第4話 少女エリスとウサギの縫いぐるみ
ニクスは酷い寒さを感じて目を覚ました。同時に右肩に強烈な熱さと痛みを感じた。
「う……こいつはまずい。多分どこかの骨が折れていやがる」
しかたなく左手を不器用に動かして、宇宙服の胸部に備え付けられた生命維持装置にあるヒータのノブを探した。
――寒い。馬鹿みたいに寒いじゃないか……宇宙が寒い所だってのは知ってはいたが、知っているのと体験するのは別物だな。
「おいエリス、エリス。聞こえるか、エリス」
――だめか。気絶してるんだか通信機が故障してるのやら。まさか……死んじまってるんじゃないだろうな…………よせよせ! 馬鹿な考えはよせ!
ニクスは嫌な考えを振り払おうと、頭をヘルメットの中で振った。
――トーリ……。
頭を動かしたことで、トーリの着ている宇宙服がはっきりと見えた。
「おいトーリ生きてるか。トーリ、返事をしろ!」
そういって、ニクスはひどく前かがみになっているトーリを少しだけ揺すってみた。反応はなかった。
「ちょっと待ってろよ。いまヒーターだけはなんとか強めてやるからな。もっとも死んじまってれば、そんなことは何の役にも立ちゃしないがな……」
狭い車内で左腕だけをつかってトーリの宇宙服をまさぐるのは容易ではなかった。なにしろトーリは彼の左側にいたのだから……。体を動かすたびに右肩に激痛が走った。ニクスは汗をかきながら、それでもなんとかトーリの生命維持装置のヒーターを強めた。
「トーリはこれでいい。とりあえずいいだろう」
姿勢を元に戻したニクスは、息切れを起した呼吸を整えようと楽な体制をとるために、シートを少しリクライニングさせた。目の前には彼をあざ笑うかのような無関心さを感じさせる星空のきらめきがあった。
――綺麗なもんだな。
船にいたときには見たこともないほどの美しさがそこにはあった。だがその時、ニクスは足元になにかがある気配を感じた。
無理やり視線だけ動かしてみると、床にはロボペットが落ちていた。まだ停車した慣性が吸収しきれていないようで、ロボは床の上で静かにバウンドを繰り返していた。ニクスは思わず顔をほころばせてしまった。
「どうして? どうしてあたいにはパパもママもいないの?」
赤毛の少女はいまにも泣き出しそうな目で船内作業着をきた男を見上げていた。
「マザーが教えてくれたもん。人間はね、パパが作ってママが生んでくれるんだって。どうしておじさんはエリに嘘をつくの! エリ、おじさん嫌い。だって……」
作業着の男はしゃがみこんで、少女の顔を真正面から見つめた。
「おじさん嫌い。エリ嘘つき嫌いだもん。マザーが嘘をつく人を信じちゃ駄目だって教えてくれたもん!」
少女は怒りに駆られて手にしていたウサギの縫いぐるみを床に投げ落とした。
男は赤い眼をしたウサギを拾ってからいった。
「困ったなあ。まずね、僕はおじさんじゃないよ。お兄さんだ。そう呼んでくれるかな? それからね、ボクは君に嘘なんてひとつもついていないよ。だから落ち着いて……。それとね、ウサちゃんが痛がるようなことをしちゃいけないよ。これは君のお友達だろ」
そういって、力なくだらりと垂らされた少女の腕を取ってから、少女の華奢な手に縫いぐるみをそっと乗せた。
少女はそれでも納得できないようだった。ついに目から涙が溢れだした。
「いいかい。君にはパパもママもいるんだよ。マザーとファザー、それが君の両親だよ」
「そんなのおかしいよ……だって会ったこともない人がパパとママだなんて信じられないもん。ファザーとマザーはいつも優しくしてくれるよ。でもエリには会えないっていうんだよ。出来るのはお話だけだっていってたもん。だからマザーはママなんかじゃない。ファザーはパパなんかじゃないもん……」
しゃくりあげながら必死に感情を訴えた少女の手に戻ったウサギが――助けてくれ!――と訴えかけているかのように、苦しそうに変形していた。
「じゃあ僕が君のパパになってあげるよ。それなら信じられるだろ?」
「そんなのおかしいよ。よくわからないけど、おかしいよ……」
「じゃあさ、そんなに淋しいなら、僕が君をお嫁さんにしてあげる。そうしたら君にとって僕はお婿さんになるんだよ」
「およめさん? おむこさん?」
「そう、地球ではねパパママのことをそう呼ぶ人もいるんだよ。むしろそう呼ぶ人達のほうが多いくらいだ」
「じゃあエリはママでおじさんがパパ?」
少女は目の前にいる男のいうことが理解できなかったが、心の中にあった淋しさが去っていったかのように、泣き止みはじめた。
「うん、そうともいえるね」
「ねえおじさん、およめさんになったらもう淋しくないの?」
少女は無意識にだろうか、ウサギの耳を優しく撫ではじめながら呟いた。
「うん、そうだよ。君は僕のお嫁さんになる。そして、僕は君のお婿さんになるんだ。そうしたらもう淋しくないよ」
「じゃあエリ、おじさんのおよめさんになる」
「ならもう淋しくないよ」
男は少女を抱き上げた。驚くほど軽いことに気づいて、少し戸惑ったが、それには構わず彼女を腕に座らせた。
エリスはなぜあんなに泣いていたのかと不思議な気持ちがした。今まで感じたことのない気持ちだった。泣きつかれたせいもあったのだろうか、少女は自然に男の胸に頭をあずけてきた。
ドクン、ドクン、という微かな音が男の胸から聞こえてきた。
「ねえ? おじさん。……およめさんていいもの? それってなると楽しいの?」
男は思わず笑わずにはいられなくなった。
「うん、とても素敵なものだと思うよ。僕が保証するよ」
「そっか……」
少女はもうそんなことはどうでもいいような気がしてきた。男から伝わってくる温もりが、ただ心地良かったのだ。心と体が軽くなっていく気がしだしたとき、なぜだか悲しくもないのに、また涙が流れ出した。
なぜそうしたくなったのか少女にはわからなかったが、縫いぐるみのウサギをしっかと抱きしめたくなって、色白な両腕にギュっと力を込めた。
それはエリスがはじめて知った人の温もりであった。宇宙で生まれ、睡眠カプセルで育った宇宙人種が知った――エリスにとっては――はじめて感じた、生身の人から伝わってくる体温であり、生身の人間だけが持つ優しさであった。
――ハウ……ハウ……どこにいるの? あたしを一人にしないってあんなに約束したじゃない。寒い寒いわ……ここは寒すぎるのよ。ハウ、あなたはどこにいるの?
頬をなにかが伝っていくのを感じた。
――あ、これは涙よ。あたしがあのひとに会ってはじめて知った温もりよ。心がここじゃないどこかに飛び去っていきそうなのに、なんの不安も感じないの。涙がそういうものだって教えてくれたのはあなたなの、ハウ……。こんなに心が温かいのに、体は寒い。どうしようもなく寒いのよ。助けて、ハウ……。
「う……うう…………」
エリスは側頭部に強い痛みを感じた、と同時に自分が泣いていたという現実感をわずかに感じ取った。
――ここはどこ? そうだ……たしかクルーザーで……。
それだけ考えるのがやっとだった。
エリスは夢の続きが見たくて、また眠ってしまいたくなった。まだ寒さは感じたが、もうそれほど不快には感じなかった。