いななき
青い闇と雨の音の向こうで、大きな影がうごめいている。お前を迎えに来た、という声は見る者の脳裏に、まるで思い出すような感覚でふっと現れる。ジェシカはそれが怖かった。自分の体を抱きしめて、硬直したように窓辺に立ちつくす。本当はすぐにでも布団のなかに潜り込みたい。だが同時に、闇の向こう側が気になって動けなかった。
風が強くなってきて、窓ががたがたと音を立て始めた。時々空から光が放たれ、闇夜の重く沈んだ光景を一瞬だけ静止させる。ジェシカは影がうごめく闇の、手前側に目をやった。荒れる海のようにたぷたぷと揺れる屋外プールを見ていると気が紛れる。その奥深くでは、ジオが得意の潜水をしているはずだ。影が発する声も聞かず、雨や風の音も聞かず、ただ水の純粋な振動の音のみを耳に入れて、夢を見るようにプールの底を泳いでいるのだろう。
プールに落ちる雨を飲み込むように、影が大きさを増す。ジェシカは反射的に身を引いた。恐怖に目を瞑り、強く強く体を抱きしめて震えた。かすかな声でジオの名前を呟く。影はすぐに小さくなったが、プールの向こう側で、踊るように形を変え続けている。
ジェシカは窓のすぐ左手側にある扉の閂を外すと、両手で突き飛ばすように扉を開けて飛び出した。屋根の下は濡れていないが、裸足には冷たい。そう寒い季節ではないのに、吹きつけてくる風は容赦なくジェシカの体温を奪っていく。彼女は必死にジオの名前を叫んだ。プールの側まで行き、溢れる水に足を濡らしながらも、声の大きさは変えずに。
屋根はプールの手前半分まで覆っている。雨が落ちない部分は、変わりに小さな光に照らされて水面を揺らしている。ジオの居場所は分からない。闇と雨が強く降り注いでいる屋根の外では見つけられないだろう。だが光がある屋根の下であっても、五十メートルの大きな幅のなかにジオを見つけることは、ジェシカにとって困難だ。いくら叫んだとしても、水中のジオに声が届くことはない。
影が、嘲笑うかのように揺れる。ジェシカは前に進んだ。足の裏が水面に触れたのは一瞬で、彼女の体はすぐ水のなかに落下した。音が途絶える。自分が吐き出す息だけが、泡となって鼓膜を振るわす。そこは真っ暗な、隔絶した世界であった。雨も風も光もない、ただ空間の存在だけが重くのしかかる、泣きそうなほど寂しい世界だった。
泳ごうとしたが、服を着ているせいかうまく動けない。しかし体は浮かぶことなく、むしろ沈み続け、どんなに息を吐きだしても苦しくなかった。まるで永遠を掴んでいるかのような気さえした。あとは泳ぐことができればいい。無様な姿をジオに見られるのは恥ずかしかった。
だがジオは唐突に現れた。安定する姿勢を求めてもがいているジェシカの前を、古代魚のような落ち着きで真っ直ぐに横切っていく。裸のジオが、人間というよりはむしろ魚のように体を伸ばして、ゆるやかに、滑るように。
驚いて動きを止めると、ジェシカの体はそのままで安定し、水中のただなかに固定された。浮きも沈みもしない。水の動きに合わせてゆっくりと動いていくほかは、何の動きもない。
そっとジオの名前を呼ぶ。するとジオはジェシカを振り向いて、無表情のままついておいでと手招きした。ジェシカはゆっくりと足を曲げ、カエルのように水を蹴った。すっと音もなく体が動き、追いつくとジェシカはジオの手を握った。
水のなかなのにとても温かい。ジオの手の温もりがジェシカを心底ほっとさせた。ここには影もこない。心をざわつかせる音もしない。あるのはジオと、その体温だけだ。
「水の底で何を見てるの?」
「いろんな町をね、見てるんだ」
ジオからゆっくりと声が漏れる。いつの間にか空間の重苦しさは消え、寂しさは安らぎに変わっていた。真っ暗な闇が薄くなっていき、仄かに青白い光がジェシカを包み込もうとして大きくなっていく。その先には、町があった。水の底で時間をなくし、気まぐれな水の動きに揺らめいている小さな町だ。尖塔を中心にして赤い三角屋根が点在している。
「あそこはどこ?」
「ジェシカが生まれたところだ」
「思い出した。なんだか懐かしい」
ジオの手がすっと伸びてきて、ジェシカの頬に触れる。優しく撫でられるうちに、彼女は眼を閉じた。町の音が聞こえる。がらがらという雑音が混じった鐘の音に、ジェシカは自分の生まれの瞬間を感じた。
唇に柔らかい吐息が触れた。目を開けると、ジオが微笑んでいた。
「ジェシカの思い出はおいしいね」
「小さい頃、たくさん愛されたこと覚えてる」
すっとジオの体が動き、ジェシカから離れて町へと降りていった。彼女もジオを追う。
「どうしてこの町から出ていったんだい」
「それは……」
町に影が降りて、雨が始まった。明るい過去の光が小さくなって、町が遠くなっていく。
「ごめん、いいんだ。昔のことはいいんだ」
ジェシカは戻ってきたジオに抱かれた。町はもうどこかに消え、暗い水底が固い闇に覆われて広がっている。
「苦しい」
声を出したつもりだったが、水が邪魔をして音にならなかった。頭上に忘れていた雨の音が蘇り、ジェシカは急に不安を感じた。裸のジオを強く抱き締める。ジオは体を丸めて、水から出るようジェシカに手振りをした。
プールの外は寒い。もう一度水のなかに潜ろうとしたが、ジオに止められた。彼女より先にジオがプールから上がる。彼が差し出した手に掴まってジェシカも上がった。風が冷たい。雨の音が屋根を叩き続け、闇の向こうでは影が揺れている。
「怖い。もう一回プールに入りたい」
「もう寝よう。一緒に寝てあげるから」
ジェシカはジオに抱きついた。彼との間にある濡れた一枚の白い服が邪魔だった。だが脱ぐのも煩わしい。ただジオに頭を撫でてもらいたいと思った。何度も何度も、夜が明けるまで、闇が消えるまで、影が死に絶えるまで。ジオの手が、寒さで動かなくなるまで。
目を覚まして、小さくなっている雨の音にほっとした。しかし落下を続ける音に混ざって、声にならない叫びが響いている。闇の向こうの影ではない。それはもっとジェシカ自身に近い場所から聞こえていて、どこか物悲しい。自分の内の声かもしれない、ジオの悩める心かもしれない。いや、やはり、あの闇が悶えている声かもしれないと思い、ジェシカはベッドのなかで身を縮めた。
「起きたかい」
湿っぽいジオの声がした。しとしと雨のようにじんわりと滲んでくる。彼の顔が見たくて、ジェシカは布団をはねのけた。
雨粒をたくさんつけた窓の側に、背中を丸めたジオが立っていた。全裸で窓の外を見ている。いびつな彼の筋肉を見ると、ジェシカはいつも深海魚を思い出す。
「泳ぎたいの?」
「そうなんだ」
呟くようにジオは答えた。どこからともなく聞こえてくる叫びに消されて、まるで幻聴であったかのように薄く部屋に残響する。ジェシカは心細くなってベッドを抜け出した。
「どこかから声が聞こえるの。ジオには聞こえない?」
「ずっと聞こえているよ。ジェシカの声も、自分の声も、向こうでしているいななきも」
「いななき?」
ジオがひどい猫背のまま振り向いた。どんな顔をしたらいいか迷っている。それがジェシカにはとても恐ろしかった。ジオが遠くに行きそうで、いや、逆に自分がジオから離れてしまいそうで。
「まだ早いよ。もう少し寝てるといい」
「泳ぎに行くんでしょ。私も行く」
掴んだジオの手はからからに乾いていた。水が必要なのだ。ジェシカも水のなかに潜りたかった。ジオがいななきと言ったものが、石畳を疾走する車輪のように、がらがら、がらがらと彼女の心を急きたてる。何も聞こえない場所に行きたい。美しい街並みを眺めながら、ジオといつまでも微笑み合っていたい。そうでなければ、この雨に引き裂かれてばらばらになってしまいそうだった。
「もう一度あの町を見てみたい?」
「とても気持ち良かった。また見たいの」
ジオは何も言わず、じっとジェシカを見つめている。何か言いたそうにしている、それがジェシカを傷付けていく。もっと夢だけ見ていたい。水の底で、時間をなくした深海魚のように、いつまでも、ゆっくりと。
ジオが窓辺から離れて、「おいで」と囁いた。まるで秘密を耳打ちするかのように。それはジェシカを喜ばせたが、同時に悲しくもさせた。
部屋のドアを開ける音、ジオの裸足が叩く床の音、それら現実の音をジェシカは心から望み、また同時に拒んでもいる。彼女が欲しいものは現実でも幻想でもない。永遠の安らぎだった。
プールへと繋がる扉の前で、ジオが立ち止まった。猫背は変わらぬまま、ただ表情だけが活き活きと艶を帯びてきている。ジェシカがジオの名前を呼ぶと、彼は流れるような動作で振り返り、熱く蒸気している腕を伸ばしてきた。
「連れて行ってあげるよ。ジェシカが望む町に。他の誰にもついて行ってはいけないよ」
「ジオから離れない。だからジオも離さないで」
ジオはゆっくりと瞬きをした。それが頷く代わりであることを、ジェシカは知っている。彼が閂を外すと、待ちわびたように扉を押した。
雨の音が現実を持って広がった。それは空から落ちてくるジェシカの悲しみそのものだ。急に気持ちが沈み、足が動かなくなった。今目の前にあるのは、無言で横たわる彼女の痛みだ。闇はもうどこにもない。うごめく影もない。だが彼女には確かに聞こえる。彼女を連れ去ろうとしている深く大きな声が。
プールに向かって歩きだしているジオを呼び止め、ジェシカは丸まった彼の背中に抱きついた。「行かないで」と、擦れた声で何度も呟く。ジオの熱く乾いた手が頬に触れた。
「一緒に行くんだ。町に着いたら、ジェシカの話をたくさん聞きたい」
「あれがいななきなの? 声が聞こえる。迎えに来た、迎えに来た、って」
「きっと雨の音さ。水のなかに行けば聞こえないよ」
いななきが何なのか、ジェシカはそれが知りたかったが、これ以上聞こうとも思わなかった。ジオが言う通り、今は水のなかに潜りたい。
まずジオがプールに飛び込んだ。音もなく水面を突き抜け、猫背が真っすぐ伸びる。脚の動きだけで水中を自在に動き、時々体の一部を水上に出した。
続いてジェシカも飛び込んだ。大きな音をさせて水を散らし、体が全て水に浸かると、彼女は体を丸めた。白いワンピースが水の流れにめくれるのを必死に押さえるが、全てを押さえることができない。少しずつ呼吸が苦しくなっていく。水中でジェシカの白い脚がもがく。苦しさに耐えきれず上がろうとすると、何かが彼女の足を掴んだ。
ジオだった。手繰り寄せられるようにしてジェシカは水の底に下ろされた。だが呼吸は楽になっていく。底に行けばいくほど体の苦しさはなくなり、ワンピースがめくれることもなくなった。ジェシカはジオに連れられてどんどん底に下りていく。どこまで深いのだろうと考えていると、目の前に青い光が現れて、町が見えてきた。
「昨日の町だ」
「ジェシカの町だよ。どの家に住んでたか覚えてる?」
町の上空を浮遊しているようだった。見れば見るほど町は町となっていき、人間が現れ、犬が現れ、煙が立ち、音が伸びた。
「日曜日には尖塔に遊びに行ってた。家から走って五分もかからないの。だからね、きっとこのあたりに住んでたと思う」
「どれも同じような家ばかりだ。ジェシカは見分けがつくの?」
「うん」と頷いて指差した。赤い屋根の小さな家、煙突はないが、庭には小さな畑がある。ジェシカはおぼろげに自分の幼い日々を思い出した。家は貧しくて食べ物もろくになく、父親が作る売れない靴と、姉が奏でる下手なハープだけが、わずかな収入だった。ジェシカは何もできなかった。母を手伝って家事をしていたが、畑仕事はしなかった。土が嫌いだった。そのうち畑は荒れ、姉のハープが壊れ、父が病を患った。そしてジェシカは……
「町に下りようか」
ジオの声に驚いて、ジェシカは大きな空気を口から漏らした。ぶくぶくと遥か上空に上がっていき、暗闇に飲まれて消えた。
「ジオも何か着ないと」
「大丈夫。誰にも見えないから」
言い終わらぬうちにジオはすっと体を滑らせて町に下りて行った。ジェシカも体を動かしたが、ジオのように速く動けない。ゆっくりと方向を定めて、恐る恐る町に近付いていく。尖塔を越えて、赤い屋根の上で止まった。ジオは地面に下りている。裸のまま通りを歩いているが、誰もジオに気付いていない。彼が腕を振ると景色が揺らめいて、時間が止まったかのように町の人間たちの命も止まる。そして水中に生まれた波紋が完全に消えてなくなると、再び町は動きだす。
ジオが手招きをしている。その優しい顔を見て、ジェシカは屋根の上から飛び出した。ゆっくり、ゆっくりと下りていき、音もなく地面に足をつける。わずかに砂が舞い上がり、町全体がかすかに揺れた。
「まだ尖塔が壊れる前の町なんだね」
ジェシカはそびえ立つ尖塔を指差す。小さな頃はよく遊んでいたが、しだいに行かなくなった。家族のみんなが苦しい日々を送っている中、自分だけ遊ぶことができなくなったのだ。だが尖塔は、ある日何の前触れもなく崩れ落ちてしまった。数名の者が死に、数十人が怪我をした。
「ジェシカがうんと子供の頃だ。この頃が、一番幸せだったのかな」
ジオの表情はどこか寂しそうだった。それを見ると、ジェシカも心が締め付けられる。まるで自分を見ているようだった。
「お姉ちゃんのハープはぜんぜん上手くなかったけど、とても楽しい音がしてた。土を触るのは苦手だったけど、採れた野菜は大好きだった。お父さんの靴はどれもサイズがばらばらで、お母さんの洗濯はいつも汚れが落ちてなかった……」
それ以上言葉を続けることができず、ジェシカは口をつぐんだ。目の奥が熱くなり、優しい温度の涙がこぼれる。懐かしくて、嬉しかった。足だけが動いて、家を目指す。自分の家、家族のもとへ急いだ。
だがいつまで経っても家が見つからない。道はしっかり覚えている。それなのに自分の家がなかった。同じ場所をぐるぐる廻っているだけで、辿り着けない。段々とジェシカは不安になっていき、ジオの名前を呼んだ。返事がないのでもう一度呼んだが、ジオの気配すらなかった。
立ち止まり、周りを見回す。記憶にある道なのに、心細さに呑まれそうだった。知っている者は一人もいない。自分が住んでいた町なのに、誰も知らない人ばかり。ジオもどこかに消え、ジェシカは今、完全に孤独だった。
鐘が鳴った。尖塔の釣り鐘だ。ジェシカはめまいを起こして地面にうずくまった。砂がゆっくりと舞い、水がざわめく。町の音が小さくなっていき、やがて消えた。太陽が落ちるように沈んで闇が現れ、町を包み、光を奪い、ジェシカを囲んだ。
声が聞こえる。いや、音だ。車輪の音。砂や石を跳ね飛ばしながら近づいてくる車輪の音が、ジェシカの耳と胸に迫ってくる。
がらんがらんと狂おしい音を立てて、引きつった笑い声を発する。車輪、馬車の車輪、ジェシカがどこまで逃げても、どこに隠れても追ってくる。恐怖の糸で四肢の感覚を奪う魔物を、ジェシカはずっと忘れていた。思い出さないように閉じ込めていた、あの魔物が、今また、自分のすぐ後ろまで迫って来ている。
叫んだが、声は闇に吸われて消える。ジオの名前を呼んだが無駄だった。ジェシカは獣の鼻息を首筋に感じた。全身の血が凍りつきそうなほどに温度を失い、皮膚が感覚をなくしていく。ジェシカは爪を立てて体中を掻きむしったが、痛みを感じない。痛みを求めて力いっぱい柔らかな体に爪を立てた。だが感覚は、戻りはしなかった。
いななきが聞こえた。すぐ背後で。
迎えに来た、迎えに来た、お前を迎えに来た。さあ乗れ、乗るんだ早く。お前を連れていく、見知らぬ土地に、残虐な群れに、心ない夜に、お前を連れていく。
ジェシカは暴れた。体を掴む何本もの生ぬるい手に抗って暴れた。しかし抗いきれず、体は強烈な力で固定され、口だけ自由にされた。思いきり息を吸い込んだら、大量の水を飲んでしまった。意識が遠くなり、光と闇が混ざりあって、孤独の奥底で自分の悲痛な叫び声にまみれた。
ただひとつ、からからに乾ききった冷たい手が伸びてくるのを感じて、ひとかけらの安心を吸った。よく考えてみると、ジェシカはジオが誰なのか知らなかった。だがそんなことはどうでもよかった。呼吸ができて、ジオに頭を撫でてもらえるのなら、それ以上のものを彼女は望まない。
体中が酷く疼いた。力が入らず、指すら動かせない。瞼も開けられず、自分がベッドに寝ているのだということだけ理解して、彼女は昇るような感覚で意識を失った。
目覚めると、音がしないことに怯えた。雨はもう止んでいる。真っ暗な世界が窓の向こうに広がっているのを見て、初めて助かったのだと実感した。
ゆっくりとベッドから抜け出す。体中が痛かった。立ち上がり、漆黒を背負った窓を見て、ジェシカは息を呑んだ。そこに映っているのは、全身にいくつもいくつも真赤な傷を負っている自分だった。ゆるやかに記憶が流れ込んできて、彼女は悲鳴を上げる。
全身の傷は、自分で付けたものではない。それは、いななきが彼女を連れ去ってから、ジオに引き取られるまでの、彼女の人生そのものだ。
ジェシカは急いで服を探し、素早く黒のワンピースを着た。もう一度窓を見る。疲れてやつれた顔があった。自分が何歳かはもう覚えていない。だがまだそんなに生きていないはずだ。
窓に顔をべったりとつけて、プールを凝視した。水面に動きはない。だがその下ではジオが優雅に泳いでいるはずだ。もう一度水のなかに入ることを考えると足が震えるが、少しでもジオに近付きたい。想いが溢れ返り、ジェシカの手が窓を揺らした。がたがたと音が生まれて、隙間風の甲高い声が彼女の頬をかすめる。
衝動が打ち勝ち、ジェシカは部屋を飛び出した。何度もよろめいて転びそうになりながら、プールへ続く扉の前に辿り着いた。ジオの名前を小さな声で呟く。それは呼びかけであり、独り言でもある。閂を外し、体全体で押すようにして扉を開けた。
風が吹き付けてくる。同時に、いくつもの音がジェシカの耳を打ち据えた。両耳を塞ぎ、声の限り叫ぶ。眼球がぴりぴりと震えて、景色の全てががくがくと揺れた。一秒でも早く水のなかに入りたくて走り出したが、足がもつれて転んでしまった。顔面を強く打ち、生ぬるくてぬめぬめしたものが鼻と口に流れてくるのを感じた。
いななきが聞こえた。すぐ目の前で。
どんなに強く耳を塞いでも無駄だった。指と指の隙間、細胞と細胞の間から入り込んでくる。ジェシカの抱く恐怖の全て、絶望する心の呻き全てと引き換えに。
潰れた声でジオの名前を絶叫した。闇の風に散り散りにされて消えてなくなる。その向こうに、黒い影がうごめいている。いななきだ。いななきの主が、すぐそこまでやってきている。もう逃げられない。ここは水のなかではない。ジオのいない、地上なのだ。
ジオの名前をもう一度叫んだ。それは力なく闇の彼方に溶けていく。水を求めてジェシカは手を伸ばした。だがプールはまだまだ先にある。もう立ち上がる力はない。ジェシカは顔面の血を指ですくって、勢いよく腕を振った。プールサイドに血の斑点ができ、何滴かはプールに落ちた。風が吹き、水面が揺れる。風が止まっても水の波紋は消えなかった。
もう一度、ジオの名前を呼ぶ。するとプールのほぼ中央から、ゆっくりと頭だけが浮かんだ。表情までよく見えないが、それは確かにジオだった。
「また町に行きたい。今度は離れたりしないから。今度はずっとあの町にいる! だからもう一度連れていって!」
「離れすぎてしまったよ。きっといななきのほうが先に、ジェシカを連れていってしまうだろう」
ジオの声は泣いていた。ジェシカも泣いた。
いななきが轟いて、影が上空に飛び上がった。ばりばりと音がしたので見てみると、プールサイドに馬がいた。後ろ脚だけで立っていななき、荒い鼻息を吐き出して、黒い瞳を壮絶に揺らしている。ジェシカはもう、声さえ出せず、祈りの言葉も忘れて、ただ呆然と馬を見ていた。
もがくように馬が走りだし、ジェシカの直前で顔を下ろし、上げる反動で彼女を浮かした。されるがまま身を任せ、ジェシカは馬の背中に乗った。
ジオの名前が唇の隙間から洩れる。揺れる馬の背中からプールを見ると、ジオがじっと見つめていた。
「迎えにいくよ。ジェシカを迎えに行く。そこから連れ出してあげるよ。赤い屋根の町へ、ジェシカの幸福な思い出へ、永遠の水のなかへ、連れていってあげるよ」
声がした。誰の声か分からなかったが、きっとジオだろうと思った。
馬が上空高く跳び上がり、プールが見えなくなった。夜風が少しだけ気持ちいい。ジェシカは自分の体を見た。急いでいたとはいえ、黒いワンピースを着たのは間違いだった。闇に溶けてしまって自分の体が見えない。馬の揺れに合わせてがくがくと上下する白い脚だけが、夜のなかに妖しく浮かんでいる。
ジェシカはずっと自分の脚を見ていた。やがてそれが自分のもののように思えなくなり、ついには白い脚だけを落としてしまった。地面に落ちたそれは白く光っていて、馬がどんなに遠くへ行ってもなくならない。いつかまたジオに会えたら、一緒に取りに来ようと思った。それが自分の人生なのだと考え、ジェシカは目を閉じる。
いななきが、聞こえた。