第一話(16)
「ここに足を踏み入れるのは、クリスに連れられて以来だな」
いつのまにか、シュナが隣に立っていた。
「シュナ……あれは」
黙って聞け、という目配せを受けて、口をつぐむ。
だけど、あれ。おかしいだろう。
なんで剣が浮いてるんだ――『風も魔術もない』っていうのに!
歯噛みする俺を、楽しげに見つめて、シュナは語った。
「クリスは昔から、放浪癖のある困ったやつでなぁ……帰るべき場所があるというのに、頻繁に学園を空けては、大陸へ――ときにヴィストリアの西へまでも出向いていた」
知っている。そうして出向いた先の一つで、俺は養父に拾われた。
東の大国ヴィストリアに隣接する、弱小国の路地裏で、ギリギリの暮らしをしていた俺に、クリス=セルケトールは手を差しのべた。「生きたいのならば来い」――無我夢中でうなずいた。
そうして、俺の今日があるのだから。
「西へ、西へと。人間の領域と、精霊の領域とを隔てた森の奥で、クリスは、一人のエルフに出会ったそうだ」
「エルフの森で?」
エルフ――森に暮らす、気難しく長命な種族だと聞いている。魔術学園――大陸の東南に位置する離島からでは、まるで寝物語のような存在だけど。
大陸の中心に広がる森の奥には、いまでも彼らが暮らす集落があるらしい。
森はエルフのもの。
森の向こうは精霊のもの。
人間が暮らすのは、森の東側にある窮屈な国家群――。
一回生でも知っている、大陸の地理だ。行き来がないわけじゃないけれど、好んで森を抜けたがるやつはいない。
あちら側には、『魔の森』と呼ばれるスポットがいくつもあるから。
「『あなたにこれを預ける。いつか正統な主が現れる日まで、隠し守ってほしい。どうか、約束を。いかなる権力にも、これを渡さぬと。ヒトにもエルフにも、この剣を振るう権利はない』――クリスは二つ返事でうなずいた。あやつは考えなしだが、妙に鼻が利く。託された重みを理解したのだろう。……そして私に、自分亡き後の管理権まで投げてよこした。まったく勝手なことだ」
――それじゃあ、そもそもシュナが学園にきたのは、そいつを管理するためってことなのか?
クツクツと喉をならすシュナは、言葉ほど憤ってはいないようだった。旧友の勝手な願いを、彼女が快く受けいれたことを知る。
思いがけない背景に驚き、ぽかんと固まった俺を見て、シュナは『浮遊する剣』を指し示した。
「あれの名は、【飆牙】――ひるがえる風の牙という。造られた年代は定かでないが、少なくとも数百年以上もの間、主を迎えることのなかったという、伝説の刀剣だ」
――伝説の、刀剣。
興奮だけではない汗が、背を伝う。
「お前に扱えるか?」
挑むように笑ったシュナもまた、隠しきれない興奮を、茶褐色の瞳に宿していた。