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Real Doll、あるいは人間であることの証明  作者: 深山瀬怜
第一部 Real Doll、あるいは始まり
4/6

Ⅲ 廃墟、あるいは憎悪の緑

 気付くと、ノゾミは見知らぬ廃墟の中にいた。

 かつて何に使われていたかも良くわからない。家にしては広すぎるし、変わった構造をしている。何かの施設だったのだろうか。周囲を見ながらノゾミは歩き回る。レンガ風の意匠がいたるところに施されていた。壁が緩やかな曲線を描いている。円形の建物なのだろうか。窓ガラスのほとんどが割られていて、廃墟らしさを醸し出していた。人の気配はないように思えた。しかし上の方からは絶えず何かの物音が聞こえる。

 広間だったのだろう広い部屋の中央に、上に続く螺旋階段があった。踏み板は多少錆びていたが、踏んで壊れるほどではなさそうだった。一瞬の逡巡を経て、ノゾミは階段を登り始める。

 さっきまでいた広間とほとんど同じ部屋だ。窓ガラスが割れている箇所が違うくらいだった。本当に何のための建物なのか予想がつかない。音はこの階の別の部屋から聞こえてくるようだった。人の声もする。近付いてわかったが、それは罵声のようだった。

 ノゾミは音を立てないように、声のする方に歩いていく。六畳ほどの個室がいくつもある。円形の建物の中に個室が沢山あるというのは、昔聞いた外国の監獄を思い出させた。しかし建物の中心に監視塔がないから、そういった目的に使われていたわけではないだろう。

 個室のドアはほとんど開け放たれていたが、一つだけ閉まっているものがあった。声はこの部屋から聞こえてくる。複数の男の罵声と泣き叫ぶ子供の声。ただならぬ事態に、ノゾミは唾を飲み込んだ。何かを叩いているような音も聞こえる。それだけで状況を察することが出来た。叩かれている子供を助けなければ、とノゾミは思う。けれど自分よりも年上だろう男たちに対抗する術はない。どうすればいいだろうか、とノゾミは聞き耳を立てながら頭を捻る。

 そのとき、ごめんなさいと何度も繰り返す声が聞こえた。ノゾミは目を見開く。その声には聞き覚えがあった。ノゾミは無意識に硬化した下腹部に触れる。

 その声は、自分の中に巣食った呪い――あの少年のものだった。

 ノゾミはドアを蹴破るようにして開ける。その部屋の隅には洒落た細工の施されたベッドがあり、その周りに下卑た声をあげる人たちが群がっていた。鞭を振るう若い男、大声をあげる壮年の男が三人。そしてベッドの上には背中の無数の傷跡から血を滲ませた少年がいた。鴉の濡羽色と表現するのがしっくりくるような艶やかな黒髪、影を作るほど長い睫毛、薄く色づいた唇、それらが完璧に配置された顔立ち。少年は息を呑むほどに綺麗だった。しかしその瞳は涙に濡れながらも、恐ろしく暗い色をしていた。まるで世界全てに呪詛をまき散らそうとしているように。その目がノゾミのいる方を見た瞬間、ノゾミの体は動かなくなる。


 不意に、見慣れた自室の景色が戻ってきた。ノゾミは詰めていた息を吐き出し、頭の中の少年に呼びかける。

「あれは何? もしかしてあなたの記憶なの?」

 少年は応えない。そのかわり、ノゾミの右太腿から氷が融けるときのような、ぱきぱきという音が聞こえた。見なくてもわかる。呪いが急激に進行しているのだ。それでもノゾミは問いかけることをやめなかった。

〈――君に一瞬でも共感したのが間違いだった。見られてしまうとは思わなかったよ〉

 観念したように少年が呟く。その言葉と同時に太腿からの音は消えた。

〈厳密に言えば僕の記憶ではないよ。呪いとしての僕を――『Real Doll』を生み出した人間の記憶だ〉

 ノゾミはふと思い出す。ノゾミが引きこもりに至った理由を話す前に、少年が言っていた言葉。

「『人間みたいな人形に作り出された』って言っていたわね」

〈記憶力がいいね、君は〉

「私には……紛れもない人間に見えたけれど」

 人形は声を上げない。人形に感情はない。人形はあんなに暗い、悲しい目はしない。程度の差はあるが、虐げられた人間に対する共感がノゾミの胸に芽生えていた。それは少年も同じなのだろう。

〈人形で駄目なら、玩具と言い換えればいいかな。人間の形をした玩具。僕を作った人間はそういう扱いを受けていた。実際に人間じゃないと言われたこともあった。そんな生活を送るうちに彼は一つの病を患った〉

「病……?」

〈人間を見ても、人形にしか見えなくなったんだ。自分を虐げる人たちも、もちろん自分自身もね。そして、そのあと徐々に五感を失っていった〉

 それは『Real Doll』という呪いとほとんど同じ症状だ。呪いを生み出した少年は、自分の病気を参考にしたのだろう。いや、同じ目に遭わせようとしたのだろうか。ノゾミは硬化した下腹部を撫でる。感覚はないが、そこは人形の(はだ)に変わっているはずだ。

〈僕も人間が人形にしか見えない。とはいっても呪った人間が死んだときしかその姿を見ることは出来ないんだけれど〉

「――ひとつ、聞いてもいい?」

 少年は先を促す。ノゾミの喉を汗が一筋伝って落ちた。

「あなたを作った人は、今はどうしているの……?」

〈死んだよ。痛みを失くした時点で、それはいずれ訪れる未来だった〉

 事も無げに少年は言った。痛みを感じなければ、抵抗も鈍くなる。ノゾミは自分の左手の甲を見つめた。数日前に傷つけられた手。しかしノゾミは抵抗することは出来なかった。痛覚を失うことは危険に鈍感になるということだ。

〈今どうなっているかはしらないけれど、死んだ場所、つまりあの廃墟に放置されてるんじゃないかな。……って、何で君が泣いているんだい?〉

 少年に指摘されて初めて、ノゾミは自分が涙を流していることを知った。

「あなたが泣かないからよ」

 ノゾミは居ても立ってもいられず、ベッドから抜け出た。そして寝間着のボタンを気ぜわしく外していく。

〈どうしたんだい、急に?〉

「あなたを作った人の、いいえあなたの死体を探しに行くのよ」

 脱いだ服はベッドに投げ捨て、クローゼットから適当な服を探す。動きやすそうなシャツと生地が少々薄くなったジーンズを手に取ったところで、少年が慌て始めた。

〈待って、何のためにそんなこと〉

「真実を知ったのに、放置するのは目覚めが悪いのよ」

 供養されることもなく、そのままにされている死体を想像すると、ノゾミは何とかしなければならないと思ってしまうのだった。手早く着替えを終えると、使っていなかった黒い袈裟掛けのバッグを引きずり出して中身を点検し始める。

〈同情でそんなことをしてもらう必要はないよ〉

「同情じゃない。あなたがヒカリを殺したことは忘れてないから。でもヒカリは前に――私なら『Real Doll』を救い出せるって言ったのよ」

 バッグの中には財布が入っていた。中身は一年以上使っていない。千円札が三、四枚入っていた。これでは心許ないだろうと、ノゾミはクローゼットの奥から預金通帳を引っ張り出す。お年玉や小遣いの余りを貯めていたが、ノゾミは散財をしない方だったので中には三万円ほどの預金があった。それをバッグの奥に仕舞い込む。

「正直、ヒカリが期待していたほどのことは出来ないと思う。けれど出来る限りのことはするわ。呪いを打ち破って、あなたを救ってみせる」

〈僕は救いなんて求めてないよ〉

 少年は僅かに苛立っているようだった。ノゾミはそれには気付かない振りをして、手際よく家を出る準備を進める。

「それならあなたは何故、『人間の定義』を問うの? 自分が人形にしか見えなくなって、それでも自分は人間だと信じたかったからじゃないの?」

 少年は答えない。ノゾミは嘆息し、バッグの口を閉めた。時計を確認すると、時刻はまだ午前四時だった。今なら家人に見つからずに家を出られるだろう。

〈……君、どうすればあの場所に行けるのかわかってるのかい?〉

「それはあなたに聞こうと思ってたんだけど」

〈僕はここがどこかもわかってない。近くの駅の名前なんかは覚えてるけどね。それに君は外に出ても大丈夫なのかい?〉

 外に出ても大丈夫なのか。その問いはノゾミを逡巡させた。一年外に出ていないのだ。嘘と本当が混じり合った外の世界――けれど今、ノゾミが胸に抱いているのは痛ましい事実だけだ。

「私は今から本当のことだけを見に行く。虚実を確かめる必要はないから」

〈また僕の力で幻覚を見せるかもしれないよ? それに今君が知っていることは僕の嘘かもしれない。それでも行くのかい?〉

「説得しようとしても無駄だからね。反対すればするほど私は意固地になる。……それにきっとあなたは嘘を言わないわ」

〈そう意地を張られてしまっては僕にはどうにも出来ないね。僕を作った人間の場所まで、君を案内しよう〉

 少年は諦めたように言い、ノゾミは同時にドアノブに手を掛けた。


***


 電車で二時間、それからバスで一時間ほど行ったところに、(くだん)の廃墟があるらしい。しかしノゾミたちが駅に着いた頃には、始発の電車すら動いていなかった。ノゾミはそのことをすっかり失念していた。待合室すら開いていない駅の前で、ノゾミは白い柱に寄りかかる。

「今日は全然『人間の定義』について聞かないけど――聞いてもいいのよ」

 始発電車が出るのは五時四十五分。待合室が開くのはその十五分前だ。一時間以上ここで時間を潰さなければならない。ノゾミは時折目の前を通り過ぎる車や散歩中の老人から目を逸らしながら、少年に言った。

「人間の定義、考えてみようと思うの」

〈今まで僕を満足させる答えを出せた人は一人もいなかったんだけど、それでもいいの?〉

 ノゾミは静かに頷いた。ずっと切っていない髪が、その動きに合わせて重たく動く。

「私一人で考えるわけじゃない。あなたが質問してくれるとやりやすいんだけど」

 少年がくすりと笑う気配がして、ノゾミの背後から二本の腕が伸びた。煙のように不確かだけれど、確かに艶やかな膚と球体関節が見える。

〈僕が話しかけると呪いの進行は凄く早まるけれど、それでもいいのなら〉

「構わないわ」

〈君は何を失ったら、人間は人間でなくなると思う?〉

 少年の指がノゾミの右眼に迫る。白く細い人形の人差し指がぼやけるほどに近付き、瞼と眼球の間に潜り込む。何かをぶちぶちと引きちぎっていくような音がノゾミの頭に響いた。

「自分……自分が自分であるという自覚、とか」

〈それならその自覚を持たない赤児は人間でないということになるんじゃない?〉

 ノゾミの左眼は少年の手の動きを見ている。何かを掻き出すような動き。右眼はもう少年の手を映すことはなかった。

「赤ちゃんでも、形になっていないだけでそれらしいものは持ってるんじゃなかった?」

〈さあ、どうだったかな? じゃあ自分が自分であるという自覚を失っただけの存在は何になるの? 例えば、そういう病の人がいるかもしれない〉

「それは……」

 少年は人差し指に中指を添えて、再びそれをノゾミの右眼に突き刺した。

〈逆に、自分が自分であるという自覚を持っただけの存在があったとしたら、君はそれを人間だと言うの? 自分を自覚した巨大な蚯蚓みたいなものと出会ったとして、君はそれを人間だと認識できる?〉

「できる、とは言えないわね」

〈ならばその答えは間違ってる〉

 ノゾミの右眼の奥で、粘性のあるものをかき回しているような音が聞こえる。体の奥から脳髄に響くぐちゃぐちゃという音に、ノゾミは震え上がる。ノゾミは寄りかかっていた白い柱に爪を立てた。

「それを失ったら人間ではなくなってしまうものだけを持っていたって、それは人間じゃない。人間はそんな単純じゃない」

 少年は右眼の中から指を抜いた。彼の手の中には濡れたノゾミの眼球がある。柔らかく弾力のありそうな球体。それはまるで蛇の卵のようにも見えた。赤と黒の糸を()り合わせたような視神経が少年の手の平にだらしなく垂れていて、ノゾミは吐き気を催す。意志を失くした瞳が、ノゾミの左眼を捉えた。抜き出された眼球の焦茶色の虹彩にはノゾミの姿が逆さまに映っている。無表情で生気のない顔、白い肌と関節部分の無数の球体。ノゾミは目が逸らせなくなった。

〈この姿になっても、君は自分が人間だと言える?〉

「言えるわ」

〈それはどうして?〉

 少年の掌の上の瞳が、人形になったノゾミを映す。ノゾミの後ろには、同じように硬い体と球体の関節を持った少年の姿が映っていた。少年の透明な緑色の虹彩まではっきりと見える。それはまるで宝石のようで、ノゾミはこの状況にもかかわらず、それを綺麗だと思った。

 ノゾミは、熱に浮かされたように口を開く。

 例え少年と同じような人形の姿に変えられても、ノゾミは自分を人間だと言うことが出来ると思った。

「私は――」

 けれど、ノゾミにはわからなかった。

 どうして自分は自分を人間だと主張するのだろう。それは生まれたときから人間だと魂に刻まれているからなのか、生きていく中で自分は人間だと刷り込まれ続けたからなのか。男らしさと女らしさは刷り込みで作られる部分も多いと聞いたことがある。もし、自分が人間だという自信もその刷り込みによって作られたのだとしたら。

〈人間に育てられなかった子供は、生物学的にヒトと同じでも、自分を人間だとは認識していない。君の自信は偽物だよ〉

 揺らぐノゾミの思考は、少年の甘い声に囚われそうになる。

 しかし懸命に気を張って、少年に負けないように堪える。柱に立てていた爪は割れ、血が滲み始めていた。ここで折れるわけにはいかない。それはノゾミの人間としての意地だった。

「私は、傷つきたくないと願って部屋にこもった。そしてあなたの人形にされた。そのときに私は……人間を辞めたくない、と初めて思った。同時に人間とは何かって初めて真剣に考え始めたの」

〈それで?〉

「私は、私たちは……自分が人間だということを疑うことが出来る。考えることが出来る。それはきっと人間にしか出来ないことだと思う」

 右眼に映るノゾミの影が揺らめき、人形から人間の姿に戻る。ノゾミがほっとしたのも束の間、目を乗せている少年の手が透明さを増した。

〈僕が僕を作り出した人が死んでから、ずっと考えて出した結論と――君の答えは、同じだ〉

 どことなく寂しそうな声で、少年は言う。ノゾミは思わず半透明の細腕を掴んだ。そうしなければ消えてしまいそうな気がしたのだ。

 しかしその行動が、決定的に間違っていることをノゾミは知っている。

 自分の体を蝕む呪いが消えたら喜ぶべきなのだ。ヒカリの仇を討てたと言うべきなのだ。しかしノゾミにはそれが出来なかった。

「消えていいの? あなたは本当に満足したの?」

〈僕の消滅は喜ばしいことのはずだよ? 君はそれ以上侵蝕されることはない。それに僕も――僕をわかってくれる人に出会えたから、満足だ〉

 ノゾミはいやいやをするように首を振った。何故か心がざわつく。自分の半身を持っていかれるような寂寥感がノゾミを襲うのだ。

「あなたも私を理解してくれた! そんなあなたを失いたくないの」

 ミズホのことを、引きこもった本当の理由を打ち明けられたのは少年だけだった。ノゾミの中に巣食った呪いは、今や最大の理解者なのだ。

〈やれやれ。これじゃあヒカリも浮かばれないね〉

 少年の消えかかった指がノゾミの右眼を弄ぶ。しばらくすると、その艶やかな球体は幻のように消えてしまった。対して少年の腕は再び明確な形を取り戻す。

 微風がノゾミの頬を撫でていく。その温度を感じ、ノゾミは僅かに目を細めた。


 バスを降りるまで、ノゾミと少年は一切会話をしなかった。

 錆びて傾きかけたバス停の横で、ノゾミは先程まで乗っていた小さなバスを見送る。ノゾミが降りた二つ前の停留場は別荘が密集している地区らしく待合所もあったのだが、少し離れただけでこの差である。別荘地が近いとはいえ今はその時期から外れているために人の気配は全くなかった。天を貫くようなミズナラが群生している森だけが、ノゾミの眼前に広がっている。

 ノゾミは右眼を押さえた。そこには人形の目のような作り物のガラスの球体がはまっている。片目になったことで遠近感が少し掴みづらいものの、普通に歩く分には問題がないようだった。

「それで、ここからはどうすればいいの?」

 ノゾミは数時間振りに少年に話しかける。少年は無言だった。しかしノゾミの頭にはあの廃墟へ至る道がぼんやりと思い浮かぶ。ノゾミは溜息を吐いて、示された道順に従って足を進めた。

〈本当に行くつもりかい?〉

 少年のその声からは、ノゾミを廃墟に行かせたくないと思っているのがありありと伝わってきた。しかしノゾミは、嫌な記憶の眠る場所に行きたくないだけだろうと結論付ける。そこに行こうとしているのはあくまでノゾミの意思なのだ。

 舗装はされていないものの、歩きやすいように整備された道を進んでいく。鬱蒼と茂る木の枝のせいで、空がほとんど緑色に見えた。喪われた右目に映った少年の目の色にも似ている。土を踏みしめながら、ノゾミは小さな声で少年に言った。

「あなたのこと……あなたを作り出した人について教えてくれない?」

〈僕に答えられる範囲ならね〉

 いつもよりも沈んだ声で少年は答えた。言いたくないこともおそらく沢山あるのだろう。答えたくないことは答えなくてもいい、と前置きしてからノゾミは少年に尋ねる。

「じゃあ……あなたの名前は?」

浅間(あさま)(つばさ)だよ。もっとも呼ばれたことはほとんどないけれど〉

「呼ばれたことがないって? あだ名で呼ばれてたの?」

 少年はさもおかしいという風に笑い声を上げる。それはどこか悲しげな響きを纏っていて、ノゾミはそれだけで真実の痛々しさに気付いてしまった。

〈施設では、「おい」とか「お前」って呼ばれてたね〉

「施設……?」

〈僕は捨て子なんだよ。とある宗教団体が設立した保護施設にいた。その施設はもう少し山を登ったところにあったんだけど〉

 ノゾミは今朝方見た少年の過去を思い出す。彼はそこで虐待を受けていたのだろう。目の前の景色が歪み、ノゾミは慌てて左眼をこすった。

〈君が泣く必要はないよ。もう全て過去のことなんだ〉

「過去のことで泣いてはいけないとは思わないけど。じゃああなたはどうやって作られたの?」

 目的地である廃墟まではあと少しらしい。ノゾミは足を休めずにツバサの言葉を待った。

〈虐待されてるときに、ツバサは「殴られているのは自分ではない」と考えるようにした。痛みを少しでも和らげるためにね。叩かれているのはツバサではなく僕だった。二重人格というほどきっちりとは分かれていなかったけどね。そのうち僕たちは人間が人形に見える病を患った。自分自身も人形に見えることに耐えられなかったツバサは、僕が人形の姿をしているのだと思い込もうとした。だから僕は『Real Doll』なんだよ〉

 少年はあくまで淡々と話を続ける。けれどその妙に突き放した言い方が、ノゾミの心を更に痛ませた。

〈ツバサは僕を憎んだ。その憎悪が膨らむほどに僕らは別の存在になっていって、ツバサの死を契機に僕は呪いとして独立した存在になった。それからは――沢山人を殺したよ〉

 少年の話が終わるのと時を同じくして、ノゾミは目的の場所を見つけた。レンガの風の意匠が施された建物。円形の、少し変わった構造をしている。ノゾミはしばらく外周を眺めていたが、やがて意を決してドアのなくなった入り口から中に入った。

 小さな部屋がいくつもある場所を素通りし、ノゾミは足早に階段のある広間に向かう。廃墟のわりには不自由なく歩けるほどには綺麗だった。

「最後にもう一つ聞いてもいい?」

 開け放たれたままのドアをくぐると、見覚えのある広間に出た。中央部には錆びた螺旋階段もある。ツバサの遺体は二階にあるはずだ。ノゾミたちはもうすぐそこに辿り着く。その前にどうしても少年に聞きたいことがあったのだ。

「あなたはツバサを憎んでいるの?」

 ツバサはもう一人の自分を憎んだ。けれど少年はツバサをどう思っていたのだろうか。少年の乾いた語り口からは判断することが出来なかった。少年は少し考えているようだった。ノゾミは少年を待つつもりで、ゆっくりと螺旋階段の踏み板に足を乗せる。少年がノゾミの質問に答えたのは、ノゾミの足が二階の床を踏む直前だった。

〈――憎む以外に、僕に出来ることはないんだよ〉

 ノゾミは二階の広間を出て、一つだけ閉まっているドアを目指す。少年の声はその扉が近付くにつれて徐々に掠れ、悲痛さを増していくようだった。

 とうとうノゾミは、その黒とも緑ともつかない朽ちかけのドアの前に立った。ドアノブも蝶番も酸化が進んでいる。歪に広がる錆色の模様はまるでひび割れのようにも見えた。

〈僕は彼に勝つことが出来ない〉

 ノブに手を掛けたノゾミに向かって、少年は唐突に話し始めた。ノゾミの右手が冷たいドアノブから離れていく。少年がノゾミの体を操っているのだ。

〈僕に出来るのはこれが限界だ。だから逃げてくれ、ノゾミ〉

 少年は搾り出すように言った。自分の過去を語っているときよりも悲しげで、どこか必死な声だ。

「それ、どういう――」

 ノゾミが声を上げた瞬間、ドアが内側から開く。目を(みは)るノゾミの手を何かが掴み、埃っぽい部屋の中に引きずり込んだ。

「逃げようとしても無駄だよ。ただの操り人形が僕に抗えるとでも?」

 部屋の中心には美しい少年が佇んでいた。

 首元が伸びてしまった粗末なTシャツと、膝の部分が擦り切れたジーンズ。そんな格好にも関わらず、どこか蠱惑的な雰囲気を纏っている。ノゾミを見つめる双眸は深い緑色で、まるで緑柱石のように澄んだ輝きを持っていた。

 その目の色と顔立ちには覚えがある。ノゾミは譫言(うわごと)のようにその名を口にした。

「ツバサ……?」

 『Real Doll』という呪いを作り上げた張本人。ツバサは色の薄い唇を笑みの形に歪めた。どういうことだろうか。『Real Doll』の言うことを信じるなら、ツバサは既に死んでいるはずだ。ノゾミは呆然と目の前の少年の姿を見つめる。

「何が何だかわからないという顔をしてるね。大丈夫、僕はちゃんと死んでるよ。君に僕の姿が見えるのは、君の中に『Real Doll』がいるからだ」

 つまり幽霊だということだろうか。ノゾミはツバサに向かって口を開こうとするが、それはノゾミの中にいる『Real Doll』によって封じられた。

〈無駄だよ。ツバサには君の姿は見えても、君の言葉は聞こえない。見えているのも右眼だけだ〉

「もっとも、『Real Doll』の考えていることはわかるようになっているけどね」

 『Real Doll』の言葉を受けて、ツバサが言った。考えていることがわかるのは本当らしい。しかし、ノゾミは首を傾げた。ツバサが『Real Doll』の思考を読むことが出来るのは、もともと同一の存在なのだからだと考えれば納得できる。ノゾミの言葉が聞こえないのは、生前に患っていた五感を失う病のせいだろう。けれど何故、右眼だけ見えるのだろうか。

「何はともあれ歓迎するよ、希海」

 ツバサの声が地を這うように低くなる。そしてノゾミの目の前からツバサの姿が消えた。ノゾミは周囲を見回そうとするが、その動きはまた少年によって封じられる。かわりに足がノゾミの意に反して動き出し、部屋の隅にあるベッドに向かった。少年の記憶の中でも見た、洒落た細工の施された洋風のベッド。指一本も自由にならないまま、ノゾミは薄汚れたシーツの上に横たわった。

「何を……?」

「何をされるのか不安だって顔をしているね。大丈夫。成功したら無事に帰してあげる」

 ノゾミに馬乗りになるような体勢で、ツバサが再び姿を現した。緑の瞳には嗜虐的な光が宿っている。ノゾミの意識が黒く塗りつぶされそうになった。今まで感じたことのない憎悪の感情がツバサの双眸(そうぼう)から伝わってくるのだ。それは呪いであるはずの『Real Doll』よりも強く、ノゾミは無意識にツバサから目を逸らした。

 ツバサは小さく笑ってから、ノゾミの腹部に右手を乗せる。触覚は戻っていたものの、体が変質した部分は感覚がないままだ。何をしようとしているのか。問い質すことも出来ないし、体が自由にならないために抵抗することも出来ない。

 不意に、ツバサの手が深緑色の燐光に包まれた。

「っ……!」

 ノゾミの体の内側に鈍い痛みが走る。薄汚れたシーツを掴むと、その周囲に皺が寄った。ノゾミの体内に何か異物が根を張ろうとしているような感覚があった。既にノゾミの中には『Real Doll』が巣食っているのだが、それよりも異物は圧倒的な質量を持っている。嫌だ、とノゾミは震えながら首を振った。

「怖がらなくても大丈夫だよ。元は君の中にあったものだから」

 ノゾミの腹部が一際強い燐光を放つ。同時に走った痛みに、ノゾミは足をばたつかせた。ツバサが触れている部分が熱い。ノゾミが息を詰める声が室内に響いた。

「もう少しだから我慢して。――ッ!」

 突然、静電気が走ったときのような音がして、ツバサの手が離れた。

 ツバサは自分の右手とノゾミの体を交互に眺めてから、唇の端を歪める。そして怒気を孕んだ低い声で言った。

「どういうつもりだい、僕に逆らうなんて?」

〈ノゾミは僕の問いに答えた。だから死なせたくないんだ〉

 『Real Doll』は小さくとも芯がある声で答える。ノゾミには事態が呑み込めていなかった。ノゾミは未だに違和感の残る下腹部をそっと押さえながら、今何が起きているのかを把握しようとする。

「その女に情が芽生えたってこと? 君は僕の人形で、呪いでしかないくせに、勝手なことしないでよ」

 ノゾミには、ツバサの方が憎しみに塗れているように見えた。憎悪に操られているように感じられた。ノゾミは再び強い力でベッドに押さえつけられる。蝋のように白いツバサの手が、先程までと同じように腹部に触れようとしていた。

「君から奪ったものを、つまり君の子宮と卵巣を返してあげるだけだよ。拒絶する理由はないだろう?」

 そう言って、ツバサはノゾミに手を伸ばす。

 しかしノゾミはゆるゆると首を横に振った。ノゾミの本能が警鐘を鳴らしていた。確かに体内の空洞が埋められていると感じる。けれどそれが異質なものに変化してしまっているような気がしたのだ。何か、(おぞ)ましいものがその中に入っているような――。

〈それはツバサが作り出した胎児だ。ツバサはそれを君に産ませようとしている。けれどそれは憎悪の感情で練られた猛毒なんだ。それを体に宿した時点で大抵の人間は死んでしまう〉

 『Real Doll』が必死な声で言った。ツバサはそれを否定もせずに微笑している。おそらく嘘ではないのだろう、とノゾミは思った。

 不意にツバサの手に見覚えのある鞭が現れた。乗馬用の鞭のように長さはなく、一本の棒のようになっている。ツバサはかつて自分を苛んでいた鞭を、ノゾミの体に向かって無茶苦茶に振り下ろした。服の上からではもどかしかったのか、ツバサはノゾミのシャツをはだけさせ、再び鞭を振るう。

 ツバサの顔には笑みが浮かんでいた。心から楽しそうで、しかし陰では血を流しているような、どこか悲愴な表情だった。ノゾミの心臓が締め付けられるように痛む。

「ノゾミは酷いって思うかな? でも僕は十三歳で死んだんだ。僕を人形みたいに扱った人間がのうのうと生きてるのに。僕はもう一度体を得て、今度はあいつらみたいに虐げる側に立つんだ」

 ノゾミは聞こえないとわかっていても、鞭を振るい続けるツバサに対して口を開かざるを得なかった。それならば、『Real Doll』の問いは何だったのだろうか。人間とは何かと聞く、あの必死な心は偽物だったのか。

「それが目的なら、どうして人間の定義を問うの?」

〈既にツバサの中に、その問いはない。それが僕を生み出した根源だったけれど、もう僕の中にしか残っていないんだ。今やツバサは現世に再び肉を得ることと、そのために呪いを利用することしか考えていない〉

 そんな、とノゾミは呆然と呟いた。『Real Doll』の言っていることがわかるツバサは、持っていた鞭を床に投げてノゾミの腹部に唇を寄せた。

「人間の定義なんて、自分が人間かどうかなんてどうだっていいじゃないか。僕は奪う側に回ると決めたんだ!」

「どうして……」

 ノゾミの視界が歪んでいく。

 けれど、ノゾミもかつて思わなかったわけではない。自分をいじめる人達も、自分を裏切ったミズホもみんな死んでしまえばいいと。自分を厄介者扱いする母親も、嘘ばかりで真実が見えない人達も、みんな殺してやりたいと。ツバサの言うように奪う側の人間になりたいと考えたこともあった。

 だからこそノゾミはツバサを完全に否定することは出来なかった。

 小さな光が体内に吸い込まれていく。氷が割れるような小さな音が響き、ノゾミは目を見開いた。

「これで準備は完了だよ。あとは君の中で僕が育つのを待つだけだ」

 『Real Doll』が悔しそうに歯噛みする声が聞こえる。しかしその声は霞がかかっているようにぼんやりとしていた。下腹部が重苦しい。それに引きずられ、ノゾミの意識は遠のいていく。

〈意識を手放しちゃダメだ。君が眠れば胎児に君の生命が吸われてしまうんだ〉

 必死に呼びかける声もノゾミには届かない。深い海に飲み込まれるように、ノゾミは微睡(まどろ)みに落ちていく。輪郭が曖昧になっていく視界の中で、ツバサの緑色の虹彩にノゾミの心は囚われた。


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