瑠璃の蜘蛛 05
タイガは壁に凭れ掛かっていた体を起こすと、少し離れたところで立ち止まったままの青年に向き直った。青年は青い瞳で彼をまっすぐに見つめていたが、その瞳がただの一度も瞬きをしていないことに、タイガは既に気が付いていた。
人ではなく、恐らくは生物ですらないであろう青年。昨夜『リノ』という人を探しているとタイガに言った彼は、タイガが口を開くよりも先に「探シてイる女性がイるのデス」と言った。
「リノといウ女性ヲ知りませんカ? 黒イ髪ヲした、」
「あんたと同じくらいの年頃の貴族のお嬢さん?」
タイガが遮って言葉の先を続けると、青年は虚を突かれたように言葉を止めた。青い瞳がジッと無機質にタイガを見つめ、何かを考えるように黙り込む。瞬きもせずピタリと動きを止めた青年の姿に、タイガはふと彼に抱いていた違和感の正体に辿り着いた。
──虫だ。この男は、虫に似ているのだ。
まるで虫が人の形を取って人のように振る舞い、話しているような。青年に感じていた違和感の正体をやっと言語化できたタイガは、青年が再び口を開くよりも先に静かに言葉を続ける。
「街の人から聞いたよ。リノって人、もう亡くなってるんだってな」
「……イイエ、イイエ、リノハ、死んデなどイませン。私ハ彼女とずっト共にイルと約束ヲしたのデスから」
青年が頭を振って否定する。彼はタイガから目を逸らすと、丁寧に整えられていた髪の毛を乱雑に掴んで掻き乱し、イイエ、イイエ、と繰り返した。革靴の爪先が神経質に石畳を叩く。昨晩と同様に濃い霧がタイガと青年の周囲には蟠っていたが、それすらも鬱陶しいかのように彼はステッキを一度大きく振り回すと、音高く地面に打ち付けて、瞳を鋭く輝かせてタイガを睨みつけた。
──どうやら、「亡くなった」という言葉が随分とお気に召さなかったらしい。
豹変した青年の態度に、タイガは口の端を歪めるとさりげなく服の袂に手を突っ込む。乾いた紙のざらついた手触りが指先に触れる。それは多くの島で使われている表面が滑らかな紙ではなく、タイガの故郷であるシウン皇国で作られる特殊な魔法式用の札であった。タイガがその式札に魔力を流し込めば、刻まれている魔法回路が即座に反応し、タイガと青年の間に彼が操る式が姿を現すのだ。
警戒するタイガに、しかし青年はそれ以上攻撃的なそぶりをすることはなかった。タイガが臨戦態勢になったのを見て取ると、彼はハッとしたように体を強張らせて、己を落ち着かせるように一度大きく息を吐く。その仕草は妙に人間くさく、タイガからも警戒心を僅かに削いだが、それでも二人の間に漂う空気は、霧の夜のためだけではなくひどく重かった。
「……申シ訳ござイませン。あなたヲ害するつもりハ、私にハなイのデス。どうカ信ジテくださイ」
「そう言われて『はい、そうですか』と言える程お人好しじゃないんだよな、俺。……でもまぁ、証拠なら見せてやってもいいけど」
「証拠、デスカ? ……リノが、そノ、亡くなったトイう?」
「あぁ」
タイガは青年の弱々しい声に頷くと、鞄から今日の昼間に買った簪を取り出した。銀で蜘蛛を模った土台が付けられた平打ち簪は、夜露に触れると滑らかな銀色を鈍く輝かせる。
「そレ、ハ……」
「今日蚤の市で見つけた、『リノ』さんの簪だよ」
言いながら、タイガは無造作に簪を青年に向かって放り投げる。慌てて受け止めた青年は、簪を掌に乗せたままマジマジとしばらくの間見つめると、絞り出すような声で「あァ……」と嘆息した。
「そう、デシた……。リノ、ハ……彼女ハ、もう……」
青年の瞳から、一筋の涙が零れる。簪に落ちた雫を青い指でそっと拭った青年は、タイガを見ると深く深く頭を下げた。タイガが何か言葉をかけようと口を開いた瞬間、二人を包んでいた霧が唐突にその濃さを増す。四方八方から押し寄せた真白い霧が、己の体も満足に見えない程の密度となってタイガと青年を覆い隠す。
タイガが思わず片手で顔を庇いながら酒場の入口の方にすり足で下がると、また急に霧は薄くなっていった。呆然と目の前の光景を眺めるタイガの視線の先、僅かに湿った空気だけを残して、数秒前まで霧が立ち込めていたとは思えないほどの眩しい月夜が彼の眼前には広がる。至って健全な、静かで快い冬の夜だ。背後の酒場からは、先程までは聞こえなかった賑やかな人の声が、壁を通して聞こえてくる。
──そして、まるで霧と共に解けてしまったかのように、青年の姿はどこにもなく。
ただ一本の簪が、美しい青い瞳と背の紋様を新たに宿して、路上に寂しく転がっていた。
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翌日、タイガはいつも通りに宿屋の二階で目を覚ました。体を大きく伸ばしながら見上げた窓から覗く空は、抜けるような快晴だ。今日もきっといい日和になるだろう。
「さて、今日は何をするかな。……こいつの墓でも見つけてやらないとかなぁ」
こいつ、と呟くタイガの視線の先には、ベッドサイドの小机がある。そこには瑠璃の蜘蛛が飾られた簪が一本、朝日を浴びて美しく輝いていた。
──結局俺は、何でこの簪をそのままにしなかったんだろう。
タイガは昨晩の光景を思い出す。地面に転がっていた簪は、そのまま放置してもきっと誰かが拾っていただろう。元々美しい細工がされた簪だったが、蜘蛛の瞳と背に瑠璃が嵌められた姿は尚のこと見事だ。後ろに刻まれた故人の名があったとしても削るなりしてしまえば誰にも分からない。そうして誰か、この簪をこれからも実用品として使ってくれる人のところに渡るのが、もしかしたら簪にとっても幸せなことかもしれない。
だが、タイガは簪を拾ってしまった。己がお金を出したとか、そんなことは関係がなかった。ただ、この簪は事情を知る人の手にあるべきだと、何故だかそう感じてしまったのだ。最初にこの簪を買った時のように。
「うーん、俺って結構お人好しなのかも。……ていうか、お人好しか。ユキカゲさんやクオンが聞いたら叱られるだろうな……」
古い知己のことを思い出しながら、タイガは苦笑混じりに簪を取り上げる。プリズムを散らして柔らかく輝く簪を袂に突っ込むと、タイガは今日も美味しい朝食を食べるべく、部屋を後にした。
【瑠璃の蜘蛛 了】




