第9話 打算か? 理解か?――カロンとタラッサ
DOXA―03IG―A2―002という製品番号をもつ、人口電子脳をもったロボペットは、かたわらにいる少女とお喋りしながら通路を歩いていた。
「アストライヤ違うわ、そっちじゃないわ。多分こっちよ」
「ウー、ワウン、クーン」
辺りを嗅ぎまわったり、寄り道をしたり、ときには主人の命令もどこふく風と座り込んだりする機能が、実際にどれくら役立っているのかは、両親にもクルーの誰にもわかっていなかった。
だがここに、冷静にグリークを洞察する鋭い眼光があったなら、それが少女の情操や感受性を育てていることに気づいただろう。
「アス、アス! たぶんここよ、ここには来た憶えがあるの、こっちにおいで!」
ロボ柴犬は呼ばれたことにも気づかずに壁を両手で擦っている。
「あ、いけない。この子にはまだ愛称を入力していなかったんだわ」
グリークは自分がグリと呼ばれることを好んでいた。彼女のなかにあるそうした感情をこの子にも教えてあげたい。あるいはそうした感情をロボとも共有したい。そんな気持ちがあったのだろう。
「えっとー……、コマンド・オー……、ピー・アイ。『ニックネーム、アス!』コマンド……イー」
たどたどしい発音が通路に大きく反響した。
「これで間違ってないはずよ。アス、カモーン!」
「ンン、クーン、ワン!」
アスは尻尾をブンブンと振り回しながら、グリに向かって走りだした。
グリは自分の睡眠室と同じ外観のドアの前に立ったまま、少しだけ待っていた。
「さあつぎはこのドアを開けるのよ。アス、あなたもどうすればいいか考えて」
「アオーン、オオーン」
ゆっくりと食事を終えたハウは、艦橋へと向かって歩いていた。これまで何があっても、食事を欠いたり時間をずらしたりしたことはなかった。それが彼のスタイルだった。
クルーたちはハウのそうした堅苦しさを笑った。しかし、その意味にエリスだけは気づいていたようだ。宇宙で健康に暮らす。その秘訣は規則正しい食事にあるのだと。
――はじめてだな、こんなことは。どんなに冷静さを保とうとしても、体は正直だな。マザーが新メニューを勧めてくれなければ、きっと食べ残したことだろう。
ハウと両親の付き合いは十八年になる。人と“人”という関係とはいえ、その期間に築き上げた絆は、生身の人間同士以上に強く、太くなっていた。
彼が艦橋の入口ドアを抜けたとたんに、ファザーが話しかけてきた。
「船長、離陸の準備が整いました。これより、アラートを発して離陸します」
「わかった。よろしくたのみます」
「アラート! アラート! 只今より当船は緊急離陸を開始します。乗船中のクルーは安全を確保してください」
何度も同じ言葉が繰り返される。
「船長、本当にこれで良かったのですか?」
「ああ、いいんだよ。ファザーはいったい何を気にしているんだ?」
「いえ、その……とくには……」
「ならばいいのだが。事前にアラートを録音しておいて、アラート中にもこうしてプライベートモードで話す。こんな経験は初めてなのだがな。ファザー、何か気にかかっているなら遠慮なくいってくれ」
「いいえ、なにもありません。私もあなたを信じていますので」
「ならばいいのだが」
ハウは艦長席に戻ると、シートベルトを着用した。
「ファザー、これからが勝負だ! 気を抜かずにいこう。さあやってくれ!」
「かしこまりました」
“二人”の会話が途切れたとたん、離陸を開始した振動が船全体に伝わりはじめた。いつも通りの静粛な振動だった。
「なんだ! 緊急離陸か。何も連絡がなかったじゃないか!」
カロンは憤りが戻ってきたような声でいった。
「行かなきゃ! 上陸隊に何かあったのよ。そこまではアタシも知ってるの」
タラッサは席を立ってドアに向かおうとした。
「なんだって!? なぜ君はそのことを俺に教えてくれなかったんだ! 上陸隊にはトーリがいる。あいつは俺の親友だ。君はそれを知っているはずだろう。なぜすぐに教えてくれなかったんだ!」
「だって……、アタシも船長と色々あって、それどころじゃなかったのよ……」
悲しそうな表情になって、うなだれたタラッサの顔には――ごめんなさい……――という感情が漂っていた。
カロンはそれを感じ取ったのか、声を和らげていった。
「まあいい。仕方ない。そういうこともあろう……どちらにしろ今はこの作業を続けるしかない」
「でも今は他にすべきことがあるわ! アナタもトーリを助けたいんでしょ!?」
「大丈夫さ。トーリは大丈夫。たとえ離陸が上陸隊の救援のためであっても、五分や十分では現場には着けないさ。しょせん焦ったところで、俺たちには何もできない」
「だけど……」
「今はこのラストパスワードを破るのが先だ。それがトーリを助けることにつながる。俺にはそう思えるんだ。そうさ、どちらにしろ今の俺は船長を信じられない。であれば……事実がどうであろうと、両親を味方につけられる方法を知っておくのは無意味じゃない。なあ、そうは思わんか? タラッサ」
「……アナタ、両親をハッキングするつもりなの!」
「万が一の場合だ。……俺だって好き好んで犯罪者になどなりたくはない……」
タラッサが何をいうべきかと迷っているあいだ、カロンも何事かを試案しているようだった。
先に口を開いたのはカロンだった。
「そうだ、こうしよう。俺は上陸隊の状況を何も知らない。だから今それを俺に教えてくれ。でないと、艦橋にいったところで何もできない」
「それはそうね……」
「でだ、その話をしながらで構わないから、君は作業を続けてくれないか?」
「それは出来ないことじゃないけど……でもそれじゃあ時間がかかり過ぎるわ……」
「じゃあこうしよう。君はあと三十分だけ作業を続けてくれ。それで駄目ならここまでの内容をバックアップしておく。で、俺たちは艦橋に戻る」
「でもせめて船長に状況報告ぐらいはしておかないと……」
「何て報告するんだ? え? ちょっといまカロンといい感じになって……そんな風に報告するのか」
「やめてよ! こんなときに。何をいってるの……」
タラッサは言葉とは裏腹に紅潮していく熱さを感じて、思わず両手で首筋を覆った。そして冷静に戻ってからいった。
「たしかにそれはそうなんだけどね。理由がないのよね」
カロンはそれとなく穏和な表情を作った。
「こういうときは沈黙が必要なのさ。……君はあれかい? 毎日好きな人に『愛しています』とかいうのかい?」
「よしてよ、そんな話は。今は……」
「ほらな。そういう君なら今俺がいったことが理解できるはずだぜ」
「ねえカロン、じゃあ約束してくれる? 三十分したら艦橋に戻るって。アタシにはそれで精一杯なのよ」
「ああ、約束するよ」
タラッサはカロンの瞳を見つめながら――アタシはこの人を信じたいの……いや信じるわ……――と意を決した。
「わかったわ。じゃあ作業をしながら上陸隊のことを話すわね」
そういって、タラッサはシートに体を戻した。
小惑星から垂直に上昇を開始した銀色の<アキレウス>号は、安全高度を確保した瞬間、前進速度を得るために、メインノズルを規則正しく、きっかり三回噴射して前進を開始した。
今では古典的になった地球型スペースシャトルに形状は似ていたが、<アキレウス>号には翼といったものが見あたらなかった。
その代わりに、輝く船体のそこいらじゅうから、姿勢制御ノズルが突き出していた。
艦橋はメインとサブの二ヵ所があった。サブブリッジは船体下部中央にあり、楕円形に膨らんでいた。メインブリッジは船首前上部に突き出すように設置されていた。そのメインブリッジには一つの人影しか見えなかった。
「船長、報告します。ランドクルーザーが移動を開始しました!」
ファザーの明朗な声がハウの耳を打った。
「なんだと、本当か!」
「はい、速度は非常に遅いのですが、間違いありません。ですがまだ何の交信もありません。おそらく上陸隊もダークマターの存在に気づいているのでしょう。そのために交信を控えているものと思われます」
「さあ、それはどうかな」
「親戚には我々からのデータが転送されています。乗員がデータを確認しているはずです。アンクルの急制動はアーントの情報に基づくものでしょうから、間違いないと思われます」
「だがすべては想定であり希望的観測だ。正確なところは彼らにしか分かり得まい」
「そうですね。ですが、希望的観測は必要だと思います」
「まあそうだな。で、彼らはどこを目指しているんだ?」
「おそらく、当船から発信されている追跡ビーコンを辿っていると思います」
「そうであれば助かるな。今回のことでビーコンのありがたみが身に沁みた気がするよ、ファザー」
「はい、指向性が強いゆえ、不必要な範囲に拡散しませんし、到達距離もコントロールできますからね。そういう意味では、追跡ビーコンはダークマターを刺激しない電波といえますからね。唯一の救いに彼らが気づいてくれた。そんな気がするのです」
「ファザーにしては詩的だな」
「ははは……」
ファザーはしれっとしたように笑った。
「それで、ダークマターと上陸隊との距離はどれくらいだ?」
「少しずつですが、距離は開いています。ですので、一時間後にはダークマターを刺激しないであろう、テラヘルツ波での通信を試みてみます。クルーザーの送受信機は基本的にはミリ波ですが、受信だけはテラヘルツでも可能ですからね」
「目視会合距離に到達するまでの時間は?」
「二時間以内といったところです」
「そうか。長い二時間になりそうだな。だが、待つしかない。そういうことかな?」
「そのとおりです……」
<アキレウス>号は加速しながら、黒い天鵞絨に塩を撒き散らしたような宇宙空間を、上陸隊に向かって前進していった。
時折、メインノズルと姿勢制御ノズルを噴射する姿は、星の瞬きのようであった。