第21話 溶解する確執
医務室の中を行ったり来たりする人影が途絶えることはなかった。ハウとカロンは疲れ切っていた。だが、懸命に上陸隊のエリスをはじめとるする三人。そして、全身打撲をおったタラッサの命を救うために、働き続けていたのだ。
彼らをサポートするマザーも必死だった。もし彼女がアキレウス号にいなければ、クルーは全員死亡していたであろう。医療機器やオペロボットを接続すれば、緊急手術さえこなす。それがマザーのもうひとつの顔だった
マザーはこのときだけは視力を使うことができた。患部の情報、そうしたものを医療データとして蓄積するためにである。しかし、そのことによってマザーがクルーの顔や表情を見ることはなかった。
個人情報は医学データとして必要ない。DOXA医学部がそう判断したからである。
環境学術人格コンピューター『マザー』。彼女には非常に膨大な医学データがあった。
まだこの時代、地球には医師が存在していた。そして医師による誤診や、看護師たちのちょっとした判断ミスによる医療過誤も存在していた。ヒューマンエラー。患者や、病気で肉親を亡くした者たちからすれば許しがたいことであった。
こうした事柄を宇宙に持ち出すべきではない。DOXAはそう判断し、世界中から臨床データをかき集め、それらをコンピュータに詰め込んで、誤診のない医療システムの構築に取り組んだのだ。そうした努力が実るまでには年月を要したが、医療過誤の発生率は格段に減少した。それまで30%を超えていたものが、1%台にまで減少したのである。驚異的な医療改革といえた。
医療過誤。それは単なる人為的ミスだけではなく、疲労によるうっかりミス。患者を取り違えるといったとんでもないミスまで、様々なものがあった。しかし、生命倫理に関する問題であるだけに、DOXAのように大胆な改革を目指すものもあれば、隠ぺいして葬り去る、旧態依然とした勢力もあったのだ。そしてこの分野に関して、DOXAはそうした勢力との対立を避けたのだ。
DOXAのシステムが社会に行き渡れば医療過誤は激減する。それは明白な事実であった。だが、DOXAは日々更新される最新医療データの入手先を、自ら閉ざすことは出来なかったのである。
アキレウス号の任務・目的。それは単に小惑星帯を調査する。そいうことだけではなかったのだ。宇宙でしか得られない、医学データの収集。そうした副次的な目的もあったのである。それゆえ、アキレウス号には医師や医療スタッフが乗り組んでいなかったのだ。それはDOXA独特の風変わりな運営法でもあったが、その裏には予算削減という苦肉の策があったこともまた事実である。
「マザー、次は何をすればいい?」
ハウの声はしわがれていた。
「もう大丈夫でしょう。全員、危機的状況は脱しました。あとはわたくしの方でやります。お二人は少し休んでください」
「船長、そうしませんか? 頭がボーッとしてヤバイですよ。これじゃーやらなくてもいいことをやっちまいそうですよ」
「そうだな。我々よりマザーの方が的確にやってくれるだろうな。少し休むとするか……」
二人は長椅子にどかりと並んで腰かけた。ハウの顔にもカロンの顔にも深い疲労が見えた。
「たった一日でこんな惨状になったのは、私も初めての経験だよ」
「あー、煙草が吸いたい……」
「ははは」
ハウは思わず笑った。
「船長、俺は船長に謝らなければいけないことがあるんです」
「なんだ?」
「いや、あの……それがですね。とても話ずらいのですが……あのですね」
「カロン、気にすることはない。実はな、私も君とタラのことを疑ったんだ。君らが艦橋を出て行って、緊急離陸のアラートがあっただろう。あのときのことだ」
「はい……」
カロンの心に複雑な感情が湧いた。
「私はアラートのあと一時間以内に君らが戻ってこなかったから。私の仲間だという意思を捨てよう。そう決めていたのだよ」
「…………」
「自己本位な自分を取るのか? チームとしての結束を取るのか? 私は君らを試したのだよ。卑劣なやり方だったと思っている……」
そういってハウはうなだれた。
「……自分は、自分は……。やっちゃいけないことをしました。タラッサもです。いいや、俺が彼女を引きずり込んだんです。そうだ! 全ての元凶は俺なんです……」
「カロン、いったい何のことをいってるんだ?」
いうべきか? だまっているべきか? カロンの心は揺れ動いていた。
「…………」
「俺は……、マザーとファザーのデータを盗み見たんです。タラにパスワードを破らせて…………」
ハウの反応は意外だった。大きな声をあげて笑いだしたのだ。
カロンは一瞬、彼が精神異常をおこしたのかと眼を疑った。
「カロン。君らの努力はたいしたものだ。それでパスワードは破れたのかね?」
「はい。ラストパスワードまで破りました」
「君はそれがラストパスワードだと思っているのかね?」
「なんですって!?」
「多分、君たちが破ったものは、ラストパスワードではないのだよ」
「どういうことですか? タラは優秀な人間ですよ……」
「ああ、それは充分知っているつもりだ。だが両親自身が設定しているパスワードは破れていないだろう? 違うかな?」
「…………」
「君らが破ったものは、おそらく両親の開発に関わるデータだ。それを見たところで、両親が危険に晒されることはないよ」
「じゃあ、何の意味もなかったと?……」
「いいや、そうではない。あの情報は情報としては価値がある。しかし、それを知ったからといって何が出来る? 問題はそこからだろ? 仮にだ。仮に、君らが両親をハッキングしようと考えたとする……」
カロンはハッキングという言葉を聞いて深く首をたれた。
「だが情報だけでハッキングが出来るものかね? 不可能だよ。たとえ両親の回線にアクセスできたとしてもだ、彼らのCPUに辿りつくのは容易ではないよ。なにしろ、パスワードは彼ら自身が取り決めて、定期的に変更しているんだからな。それも一重なんかじゃない。二重三重にだ。これ以上は教えられないが、両親の防御は非常に強固なのだよ」
「…………」
「だから、両親自体のパスを破るには年単位の時間が必要だろう。そんなことをしていれば、いつか気づかれる。まあそういうことだ」
「では、船長は私を許してくれるというのですか?」
「ああ。私も君らを疑ったのだ。それで五分五分だろう。あれはただの情報だ。だが君らは人間だ。情報を見たことと仲間を信じられなかったこと。さてどちらが罪深いかな?……そう、私のほうが深い罪を犯したのだよ……」
「そんな……船長……」
「気にせんでもいい。私は、君のこともタラッサのことも、ニクスやトーリのことも、高く評価している。エリスと同じようにね」
「船長……ありがとうございます。自分は……自分は……」
あとは言葉にならなかった。
「さあ、君も少し休みたまえ。休養も任務のうちだ」
「はい、ありがとうございます。船長」
「まだ仕事はある。アンクルとアーント。彼らの状況も確認せねばな。ファザーもきっとそうして欲しいと思っていることだろう……君はもう休め。私はもうひと仕事だけしたら、休むから。心配はいらんよ」
そういってハウは席をたった。そして、両手を後ろ手に組んでカロンが立ち上がるのを待った。
しばらくしても動こうとしないカロンに気づき、ハウは彼の肩を叩いた。
「さあ行け。体を少し休めるんだ」
「はい、船長。自分は、もう船長を疑ったりしません。自分は地球に帰りたいんです……。こんなときに何ですが、帰りたいんです。タラもそういってました。……それでも船長は許してくれるのですか?」
「もちろんだ。君は私の仲間だ。さあもう気にしないで体を休めろ」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます!」
カロンは立ち上がって敬礼したあと、ハウの視界から消えていった。
一人医務室に残ったハウはエリスのもとへと足を運んだ。彼女はまだ意識が戻っておらず、血色のない顔色をしていた。だが、ハウは酸素マスクが曇っていることで、彼女が生きていることを実感した。
――エリ、辛い思いをさせてしまったね。すまなかったね。君はこんな思いをしても、きっとまた宇宙へと飛び出して行くのだろう……。私はもう……君にそんな事をさせたくない。だが君は行くだろう。それがスペースノイドとして生まれ、マザーの愛を一身に受けて育った君の願いなのだからね……。君を救ったのは、ニクスとカロン、そしてファザーだ。彼らがいなければ、君は助からなかったかもしれない…………。私は、私は……君に何もしてあげられなかった。ただ声を荒げ、怒り、叫ぶことしかできなかった……。エリス。私を許してくれ……。
ハウはエリスの頬を撫でながら、泣いていた。
それからしばらくして、医務室で動く人影がぱったりと途絶えた。




