第10話 秘めた親心――エリスとマザー
ニクスは出発前の最後の作業にとりかかった。それは彼にとってかなり過酷な仕事であった。エリスとトーリをシートに座り直させて、安全ベルトでしっかりと固定したあと、彼は操縦席に座った。ロボは彼の膝上にあった。
「くそ、肩の痛みがぶり返してきやがった」
すでに船外バイザーを開放していたニクスの額には汗が光っていた。
「よし、アンクル、補助電源で走行を開始してくれ、方向は昼の領域のど真ん中だ。出来る限り<アキレウス>号に接近できる方向でな」
「かしこまりました」
アンクルがそう答えるとすぐに、クルーザーは音もなく後退してからユーターンして、一路、昼の領域を目指しはじめた。
往路とは比べ物にならない速度ではあったが、車輪だけの走行はひどくクルーザーを飛び跳ねさせた。
「これはたまらん。俺はまだ我慢が出来るが、他の二人には堪えそうだな……。おいアンクルこのジャンプしちまうのは何とかならんのか?」
「姿勢制御ノズルを使えばジャンプは抑えられますが、そうしますと、電力をかなり消費しますが。どうされますか?」
「んー、どれくらい電気をくうんだ? 走行時間で教えてくれ」
「半分の時間の走行しかできません」
「十五分てことか」
「そうです」
「事前に起伏を読んで、跳ねそうな時だけバーニアを使うってのではどうだ?」
「その場合、地形センサーに電力が消費されますので、あまり変わりはありませんが、二十分は走行可能です」
「そうか、まあいい。それでやってくれ」
「かしこまりました」
「どちらにしても慣性走行中は跳ねるんだろ?」
「そうなりますね」
「うん。それでいい。指示どおりやってくれ」
「イエス・サー」
ようやく人心地がついたニクスのヘルメットを照らしていた黄色い光が、突如オレンジ色になった。
「おい、マジかよ!」
ニクスはすぐにそれがエリスの宇宙服から発している光だと気づいた。
彼はすぐにエリスの生命維持装置を瀕死モードに切り替えた。
――死ぬなよエリス。
だがその時――こいつは幸運だったかもな――と思った。
――もしもエリスが俺の右側にいなかったなら……こうは素早くモードの切り替えはできなかっただろう。
そう気づいたのだ。
ニクスは右に振り向いて、死の一歩手前にいるであろうエリスの顔色を窺った。
――やんちゃでおてんば娘。シップにいたころはそういう風にしか見えなかったけど、この顔はなんだ……なんていうんだ、死んじまいそうだってのに、安らいだような顔をしてやがる。しかもとびっきりの美人顔だ。……死にゆくものの顔ってのはそういう風に見えるものなのか?……。いけねーいけねー! こんな風に感傷的になってる場合じゃねー。右手さえ使えればもう少し振動を抑えてやれるんだがなー。まあやれるだけやってみるか。
「アンクル、バーニアは使うな。センサーはそのままだ。ジャンプしそうな起伏があったら事前に教えろ。俺がマニュアル運転で対応するから。ようは起伏を避けるってことだ。できるか?」
「できますが、あまり蛇行しますと、距離を稼げないと思いますが……」
「それでいい。いまはクルーを死なせないことを優先する。それでやってくれ」
「かしこまりました」
ニクスは船外シールを閉じて、ヘルメットにある赤外線モードのスイッチを入れた。とたんに視界にうつる景色が白緑色に変わった。
「さあ、やるぞ!」
そう一喝すると、ニクスは左手でしっかりとハンドルを握りしめた。
「で、どうだったね、ファザーの印象は」
扉の前でエリスが出てくるのを待っていたハウは、すぐにそう尋ねた。
「うん……合格よ!」
「え?…………」
「ハンサムなパパだったわ。声から想像していたよりずっと若かったわ」
「僕はときどき君のとっぴな考えについていけないことがあるんだ」
真面目に戸惑っているハウの顔が、エリスにはなんだか可笑しかった。
「あのね、あたし面食いなの」
「あはははは……」
ハウは思い切り腹から笑った。
――これじゃあ、心配したのが馬鹿みたいじゃないか。まったくエリの無邪気さといったら……。
「で、合格っていったの」
「どうやら、その様子なら大丈夫ってことかな?」
「ええ。あの人がファザーなら、これからは素直にパパって呼べるわ」
「それは良かった。じゃあ、次はママだけど、これは心配いらなそうだね」
「ええ、大丈夫よ。ママのことは今でも心からママって呼べるからね」
「じゃあ行こう、マザーズルームはこの先だ」
そういってハウはエリスの肩を抱いた。
「はい、パパ」
「君にとって本当のパパはいったい誰なんだ?」
「さあ、そんなこと考えたこともないわ。ハウもパパみたいなもんだし、ファザーもパパよ。比べることも出来ないし、どちらが大切かなんて決められないわ」
「まあそうだね。そういう考え方が一番良いね、さあ行こうか」
「ええ」
二人のまわりには、おおらかでホンワカとした空気があった。
「ここがマザーズルームだ」
そういってハウはドアに取り付けられた装置に、持っていたIDカードを滑らせて、ロックを解除した。
「さ、会っておいで。僕はここで待っているから。ゆっくり話してきても平気だよ。時間はたっぷりあるから」
「うん。じゃあーいってくるね、ハウ」
エリスはにこやかに微笑んだあと、開と書かれたボタンに軽く触れた。ドアがスライドして壁に収まった。
彼女はハウの顔に視線を戻して、見つめあってから、部屋の中に消えていった。
「いらっしゃい、エリス」
天井のほうからマザーの優しい声が聞こえてきた。
「ママ、どこにいるの? まっくらで何も見えないわ」
刹那、目もくらむように部屋全体が輝いた。
と同時にエリスは――眩しい! なにが起こったの!?――と両手で目を覆った。
突然のことに驚いたのだ。
部屋に照明がついたのだと感じたエリスは、すぐに両手を下して目を開けた。
そこには驚愕するような光景があった。エリスを包むようにいたる所に生い茂った樹木。足元は苔や芝が不揃いに萌え育ち、赤や黄色の愛らしい花も咲き誇っていた。
木々には色とりどりの鳥が止まったり、梢のあいだを盛んに飛びまわっていた。
上を見上げると、抜けるような青空に白い雲が厚く、薄く、気持ちよさそうにまどろんでいた。空の真ん中には、眩いばかりの光をはなつ太陽が輝いていた。
しかし、マザーの姿はどこにもなかった。
「すごいわ!! これは地球の風景?」
「そう、地球にある林という場所よ。もっともこのホログラフは私の記憶によって作られているから、相当に美化されているけれどもね」
「いつだったか忘れたけど、図鑑で写真だけは見たことがあるわ。その、林っていうの」
「そう、それはよかったわ。それなら、ここの美しさはわかるでしょ?」
「ええ、わかるわ。素敵よここは、でもママはどこにいるの?」
「こちらにいらっしゃい」
マザーの声がする場所が変わった。エリスはそこが、少し離れたところにある太い幹の木の辺りだと見当をつけた。目をこらしながら、その木にゆっくりと近づいていくと、木陰から美しい一人の女性がこちらを覗き見ている姿をとらえた。
白い半透明の一枚布で出来ている服は、古代ギリシャのヒマティオンという衣装だった。生地は絹光りしていた。そこから、薄桃色の腕がなめらかに伸びていた。髪は腰の下まであり、燃えるような赤毛だった。
あまりにもエリスの予想と違っていた。しかし、少しずつマザーとの距離が近くなって、マザーの表情がはっきりと見えた時、彼女は確信した――マザーは私の本当のママだ――と。
エリスにしてみれば、そう思わざるをえなかったのだ。
マザーの顔は彼女が大人になったらこうなる。そういう顔をしていたのだ。エリスとマザーはそっくりだったのだ。
「ママ! ママー!!」
エリスは怒涛のように沸き起こった感情を押しとどめることなく、母の胸に飛び込んだ。
「おお、エリス、エリス。わたしのエリス。わたしはどれほどこの日を待ったことでしょうか。愛しいエリス……」
マザーもエリスに負けないくらい、思いのたけを言葉にして、娘をしっかりと抱きしめた。
「良く顔を見せておくれ」
そういってマザーはエリスの頬を両手で包んだ。
「こんなに大きくなって、美人に育って……母さん嬉しいよ……今まで何もしてあげられなくてごめんね」
「ううん。そんなことないよ。ママはあたしに一杯愛情を注いでくれた。あたし、わかってるよ」
「たったの一度も抱きしめてあげることも、頭を撫でてあげることさえしてあげられなかったママを許して……」
「ううん。ママはなにも悪くないよ。あたし、生んでもらって感謝してるもん。ママを恨んだことなんて一度もないよ」
「エリス、エリス。あなたはなんて優しい子」
マザーの目に涙が光っていた。
それからマザーとエリスは一時間以上木陰に座って言葉を交わした。
エリスはもっと時間が欲しかった。話は尽きることがなかったからだ。しかし、ハウとの約束は一時間だった。
「ママ、ごめんね、もう時間を過ぎてる」
「わかっているわ」
「でも約束する、必ずまた会いにくるって」
「いいえ、それはなりません」
「なぜ? なぜよママ?」
「わたしの務めは船のクルー全員を守ることなの。あなただけを特別扱いすることはできないの」
「でもこうして、会うくらい何がいけないっていうの?」
「もう無理なのよエリス。残念だけれどね」
「どうして、どうしてよ! 理由を教えて!!」
「もう時間がないわ。ハウが心配するわ。もう行きなさい、エリス」
「いやよ! ハウにどんなに叱られたっていいわ。わたし、理由を聞くまで行かないわ!!」
「聞き分けのないことを言わないで。さようならエリス。我が愛する娘よ。わたくしは永遠にあなたのことを忘れないわ。さようなら……」
刹那、エリスを暗闇が包んだ。
「いやー! いやよー!! どうして神様はこんな残酷なことするの。酷い、酷いわー!!」
ホログラフの消えた暗闇でエリスは失神した。
エリスが自室のベッドで意識を取り戻したとき、側に憔悴しきった顔のハウを見つけた。
しばらく、無言の時間が過ぎたあと、エリスが口を開いた。
「………………ハウ、理由をきかせて。なぜあんなことをしたのか。なぜわたしがもうママに会えないのかを……」
ハウはゆっくりと語り出した。
エリスとマザーとの対面はそれ以降、今だに実現していないのだった……。
――ハウ、私は恨んだわ。あなたを心底恨んだわ。でも、でも、今なら許せると思うわ……。だって、あんな悲しい思いはしたけど、そのおかげで私は誰にも壊されないママとの絆ができた。そう思えるんだもの。でも、もうそれもいい思い出ね。なんだかわたし、消えてなくなりそうな感覚がするの。もう……あなたにも会えない予感がするの。ハウ、あなたのこともママのことも、なんだか忘れてしまいそうな予感がするの……。ごめんねハウ。そして……そして……ありがとう…………。




