8話 母と娘
鬼と仏、カルラの二面性。これもまた、彼の女の魅力です。
猪汁の主役は、何と言っても猪肉の脂身である。ぷるんと白く弾むそれを噛みしめれば、豚肉とは一線を画す、まったりと絡みつく甘みが口の中に広がる。濃厚にして芳醇、飼いならされた豚とは一線を画する野生が持つ鮮烈な旨味。
しかしそれでいて驚くほどに切れが良く、その後に肉本来が持つ滋味あふれる味が上塗りするように口腔を支配する。そんな猪肉が、厚さ八ミリほどという絶妙の厚みでもって二口に収まる大きさに切られ、盛られていた。
主役の猪肉とともに汁を飾るのは大地の恵みの野菜たち。ねっとりとした食感と独特の甘み、そしてどしっと腹の底に据わる食べ応え、空腹の胃に確かな満足感をもたらす里芋。繊維を断ち切る食感と、香ばしい香りが魅力のごぼう。
汁そのもののコクを高める出汁の素、しゃくしゃくとした小気味よい触感、不思議な旨味と香りを凝縮させたしめじ。最後にさっぱりと全体に風味をつけて、自身も甘味と辛さをバランスさせた食材に変わるネギ。
それらすべてを濃厚な猪の骨と香味野菜をベースにしたスープで煮込み、最後に味噌で味を整えた絶品の猪汁。いっぱいに広げた大人の手のひらより少し大きいくらいの椀に盛られ、旨そうな香りと湯気を立ち上らせている。
同じ膳にのるのはニンニクを酢と溜まり醤油で漬けた香の物、玄米に三割の麦を混ぜた麦飯、そして細く麺のように切られたくずもち――たっぷりのきな粉と、蜂蜜を倍量かけた葛切りだ。
それらを前にして、見るからに貧相な風体の母娘が、息を飲んで目を丸くしていた。
「いいから、冷める前に食べな」
娘が驚いたような表情でカルラを見つめ、続いて母親へと視線を移す。
「あなた様は一体……私たちのような者に、何をさせようというのでしょう」
娘の視線を受けた母親は、不安げだった表情を引き締める。そして娘と視線を合わせて一つ頷くと、何かを決意したように目に力を込めてカルラを見据え、問いかけた。
カルラは口入屋での要件をすでに済ませ、シンザとゴンタが待つ居酒屋の席に腰を下ろしていた。二人にも母娘と同じものを注文し、先に食事を取らせている。自身の前にあるのは、炙った烏賊の一夜干しと、徳利に入った焼酎だけだ。
「まあ、気になるだろうね」
そう言って、湯呑みに注いだ焼酎をひと息にあおる。
「ぷはぁ、利くねぇ」
左肘を机に乗せ、右手で徳利を傾けながら、再び湯呑みに焼酎を注ぐ。
「なに、ウチで働いてもらうだけさ……」
注ぎ終えた徳利を置き、木皿に盛られた炙り烏賊をひと口放り込み、続けて湯呑に口を付けた。
「ちなみに聞くけどさ。あんた、今は何の仕事をしてんだい」
探るような視線を向けられ、母親は緊張した様子で唾を飲み込み、口を開いた。
「は、機を織っております。あの……リュウドウ様の織部司で……」
「なんだい、あんた機織女かい。これはこれは……あのノータリンどもじゃ、あんたの価値は理解できなかったってか。こいつは願っても無いお宝だね」
鳳財寺で本格的に生糸工場を稼働させてから五年。生産された生糸の多くが栄の商人を通じて、各地へと流通していた。
その栄、そして周辺一帯を治めるのが、リュウドウの一族だ。その中でも分家当主でありながら本家をも凌ぐ権力を握る男――リュウドウ・ゴウケン。出家してゴウケン入道と呼ばれている老将である。
カルラは赤星の莫大な資金力と、己の美貌と肉体のすべてを交渉の駒として使い、ゴウケンに取り入った。その巧みな誘惑に加え、カルラが示すこの世にはない新しい発想に、ゴウケンは深く感銘を受けた。
結果、彼女は定められた関税を納めることを条件に、栄の街に物流拠点を設ける許しを得る。同時に、リュウドウ氏の領内にある港の使用権や、座を介さず製造から物流までを一貫して営む「商い勝手自由」の免状までも手に入れたのだ。
さらにカルラは、リュウドウと赤星の経済的な結びつきを確かなものとするため、織物業を興し、絹を織らせた。
それが、眼の前の女が働く織部司だ。
栄は生産地から目と鼻の先であり、輸送コストなどあってないようなもの。赤星の生糸は大陸から輸入される高級生糸よりも、質、量、価格のすべてにおいて勝っている。その結果、リュウドウ一族は絹の反物を売ることで、莫大な利益を上げることになったのだ。
権力者と付き合うならば、賄賂を渡すより、利益を生み続ける事業を共に営むほうがいい。相互依存の経済関係は、一時的な大金よりもよほど強固な結びつきを構築できる。
そしてこの母親は――その織部司で、四年ものあいだ、絹を降り続けて来た中堅の職人だった。
「住むところは長屋がある。給金も弾むよ。よほどの贅沢をしなきゃ、二人で暮らして十分に余るくらいは出せる」
カルラは烏賊のゲソを指先で摘まんで、立てるようにしてゆらゆらと揺らして言うと、半分を齧って皿に置く。
「あ、あたしみたいな端女のためにそんな……」
母親は思わず身をすくめ、膝の上で両手を握りしめた。
「なに言ってんだか」
カルラは湯呑みを口に運び、ひと息であおると、軽く息を吐いた。
「生糸から反物にするだけで、いくら儲かると思ってんだい」
音を立てて湯呑みを置くと、指先で机をとん、と叩く。ほんの少し、苛立ちの色が見えた。
「金を生む働き手を大事にしないで、いったいどうすんのさ」
母親は言葉を失い、ただ目を瞬かせるばかりだ。隣では娘が、縋るように母を見上げて袖を掴んでいる。
カルラはその光景をどこか慈しむような眼差しでみつめながら、残った烏賊のゲソを口に放り込んだ。噛みしめるほどに、独特の旨味と香ばしさが鼻を抜ける。
嫌々働かせて得られる利益など、たかが知れている。働く者が自ら知恵を絞り、力を尽くしてこそ、商いは大きく育つ。カルラはそうして武力も、金も、人も――そのすべてを築き上げてきたのだ。
「どうだい。悪い話じゃないだろ?」
彼女は不敵に、口の端を吊り上げた。
慈悲ではない、これは投資だ。だが、この程度の理屈すら、この世界では物好きの戯言として扱われる。
ほとんどの人間は教育を受ける機会すら持たず、道徳など僧侶が説法の中で口にする曖昧な言葉でしかない。腹が減れば奪い、力があれば踏みつける。それが当たり前の世だ。
例えば詐欺師がいるとする。
誰かの弱みに付け込み、言葉巧みに財産を巻き上げて姿をくらましたとしよう。
その行いは、善か悪か。
この世界の答えは決まっている――詐欺師が善、騙されたほうが悪だ。
そう、騙された者が悪いのだ。悪意を見抜けず、奪われた財産を取り返す力もなかった――つまり、無力であること自体が罪なのだ。知恵を絞り、相手を欺いて財を巻き上げた詐欺師の手腕は、糾弾されるどころか称賛すらされるだろう。
他人から奪うことを是とする社会では、それが自然なのだ。
詐欺を禁じる法はない。もしそれを悪と断じれば、いざ自分が困ったときに他人の物を奪えなくなる。それは、この世界では致命的だ。眉をしかめて詐欺師を罵る者がいるとすれば、それは説法を生業にする坊主か、奪う力を持たない者の妬みだろう。
——だからこそ。
子供のうちに、最低限の規範と道徳を植え付けることが、どれほど大切か。カルラはこの世界で生きる貧しい者らと出会うことで、義務教育という仕組みが持つ力を、嫌というほど思い知らされていた。
母と娘から視線を外し、物思いにふけりながら焼酎を煽る。そんなカルラの斜め向かいに座る娘は、見たこともないごちそうを前に、こくりと唾を飲み込んだ。母親が促すように小さく頷くのを見て、恐る恐る汁を啜り、肉を一口、ちいさく噛み切る。
「お……おいひい」
娘の張り詰めていた表情がふっと緩み、あどけない笑顔がこぼれ落ちた。
「子供は、そうやって笑っているのが一番さね」
目元を緩め、口元に笑みを浮かべながらカルラは母親を見やる。
母親は静かに涙を流しながら、同じように汁を啜り、肉を一口。ゆっくりと味を確かめるように咀嚼し、小さく、ぽつりと漏らした。
「……ほんと、温かくて、美味しい……」
そっと汁椀を置き、背筋を正して深く頭を下げる。
「カルラ様……ありがとうございます。娘ともども、身を粉にして働かせていただきます」
カルラは空になった湯呑みに焼酎を注ぎながら、母親に向けて小さく頷いた。続けて、我が子を見つめるような慈愛に満ちた視線を、娘に向けた。
「ああ、頼んだよ。ただし、無理は禁物だからね。体を壊したら、働けなくなるだろ?」
湯呑みを傾け、焼酎をひと息で飲み干す。
「元気に働いて、末永く――あたしを儲けさせておくれ」
向かいに座る従者二人が箸を止め、無言のままカルラに羨望の眼差しを向ける。そして、互いに小さく頷き合った。
二人は改めて母親と娘へと視線を移し――今度は大きく、二度頷く。
「……さすが我が主、カルラ様だ」
どちらとも取れぬ、従者の小さな男の声が口入屋の喧騒の中に落ちて――誰の耳に入るでもなく、すぐに消えた。
カルラはほんの少し得意げな顔で、ゴンタへと視線を向ける。彼女は人の何倍も優れた聴覚を持つ強化人間――地獄耳の持ち主なのだ。
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