第四話(8)
それは、あまりにも奇妙な経験だった。
ゆっくりと回り始める視界。
握る手の感触。
預けられた身体の重み。
規則的な足運びと、流れるような体重移動。
ふわりと広がって脚を掠めるドレスの布地。
微かに鼻腔をくすぐる甘い香り。
すぐ近くに感じる他人の体温と息遣い。
与えられるすべての感覚は、俺のものであって、そうではなかった。
ダンスの動きのバリエーションは多くない。ただ曲の拍子に合わせていくつかの動作を組み合わせるだけ――と、言うのは簡単だが、いきなり見て真似ろと言われてできる自信はまったくない。
ないのに、この身体は直前に見た動きを完璧に再現している。できるわけがないことができている。ごく自然に、それが当たり前のことのように、ただ感覚だけを叩き込まれていく。
「……」
レナが何かを言いたげに口を開きかけて、そのまま閉じた。
まあ、多少違和感を感じても、さすがに俺の意思じゃないなんて予想はしないだろう。
一体、何が起こっているのか。
他人の身体を操る魔術がどのくらい難しいかなんてわからないけど、レナが無理だと断言したのなら、他の学園生にはできない。そもそも魔術師の仕業ではない可能性すらある。
常識から外れた現象……【飆牙】とか? 手元にはない神剣を思い浮かべる。だけどあいつなら、こんな真似はせずに、慌てふためく俺たちの様子を笑っていそうだ。
その間も危なげなく踊りつづけながら、俺の目線は興味なさげに周囲をさまよっていたが――不意に、繋いだ手を力強く握り込まれて、バランスを崩しかける。
とっさに反応し、顔を寄せながら体勢を整えた俺の耳元で、レナがささやく。
「そういう目、やめて」
その瞬間、どこにも留まらずに散っていた意識がレナに集中した。
視界の中心にとらえられた彼女の表情は真剣そのものだ。
「そういう?」
「その目よ。ノアにそんな目をさせないで」
小声できっぱりとレナは言い放った。
……まさか、気づいたのか?
わずかに目を見開く俺に、レナは睨むような強いまなざしを返してくる。
「ノアは他人に無関心だけど、あなたみたいに尊大な目はしない。どうでもいい存在として距離を置いてるだけ。でもあなたは違う。はっきりと他人を下に見てる。不愉快だわ」
彼女の本気の怒気を受けて、俺はちいさく笑った。
「あまり意味のある差には思えないな」
そいつは、俺を乗っ取ってからはじめて人間くさい表情を浮かべ、レナという個人に向けて言葉を返した。
「昔、似たようなことを言われた気もする。誰に言われたのかもよく思い出せないけど」
「むかし……?」
流れつづけていた音楽が、フェードアウトし始める。
ああ、終わるのか、と思った。
この時間が、この現象が、もう終わるんだなと直感した。
「大丈夫、返すよ。俺に目的なんてないから」
曲の終わりと同時に動きを止めて、ホールドを解く。
今ならきっと俺の意思で動くことができる。
意に添わない動きを止めることができる。
だけど動かなかった。レナも俺も、そいつが最後の言葉を言い終えるまで、向き合って立ち尽くしていた。
「――きっと君は、俺に出会わない方が幸せになれる」
虚に響く自分の声が、どうしてか妙に、胸に迫った。




