10話 血祭りの夜
さて、一章のメインストーリーが動き出します。
日が落ちれば、渓谷はたちまち闇に飲まれる。しかし今宵は、両岸に転々とともされた幾百もの篝火が、あたりを照らしていた。墨を流したように黒く艶めく川面。冥府の底を思わせる漆黒の流れを、炎の光が怪しく浮かび上がらせている。
その漆黒の上に、ゆらり、ゆらりと揺らめく橙の火。その光を切り裂くようにして、一艘の小舟が音もなく闇を渡っていった。
「随分と物々しいな、カルラ殿。まるで戦支度ではないか」
夜の川を越え、対岸にある赤星の陣屋へと乗り込んできた男が言った。肩を怒らせて堂々とカルラの前に立つのは、栄の町とその一帯の平野を領する豪族――リュウドウ家の一族、リュウドウ・トラシである。
黒漆を塗りつけた艶のある小札を、絹の朱糸で威した見事な胴丸。肩を飾る鮮やかな大袖、頭には烏帽子。甲冑の上から羽織った陣羽織には、鮮烈な赤地に群青の日輪紋が縫い込まれていた。
暗い陣中にあっても、ひときわ目を引く装いだ。
「なに言ってんだい。先触れもなしに、先に兵を出したのはそちらだろうに」
カルラは床几に腰かけたまま、右手の鉄扇を左の手のひらに打ち付けた。乾いた音が一つ、陣中に響く。
「当家とそちらとは持ちつ持たれつ、表裏一体――そう、祖父から聞き及んでおるが?」
腰に太刀、前腰の帯には鎧通し。右手には七尺の薙刀。男の口調は詰問に近かった。
「あたしだってそのつもりだよ、疑いたくはないさ。けどね……」
鉄扇をひとつ開き、カチリと閉じる。そのまま閉じた扇の先を、真っすぐにトラシへ向けた。
「こんな物騒な世の中だ。信じた友から寝首を掻かれた話なんて――そこら中に転がってるじゃないか」
トラシは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。だがすぐに眉が吊り上がり、こめかみに青筋が浮かぶ。
「そもそもだ。この程度の兵で、お主らをどうにかできるはずが無かろう! こじつけではないか」
「それはどうかね……」
カルラは鉄扇で自身の肩をとんとんと叩き、よっこらと行儀悪く足を開いた。膝に肘を置き、前のめりになって胡乱な視線を向ける。
「表裏比興は乱世の誉。昨日の友が今日の敵なんてことは――日常茶飯事だろ?」
薄い笑い――侮りを浮かべて、カルラは長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳を、艶っぽく細めてみせた。
「なんせここには――唸るほどの金と、金のなる木が植わってる。欲しけりゃ奪う。それが侍の性分じゃないのかい」
トラシの手に力がこもり、薙刀の柄が軋む。その殺気に反応し、背後に控える赤星の兵士達に緊張が走る。カルラは兵達に視線も向けず、鉄扇を軽く持ち上げてその空気を制した。
「まさか……本気で、我らがここを襲うと?」
すぐには答えない。カルラは視線をトラシの背後、篝火の揺れる闇へ走らせ――たっぷりと間を開けてから、ゆっくりと首を振った。
「いや、そうは思ってないよ」
再びトラシを見る。口元に柔らかい笑みを浮かべながらも、目は笑っていない。
「けどね……そこらに山内の伏兵が潜んでるなんてことになったら」
鉄扇を閉じたまま、パン、と左の手のひらを打つ。
「赤星は味方に出し抜かれ、すべてを奪われた間抜けだって――末代までの笑いものになっちまうじゃないか」
カルラは立ち上がり、トラシの前へ歩み寄る。二メートル近いその長身で前かがみになり、鼻先が触れそうな距離までトラシに顔を寄せた。
「陣中を歩いてきたんだろ。見ての通り、守りを固めただけさ。そちらが手を出さなけりゃ、こっちは何もしない。安心しな」
トラシの瞳の奥に、かすかな怯えが浮かぶ。
それを確かめると、カルラはふっと表情を緩め、身を引いた。何事もなかったかのように踵を返し、背を向けて床几へ戻る。
「……ならば、我らが兵を出した理由を伝えておこう。そのために、我はここへ来たのだ」
その言葉に、カルラは小さく首を振った。
――なら最初かそうら言えばいいじゃないか。使者失格だね、こりゃ。胸中でそう呟きながら。
「あたしは商人だよ? 政にも国盗りにも、さらさら興味がなくてね」
肩をすくめ、薄く笑う。
「そっちの話は――侍同士で、片をつけてくんな」
リュウドウの今宵の陣屋――赤星の屯所から川を隔てた対岸、河上にある寺。それは平時には集落の信仰を集める祈祷寺であり、いざという時には外敵を拒む砦ともなる、簡易の城塞として整えられた寺であった。
トラシは重い足取りで、闇の中で松明に煌々と照らされた陣屋へと帰っていく。
それから三刻、およそ六時間後。夜行の獣を除き、すべてが寝静まった頃。
――空気が、爆ぜた。
『うおぉぉぉぉぉぉ!』
暗闇を切り裂き、鬨の声が渓谷にこだまする。
「シンザ!」
鎧を纏ったまま、陣屋の壁に背を預けて仮眠を取っていたカルラは、山を震わせるその声に跳ね起きた。同時に、寝ずの番を務めている従者を呼ぶ。
「カタシロ殿が仕掛けた様にござりまする」
「わかってるよ!」
言うが早いか、がばりと立ち上がり、床を鳴らして外へ駆け出す。屯所の北西隅にある櫓を目指し、山を駆け上がった。
ここからはリュウドウの陣屋――祈祷寺の河上寺までは、直線で五百メートル弱。
そこへ、足音もなく、背後に人影が立つ。軍師のコウメイであった。
「いけませぬな……多勢に無勢、準備周到に囲んでからの夜討ち、押し込みにございます」
「さっきの侍だけでも、助けてやりたいところだけどねえ」
「なりませぬ。商いの軸足はリュウドウにありますが、産物の多くは山内――カタシロの領内。どちらかに肩入れすれば、必ず遺恨が残りましょう」
カルラは舌打ちを噛み殺し、闇の向こうを睨む。
「確実に敵を屠る戦なら、勝ち馬に乗るのも手ではありますが……これは内紛でございます、静観がよろしいかと」
コウメイは淡々と続けた。
「この戦は、リュウドウの失脚を目的としたもの。国主シラス様の企みか、臣下の主導権争いか……」
コウメイはそこで言葉を切り、手に持つ扇子をひらひらと左右に大きく一つ振る。
「彼らに再起する力があれば手を貸し、なければ新たな商いの道を探るまで――その場合は、栄の新たな領主と誼を通ずる必要がありますな」
「……はぁ」
カルラは心底残念だと言わんばかりに肩を落とし、大きく深く息を吐いた。
「また汚ない田舎侍に抱かれなくちゃいけないのかい……考えただけで気が重い、鬱になりそうだよ」
「それは断ればよろしいのでは?」
コウメイの肩眉が、僅かに上がる。
「バカヤロウ! この顔と身体、色気の塊みたいなあたしを目の前にして――欲に目が眩んだ侍どもが、大人しく引き下がると思うかい」
鉄扇がギリと音を立て、空いた左手からぎゅっと籠手を絞る音が漏れた。
「なまじ力を持った奴らだからね。断ったら断ったで、未練たらしくネチネチと面倒なことになるだけだよ!」
ひとつ大きく息を吐き、カルラは唇の端を歪めた。
「同じ面倒なら――さっさと抱かれちまった方が、話が早いってもんさね」
鉄火場となっている戦場から視線を外さぬまま、吐き捨てるように言った。
「クソッ! いっそのこと気に食わねぇ奴は片っ端からぶち殺して、好き放題に暴れたほうが楽なんじゃないかって思うくらいだよ、全く」
カルラの本音とも取れるぼやきを受けて、コウメイは居住まいを正した。
「カルラ様が王を目指されるのであれば、それはそれで結構かと」
カルラの横に並び、手にした扇子をゆらゆらと揺らしながら、遠く戦場を見やる。
「ただ、貴女様が誰にも縛られず、その性根のまま自由に生きたいと願うのであれば――商いの人であるべきでしょうな」
ゆっくりと、カルラを見上げるようにふり向くコウメイ。その真剣な眼差しが、主であるカルラを見据える。だが、すぐにその口元は緩められた。
「武をもって覇道を歩む王とは、臣と民によって担がれる国の象徴にございます。故に、強さだけでなく、王たるものの品格が求められます」
コウメイの含みを持たせた物言いに、カルラはあからさまに眉根を寄せた。
「なんだい! まるであたしが、がさつな野蛮人みたいな物言いじゃないか」
コウメイは口元を扇子で隠し、楽しげに目を細めた。その瞳には主君への敬意と、手のかかる娘を見るような親愛が滲んでいる。
「ふふ……ご自覚がおありなら話は早い。まずは、その言葉遣いから改めていただかねばなりませんな」
暖かな炎の明かりに照らされて、和やかな主従のやり取りが交わされる。その視線の先では――総勢四〇〇に近い武者たちが、壮絶な殺し合いを演じていた。
ごま粒ほどに見える人影が、ときおり刃に光を閃かせ、押し合い、揉み合い、切り結ぶ。風に乗って届くのは、決死の咆哮か勝者の嘲笑、あるいは討たれし者の断末魔か。
普段と違うのは少しばかり規模が大きく、桁外れに高価な甲冑を身に着けた者同士が戦っているという事だけ。それ以外は――どこにでもある、ありふれた殺し合い。
この戦、勝敗の行方はすでに見えている。
カルラは興味を失ったように視線を外し、ふっと鼻を鳴らした。
「コウメイ、寝所に来な」
それだけ言い残し、戦場に背を向ける。
カルラは櫓を降り、闇の中へと歩き去った。
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