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
〈僕は動画を通して人の中に侵入する。だからこの世界にはたくさんの僕がいる。ツバサが死んだばかりの頃は、あの廃墟から動けないツバサのかわりにたくさんの僕を使って「浅間翼は人間だ」っていう答えを与えてもらおうとした。けれどそれは上手くいかなくて――ツバサは変わってしまった〉
「あなたは変わってしまったツバサにも協力してたの?」
〈ツバサには逆らえないんだよ。所詮僕は作られたものなんだから。それでね――〉
ノゾミの目の前に、ツバサと寸分違わぬ姿をした人形の影が現れた。『Real Doll』の姿を見るのは初めてだった。緑の目は虚ろだけれど、何故かとても優しいとノゾミは感じる。
〈もう一度だけ、君に選ぶ権利をあげる。僕が君の中にいる限り、君の体に起こった変異が元に戻ることはないし、確実に君は再びあの廃墟に呼び寄せられる。僕の呪いがなくても、君はいつか君ではないものに意識を塗りつぶされる。それを踏まえた上で、僕に消えろというならそう言うといい。僕は甘んじてそれを受け入れるよ〉
ノゾミに迷いはなかった。
悲しげに目を伏せた少年の右手を、ノゾミはそっと両手で包み込む。自分を侵蝕されるのは嫌いだ。誰かの意志によって自分のそれがねじ曲げられるのは我慢ならない。ノゾミは昔からそうだった。それはこの瞬間も、全く変わっていない。
「あなたに消えてほしくない。それが今の私の気持ちだよ。このまま何もなかったことにして目を塞いで生きるのは嫌なの」
ノゾミの漆黒の瞳が、少年の目を射抜いた。風がミズナラの梢を揺らし、寄せては返す波のような音を立てた。そのざわめきに混じって、確かにヒカリの声がノゾミの鼓膜を揺らす。
――とてもノゾミらしい答えね。
ノゾミは目を細める。夕焼けの朱色は、徐々に藍色に溶けていこうとしていた。
***
ノゾミが廃墟に向かった日から、一ヶ月が過ぎた。
あの日、ふらふらになりながらバスを待っていたノゾミは、近くを通りかかった警察官に保護された。どうやら捜索届も出ていたようだった。ノゾミの首を絞めながらも、いなくなったら探そうとしてくれた母親。その複雑な心境を、ノゾミは僅かながら察することが出来た。
『Real Doll』を宿している限り、ノゾミの体の変異は元に戻らない。硬化してしまった膚や、右目はそのままの状態で残された。医者は首を傾げていたが、ノゾミは真実を他人に明かすつもりはなかった。話してもきっと信じてはもらえないだろうと考えたからだ。
この一ヶ月の間で、大きな変化が一つだけあった。
ノゾミは外に出て、高校に通うことに決めた。実家を離れて、全寮制の虹原学園高等部に行くことにしたのだ。かつて学校に通えなくなった人も多く通っている、というところがノゾミを惹きつけた。何よりも地元を、実家を離れたかった。
ノゾミは小さな旅行鞄に荷物を詰める。とはいえ、持っていく物は少ない。大きな荷物は既に寮に送ってしまっていた。服や小物などのすぐに使うものを整頓しながら入れていく。最後に買ったばかりの写真立てを、壊れないように緩衝剤でくるんで入れた。中には昔ヒカリと一緒に撮った写真が入っている。
「ヒカリ……」
あの廃墟でヒカリの声が聞こえなかったら、今頃どうなっていただろうか。「私が死んでも、私はずっとノゾミを見守っているから」という言葉通り、ヒカリはずっと傍にいてくれたのだ。それを考えると、ノゾミは胸が暖かくなると同時に無性に泣きたくなる。
「私、頑張るからね――」
そう呟いて、ノゾミは旅行鞄の口を閉めた。これから自分を守る殻であった部屋を出て、新天地に向かう。不安がないとは言わない。けれどノゾミは一人ではないのだ。ヒカリもいるし、自分の中に潜む少年――『Real Doll』もいる。
〈僕を味方にカウントしていいのかい?〉
「だってあなたと私は似ているような気がするもの」
『Real Doll』がくすくすと笑う。彼はまだ自分を「呪い」だと言い張るが、ノゾミはそう思ってはいなかった。一つの独立した人格として、あるいは一人の人間として認識していた。
「そういえば最近、思ったんだけど」
〈何だい?〉
「あなたの名前を決めようと思うの。ツバサと区別を付けたいけれど、『Real Doll』じゃ何だか呼びにくいから」
必要ないよ、と少年は自嘲気味に言った。しかしノゾミは譲らない。
「人間にはひとりひとり名前があって然るべきだと思うけれど。だから私が勝手に付けるから」
〈……お好きにどうぞ。君に何を言っても意味がないのは知ってるよ〉
少年もノゾミの強情さに呆れ始めているようだった。ノゾミにとっては好都合である。ノゾミは忘れ物がないか点検をしながら、頭を捻り始めた。
名前など付けたことがないから、なかなか良いものは思いつかなかった。どこから名前を付けて良いのかわからないのだ。唸りながら部屋を歩き回るノゾミは、梢の揺れる音を聞いて窓の外に目をやった。外に植えてある木の枝が風に揺れている。葉の緑色がノゾミの目に焼き付いた。
ツバサよりも透明な、まるで宝石のような少年の瞳。それは一度しか見ていないはずなのに、ノゾミの頭にしっかりと残っていた。夏の生い茂る緑よりも優しい色。まるで五月の若葉の色のような――。
「皐、とかどうかな?」
〈お好きにどうぞ、って言ったじゃないか〉
やはり少年はどうでも良さそうだった。ノゾミは自分の考えた名前に満足して、顔を綻ばせる。
「じゃあ皐で決まりね」
〈ノゾミしか呼ばないけどね……。ところで、そろそろ行かなくて大丈夫かい?〉
皐に言われて時計を見ると、既に出発しなければならない時間になっていた。ノゾミは慌てて部屋を出る。両親は仕事で、ノゾミを見送る人はいない。それでもノゾミの心は晴れやかだった。
これから先に何が待ち受けているかをノゾミは知らない。けれどノゾミは、自分を奮い立たせながら新しい一歩を踏み出すのだった。
このメインルートで「Real Doll、あるいは人間であることの証明」は完結となりますが、この後に作者の趣味で書いたアナザールートがあります。Ⅲの終りから続くので、そちらもお楽しみ下さい。




