第一話(8)
何一つ持っていない孤児だった俺を、クリス=セルケトールが見つけ出して名を与え、レナがくりかえし呼んだ。
由来を聞いたこともない自分の名前にこだわりなんかなかったけど、俺をそう呼んだ人たちによって、すこしずつ形作られてきた輪郭のようなものだから、いまの俺を定義する名前はそれしかないんだと思う。
本来の名前が別にあると言われたって、誰一人として俺をそう呼ばないのなら、孤児の頃と何も変わらない。
それに。
――いいか、ノア=セルケトール。
俺は、……俺だけは、この名前に刻みつけられた記憶を、決して忘れてはならない。
「不思議なものですね……貴方とツバサは真逆のようでいて、どこか似ているように思います。貴方にならば、あるいは……」
ぽつりとつぶやいたウィレンドは、懐かしむような顔で微笑した。母のように。姉のように。彼女はきっと、今でもまだ先代の【一人の者】を愛しているのだろう。
胸の前に両手を組んで、ウィレンドはしばし祈るように目を瞑り――彼女を中心にあふれ出した翡翠色の輝きに目を焼かれて慌てて俺も目を塞いだ――やがて、その光が収まったとき、ウィレンドが差し出した両手の中心には、燐光をまとう一枚の白い羽根がふわりと浮かんでいた。
「これは、ツバサが最後に託したものです。いずれ同じ使命を継ぐ者に当時の出来事を伝えるため……彼は、その旅の終わりを決めたとき、信頼できる者の手に記憶の断片を預けました」
「記憶……」
「ええ、その結末ゆえに、決して触れてはならない禁忌として封じられた、彼が遺した唯一の記録です」
手を伸ばしていいものかどうか、ためらう。
深淵の禁忌に触れた咎人。自らを焼き尽くすほどの怒りに身を任せて絶望を撒いた男の、記録。
俺はたぶん、同じような断片を見たことがある。
そして、呑まれた。圧倒的な感情に押し流された。
「ツバサっていう奴の選択は、この世界に災厄をもたらした。いくら受け入れるって言ったって、精霊にとっても自分たちの住処を『魔の森』に堕とした元凶みたいなもので、……それだけの信頼を寄せていたのに、裏切られた恨みとか残ってないのか? それに、俺のことだって」
いまさら現れられても困るとか、思わないのだろうか。または、先代の記憶に引きずられて、同じような過ちをくりかえすんじゃないかとか。
……俺は、思う。
だって俺は、この世界をそこまで大切に思えない。進むしかないから進んできた。失ったものの大きさに怯えて、代償に見合う何かを得るまで止まれなくなっただけだ。
俺が望んだささやかな幸せは、ことごとくこの手の平からこぼれ落ちていったのに。
「あれを裏切りと呼ぶならば、誰よりも手酷く裏切られたのは、ツバサ自身でした」
はっと顔を上げる。
「私たちは彼の信頼に応えられなかった。それを悔いることはあっても、恨むことはありません」
ウィレンドは毅然と言い切った。




