第一話(4)
かつて、この土地で、人と精霊が共に生きていた?
人と竜が共にあった時代、それも竜の里が形成された末期ではなく、大陸の東側にヴィストリアを中心とした国家群が形成されるよりも以前の話だとすれば、歴史書にも出てこないほどの遠い昔話だ。
そういえば研究棟の資料を漁っていたとき、旅人の手記に『精霊三国』に眠る遺跡が出てきたことはある。だけど、そこにどんな営みがあったのか、人の世に語れる者はいない。
もしも今、西側に人が住むとしたら、精霊の愛した森は跡形もなく消え去るだろう。
俺の身体に害をなすものではないとしても、普通の人間は、この濃密な霊気の中に長く留まりたいとは思わない。昔からそうであったのか、風土が変わったのか、あるいは人間が変わったのかはわからないけど。
それに、奇特な人間が数名いたところで。
「霊気、だけじゃないだろう……この重さは……」
覚えがある。あの闇の剣【宵牙】もどきがまとっていたものによく似た、ほのかに冷たく、じっとりと絡みつくような闇の気配が漂っている。
まちがいない。瘴気の吹き溜まりとなった禁足地――『魔の森』が近いのだろう。少なからず魔物も出るはずだ。
ウィレンドは寂しげな微笑を返した。
「時の流れの中にあるかぎり、永遠に変わらずにいられるものはありません」
すくなくとも今この土地は、もう人間にとって住み良い環境ではなくなってしまっていた。そして精霊にとっても、人間はもはや『良き友』ではないのだと、彼女は言外に告げていた。
「この世界には幾度か、非常に大きな変化が起こり、存亡の危機に瀕しました……世界樹はその都度、新たな均衡を創るための使者を遣わせたと言います。いわば岐路となる出来事が起こるたび、行き詰まった運命の進む先を、たった一人の者の選択に委ねてきたのです」
「じゃあ、その、世界樹の遣わせた使者っていうのが……?」
「あるいは、そう願っているだけなのかもしれませんが、私たち精霊は受け入れます。その者が何をもたらしたとしても」
言葉を切ったウィレンドは祈るような仕草をして、まっすぐに優しいまなざしで俺を見つめた。
「おかえりなさい。【一人の者】――ここは、かつて貴方が必要とされた世界。訪れるはずだった場所。果たすはずだった役目。すべてそのまま残っています」
そのとき、気づいた。
彼女がどうして俺に、慈しむような目を向けるのか。
その声が深い愛情と悲哀に満ちて響くのは、俺を通して過去を見ているからだ、と。
彼女は知っている。
前の【一人の者】と呼ばれた男を。
その結末を。
俺が覗き見た、あの記憶の本来の持ち主を。
「でも、俺はちがう――」
彼女の待ち人じゃない。ここを訪れたことは一度もない。正直言って未だに自分でも実感がないけれど、本来この時代の存在ですらなかったというのだから、あの光景は前世ですらありえない。
「わかっています」
精霊は穏やかに告げた。
「大丈夫、わかっていますよ……それでも私たちは、貴方を待っていたのです」