第五話(23)
「おいていかないで――」
その言葉が喉から零れ出たとき、これは夢だ、と気がついた。
夢の中で、なんどもなんども飲み込んできた、伝えられなかった本音。見透かされていたに違いない、彼女の弱さ。伝えたところで彼は行ってしまう。引き止めることはできない。縋りついて振り払われる惨めさを味わいたくないがために、物分かりのいいふりをして微笑み、見送った。
だから、これは私ではない。
私の感情ではない。
だって、私は覚悟してきたもの。
私は言わない。二度と戻ってこない人を待ったりはしない。あのとき引き止めておけばなんて思わない。諦めたふりをして見送る気はさらさらない。
伸ばしかけた手を握りしめて、胸元へ下ろす。
「ちがう。先に、行かなくちゃ……」
置いていくのは、私の方だ。
そうでしょう、レナ=フェイルズ。
あなたは何のために此処にいるの。
これは現実。これが私。
仕事を終えた黄金の天使は夢のように消えていく。こちらを一瞥もすることなく、まるで何事もなかったかのように、世界の綻びを繕って。
俺が最後じゃない、いつか同じ役目を背負う存在が必ず生まれるから、と、彼はそう言って、彼女の前から姿を消した。何一つ守りきれなかった後悔を抱いて、せめて交わした約束を果たすために、彼女は不確かな転生術に賭けた。力も記憶も失くして、出会える保証もない未来に渡った。
それは私の始まりだった。
けれど私の意思じゃない。
かつて、天界が赤く血に染まった日。怒りに任せてすべてを壊した彼の選択を、彼女はただ見ていた。言葉もなく。なす術もなく。最悪の結末を選ばせてしまったことを悔い、それでもまだ彼が彼のままであることが、救う価値がないと見放した世界の未来を気遣おうとする矛盾が、ひたすらに悲しかった。
「……あいつを追う気なら、やめた方がいい。どんな事情があるか知らないけど、関わらない方が身のためだ」
振り向いた先に、黒いローブを羽織った青年が立っていた。余裕のある口ぶりとは裏腹に傷だらけの姿が痛ましい。一番深い肩の傷はもう塞がりかけているようで、胸を撫で下ろす。
ノアだけど、ノアじゃない。
翡翠色の髪と瞳。
よく知った顔と声で淡々と話す、私の知らない誰か。
「ねえ、あなた、前にも似たようなこと言わなかった? 『きっときみは俺と出会わない方が幸せになれる』――でしたっけ。皮肉ね、きっと私はあなたに出会うために生まれてきたのに」
言葉にすると妙にすっきりした。
そう、彼が跡を託し、彼女が導こうとしていたのは、ノアではなかったのだろう。本当は前から気づいていた。うっすらと思い出しかけるたびに、認めたくなくて蓋をして、誤魔化した。
「でも、私が出会ったのはノアなの。ノアだったの」
たとえ間違った因果なのだとしても、私にとっては、それがすべて。だから、決めた。
今度こそ間違えない。
大切な人が迷わずに歩いていけるように。
悲しみを二度と繰り返さないために。
ノアが何を選ぶかはわからないけれど。
ノアの望む道は、私が作る。
「あなたのことなんて、知らない」
氷のような眼をした青年はほんのわずかに瞳を揺らして、うすらと寂しげに微笑んだ。
「そう……好きにすればいい。関わりがないのは、俺の方だ」




