『七年の豊穣、七年の飢餓 〜予言の夢を見た公爵と、自ら追放を選んだ悪名令嬢〜』
七頭の肥えた牝牛がナイルの川岸で葦を食み、やがて水底から這い上がってきた飢え衰えた七頭の牝牛に呑み尽くされる――旧約聖書、創世記に記されたヨセフの予言を彷彿とさせる夢だった。
だが、公爵が見た夢は、もっと冷酷で、甘やかな毒に満ちていた。
「七年間、信じがたいほどの豊穣が続く。普段の二倍、いや三倍もの黄金の穂が実るのだ」
眠りから覚めた公爵の額には、冷たい汗が脂のようにへばりついていた。
その年は、最愛の娘――類まれな知性と慎み深さを持つエルツェが、十二歳にして第一王子との婚約を取り交わした記念すべき年でもあった。王家との絆は揺るぎなく、領地は富み、家の権勢は並ぶ者なしと誰もが持て囃す絶頂のとき。
夢の中の天告は、そこで終わってはいなかった。
豊穣の七年の後には、大地が干からび、骨すら砂になるほどの七年の大飢饉が続く、と。
公爵は誰にも夢の全容を語らなかった。ただ、側近たちに命じて領内の大穀倉を密かに増築させ、余剰となった穀物を底値で買い集め始めた。
「閣下、今年は神の祝福を受けた奇跡の年です! 畑という畑から、昨年の三倍もの麦が収穫されております!」
代官たちの浮かれた報告に、公爵は笑わなかった。
一年、また一年と、夢は正確無比に現実となった。麦は溢れ、果実は枝をへし折り、酒は水のように湧いた。あまりの豊作に穀物の市場価格は暴落し、周辺の貴族たちは贅沢に溺れ、広大な農地を遊興のための庭園や別邸へと変えていった。
「麦など幾らでも生えてくる。それより美しい薔薇と異国の珍獣を囲うのだ」と。
公爵だけが、狂ったように巨大な地下倉を掘り進め、乾燥させた穀物に塩と防虫の香草を混ぜて封じ続けた。周囲からは「富に目が眩んだ守銭奴」「娘の輿入れを前に狂ったか」と嘲笑された。
そして、エルツェが十九歳を迎えた秋。
七度目の豊穣の終わりを告げる収穫祭の夜、公爵は成人した娘を執務室に呼んだ。
「エルツェ。お前が王子殿下と交わした婚約の証である指輪を、父に見せてみなさい」
豪奢な青銀の瞳を持つ娘は、静かに細い指から指輪を外し、公爵の机に置いた。その顔には、浮かれた貴族社会で育った令嬢とは思えぬ、冴え冴えとした諦念が宿っていた。
「お父様。来年の春には、いよいよ王宮に上がることになっております。……ですが、王都の空気は淀んでおりますわ。殿下は毎夜の舞踏会に明け暮れ、国庫の底が見え始めていることにも気づいておられません」
「そうだ。そしてエルツェ、来年からこの国には、草の一本も生えぬ飢えの冬が七年間続く」
公爵の告白に、娘は驚きもしなかった。七年間、父が人目を忍んで積み上げてきた穀物の山を、彼女はずっと見つめていたのだから。
「殿下は、我が家の蓄えを当てにしておいでです。先日も『公爵家の蔵を開けば、国中の民に豪勢な施しができる。我が治世の誉れとなるだろう』と、無邪気にお笑いになりました」
「施すではない、奪う気だ。大飢饉が訪れれば、王家は我が領地に兵を差し向け、飢えた民の目を逸らすために我が家を『独占の罪』で断罪し、穀物を強奪するだろう」
公爵は指輪を机の引き出しの奥へと押し込んだ。
「エルツェ、殿下との婚約を破棄しろ。罪をすべて我が家に被せ、お前を『不義の娘』として追放する」
「……お父様?」
「お前は名を変え、この七年で築き上げた東の砦へと向かえ。あそこには王宮ですら知らぬ、百万人を三年間養える穀物と、浄水のための魔法具が眠っている。飢えに狂った人間が最初に喰らうのは、綺麗事を語る王侯貴族だ。七年後、国が骨だけになったとき、その命の糧を握っている者が、真の玉座に座る」
公爵の冷徹な眼差しに、エルツェは静かに微笑んだ。十二歳のあの日から、父の異様な執念の背中を見て育った娘の血には、すでに王太子妃の器を遥かに超えた「支配者」の冷酷さが宿っていた。
「承知いたしました、お父様。殿下には、私が他の騎士と密通したという下品な証拠を握らせて差し上げましょう。あの見栄っ張りな王子は、喜んで婚約破棄を叫ぶはずですわ」
その年の冬、最後の青草が枯れた。
翌春、空からは一滴の雨も降らず、大麦の芽は大地を突き破ることなく土の中で腐った。
王都が餓死者の呻きで満ち始めるのと時を同じくして、公爵令嬢エルツェの追放劇が、宮廷を揺るがす醜聞として幕を開けたのだった。
◇◇◇
王立劇場の特等席で催された大夜会。
シャンパンの泡が金色の光を散らし、着飾った貴族たちが豊穣の余韻に酔いしれる中、その断罪劇は予定調和のように幕を開けた。
「エルツェ・フォン・ローゼンバーグ! 貴様のような不貞の悪女を、我が妃として迎えるわけにはいかん!」
第一王子リュシアンの怒声が、オーケストラの演奏を断ち切った。
彼の傍らには、いかにも可憐で庇護欲をそそる下級貴族の娘が寄り添い、エルツェを怯えたような目で見つめている。
周囲の貴族たちは息を呑み、次いで嘲笑の目をエルツェに向けた。
七年ものあいだ「守銭奴の娘」と侮られ、贅沢な流行のドレスも着ず、舞踏会でも愛想を振りまかなかった冷淡な公爵令嬢。彼女が近衛の若い騎士と密通していたという密告の手紙と、寝室から見つかったとされる逢瀬の証拠品が、王子の足元に撒き散らされていた。
もちろん、すべてエルツェ自身が周到に仕掛けた罠だった。
「身に覚えのない言いがかりにございます、殿下」
エルツェはあえて震える声を作り、青銀の瞳を伏せた。
プライドの高い令嬢が屈辱に耐えかねている――リュシアンにはそう見えたに違いない。彼は勝ち誇った笑みを浮かべ、胸を張った。
「見苦しいぞ! 父上、この不義密通の証拠の数々、最早弁明の余地はありますまい! ローゼンバーグ公爵の専横にも目に余るものがある。この売女をただちに平民へと落とし、東の不毛なる荒野へと永久追放といたしましょう!」
玉座に座る国王は、深くため息をつきながら頷いた。
実のところ、王家は豊作続きによる財政の緩みで、莫大な浪費を重ねていた。公爵家が蓄えているとされる富を没収する口実を、王家としても喉から手が出るほど欲していたのだ。
「……決定だ。エルツェ、二度と王都の土を踏むな」
冷たい宣告が下った瞬間、エルツェは床に跪き、深々と頭を垂れた。
伏せられた前髪の奥で、その唇が微かに吊り上がっていたことに、誰一人気づく者はいなかった。
(さようなら、無知なる豚たち。……飢えの味を、骨の髄まで楽しむといいわ)
追放から半年。
エルツェ改め「エリス」は、東の国境にそびえる黒鉄の要塞――かつて魔獣避けの廃墟と化していた砦の天守に立っていた。
眼下に広がるのは、見渡す限りの赤茶けた大地。
空には分厚い雲一つなく、焼きつくような太陽が容赦なく地表を炙っている。春に蒔かれた種はことごとく枯死し、秋の収穫など砂粒ひとつ残っていなかった。
大飢饉の、一年目。
「エリス様。王都からの密偵が戻りました」
背後から音もなく現れたのは、黒衣をまとった青年だった。かつて王宮で「エルツェの密通相手」として汚名を被り、共に王都から姿を消した公爵家の筆頭隠密、ギルバートである。
「報告を」
「王都のパンの価格は、昨年の十倍に跳ね上がっております。近隣の農村では家畜が食い尽くされ、すでに餓死者が出始めました。リュシアン殿下は『公爵家が穀物を隠匿している』と騒ぎ立て、兵をローゼンバーグ本領へ差し向けたとのことです」
「お父様のところへ?」
エリスは冷たく微笑んだ。
「愚かなこと。父がそんな脅しに屈するはずもないのに。領民を養う最低限の麦だけを残し、本邸の地下倉はとうに空っぽよ。王家が手に入れたのは、埃と古びた木樽だけだったでしょうね」
「左様でございます。怒り狂った殿下は公爵閣下を軟禁処分といたしましたが、穀物が見つからぬ以上、王都の飢えはどうにもなりません。今や王宮の前には、パンを求める民衆が押し寄せて暴動寸前です」
ギルバートの報告を聞きながら、エリスは砦の地下へと続く重厚な鉄の扉を見つめた。
この足元には、父と自分が七年間かけて運び込み、乾燥と魔法の結界で封じた数百万石の黄金の麦が眠っている。さらに、深層の地下水脈から引き上げた清廉な水を蓄える巨大水瓶と、それを循環させる水耕栽培の温室。
砦の周囲に集められた数千人の難民たちは、エリスが差し出す一杯の温かい麦粥と引き換えに、狂信的な忠誠を誓う兵士となり、職人となり、開拓者となっていた。
彼らにとって、エリスは不義の元令嬢などではない。
地獄に現れた唯一の『豊穣の女神』だった。
「ギルバート。王都の商人たちへ、密かに『東の砦で麦を売っている』と噂を流しなさい」
「……王家に知られますが、よろしいのですか?」
「ええ。ただし、金貨では売らないわ。穀物一袋につき、優れた職人十名、あるいは頑丈な鉄と魔導具を引き換えの条件としなさい。金など、パンが買えなくなればただの光る石ころ。この砦に必要なのは、来たるべき冬を生き抜くための『力』よ」
エリスは細い指先で、乾いた風をすくい取った。
「飢えが極まる三年後、王家は必ず我が砦にすがりついてくる。自ら捨てた女の足元に跪き、一粒の麦を乞うためにね」
冷酷な瞳の奥に宿る青い光は、飢餓の時代を統べる、新たな覇王の輝きを放っていた。
◇◇◇
大飢饉の三年目。
かつて「黄金の穀倉」と称えられた王国は、完全に死に体と化していた。
緑豊かだった平原はひび割れた荒野となり、並木道は樹皮すら剥ぎ取られて白骨のように立ち枯れている。犬や猫はもちろん、草の根や土まで煮て啜る民が道端に転がり、王都の大通りには悪臭とハエが満ちていた。
貨幣経済はとっくに崩壊していた。
どれほど純度の高い金貨の袋を積み上げようと、一握りのカビたライ麦すら買えない。王侯貴族の豪奢な屋敷の壁は剥がされ、宝石は一切れの干し肉と物々交換された。
そんな滅びゆく国の東端――。
周囲を痩せた岩山に囲まれた「黒鉄の要塞」の城門前には、今や長蛇の列ができていた。
だが、そこにあるのは絶望ではなかった。
「番号札順に前へ進め! 列を乱した者は配給を後回しにする!」
規律正しく整備された鎧を纏う精鋭の衛兵たちが、整然と群衆を誘導している。
大釜から立ち上る湯気。ふっくらと炊き上げられた麦と干し肉のスープの香りが、風に乗って漂うたびに、並ぶ人々からすすり泣きが漏れた。
ここ、東の砦だけが、飢餓の世界にぽっかりと浮かぶ「生きた島」だった。
エルツェが放った噂を聞きつけ、飢え死にを逃れて集まってきた鍛冶師、農学者、魔導技師、腕利きの元騎士たち。彼らは命の糧と引き換えに要塞の拡張に尽力し、今や砦の周囲には堅牢な防壁と、地下水脈を利用した広大な地下農園が完成していた。
天守の執務室で、エルツェ――エリスは、羊皮紙の帳簿にペンを走らせていた。
ノックの音とともに、ギルバートが入室してくる。その顔には、隠しきれない冷笑が浮かんでいた。
「エリス様。……王都より、特使の一行が到着いたしました」
「特使? ずいぶんと遅かったわね。宰相あたりかしら?」
「いいえ。自ら騎馬を駆り、みすぼらしい護衛を数名連れてやって参りましたのは――リュシアン第一王子殿下ご本人でございます」
エリスはペンを置き、くすりと小さく笑った。
「あら、殿下自ら? あの大夜会以来、三年ぶりの再会ね。……通しなさい。謁見の間へ」
砦の大広間。
かつては冷たい石造りだったその部屋は、今や要塞の心臓部として威容を誇っていた。
重厚な扉が開き、入ってきた男の姿に、控えていた衛兵たちすら眉をひそめた。
そこにいたのは、かつて豪奢な刺繍の上着を羽織り、香油の匂いを漂わせていた華やかな第一王子の面影など微塵もない、薄汚れた男だった。
頬はこけ、目は血走り、泥にまみれた外套の裾は擦り切れている。王家の紋章が入ったペンダントだけが、かろうじて彼が王族であることを示していた。
リュシアンは玉座のような豪奢な椅子に深く腰掛ける女を見上げ、息を呑んだ。
「お前は……エルツェ……? 本当に、エルツェなのか……!?」
そこに座っていたのは、かつて自分が「不貞の悪女」として追放したはずの元婚約者だった。
みすぼらしく野垂れ死んでいるはずの女は、上質な羊毛のドレスをまとい、肌には艶やかな生気が満ち、青銀の瞳を冷ややかに輝かせている。
「お久しゅうございます、リュシアン殿下。いえ……今はエリスとお呼びいただこうかしら」
「生きて……いや、そんなことより! この砦の噂は本当だったのだな!? ここに山のような穀物が眠っているというのは!」
リュシアンは飢えた獣のように目を血走らせ、壇上へ駆け寄ろうとした。
だが、即座にギルバートの抜き身の剣が、王子の喉元にピタリと突きつけられる。
「控えよ。エリス様の御前である」
「ひっ……!?」
リュシアンは情けなく腰を抜かし、石畳の上にへたり込んだ。
「き、貴様、この私を誰だと思っている! 王太子たる私に剣を向けるなど反逆罪だぞ! エルツェ、その不敬な護衛を下がらせろ!」
「反逆罪?」
エリスは楽しげに喉を鳴らした。
「殿下、お忘れですか? 私は三年前、あなたによって平民へと落とされ、永久追放となった身。王国の法など、この砦には届きませんわ。それとも……飢えすぎて記憶まで擦り切れてしまわれましたの?」
「ぐっ……」
言葉に詰まる王子に、エリスは冷然と告げた。
「単刀直入に用件をお伺いしましょう。王都からわざわざこのような最果てまで、何をしにいらしたのですか?」
リュシアンは屈辱に唇を噛み締めながら、持参した革袋の口を解き、中身を床にぶちまけた。
ジャラジャラと鈍い音を立てて転がったのは、王家の宝物庫から持ち出したであろう、眩いばかりのダイヤモンドやルビーの首飾りだった。
「これを受け取れ! 王家に代々伝わる秘宝だ! これをすべて貴様にやる! だから……この砦にある麦を、王都へ運べ! 民が、兵が飢えているのだ! 今すぐ食糧を差し出せ!」
床に散らばる宝石の山。
かつてなら一国を買い取れるほどの財宝を、エリスは欠伸でもしそうな退屈そうな目で見下ろした。
「宝石……ね」
エリスは傍らの小卓から、固く焼き締めた一枚の黒パンを手に取った。
そして、それをリュシアンの足元――宝石の山の真ん中へと、ぽとりと放り投げた。
「殿下。その宝石をいくら齧っても、腹は膨らみませんでしょう?」
「な……」
「三年前に申し上げたはずです。金や宝石など、パンが買えなくなればただの光る石ころ。この砦では、そんなゴミ屑と麦を交換する法はございません」
リュシアンの視線が、床に落ちた黒パンに釘付けになった。
喉がごくりと鳴る。王宮でももはや満足な食事など口にできていなかったのだろう、彼の理性が、目の前の糧食に悲鳴を上げていた。
「た、頼む……エルツェ……! 悪かった! あの婚約破棄は間違いだった! お前を王太子妃に戻してやる! 王妃にしてやるから! だから食糧を……そのパンをくれぇッ!」
王族の誇りも何もかも投げ打ち、リュシアンは床に這いつくばって黒パンに手を伸ばした。
だが、その伸ばされた手の上に、エリスの靴の先が容赦なく踏み下ろされた。
「ぎゃっ……!?」
「浅ましい豚」
エリスは氷のような声で見下ろした。
「王妃の座? 飢え死に寸前の国で、泥をすするような王妃に誰がなりたがると思いますの? ……殿下。穀物が欲しければ、取引の条件を教えて差し上げますわ」
エリスは足を退け、冷酷な笑みを浮かべた。
「第一に、王都に軟禁されている我が父、ローゼンバーグ公爵の即時解放と、名誉の完全回復」
「あ、ああ……! 父上にはすぐに命じさせる!」
「第二に、現在の王家の統治権の放棄。国王の退位と、あなたの王位継承権の剥奪」
「な……なにいっ!? そ、そんなこと、認められるはずが――」
「認めぬなら、どうぞ王都へお帰りになって、その光る石ころでも齧りながら餓死を待ちなさいな」
エリスは背を向け、玉座へと戻ろうとした。
「ま、待て! 待ってくれ!!」
リュシアンは涙と鼻水を流しながら、エリスのドレスの裾にすがりつこうとした。
「認める……! 認めるから……食い物を……恵んでくれ……!」
地に頭を擦り付け、家畜のように命乞いをする元婚約者を見下ろしながら、エリスは静かに息を吐いた。
――父の予言した飢饉は、まだ四年間続く。
だが、その地獄を統べ、新たな秩序を築く玉座は、すでに彼女の足元に用意されていた。
「ギルバート。この男を豚小屋へ連れていき、薄い粥を一杯だけ与えなさい。……私たちの新しい『忠実な使者』として、王都へ返書を持たせるわ」
「御意」
引きずられていくリュシアンの絶叫が遠ざかる中、エリスは東の空を見つめた。
乾ききった大地の上に、彼女の支配する新しい帝国が、産声を上げようとしていた。
◇◇◇
リュシアンが砦の豚小屋で泥水をすするような粥を貪り、這々の体で王都へと返書を持ち帰ってから、事態は雪崩を打つように動いた。
王都に残っていた貴族たちも、すでに反乱を起こす気力すら残っていなかった。飢えに狂った民衆が宮殿の鉄柵を揺らし、近衛兵さえ職務を放棄して脱走する中、国王に選択肢などあろうはずもなかった。
王家による統治権の委譲。
国王の退位と、第一王子リュシアンの永久廃嫡。
そして、軟禁されていたローゼンバーグ公爵の全面的な名誉回復と、新政府の全権委任。
それらを記した降伏文書に国王が震える手で玉璽を押したその日、東の砦から王都に向けて、鉄壁の護衛に守られた数百台の輜重車が出発した。
荷台を満たすのは、黄金色に輝く乾燥大麦と、塩漬けの肉、そして解熱と滋養の薬草。
「女神の使いが来たぞ!」
「麦だ! 麦が届いた!」
骸骨のように痩せ細った民衆は、穀物袋を積んだ馬車の前に膝をつき、大地に頭を擦り付けて涙を流した。かつて「不義密通の悪女」と嘲笑った元公爵令嬢が、今や唯一の救世主として崇められる皮肉。エルツェの名は、飢え死にの淵から這い上がった民の心に、絶対の信仰として刻み込まれていった。
そして、夢告から数えて十四年目。
「七年の飢饉」の、最後の冬が静かに明けようとしていた。
王宮の謁見の間は、かつての退廃的な金銀の装飾が取り払われ、機能的で無駄のない、張り詰めた静寂に包まれていた。
玉座の前に立つエルツェの元へ、一人の老人がゆっくりと歩み寄る。
深く刻まれた皺と白銀の髪。しかしその背筋は鋼のように伸び、眼光はかつて夢告を受けたあの夜と変わらぬ鋭さを保っていた。
父、ローゼンバーグ公爵である。
「お父様」
エルツェが声をかけると、公爵は立ち止まり、慈愛と誇らしさに満ちた笑みを浮かべた。
「見事であったな、エルツェ。……いや、我が主よ」
「お戯れを。すべてはお父様が見たあの夢と、七年間積み上げてくださった備えがあったからこそです。私はただ、あなたが蒔いた種を育て、刈り取ったに過ぎません」
「いいや、種を蒔くのは誰にでもできる。だが、芽吹いた毒麦を冷徹に引き抜き、飢えた狼どもを従えて嵐を渡りきったのは、お前の才覚だ」
公爵は懐から、かつてエルツェが外した婚約の指輪を取り出した。しかしその宝石は砕かれ、代わりにローゼンバーグ家の紋章である「麦の穂と剣」を刻んだ新たな印章へと作り替えられていた。
「七年の豊穣は過ぎ去り、七年の飢餓も今日で底を打った。……今朝、天文学と水脈を司る技師たちから報告があったぞ。北の山々の雪解け水が戻り、乾いていた大地に微かな湿り気が宿り始めた、とな」
公爵の言葉に、エルツェは青銀の瞳を細めた。
玉座の背後にある大きなアーチ窓の外を見る。乾ききっていた空に、十四年ぶりとなる湿った重い雨雲が、ゆっくりと広がり始めていた。
「……長かった悪夢が終わるのですね」
「終わるのではない。ここから始まるのだ、お前の国が」
公爵が恭しく跪き、印章を掲げる。
それと同時に、広間に控えていた数十名の将軍、学者、元農民の幹部たちが、一斉に軍靴を鳴らして床に片膝をついた。誰一人として、旧王家を思い起こす者などいない。彼らが命を預け、腹を満たしてもらった主君は、ただ一人しかいなかった。
重い足音が響き、広間の隅から粗末な麻袋を背負った男が連れてこられる。
かつて第一王子と呼ばれていたリュシアンだった。
彼は今や、王宮の地下倉庫で毎日何百袋もの穀物を運ぶ、ただの荷担ぎ人夫に成り果てていた。贅肉は落ち窪み、かつての尊大な傲慢さは見る影もなく、エルツェの姿を見るだけで条件反射のように床へ平伏する。
「ひぃっ……! エリス様、本日の配給分の荷揚げは、すべて滞りなく……!」
怯え震える元婚約者を、エルツェは一瞥すらしない。
復讐の味など、とうに冷めきっていた。彼女にとって、この男はもはや憎むべき敵ですらなく、ただの「生きている荷物」に過ぎなかった。
「ご苦労様。下がってパンをもらいなさい」
「は、ははぁっ! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
這うようにして退出していく男の背中を見送りながら、エルツェはゆっくりと玉座へと腰を下ろした。
ポツリ、と窓ガラスに一粒の雨が当たった。
やがてそれは大地を叩く無数の水音へと変わり、十四年間乾ききっていた王国を、慈雨のカーテンが包み込んでいく。
「全領地に布告を出しなさい」
新しき女王――エルツェの声が、静まり返った広間に凛と響き渡った。
「保管していた種籾をすべての畑に配分します。民には農具を、大地には新しい種を。……飢えを乗り越えた者たちに、真の豊穣をもたらす時が来ました」
雨の匂いが、冷たい石造りの部屋に満ちていく。
命の糧を握り、飢餓の時代を支配した冷徹な令嬢の唇に、十四年ぶりに柔らかく、誇り高い微笑みが浮かんでいた。
(完)




