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守られているだけだと、信じていました




「あなたのお名前を、教えてもらえる?」


 紫のドレスを纏った婦人が静かに問いかけた。

 声は柔らかいのに、自然と背筋が伸びる。

 その問いに、一瞬、喉が詰まる。


 名前を名乗るだけ。

 それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。


「……ア、アリア……です」


 声が、少し掠れた。

 緊張で、息の出し方がうまく分からなかった。

 一瞬、間があってから婦人の表情がふっと和らぐ。


「まあ……アリアちゃんっていうの?」


 そして、すぐに続ける。


「素敵な名前ね」


 その言葉が、胸にすとんと落ちた。


 自分の名前を、

 こんなふうに“素敵”だと言われたのは、

 初めてだった。


 ——アリア。


 名前を、名前として、大切に扱われた気がした。


「私はアルベルト。こちらは妻のリリアーナ」


 黒髪の男性が、穏やかに言った。

 飾り気のない口調だが、不思議と落ち着く声だった。


 赤い瞳が、静かにこちらを見ている。

 値踏みするような視線ではない。

 けれど、誤魔化しのきかない人だと直感した。


 アルベルトに紹介されて、リリアーナ様はにこりと微笑み、少し首を傾げる。


「……何歳なの?」


 問い方は、ごく自然だった。疑っているようにも、試しているようにも見えない。


「十歳、です」


 そう答えたあと、短い沈黙が落ちた。


 貧困街では、年齢を偽ることは珍しくない。

 小さく言えば庇われることもあるし、

 大きく言えば、追い払われずに済むこともある。

 でも、私は本当の年齢を言った。

 嘘はついていない。


 それなのに、

 リリアーナ様の視線が、私の腕や肩に向けられる。


 細くて、頼りない身体。

 ——どうして、そんなふうに見られるんだろう。

 自分では、よく分からなかった。ただ、空気が少しだけ変わった気がして、胸の奥がざわつく。


「そうか」


 アルベルトは、それだけ言った。


 疑う声音ではなかった。

 確かめ直す様子もない。


 ただ、受け取った――そんな響きだった。


 少しの間のあと、アルベルトが視線を横に向ける。


「……こちらが息子のルーカスだ。十五の歳になる」


 その先に立っていた人物を見て、息が止まった。

 明るい室内で、はっきりと分かる。


 黒い髪。

 整いすぎた輪郭。

 紅い瞳。


 人の形をしているのに、どこか現実感がない。

 彫刻や絵画、あるいは空想の中の人物みたいだった。


 生きているはずなのに、

 近づけば壊れてしまいそうで、

 それでいて、触れてはいけない存在。 

 ——人間じゃないみたい。

 理由もなく、本能が、そう告げていた。


「……よろしくお願いします。ルーカス様」


 慌てて頭を下げる。


 ルーカス様は、こちらを一瞥しただけで、

 すぐに視線を外した。


 その一瞬、紅い瞳と目が合っただけで、

 心臓をぎゅっと掴まれたような感覚になる。

 息が詰まって、身体が強張る。

 ——怖い。


 そう思う前に、ルーカス様は踵を返した。


「……失礼する」


 低い声だけを残して、部屋を出ていく。


「ちょっと、ルカ!」


 すぐに、リリアーナ様が小言を飛ばした。


「話の途中でしょうに…もうあの子ったら」


 返事はない。


 ギィーと重たい扉が閉まる音がして、

 ようやく、胸いっぱいに空気を吸えた。


 ——行ってくれた。


 そう思ってしまったことに、

 少しだけ罪悪感を覚えつつ、

 それでも、ほっとしている自分がいた。


 あの紅い瞳で見られると、

 心臓が、落ち着く場所を忘れてしまう。


「食事にしよう」


 アルベルトの声で、空気が切り替わった。


 合図を待っていたかのように、

 使用人たちが一斉に動き出す。


 静かで、無駄のない所作。

 卓はたちまち整えられ、料理が次々と並べられていく。湯気とともに、香りが立ちのぼった。


 ——温かい。


 それだけで、胸がぎゅっとなる。

 貧困街で口にするものは、冷えたままのパンや、ぬるい粥ばかりだった。


 温かい食事なんて、いつぶりだろう。


 恐る恐る口に運ぶ。

 最初に感じたのは、味よりも温度だった。

 舌から喉、胸の奥へと、じんわり広がっていく。  ——あったかい。


 その感覚に、ほっとして、次々に口へ運んでしまう。気づけば、夢中で食べていた。けれど、しばらくすると、違和感がきた。


 胸の奥が、むかむかする。

 胃のあたりが、重い。


 ——あれ?


 動きを止めた瞬間、はっきり分かった。


 久しぶりの「味」に、身体が追いついていない。


 無理をしているつもりはなかったのに、手が止まり、食事を残してしまう。スプーンを置くと、胸の奥がきゅっと縮む。

 ——残したら、だめだろうか。


「無理しなくていいのよ」


 すぐに、リリアーナ様の声が落ちてくる。


「今日は、それで十分」


 責める様子は、どこにもなかった。

 ——守られている。

 そう思ってしまった自分に、少し驚く。


「今日は、ここで休みなさい」


 食事のあと、リリアーナ様が言った。


「もう遅いわ」


 帰る話は、出なかった。

 期限も、条件も。


 その言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。

 案内された部屋には、柔らかな寝台があった。


 ——少なくとも、今夜は。


 私は、ここにいていいらしい。


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