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Real Doll、あるいは人間であることの証明  作者: 深山瀬怜
第一部 Real Doll、あるいは始まり
2/6

Ⅰ 呪い、あるいは侵蝕

 数日前から、ヒカリの様子がおかしい。

 ノゾミは冷めてしまったシチューを口に運びながら、ファッション雑誌を読んでいるヒカリを見つめた。ヒカリはノゾミの双子の姉である。顔立ちは瓜二つだが、二人の性格はかなり異なっていた。

 ヒカリは明るく、ノゾミは暗い。単純に言ってしまうとこうなる。社交的で友人も多く活発なヒカリに対して、ノゾミは人見知りで大人しく親しい友人も多くない。しかし血を分けた家族でいつも一緒にいた二人は、とても気の合う姉妹だった。

 ノゾミはシチューを飲みながらも、ヒカリから目を離さない。三日ほど前からヒカリの動きに違和感を覚えているのだ。自由に動くはずの指が固まってしまったような、そんな仕草をすることがたまにある。その上熱いものを素手で触っていたり、指のささくれから血が出ていても気付いていなかったりするのだ。

 指先の感覚がないのか、と聞くことは出来なかった。それが本当だとしても、ノゾミには何もしてあげられないのだ。この部屋から出られないノゾミには。

 ノゾミはいわゆる引きこもりだった。一年前から通っていた中学に行かなくなり、そのまま高校にも進学しなかった。両親との接触もほとんど断ってしまい、繋がっているのは食事を持ってくる双子の姉だけだ。

 ページをめくるヒカリの右手が一瞬強張る。ヒカリはその右手をちらりと見て、(わず)かに口角を上げた。その表情の意味を知りたくて、ノゾミはヒカリを凝視する。

「どうしたの、ノゾミ?」

「何でもないよ、ヒカリ」

 ヒカリは首を傾げつつも、また雑誌に目を落とす。『今年の夏はこれでキマリ!』と橙色の文字で書かれたページには、黄色などの鮮やかな色の洋服が並んでいた。きっとヒカリには似合うだろう。けれどノゾミには必要ないものだ。

「そういえば、ノゾミ」

「何?」

「私、死ぬかもしれない」

 ヒカリがあまりにも事も無げに言うので、ノゾミはその言葉を理解するのに時間がかかった。壁に掛けた時計の音だけが部屋に響く。ノゾミがヒカリの言葉を飲み込むことが出来たのは、秒針が一回りしてからのことだった。

「死ぬって、何で……」

 ノゾミは自分が震えているのに気付いた。おまけに涙で視界が歪んでいく。ヒカリはそんなノゾミに天鵞絨(ビロード)のような優しく深い焦茶色の瞳を向け、おずおずと手を伸ばしてくる。ノゾミの頬に辿り着いたヒカリの手はいやに冷たく、そしてノゾミと同じように震えていた。

「これはきっと、私に下された罰。だから私は死ぬの」

「罰……?」

 ノゾミの目尻に溜まった涙は、表面張力を失って頬を流れ落ちた。それはヒカリの指先を濡らす。

「私、もう指先の感覚がないの。ううん、指だけじゃない。どこにも感覚がないんだ」

「え……?」

 指先の感覚がないのではないかと疑ってはいたが、ヒカリの状況はそれ以上に悪かったようだ。どうしてそんなことになってしまったのだろうか。そしてこれからどうなってしまうのか。今はヒカリの話を聞くしかないとノゾミは思った。

「まずは触覚がなくなって、次に嗅覚、味覚、聴覚……最後に視覚を奪われる。そしてそのあとはきっと心が壊れて、死んでしまう。これはそういう呪いなの。そして私はもう――今日のシチューの味もわからないわ」

「呪いって……どうしてそんな、全然わかんないよ、ヒカリ!」

「今はわからなくても、必ずわかるようになる。だから、忘れないで」

 ヒカリは静かにノゾミの隣に移動し、ノゾミの痩せた体をきつく抱きしめる。ノゾミに腕を回すヒカリの動きはぎこちなかった。ノゾミは強く下唇を噛む。

「ノゾミ、あなたならきっと解き明かせる。絶望を打ち破れる。あなたなら『Real Doll』を救い出せる。――私が死んでも、私はずっとノゾミを見守っているから」

「ヒカリ……でも、私は」

 ノゾミにわかることは少なかった。ただ何かを期待されていることだけは伝わってきた。けれど一年前から引きこもって、期待という言葉から最も遠いところに身を置くことになった自分に何が出来るのだろうか。自分より聡明で、自分よりも行動的で、自分よりも活発で、自分よりも強いヒカリにこそ希望を託すことが出来るのではないか。ノゾミはそう考えていた。

「大丈夫、ノゾミならきっと」

「大丈夫じゃない! 死んじゃやだよ、ヒカリ!」

 ヒカリの肩が大きく揺れる。泣いているのだと、顔を見なくともノゾミにはわかった。泣き方は昔と変わらない。声をほとんど出さず、涙も流さないのだ。何て綺麗な泣き方なのだろうと、ノゾミは幼い頃からずっと思っていた。

「これは変えられないの、ノゾミ。もうここまで侵食されてしまったし、私は罰としてこれを受け入れたから」

 そしてヒカリはノゾミから離れ、食べ終わったシチューの皿を手に立ち上がった。その顔には涙の痕も残っていなくて、ノゾミは胸が押しつぶされるような気がした。

「ねぇ、ノゾミ。――ノゾミは、私の憧れだったんだよ」

 憧れ? 自分よりも遥かに輝いているヒカリが?

 そんなわけはないと思ったが、反論する前にヒカリは部屋を出て行ってしまった。残ったのはノゾミだけの閉じられた世界。追いかけられればよかった。しかしノゾミにはそれが出来なかったのだ。


 そしてその一ヶ月後、ヒカリは自らの首を掻き切って死んだ。

 それは丁度、二人の十六歳の誕生日のことだった。


 最初にヒカリの死体を見つけたのはノゾミだった。

 ヒカリの体は赤に染まっていて、補色の緑色がちらつくほどだった。血を吸った長い髪の毛が固まり、ヒカリの体に張り付いていた。穏やかな顔は首を切るという凄絶な死に方を選んだようには思えなかった。それはきっと痛覚がないからこその表情で、それだけが唯一の救いのようにも見えた。

 しかしその他には絶望しかなかった。

 ヒカリの左手の指は粉々に砕けていた。そして、指のなくなった手には肉も骨も血もなく――まるで人形のそれのように、空洞になっていたのだ。


***


 何故、ヒカリは死んでしまったのか。

 その理由を教えられたのは、どうやらノゾミだけのようだった。ヒカリの友人たちも、両親も、誰も彼女が五感を失っていたことに気付いていなかったのだ。ヒカリは確かにそれを隠すのが上手かった。聴覚を失ったのは死の直前だったけれど、ヒカリは一ヶ月以上も触覚と嗅覚と味覚がない状態だった。首を掻き切るというやり方も、痛みを感じないからこそ実行することが出来たのだ。それでも自分で死ぬことが出来たということは、視覚を失う前にヒカリは自殺したのだろう。

 今のノゾミは、ヒカリの言っていたことが徐々に理解出来るようになっていた。ノゾミはベッドに横たわったまま、右手を握ったり開いたりを繰り返す。体が軋んでいる。指の関節をどう動かすかを意識しなければ、物を掴むことすら出来ない状態だった。

〈答えは出た?〉

 頭の中で、何重にもエコーがかかった少年の声が聞こえる。ノゾミは嘆息して、その声に応えた。

「まだ、わからない」

〈ヒカリは君に随分期待していたけど、大したことないんだね〉

「ヒカリを殺したくせに、気安く名前を呼ばないで」

〈ヒカリ以上に怖いね、君は〉

 少年がノゾミの脳内で笑う。何が怖いだ、とノゾミは心の中で吐き捨てた。これこそがヒカリを殺し、ノゾミの触覚を奪った呪い――『Real Doll』なのだ。

 『Real Doll』はインターネットで配信されている動画という形を通して人の中に侵入する呪い。ノゾミはヒカリのパソコンに残された痕跡を辿って、自らこの呪いに接触することに成功した。それは復讐のため。そしてヒカリの願いを叶えるための行動だった。

 しかし感覚を奪われて、平静でいるのは難しい。

 人との接触を絶って生きていても、人の体は常に何かを感じて生きている。忘れかけていたそれを呪いが思い出させるのだ。そしてそれに絶望するノゾミを嘲笑うように『Real Doll』は問いかける。


 ――人間の定義は何、と。


 ヒカリが解き明かして欲しかった問題はこれなのだろう。答えられれば呪いを打ち破れる。そこまではノゾミもわかっていた。けれど自分に答えを見つけ出せるとは思っていなかった。現にどれだけ頭をひねっても人間の定義など思いつかないのだ。何故ヒカリは、ノゾミになら出来ると考えたのだろうか。

〈君たち姉妹は不思議だね。他の人は触覚を奪われた段階で生きることを放棄するんだけど〉

「放棄なんかしない。私はまだ自分が人間だと言えるもの」

〈人間が何であるかもわからないのに、どうして自分が人間だと言えるの? もしかしたら今の君は人形かもしれないよ?〉

 不意に、体の末端から徐々に固まっていく感触があった。まるで着けたての義手や義足のように、自分の体が自分のものではなくなっていく。素焼きの陶器、球体になった関節――そんなものが脳裏を過ぎる。

「これはあなたが見せている幻覚よ。私の体に変化はない」

〈けれど君はそれをどうやって証明する? 僕に五感を掌握されている状態で、君は何を信用するの?〉

 もう、自分の肉体に触れて確かめることは出来ない。

 五感を奪う呪いにかかっている今は、自分の体の変化を自分で知ることは出来ない。幻覚だというのは、ノゾミの希望的観測でしかなかった。ノゾミは見ているのだ。まるで人形のように空洞になって、砕けた姉の手を。筋肉などが骨になる病気は存在するが、体内が(うろ)になるなど聞いたことがないとヒカリを解剖した医師が言っていたらしい。

 『Real Doll』は人体を人形に変える超常的な力を持っている。今は普通の、肉に包まれた体が見えているけれど、それがいつまで許されるかはわからない。呪いを受けた時点で、ノゾミの体は『Real Doll』に半ば支配されているのだ。

〈僕の呪いは君の五感を徐々に奪っていくと同時に、君の体を僕と同じ人形に作り変える。ヒカリの場合は左手だけで終わってしまったけれど、君はどこまで耐えられるだろうね?〉

「……ヒカリの名前を気安く呼ばないで、と言ったはずだけど」

 ノゾミは吐き捨て、ベッドから起き上がった。もう両親は仕事に出かけたはずだ。誰もいない時間を見計らってシャワーを浴びるのがノゾミの日課だった。部屋の隅に置いてあったシャンプーとリンスを手に取って部屋を出ると、会社に行ったと思っていた母親とかちあってしまった。今日は休みだったのか。ノゾミは目を逸らして部屋に戻ろうとする――しかし強く髪の毛を掴まれ床に投げ出された。

 きっと痛かったのだろう。身体が何も感じないせいか、ノゾミはやけに冷静でいることが出来た。

「どうして、あんたじゃなくてヒカリが……!」

 母親にそう思われていることは知っていた。しかしほとんど顔を合わせないため、それを直接ぶつけられることはなかったのだ。

 ノゾミが引きこもって以来、母親はヒカリに全てを懸けていたのだろう。もともとヒカリの方が要領が良く優秀だったし、ノゾミは顧みられていなかったのだ。それはまた、ヒカリによって守られていたということでもあった。ヒカリがいたからこそノゾミは部屋に閉じこもっていられたのだ。

 母親はノゾミの上に馬乗りになり、その細い首を絞めはじめた。息苦しい。顔の表面に血が集まっていく。触覚を失った現在、痛みはほぼ感じないのだが、まだ気道を圧迫されたら苦しいと感じるらしい。苦しいという感覚はどこにあるのか。どの段階で自分はこれを苦痛だと思わなくなるのか――そこまで思考を巡らせて、ノゾミはある事実に気付いた。

 まるで他人事のように考えているけれど、これは自分に降りかかっている痛みだ。

 自分の身に起こっていることをここまで突き放すのは、果たして人間らしい思考だろうか。従順に痛みを享受している自分は、まるで人形のようではないか。

「何よその目は! あんたは本当に昔から!」

 母のヒステリックな叫びは、ノゾミの耳を滑っていくだけだった。そのかわりに、脳内に(こだま)する少年の声が心に突き刺さった。

〈本当に、今の君はまるで人形だよ。僕が呪ってきたものたちと一緒。君の中はカラッポだ〉

 少年はノゾミに幻覚を見せる。首を絞められているのはノゾミに良く似た人形。陶器の体と虚ろなガラスの瞳を持っている。母親の罵倒をただ受け入れているだけの空虚な入れ物だ。

「そんなだからいじめられたのよ……ヒカリのかわりに、あんたが、あんたが……」

 母親の言葉によってノゾミの胸に何かが差し込まれた。ずっと目をそらしていた過去を突きつけられて、心だけが血を流す。

 こんなんなら、何も感じない方がいい。安全な殻の中に、傷つかない場所に行きたい。ノゾミは心の底からそう叫んだ。

〈いいよ、僕がその願いを――叶えてあげる〉

 凛と響き渡る少年の声と同時に、ノゾミは全くの暗闇の中に包まれた。それに何も聞こえない。手を動かしてみても何も感じない。妙な浮遊感を覚え、鼓動が早くなる。しかししばらくするとその鼓動も感じなくなった。どんな感覚にも頼れなくなった頭がただ混乱だけを極めていく。

〈君は僕の人形だよ――児玉(こだま)希海(のぞみ)

 そしてノゾミの意識は途切れ、柔らかな闇の中に落ちていった。

 ノゾミは無意識のまま、喉に絡みつく母親の手を引きはがす。それは、母の手に赤い痕が残るほどに尋常ではない力だった。母親が目を見開いている間にノゾミは部屋に駆け込み、ドアに鍵を掛けた。


***


 ノゾミの意識が覚醒したとき、目に飛び込んできたのは暗い赤だった。

 痛みはない。ただ赤黒い池がノゾミの周りに出来ていた。そして左手の甲に糸切り(はさみ)が刺さっている。血はそこから幾筋にも別れ、蚯蚓(みみず)のようにのたくって溢れ出ていた。

 ノゾミは叫ぼうと思った。何せ、自分でこんなことをした覚えはなかったのだ。しかし声は出ない。吐き出した息は、声帯を震わせることなく口から出ていく。それは何度試みても同じことだった。

 それどころか右手が別の生き物のように勝手に動き、突き刺さった糸切り鋏を更に深く沈めようとする。自分の体で自由になる部分はもはや残っていなかった。

 あるいは、今見ているこの傷も現実のものではないのかもしれない、とノゾミは思う。『Real Doll』に見せられている幻である可能性は十分にある。痛みのない体は、何一つ現実を教えてはくれなかった。

〈ねぇ、君は自分を人間だと思う?〉

〈自分を人間だと思う根拠は何?〉

〈人間である条件って何?〉

〈それを失ったら人間ではなくなるものは何?〉

 幾重にも重なって響く無邪気な声。右手が勝手に糸切り鋏を傷口に捩じ込もうとする。流れ出す血は人間らしいと思った。しかしその瞬間、ノイズが入ったかのように視界が乱れ、割れた人形の手の甲が映る。

〈僕の呪いはやがて君の体を人形の体に作り変える。肉と血を奪ってから、骨と皮膚で外殻を作り上げるんだ。それはさっき君が望んだものに限りなく近いと思うんだけど〉

「さっき……?」

〈人形は虚ろだよ。だから決して痛むことはない。皆、人間が何かを答えられないわりに、人形は嫌だと言って死を選ぶ。けれど君は無痛の素晴らしさをわかっているよね?〉

 少年の声は正しい。ノゾミはかつて傷つくことから逃避したのだ。ノゾミはその選択が間違っていたとは思っていなかった。理不尽な痛みから逃げるのは罪でない。けれど痛みを忌避するあまり、本来感じなければならないものまで排除しているのも事実だ。

 少年の言葉は甘美だが、彼はヒカリの仇である。そんなものに従えるはずはないと、ノゾミは意地を張っていた。

〈強情だね。けれど一度望んだことは取り消せないよ〉

 触覚は奪われているはずなのに、ノゾミは自分を後ろから抱きしめる冷たい体を感じていた。否、感じさせられているのだろう。優しい(かいな)はまるで恋人のそれのようで、ノゾミは拒絶することが出来なかった。

〈君のその強情なところは好きだよ。だから君だけは特別だ。聴覚と視覚は生かしたまま、君を人形にしてあげる――〉

 ノゾミの目に少年の腕が映った。僅かに向こうの景色が透けて見える、簡単に折れてしまいそうな細い腕。ノゾミが身構える暇さえ与えず、半透明の右腕がノゾミの腹部に突き刺さった。不思議なことに血は一滴も出ていない。

「何をするつもり?」

〈さっき言ったじゃないか。人形にするためには、まず君の中を空っぽにしなきゃいけないんだよ。そうだな、手始めにこのあたりとか〉

 少年の手がノゾミの体から抜けたとき、彼の手にはぬらぬらと血に濡れた肉塊が握られていた。滴る血は少年の腕を伝い、床に小さな水溜(みずたまり)を作っている。ノゾミが呆然とそれを見つめていると、少年がくすりと笑った。そしてその次の瞬間、ノゾミはしばらく忘れていた「痛み」を思い出す。

「……っ!」

 ノゾミは声にならない叫びを上げながら腹を押さえた。激痛に視界が白く明滅し始める。それと同時に、股の間を伝って血が床に落ちて更に大きな水溜を作る。まるで月経のようだったが、その血は経血より粘性がない。だいいち、今月の生理は一週間前に終わったはずだった。ノゾミの太股の内側には、血の筋が奇怪な模様を描いている。

〈ああ、少し漏れてしまったね。けれど、もうそこから血が出ることはないから安心してよ〉

 右手の中の肉塊を弄びながら少年は言う。赤黒く、うねるような細い管や、歪な球形をした内臓が少年の手の中でぐにぐにと形を変えた。少年の左腕は相変わらずノゾミの動きを拘束したままである。ノゾミは吐き気を覚えて口を押さえた。

〈これで君の体から子宮と卵巣はなくなった。今の気分はどう?〉

 少年の手に握られているのが、つい先程まで体の中にあった臓器だというのか。ノゾミは肩で息をした。深く息を吸おうとすると、胸のところでそれが止まってしまう。腹まで空気が入らないのだ。おまけに目も眩んできた。昔もこんな状態になったことがある、とノゾミは思った。それはまだ学校に通っていた頃、ただ一人で懸命に気を張っていた頃のことだ。あのときと同じく、このまま死んでしまうのではないかという考えが頭をもたげる。

 しかし、ノゾミの呼吸は急速に落ち着いていった。

 何故なのかを、もう聞く必要はない。ノゾミは憎々しげに唇を噛んだ。

〈過呼吸を止めたことに関しては、君のことを助けたつもりなんだけどな〉

 少年はおどけた声で言い、ノゾミの体を解放する。ノゾミは振り返って少年が立っているはずだろう場所を睨むが、そこには何もない空間があるだけだった。少年が握っているはずの肉塊すら見当たらない。どこに行ったのかと考える間もなく、ノゾミの体に再び変化が起きた。少年の腕がめり込んだ下腹部から、氷が融けるときのような音が聞こえる。

「何……?」

 ノゾミはおそるおそる服を(めく)る。形の良い臍の周辺だけ、他の部分と微妙に色が違っていた。本当の肌の色よりも白い。そして色の違う部分は、(いびつ)な枝のようなものを伸ばしてノゾミの体を徐々に侵蝕する。

 ノゾミは変化した部分を引きはがそうと躍起になった。無駄だと心のどこかでわかっているけれど、このまま放置していたらどうしようもないところまで侵されそうな気がしたのだ。指だけでは埒があかず、手の甲に突き刺さった糸切り鋏を乱暴に抜いて使う。しかし、周囲より白い部分は鋏の刃が入らないほどに硬かった。

〈急にどうしたんだい? 触覚を奪われたときはそんなに抵抗しなかったじゃないか〉

 触覚を奪われたあのとき、ノゾミは事の重大さに気付いていなかったのだ。何も傷つけられなかった鋏が床に落ちる。銀に煌めく刃の上には歪んだノゾミの顔が映っていた。

「……私から、出て行って」

 消え入りそうな声でノゾミが言うと、少年はとぼけた様子で聞き返してきた。ノゾミが何と言ったところで出て行ってくれるとは思えない。けれどノゾミにはたった一つだけ、譲れないものがあったのだ。

「これ以上私を侵蝕しないで! 私は私だけのものなの!」

〈それは聞けない相談だね。君が僕の問題を解き明かさない限り〉

 少年はあくまで不敵に応え、ノゾミの体を人形のそれへと変え続けた。


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