静観
舞は、真司に何と声をかければいいのか分からなかった。
テーブルの上には、正司のノートが開かれている。
そこには、事故の前の正司が、自分自身に対する周囲の認識が少しずつ薄くなっていると感じていたことが書かれていた。
それだけなら、勘違いだと片づけることもできる。
事故を前にした正司が、何かに追い詰められ、そう思い込んでいた。
そう考えることだってできる。
けれど――。
舞には、それだけでは済ませられないことがあった。
自分は、この記述に最初から気づけていたわけではない。
ノートは何度も見た。
一ページずつ確認し、すべて画像として保存した。
それでも、気づかなかった。
データ化したノートを見返したとき、初めてそこにある文字を認識した。
――ブラックホールが、重なって二つに見える。
――浅田には一つ。
そして、
――最近、人が私に気づくまでに時間がかかる。
文字は、最初からそこにあった。
消えていたわけでも、あとから書き足されたわけでもない。
ただ、自分が気づけなかった。
舞はノートに視線を落とした。
確認できることが、一つある。
「……父に聞いてみます」
真司が顔を上げた。
「浅田先生に?」
「はい」
舞はスマートフォンを手に取った。
「六年前のことだから、正確に覚えてるかは分かりませんけど」
正司と一緒に、あのブラックホールを観測していた父なら、何か覚えているかもしれない。
舞は父の番号を呼び出し、スマートフォンを耳に当てた。
その隣で、真司は舞に目を向けた。
舞は、
自分のことが心配で、こんな時間にここまで来てくれたのか。
真司は何も言わず、父のノートへ視線を戻した。
――最近、人が私に気づくまでに時間がかかる。
もし、父が書いていたことが本当だったとしたら。
周囲の人間は、本当に父に気づきにくくなっていた。
だとすれば――。
あの事故も。
車を運転していた相手が、父に気づくのが遅れたのだとしたら。
「……まさか」
真司は小さく呟いた。
父の事故は、
本当にただの交通事故だったのだろうか。
そして、
もう一つ。
自分にも、似たことが起き始めている。
コンビニの店員、弥生、タクシー。
そして、信号を渡っていたときの車。
その一つ一つは、偶然だと思っていた。
だが、父にも同じことが起きていたのなら――。
真司はノートを少し戻した。
――ブラックホールが、重なって二つに見える。
――浅田には一つ。
父だけに、
何かが違って見えていた。
そのころから、周囲の人間が父に気づくまでに時間がかかるようになっている。
どちらが先だったのだろう。
人から認識されにくくなったから、
父には違うものが見えるようになったのか。
それとも、
違うものが見えるようになったから、
周囲から認識されにくくなったのか。
そして、自分にも――。
そこまで考えて、
真司はノートから目を離した。
*
浅田正人は、鳴り始めたスマートフォンに目を向けた。
画面には、舞の名前が表示されている。
「もしもし」
『お父さん、今ちょっといい?』
「ああ。どうした?」
『昔、間宮先生とブラックホールを調べてたときのことなんだけど』
正人の手が止まった。
「正司と?」
『うん。ちょっと確認したいことがあって』
「何だ?」
電話の向こうで、舞が少し間を置いた。
『間宮先生が、観測したものの見え方について、お父さんたちと違うことを言ったことってなかった?』
「見え方?」
『うん。何か覚えてない?』
正人は眉を寄せた。
六年前のことだ。
正司と交わした言葉を、一つ一つ正確に覚えているはずもない。
それでも、記憶を辿った。
あのころ使い始めた、新型のX線観測衛星。
そこから送られてきた画像。
正司や研究員たちと、何度も確認したブラックホール。
そして――。
「……そういえば」
『何?』
正人は少し考えた。
「一度だけ、変なことを言ってたな」
『どんな?』
「ブラックホールを見ながら……二つに見えないか、みたいなことを言ってた気がする」
電話の向こうが静かになった。
『二つ?』
「ああ。ただ、正確な言い方までは覚えてないぞ。もう六年も前だからな」
『お父さんには?』
「一つにしか見えなかった」
正人は、さらに当時のことを思い出していた。
正司に言われて、自分も画像を見直した。
だが、どう見ても一つだった。
その場にいた研究員にも確認した。
観測所の職員にも聞いた。
「俺だけじゃない。その場にいた研究員も、観測所の連中も一つにしか見えてなかった」
『……間宮先生だけ?』
「そうなるな」
正人は椅子の背にもたれた。
「あのころは、X線観測衛星が新型に替わったばかりだったからな。画像の見え方も、それまでとは少し違ってた」
『うん』
「だから、正司が何か見間違えたんだろうって、その程度にしか思ってなかった」
正司自身も、それ以上強く主張しなかった。
だから正人も、深く考えなかった。
当時は、
それで終わった話だった。
「舞」
『何?』
「何で今、そんなこと聞くんだ?」
今度は、舞が少し黙った。
『……ちょっと、確認したかっただけ』
「そうか」
『ありがとう』
電話が切れた。
正人は、しばらくスマートフォンを見ていた。
六年前。
自分にも、研究員にも、観測所の職員にも一つにしか見えなかったブラックホールを、
正司だけが、
二つに見えると言っていた。




