第1話 小惑星L4―2808への着床
「エリス、トロヤ群最後の岩に降り立つ気分はどんなだい?」
「最高ね! トロヤだけでも岩は二千八百を超えているんだからね。それを一つ一つ調査してきた、メンバーたちの根気にはあきれるわ。その最後のひとつに、まっさきにあたしが降り立つんだから、こんなセンセーショナルな経験は、結婚したとき以来よ!」
準光速宇宙船<キンダーハイム・アキレウス>号は、木星の公転軌道上にある、小惑星帯調査のために建造された宇宙船である。
小惑星帯は、二つの大きな群に分かれていた。ひとつは「トロヤ」と呼ばれ、もうひとつは「ギリシャ」と呼ばれていた。人類は、まだ光速の壁を超える技術を開発できていなかった。それゆえ、太陽系で最後まで残っていた小惑星帯調査は、超光速航行を可能とさせる、理論や技術の発明につながる、希望の地でもあったのである。
船長のハウは押し黙ったまま、艦橋で二人の会話に耳をかたむけていた。
「君にとってみれば、船長との結婚は二千八百分の一に匹敵する出会いってわけだな?」
カロンの声がすぐ近くから聞こえてきた。
「ちゃかさないでよ! カロン。それとこれとは別よ。この調査は人類にとって大きな意味があるの。ハウとのことは個人的なことよ」
エリスの声が、かすかなノイズにつつまれて、スピーカーから流れてきた。
「……まあそういうことだな」
よく響く重々しい声で、ハウ・メアが艦橋の空気を震わせた。
「おー怖っ! 船長の指示はいつも的確ですが、奥さんの操縦もうまいもんですね」
「馬鹿をいうな。俺自身の人生を舵取りしてきたのは、世間でいわれる格言みたいなものだ」
エリスは艦橋からずっと離れた位置にある、エアロック前室で待機していた。彼女はハウのいい逃れのまずさに、思わず失笑してしまった。
肩の震えにつられて、くせの強い赤毛もバタついていた。それでも淡褐色の瞳は舷窓から見える岩を、しっかりと離さずにとらえていた。
「着床五分前です。第二種緊急配備に入ります。エアロック前室のクルーは必ず宇宙服を着用してください――」
ソプラノの音階をもつ女性の声が、船内に流れた。環境学術人格コンピューター「マザー」の声だった。
「L4-2808、放射線反応異常なし。L4-2808の自転変化認められず。各種センサーに異常を検出せず。接近を許可します」
調査技術人格コンピュータ「ファザー」の朗々としたバリトンの声が響いた。
「船長も頼もしいですが、ファザーとマザーあってのリサーチクルーズですね」
カロンが、コンピューターの声がおさまるのをまって口を開いた。
「もともと彼らはこうしたクルーズのために設計されたものだからな。だがそこには尊い犠牲があったんだよ。カロンは知らない世代だったな」
とうに宇宙航行士を引退していてもおかしくない年齢がもつ、落ち着きある声でハウがいった。
短く刈りこんだ頭髪のある、大きな頭部は帽子で隠されていたが、そこには鋭敏な知能と慈愛があることを、クルーたちは知っていた。
「ずいぶん昔の話だ。まだ私が息子くらいの歳だったころ聞いた話だがな。いい機会かもしれん。2808の調査には一週間はかかるだろう。たまには昔話も悪くはない。聞いてみるかね?」
「知っておいて損はないでしょう。私だって昔はいっぱしの科学者でしたからね。そりゃー興味はありますよ。今はこの船の航海長の立場にありますがね」
カロンの声には――俺の専門分野は、もともと生命科学なんだ!――という自負心がこもっていた。
「着床一分前です。クルーは念のため衝撃に備えてください。エアロック前室クルーは安全ベルトの装着を確認してください」
「カロン、そろそろ上陸の時間だ。マザーたちの話はそのあとだ」
エリスを中心とする着陸要員の三人は、すでに人間を三倍以上に太らせる宇宙服に身を包んでいた。上陸用ランドクルーザー<シルト>号の操縦席には、三つの人影があった。
「今日はマザーもファザーもいやに無口だな。冗談のひとつもいわない」
ヘルメットからちらりと金髪を覗かせている、ニクスがいった。
――ちょっと……マザーとファザーに聞こえてるわよ!
エリスは振り向いてから、ジェスチャーで――通信系統を切り替えて!――とニクスに伝えた。
「すまない。嫌味のつもりじゃなかったんだが、ついうっかり……」
ニクスが宇宙服専用通信網に切り替えた、くぐもった声でこたえてきた。
「彼らはコンピューターだけど、ある部分では人間と同じよ。夫婦でもあるし、あたしの両親でもあるわ。でも、嫌味の一つや二つで、あたしたちに意地悪をするような人達ではないけれどね。でも、気を使うくらいはしないとよ」
「頭ではわかってるんだけどさ、どうにもやり辛いんだよね。姿が見えるわけじゃないし、声だけだからね」
落ちついた光を放っているブラウンの瞳で、エリスの背中を眺めながらトーリがそういった。
「そうだわ! この任務が終わったなら、マザーたちに会ってみたらどう? とはいっても、船長の許可はいるけどね。勇気のある男なら、許可をとる応援くらいはするわよ」
そういって、エリスは二人にウインクを飛ばした。
「いいね。あと三十秒もしたらそのウインクも見れなくなる。今はそういうことを楽しむ時間だと思うな」
青い瞳から皮肉を飛ばしながら、ニクスが臆面もなく笑った。
「そうだね。船外バイザーを下ろしてしまうと、僕の顔を見てもらうこともできないし、君らの顔も見えないからね。声がしなかったら、誰が誰なのかもわからなくなる。そういう意味では、宇宙では声だけのマザーやファザーのほうが、常識的な気もするんだね」
「まもなく着床します。まもなく着床します――」
「相対速度から推定。衝撃は微小です。ご安心ください。衝撃は微小です。ご安心ください――」
マザーとファザーが、立て続けにアラートを呼びかけはじめた。
「さすがに二千八百回もやってくると、誰も緊張しませんね。ピクニック気分でもやれますよ」
「カロン。リラックスしすぎだぞ。もう少し気を引き締めろ」
ハウが航海長を振りあおいで注意を促した。
「おっと、そうはいかないようですよ」
カロンは人の気配に気がついて、振りかえった。
「船長、今回の上陸は今期最後の任務です。準備は万全というほど万全に整えてきたんです。カロンの気持ちも少しはわかってあげてください」
女性でありながら通信長の立場にあるタラッサが、二人に歩み寄りながら船内の空気を和らげようとした。
「もう君のほうは大丈夫なのか?」
「はい。当船の子供たちはとても良い子なので、今さっき睡眠学習に入ってくれました。保母役としましてはありがたい限りです」
「そうか。それでファザーもマザーも必要事項の連絡だけだったのか」
ハウが納得したようにそういった。
「その通りです。彼らが手伝ってくれるのは助かるんですが、なんというのでしょうか――マザーの愛情は少々過保護に思えますわ。アタシなんかからすると、あれでは子供たちが我儘に育ってしまうということです」
「そのために君がいるんじゃないか。私はどちらかといえば、君を信頼しているよ」
ハウは、そういいながら優しげな瞳をタラッサに向けていた。
「船長は女性に甘すぎます。すぐにそうやって誤魔化すんですから」
「まあまあ、マザーたちは――クルーは……なんていうけどさ、この船にはさ、艦橋に三人。そしてもうすぐ上陸する三人と、いまさっきお昼寝しはじめた、子供たち二人だけなんだからさ。あんまりとんがりなさるな――。な、タラッサ」
「そうね。悪かったわ。ただアタシは、カロンはいいムードメイカーだと思うだけです」
「そうだな。それは間違いない」
そういってハウがうなずくと、その場にいた全員が床から突き上げられるような、軽い振動を感じとった。
「着床完了。着床完了。オールグリーン。オールグリーン。異常なしです」
「なあマザー。それにファザー。今日はもう少し気楽にいこうよ」
手順にあわせて隙間なく埋められていきそうな彼らの声に、無理やり割り込んで、ハウがいった。
「ではそうしますか」
「それも悪くはありませんね。わたくしたちとしても、実はそのほうが楽なのです」
マザーの声が急に柔らかくなった。
「マザーそれはともかく、エアロックのシャットダウンを開けてくれないと、こちらは退屈するわ」
エリスの気安さ溢れる声が船内スピーカーから流れた。
「はいはい、少々お待ちください。――シャットダウン完了です。それではハッチを解放します」
「ありがとう、マザー。あたしもそういうマザーのほうが好きだわ。ホームシックになりかねないけどね」
「わたくしは、いつでもここにいますよ。安心してください。気をつけていってらっしゃいな、エリス」
「はい、ママ。――さ、お二人さん。これで船とはしばしお別れよ。いいわね!?」
「はいはい、わかっとりますがな」
「エリスは強いんだね。さっきホームシックになりそうっていったばかりなのに、今はもう――さあ行くぞ! って勢いだもんね」
トーリとニクスの声が、彼女の耳に重なってきこえてきた。