第五話(22)
《ふざけるな、また繰り返すのか――お前は――》
その、懐かしい声に応じたのは、ほんの気まぐれだった。
「もう聞こえてないよ。それとも俺に言ってる?」
思いのほか素直に声帯が動き、苦笑する。記憶があいまいだが、俺も昔はこんな声をしていたのだろうか。
いつのまに表に引き摺り出されてしまったのか。あまり目立つことをして見つかりたくはないけど、幸いなことに、この嵐にまぎれて神獣は不在のようだった。
《お前……? お前は、俺とは違う》
「どうかな。この子の行動原理は、俺よりもむしろ、お前に引きずられていたんじゃないのか」
ノアという少年は、違う。
すくなくともまだ俺ではない。
《おれ? 俺、は……そうか……俺は、俺ではない……この身体は、俺のものではなく、お前のものでも》
「そういうことだ。お前は断片でも口うるさいね。ああ、ほら、噂をすれば影がさす……もうあるべき場所に戻れ」
《お前、は》
「俺に戻り先はない。戻りたいとも思わない」
《なぜ?》
「理由がないことに理由が必要か? まあ、この子がこの先どう俺になっていくのかには、多少興味があるが」
《冗談にしても笑えない――》
旧友の声が止むと同時に、静止した世界の空が割れた。
黄金の剣で空間を切り開き、純白の翼を広げて降り立つ神々しい天使は、案の定よく知った男の顔をしていた。
半分透けたような姿なのは、この世の存在ではないからだろう。
今か昔か未来かわからない。
ノアの起こした風に喚ばれ、時空を越えて交わった、いつかの像。
『その日、
天から血の雨が降り
大地は朱に染まり
生命は魔に堕ちた
深淵の禁忌に触れた罪人は
失意のうちに生涯を終えて尚
滅びることを赦されず
罪の清算を続けている』
剣の一振りで脅威を滅ぼし、破壊の痕跡を消す。
何事もなかったかのように場を整えて再生していく。
まるで意思などないかのように、機械的に。
「それがお前の末路か、翼」
あるいは俺たちの。
くだらない……が、べつに受け入れてやってもいい。世界とやらが望み、ノアが拒むのなら。だが、そうでなければ同じ役者が二人も舞台に上る必要などないだろう。
あの子は絶望を知らなかった。
信じがたいほどに無垢なまま他者に望み、自分の存在が許される場所、生きていてもいい理由を探し求めていた。
過去の俺とは似ても似つかない少年は、つぎに目覚めた後、自らが招いた結末をどう思うだろうか。
人間らしく、迷い、悩み、悲しもうとするだろうか。
やめてしまえばいいのに。彼が俺だというのなら、いくら人真似をしてみたところで意味はない。どうせ人でなしなのだから。
そのとき、なにひとつ動くはずのない世界に、掠れた少女の声が木霊する。
「どうして」
聞き覚えのある声だった。
レナ=フェイルズ。ノアの隣にいた少女だ。それ以上でも以下でもないはずの。
なぜ、彼女が?
上空を見上げながら、ふらふらとおぼつかない足取りで近づいてくる。
「ちがう、そんなはずがない、だって貴方は、貴方が……私に、託して、……だから私、私は……?」
ひどく取り乱しているようだが、聞こえるわけがない。
あれは幻のようなものだ。あの男には届かない。
「しらない。しってる。うそ。そんなはずない。ちがう。でも―― ねえ、どうして、どうしてわたし、あなたをしってるの……まって、おねがい、わたしを」
そうとは知らず、届くはずもない手を伸ばそうとする彼女の悲痛な表情が目に入り、なぜか胸が詰まった。
「おいていかないで――」
俺は知らない。こんな感情は、俺のものではない。




