21話 多布施川
霊峰背振山を源流とする嘉瀬川。
夢幻山鳳財寺の西側、赤星の屯所脇を流れ下るその大河は、少し南へ下った地点で分流されて、一方は人工河川、多布施川となり栄へと至る。
赤星が生産する品々の多くはこの川によって運ばれており、まさに彼らに莫大な富をもたらす黄金の動脈である。そして同時に、栄の街に暮らす者たちにとって、命を繋ぐ大切な水源――上水でもあった。
その分流の取水口には、棒出しと呼ばれる堅牢な堤防が両岸から半円を描くように川の中央へ向かって突き出している。
ここで川の流量を絞って治水の役割を果たすと同時に、川幅を狭めることで水位を上げ、水の流れを中央へと誘導する。これにより十分な水深と勢いが生まれ、平地の川へと淀みなく大量の水を運ぶことができるのだ。
一糸乱れぬ行軍で屯所を出立した赤星の一団は間もなくして、麓にある久池井の町へと到着していた。この街の川港、そこから船で移動するためだ。
「乗船開始!」
号令とともに、兵たちはあらかじめ手配されていた大型船二隻と、中型船一隻へ、次々と乗り込んでいく。武器や拒馬、土嚢などの物資も、港の人夫による手伝いもあって手際よく積み込まれていった。
目指すは、高木瀬の森厳寺。
この豊かな水流に乗って一気に川を下り、寺のすぐ近くで下船して徒歩で布陣するという寸法だ。川を使えば徒歩よりも早く到着できる上に疲労も少なく、大量の物資と共に運ぶことができる。
地の利と物流網を利用した、赤星らしい迅速にして合理的な進軍であった。
到着した森厳寺は、街道脇に環濠を巡らせた要塞さながらの寺であった。周囲には広大な農地を潤す水路が縦横に走り、街道を断ち切るように水運の小運河が流れている。
主要な橋の袂には、既に置き盾や土嚢、そして拒馬が隙間なく設置されていた。幅五メートルほどの小運河を天然の堀に見立て、それを挟んで強固な防御陣地が築かれている。
「これはこれはカルラ殿、お久しゅうござるな……今日もまた、なんとも艶やかな姿だ。その姿を目にできただけでも、参じた甲斐があったというもの」
声をかけてきたのは、蛎久の惣領、カキヒサ・ヒラフであった。総髪を後ろで一本に束ね、馬の尾のように垂らした流行りの髪型。黒髪に混じる白髪との対比が美しく、整った眉の下には氷のように冷徹な瞳を宿している。
知性と危うさとを同居させたような、渋い中年男だ。
「ふふ、相変わらず気障な台詞を吐くおっさんだね。けどまあ、来てくれてありがとよ。頼りにしてるからね」
カルラは不敵に笑うと、ヒラフの首に腕を回し、力強い抱擁と共にその背を叩いた。ヒラフもこの時代にしては長身の部類だが、二メートル近い体躯を誇るカルラと並べば、かなりの差がある。
「おおお! カルラァ!」
突如、野太い咆哮とともに、台地を踏み抜かんばかりの足音が近づいてきた。樽のような腹に広い肩幅、分厚い胸板。首が筋肉に埋没したかのような屈強な体躯に、無精髭を蓄えた四角い顔。
猿島党の惣領、サルシマ・エサカが、満面の笑みで突進してきた。
「寄るな、暑苦しい!」
カルラの制止も空しく、エサカは猛牛のごとき勢いで体当たりするように彼女を抱きしめた。そして、その大柄な肢体を軽々と抱え上げる。
「会いたかったぞぉおお!」
エサカはカルラを高く掲げたまま、彼女の硬革の胴鎧に顔を埋めるようにして、深く息を吸い込んだ。
「……良い匂いだろ、香を変えたのさ」
カルラは苦笑し、宙に浮いたままエサカの頭を抱き寄せ、その頬を寄せた。
達磨のようなずんぐりした体躯に、丸太のごとき腕脚を生やした筋肉の塊。いかにもな猪武者ぶりを発揮するエサカだが、カルラに甘える姿はどこか大型犬のような愛嬌がある。
「して、ゴウケンの親父は」
ヒラフが怜悧な瞳をふと緩め、じゃれ合う二人をじっと見つめながら、落ち着いた声で尋ねた。それに合わせるように、エサカはカルラを優しく地に降ろす。
「ああ、昨晩は川副衆と共に鹿江の城に泊った。コウメイが付いてるよ」
「あの若者か。オウベの血筋と聞いた時は叩き斬ってやろうかと思うたが……どうして中々の人物。しかもカルラ殿の良人とあれば、我が身内も同然」
ヒラフがすまし顔で切れ長の目を流すようにする仕草は、どこかコウメイと似通った雰囲気があった。どちらも美目秀麗、誰もが認める色男だ。カルラは良人という言葉を否定も肯定もせず、あいまいな笑みを浮かべて話を流した。
「いよいよだなぁ、腕が鳴るぜぇ!」
エサカがぶんぶんと太い腕を振り回すと、文字通り空気が唸りを上げた。
「それよりカルラぁ、なんか旨い酒を造ってるんだって? 」
そう言って、暑苦しい顔を近づけてくる。彫りの深い顔立ちに、太い眉。性格もがさつなら、顔の造作もまた雑であった。ぎょろ目に団子のような大きな鼻、そして下品にひらく大きな口。
鬼瓦面をそのまま張り付けたような顔をしているが、どこか愛嬌があって憎めない。
「楽しみにしてるぜ。お前んとこの酒は酒精が強くて、喉が焼けるようにヒリつくんだ。あれを知っちゃ、どぶろくなんて飲めたもんじゃねぇ。なあ、ヒラフよ!」
エサカは太い腕を組んで目を瞑り、その味を思い出しているかのようにうんと頷いた。彼にとって、カルラの供する蒸留酒は己の荒々しい魂を鎮める劇薬なのだろう。
「ふっ、儂はお主のような底の抜けた瓢箪ではないわ……」
隣で聞いていたヒラフが、鼻先で軽く笑って応じた。
「だが、確かに赤星の酒はいい。梅を漬け込むと、抜群に香りが引き立つ。そこへ雪を浮かべ、冬の冷水で割れば――それはもう、極上の味わいだ」
無頼を気取るエサカとは対照的に、彼はその強い酒をただ煽るような真似はしない。工夫を凝らして新たな命を吹き込み、その一滴を慈しむ。いかにも知者らしい、通好みな嗜み方であった。
「へぇ……梅酒ねぇ。あたしは柑橘の皮で試そうとしていたんだけどさ、梅もありか。ありがとよ、ヒラフいい参考になった」
人の性格によって、同じ酒でも楽しみ方が全く違う。対照的な二人の反応にカルラは感心したように頷くと、無意識に指先が顎を撫でていた。
「おぉ! 梅酒とはこれまた風流だな、試作のやつでいいから送ってくれ!」
そんな空気も意に介さず、エサカは「がはは」と豪快に笑いながらカルラの腰をばんと叩く。前歯の三本欠けた口をにぃと開き、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「あんたは強い酒なら何でもいいんだろ。なんなら消毒用の強烈なのを送ってやろうか……今と同じように飲んだら死ぬよ?」
不敵に笑うカルラの軽口に、エサカは途端に顔を強張らせ、大きな手を横に振った。
「そいつは勘弁してくれ。親父も酒毒で死んだんだ……ゴウケンのとっつぁんを王に担ぎ上げ、セイエンが一人前になるまで俺は死ぬわけにはいかねぇんだ」
彼らはゴウケンの懐刀である。これまで幾度となく栄の街で、これからの経済や国の在り方について論じ合ってきた同志――あるいは、ゴウケンと志を同じくするカルラの弟子と呼んでもいいかもしれない。
共に時代を切り拓こうとする、強固な友誼で結ばれた者達。それゆえの、気兼ねのない軽口であった。
だが、そんな二人との会話で緩んでいた表情を、カルラは一瞬で引き締める。その双眸に、戦を統べる将としての鋭い光が宿った。
「誰か!」
「はっ!」
声が響き渡るより速く、近くに伝令要員として控えていた猟兵小隊の班長が進み出て膝を突き、頭を下げた。
「コウメイに伝えとくれ、『仕掛けは上々、こっちは任せろ』――以上だ」
「ははっ!」
班長は短く応じると、素早く背後の班員に指示を出す。彼らは甲冑が擦れる僅かな金属音だけを残し、弾かれたような速さでその場を立ち去った。
「さて、お二人さん。積もる話はこれくらいにしようか」
カルラは腰の鉄扇を抜いて握り直すと、不敵な笑みを浮かべて寺の山門を――その先にまっすぐ伸びる参道の先を見据えた。弛緩した空気が締まり、戦場の緊張感へと塗り替えられていく。
まさにその時、斥候に出ていた猟兵小隊からの伝令が一人、勢いよく本陣へと滑り込んできた。
「ご注進! オウダの兵、数およそ八〇〇。街道を北上中!」
その数を聞き、カルラは意外そうな顔をしてヒラフに視線を向けた。
「……思ったより集めたね」
「悪党にいいようにやられ、何もできないとあっては武士の名折れ。恥を忍んで本領の兵を動員したのだろうな」
カルラの声を受けて、ヒラフが腕を組みながら淡々と答える。
「まあ、相手がカルラじゃしょうがねぇな。俺なら絶対に戦わねぇ」
エサカが心底嫌そうにおどけてみせると、矢継ぎ早に、もう一人の伝令が駆け込んでくる。
「ご注進申し上げまする! 敵の斥候と接触、猟兵が狩り立ててございます」
「で……殺ったかい?」
カルラは低く、楽しげな声で問いかける。
「はっ! 一八人を討ち取り、物頭と思われる武者を捕縛。こちらへ連行中にござりますれば」
「上出来じゃないか。捕まえた奴は……そうだね、飯でも食わせてから、戦が終わるまでそこらに転がしておきな」
カルラの指示を聞いた猟兵は、一瞬面食らったように目を瞬かせたが、すぐに腹の底から声を絞り出した。
「ははっ、承知いたしました!」
伝令が風のように去っていくのを見送りながら、傍らにいたヒラフが小さく鼻で笑った。
「……ふっ。相変わらず優しいのう、お主は」
ヒラフは氷のように冷ややかな瞳でカルラを見やり、皮肉とも称賛とも取れる言葉を投げる。だが、カルラはそれを鼻先でせせら笑った。
「はっ、どこがだい。平気で村人をぶち殺して、根こそぎ金に変えちまうような女だ……勘違いするんじゃないよ」
そう吐き捨てると、カルラは再び街道の先へと視線を戻した。
そこには、目的のために多くの犠牲を払いながらも、人としての情を捨てきれぬまま戦場に立つ――苛烈で憂いを帯びた、戦う女の横顔があった。
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